私はどこにいるのだろう。

 静寂で柔和な気配が入り混じった世界は優しい。けれど、どこか不気味だ。たった独りきりだというのに、孤独は感じられない。それは、ゆっくりと過ぎるこの世界が、まるで羊水に包み込まれているような安堵を私が抱いているからなのだろうか。
 私は、いつ起きていつ眠っているのか。どれだけ時間が過ぎたのかさえ分からない。唯一現状を把握できる材料と言えば、延々と変わらぬ天井が、三色の動きを見せることだけだ。


 天井が、ゆらりとたゆむ。
 白のような、青のような光がここまで射し込み、私の視界を薄らと明らめる。ほぼ同じ動作が延々と続き、時折酔ってしまいそうなほど酷い歪みを見せる天井は、お世辞にも幻想的で美しいとは思えなかった。けれど、白とも青ともつかぬ色は不思議と嫌いになれなかった。いくら眺めていても、私は飽きることなくその光景をずっと見つめ続けていた。
そして、私は何度そのはっきりとしない二色を羨望したことか。悔しがっているのを知ってか知らずか、それとも手も足も出ない私を嘲笑っているのか。白く青光りする天井は、相も変わらずのんびりと揺れ続ける。
 お前がここへ辿り着くことなど、叶うはずもない。と言いたげに。そう宣告されているような気さえして、私は私自身を惨めに感じた。
すると突然、視界の端から黒い影が現れた。視界を遮る黒い影が、魅せられ囚われてしまいそうなほど憎たらしい天井を、私から遠ざける。それは、見なくても良いと私に語りかけているようだった。
 彼らは、時々意味もなく私の視界を塞ぐ。突発的な来襲に常々困惑していたが、今この一時は、彼らを愛おしく思わずにはいられなかった。ふと、私は彼らや彼らの友人を思い返す。いたずら好きなのか、彼らは時々私を突っつくのだ。


 ――こら、やめんか。


 そう抗議しようとする私の意志などそっちのけで、彼らは無遠慮にちょっかいを出してくる。そんなことをしていったい何が楽しいというのか。彼らの考えていることは、未だに理解できない。つい先日のことだ。彼らは私をいたく気に入ったのか、すぐ近くでたむろい始めたのだ。それも、私の許可なしで。


 ――甚だもって自分勝手なやつだ。


 けれど、彼らはいつの間にか何処へと消えてしまった。一言くらい礼を言ってから去れば良いのに、と一人拗ねていると、傍らに控える黒い群れが私を慰めるようにそっと視界を閉ざした。

 その光景は、さほど遠い記憶ではない。

 私を守ろうとする影をじっと見つめ、あの時と変わらぬさりげなさに、言いようのないむず痒さを覚えた。


(……くすぐったいな)


***


 きらめく天井は遠い。その壁を突き破った先にあるものは、天井よりもずっと濃い群青だろうか。それともここと変わらない薄暗い景色が、果てしなく続いているのだろうか。音を失った世界に取り残された私は、頭の中で空想を描く。見たこともない世界に心を躍らせ、勝手気ままに外の風景を、頭の中にある白い紙にひたすら描き続けるのだ。

 近頃、長い影がよく私の視界を横切る。それは大小様々で、似たような形をしたものが通り過ぎるのだ。だが、ここからその影を捉えるには薄暗くて、それが何なのか突き止めることはできなかった。
 影は、決して私に害を与えようとはしない。しかし、私の穏やかな気持ちを一瞬ひやりとさせて、そして何事もなかったように悠々と去ってゆく。何の前触れもなしに目の前を這うように通過する影は、静かで緩やかに揺れる天井をいとも簡単に歪ませてしまう。あっという間にもとの天井は戻ってくるけれど、いつもその光景を見ていることしかできない私は、ただただ悔しくて仕方なかった。
 ほんの僅かに入った亀裂。一瞬消えた光の筋。色を失い濁った世界。
もしかすると、もう二度とあの光を拝めることはできなくなってしまうのではないか。そう思うと、たった三色しか見せない天井が、胸を締め付けられるほど恋しくなった。
 これは、恋人を奪われてしまう時に感じる焦燥なのだろうか。いいや、寧ろ大切なものを喪ってしまう絶望なのかもしれない。


 ――影よ、どうか私からこの世界を奪わないでおくれ。私にはこのつまらない世界しか残されていないのだ。


 立ち上がり、大きく跳躍すれば突き破れるかもしれない天井に手を伸ばす。揺らめいている天井を引き裂いて、外の世界に飛び上がることだって造作もないはずだ。……ああそして何度、この虚無を覚えたか。腕が持ち上がらないことは、分かりきっていたはずなのに。


(何故、私の腕は動かない)


***


 天井は、私にたった三色の世界しか見せてくれない。そして一番嫌いな色が、またやってきた。
 天井はどこにあるのだろうか。今も変わらずあの場所でゆらりと歪んでいるのだろうか。
 私の目の前は真っ暗に染まっている。黒以外は何一つ見当たらない。常に隣に寄り添っている影だって、今まで存在していたことが嘘であったかのように、ちらりとも姿を見せてはくれないのだ。いいやそれよりも、私が存在しているのかどうかさえ定かではなかった。私がここにいるという確証などどこにもない。ましてや、証明してくれる相手だっているはずもない。


 ――私は、どこにいるのだ。


 誰か、誰か。
 誰でも良い、声を聞かせておくれ。何だって良い、音を聞かせておくれ。
 ……ああ、なぜ私は音を拾うことができないのだ。


 ならば、代わりに色を見せておくれ。どんな色だって受け入れよう。けれど黒は嫌だ。私のすべてを否定してしまうような覆い尽くす黒は、どうしても嫌なのだ。天井を這うように進むあの影でも良い。どんなに私の心をひやりとさせたって構いやしない。
 私を救っておくれ。眺めることしかできない私を、掬いあげておくれ。


(どうか、私を取り残さないで)


***


 天井が白みだす。あと少し時間が経てば、光の中に青色が混じるだろう。
 どうして同じ恐怖に脅え、同じ暗闇をやり過ごし、同じ焦がれた世界を待ち望むのだ。真っ暗になっても、必ず変わりない世界が訪れるというのに。一体、何度馬鹿げた堂々巡りを繰り返すのか。私は苛立ちにも似た衝動を抱え天井を睨みつけた。ところが、天井はそれにムッとしたのか、ぐわん、とまるで轟音を鳴らしているように大きく捩じ曲がりはじめたのである。
 何故、お前が機嫌を損ねるのだ。私の方がお前に怒鳴りつけて、渾身の一撃をくらわせてやりたい気分だというのに。手当たり次第物を投げつけ、幼子のように癇癪を起こし、罵倒を浴びせ溜まった鬱憤を吐き出したかった。たかだか天井相手に何を躍起になっている、と馬鹿にされるだろう。しかし、何度も同じ光景が繰り返されれば、いくら私とておかしくなってしまいそうなのだ。今にも飛び上がり、私を遮るその壁を粉々に砕いてやりたい。そのためには地を蹴り、拳を高々と掲げなければならない。
 しかし動けぬ。鉛のように重い四肢が持ち上がらぬのだ。ならばこのもどかしさをどこにぶつければ良い。


 (こんな狭苦しい世界など、いっそ壊れてしまえ)


 天井が、今にも溶けだしそうなほど滑らかに揺れていた。射し込む光は、やはり白い。いつもと変わらぬ光景を眺めているだけだというのに、私は妙な気持ちに駆り立てられていた。
 胸騒ぎのような、心躍るような。とにかく、一言では言い表すことのできない漠然とした奇妙さに頭を抱えたくなった。終わりのないつまらない世界が延々と続いているだけなのに、何故こんなにも落ち着かないのか。視界の端でゆらりと見えた影が私を慰めるけれど、ぐらぐらと未だ揺れ続ける私の心は鎮まる様子がない。
 払拭できぬ異物を抱えたまま、私はひたすら天井を眺め続けていた。どうせ時間が経てば忘れるだろうと、自分に言い聞かせて。
 すると、青と白を混ぜたような天井に違和感を覚える。


 ――おや。


 黒い影が見えた。時々天井をぐしゃぐしゃにしていく影かと思い、緊張を走らせる。だが、どうも様子がおかしい。何故なら、天井はほとんど荒れることもなく今も静かにたゆんでいるからだ。
 しかし、影はどんどん私に近づいてくる。影の形は細長い。これは一体何なのだろうと目を凝らしてみるが、天井から射し込む光のせいで、黒くて細い塊としか捉えることができなかった。いつしか別れた黒い群れの友人だろうか、と彼らのことを思い出してみるが、何かが違う。不思議と恐怖は抱かなかった。けれど目を離すことを許されないような気がして、私は食い入るように影を見つめた。


(お前は、なんなのだ)


 問いかけようとする私の思いを撥ね除けるように、影はくるりと来た道を引き返した。小さくなってゆく影を静かに見送っていると、先ほど感じていた胸騒ぎが再び私に襲いかかる。巣食っていた異物が、どんどん巨大化していくようだった。それを全て吐き出してしまえば、どれだけ楽になれるのだろう。
 何もかも、あのへんてこな影のせいだ。


(それなのに、どうしてあの影が愛おしいのだろうか)


***


 天井は、私に三色の世界しか見せてはくれない。白とも青とも取れぬ不思議な色と、すべてを呑み込み終焉を思わせる不吉な黒のたった三色だけだ。
 けれど私は、この世界を嫌いにはなれなかった。必ず襲いかかってくる暗黒の世界が訪れても、必ず柔らかな世界が私を迎え入れてくれる。ここは狭くて退屈だけれど、時折私の相手をしてくれる影だっているのだ。


 ――私は、ここにあるべきなのだ。


 だから影よ。どうか私に近づかないでおくれ。お前は私に触れてはいけない。
 先日やってきた影が、再び私の前に現れる。再度襲ってくる胸騒ぎは、以前よりもずっとひどくなっていた。穏やかでない私の心を無視して、影は少しずつ私に向かってきた。その距離が縮まれば縮まるほど、私は言いようのない恐怖を覚えるのだ。ほんの少し前は、あの影相手などに恐れなんぞ抱かなかったというのに。


 ――来てはいけない。さあ帰れ。私のことなど放っておけ。


 私の抗議などものともせず、影は私に伸びてくる。ついには私を掴んだ。


 ――ああ嫌だ。触らないでくれ。私はここにあるべきなのに。


 傍らで寄り添ってくれる影よ、どうか私を助けておくれ。私はまだここにいるべきなのだ。
 しかし、私が信頼を寄せる影は視界の端で静かに揺れるだけで、ちっとも庇ってはくれやしない。なぜだと驚愕していると、突如浮遊感が私を襲った。ならば自力でもとの場所に戻らねば。そうやって手を伸ばそうとするが、動くはずもない。


 ――私を裏切るのか。


 泣き出してしまいたくなる衝動を抱えたまま、私は小さくなってゆく影をぎろりと睨みつけた。あれだけ長い間連れ添ってきたというのに、どうして私を見捨てるのだ。
 けれど、視点が変わり一望できる世界が一変したからだろうか。影は変わらず静かに揺れていたが、それはまるで去りゆく私に手を振っているようにも見えたのだ。


(さようなら、なんぞ言ってやるものか)


***


 ふわ、ふわ。
 奇妙な浮遊感に慣れないまま、私は見知らぬ影に抱かれたまま青白さを濃くする天井へと誘われる。それに伴い天井の歪みが増し、じっと見続けていれば頭痛を起こしそうな光景に一層気分が落ちてゆく。
 ふわ、ふわ。
 何と、不思議な感覚なのだろう。こんな気分をずっと味わっていたいと思う反面、何か大切なことを忘れているのではないか、と私の中で言いようのない焦燥感が急に沸き起こった。何故、私はあんな薄暗い場所で独り取り残されていたのだ。四肢を自由に動かすことができなければ、音を拾うことも叶わぬのだ。何故、見ることしかできぬのだ。
 迫りくる天井に目が眩む。けれど、どこか懐かしい気もするのは、いつの間にか麻痺していた奥底のものが、緩やかにドロリと溶け始めているからだろうか。音は終わりを告げるように静かに広がってゆく。個体から液体へと変わり、枯れた私の心へと徐々に染み渡る。それは、もう後戻りはできぬと宣告しているようにも思えた。
 ふわ、ふわ。


 ――そうだ。私はこれと逆の感覚をどこかで味わったはずだ。


 墨をぶちまけたような黒々とした曇天。周囲にいる者たちと同じ服を身にまとった青年。切羽詰まった様子で振り返った彼が叫んだ相手は誰だったのか。鼓膜をつんざく爆音。腹を掠めた痛烈な痛みと、辺りに漂う硝煙の臭い。必死に手を伸ばし水中でもがいた冷たい感触。音を奪われ、そして最後に奈落の底へと落ちる感覚。
 ほんの少し前ならばただの幻覚と捉えた残像は、今もずっと脳裏に焼きつき剥がれようとはしない。


 焦がれた天井を突き破る。粉々に砕け散ると思っていた天井の先は、視界一面に広がった紺碧の空と、真っ白な雲。私を優しく抱く人の影。そして、その人が口を開いて、発した言葉は――。


「       」







縹色の天井








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