● 唐紅の記憶  ●




第1話 『それは少年の物語』


 この世は弱肉強食で成り立っている。どんなに月日が巡り、統治する者が偉大であったとしても下々の生活は早々変化するものではない。だからこのご時世も、戦争というものなど何ら珍しくはなかった。みな、生き延びるために剣を持ち、戦へと身を投じる。殺さなければ殺される。それが正義なのだとまかり通る時代だ。
 それが原因で砂漠化とした町は、西へ東へ、果ては北へ南へと、各地方へと増え始めているのが現状だ。水は枯れ果て、餓える前に干乾びて死ぬ者も少なくはない。隣の国から輸入している果物は適量の水分を含んでいるが、以前よりも欲しがる者が増え、それらは高値で売買されていた。重要と供給が間に合わず、結局枯れ死ぬ者も多い。
 戦禍に巻き込まれた住人は、満足に水を摂取することなど出来はしない。疲弊した国自体が豊かではないのだから、水以外はもちろんのこと、食物でさえもなかなか手に入らないのが現状であった。
 稼ぎ手である若者は戦争に駆り出され、老いた者が必死に畑を耕す。しかし神は既に国や民を見捨てているのか、かれこれ三か月以上、まとまった雨は降っていない。

 ある地方で、戦があった。国と国という壮大な戦いではない。住民と住民が小競り合う紛争に近いものだ。
 だが現実にここ、「ロザンタ」は枯れ果てていた。以前は満ちていた噴水の水も、今は砂で溢れ返っている。井戸の底に桶を落とせば、無残にも乾いた音しか響きはしない。水を、と町に現れる旅人に乞う者さえいた。
 しかし、旅人と言うものはどうも癖のある者が多い。良ければ無視。悪ければ逆に恐喝。だからなのか、町の人々は怯えるように身を寄せ合い、旅人がこの町を通過するのをただただ待つ。出て行けなどと言えるほど、生命力は残っていなかった。

「ぁあ?おいおい祖父さんよ、どこに目ぇつけてんだぁ?」

 ざわりと、周囲が騒ぎ出し乾いた空気を揺らせる。けれど、ここでは当たり前の光景に皆はすぐに視線をそらした。男の野太い声に一度誰もが振り返るが、その姿を見とめた途端、興味をなくしたように過ぎ去る。我が身が可愛いというよりも、他人に関わることを極力避けたいという顔色が窺えた。いちいち気にしていては、胃液しか残っていない臓物が更に悲鳴を上げるだろうと殺生な言い訳を腹に残して。
 目くじらを立てているのはスキンヘッドの男だった。この町には不釣り合いな筋肉を惜しみなく晒している。褐色を超えるほど火に焼けた肌は健康そのものなのだが、耳だけでなく鼻や唇にもピアスを施し、いかにも風変りなごろつき、という印象を抱かせる。つまるところガラが悪い。この一言に尽きる。
 そそくさとその場を後にする町人にぶつかりながらも、縫うようにこの場所へやってきた者たちが、はやし立てる。囃し立てるほぼ全員が、余所者である旅人と言っても過言ではなかった。

「ひぃっ!お、おたすけを…っ」
「おたすけ、だってぇ!?ひゃはは、そりゃおもしれぇっ!!」
「ひいいっ」

 不可抗力でぶつかってしまったのだろう。哀れな被害者は既に老体であった。背筋は曲がり、角ばった骨はいかにも硬そうではあるが、肉らしい肉が見当たらない。痩せこけた頬はげっそりとしており、今にも倒れそうなほど貧弱だ。白髪に混じって茶の髪が少しだけ覗いていた。実際年齢は別として、ここまで困窮していれば、人の見た目とはすっかり変わるものだ。もしかするとぱっと見より若いのかもしれない。

「あーあー腕が折れちまったー。ジイさん、どうしてくれんだぁ?」

 怯えきっている老人に対して気を良くしたのか、べろりと下品に下唇を舐めた男は、腰に下げているサーベルを引き抜いた。ぎらりと鈍く輝く刃物を見た瞬間、老人は腰を抜かしてその場に座り込む。逃げようとするが、腰を抜かしたのか恐怖でその場に縫い付けられていた。

 腕が折れただと?嘘を吐け。
 
 ひそひそと交わされる言葉は辺りからひっきりなしに聞こえた。その中で、酒屋の前に立っていた中年の男がうんざりとした表情で傍観していた。灰色のエプロンと口元にあるヒゲが、彼がこの酒場の「マスター」であることを物語っている。
 彼は、これで何度目になるだろうと重い溜息を吐き腰に手を当てた。けれど助けに行くほど自分は愚かではない。見るも絶するほどの不景気、それも死活問題である水という資源さえ奪われた中、わざわざ危険の中に入っても何の利益も得られるはずもない。
 けれど、なけなしの道徳心が心の中でくすぶる。腹の中で吐き捨てる言葉など、誰にも聞こえるはずがない。だからわざとらしい嘘を吐くスキンヘッドの男を、これでもかと罵倒した。

「気の毒に、あれじゃあ格好の獲物だな」

 深い同情の声が口からぽろりと零れた。眉間に皺が寄っているが、所詮他人事だ。何とでも言える。外が騒がしくて出てきてみれば、やはりトラブル発生であったか。さて、今回はどのように収まるかと、しばらく下顎をさすっていた。
 ふと、自分の隣を音もなく横切る者がいた。背後には自分の店しかないのだから、出てきた者は客であったことに間違いはない。
視線だけを動かし、移動する影を追う。

(はて、随分と小さい客だな)

 訝しげに眉をひそめていると、ゆっくり歩いていた影がある方向へと真っ直ぐ向かう。

(お、おいおい。まさか)

 呆然とその様子を見つめていたマスターは、ぽかんと口を開けた。予想通り小柄な影は野次馬を押し退け、ついにはスキンヘッドと老人のいる円の中にまで侵入してしまったのだ。

「あぁ?なんだ、テメエ」

 サーベルの先端を老人にちらつかせていたスキンヘッドの男が、不審そうに顔を歪めた。
 けれど、突然乱入して来た人物が小柄であると確認すると、小馬鹿にしたように一笑した。
 見物人は下品に笑いだす。中にはこの状態を煽る者もいた。円の中心に現れた者は、図体のでかい巨漢でもなければ巡回兵士でもない。

「俺とやりあおうってのか?ガキ」

 そう、相手はスキンヘッドの男より頭二つ分は低い、小柄な少年であった。

「ぁん?ガキ、この辺じゃ見かけねぇ顔だな」
「………」
「おいおい無視かよ、ぇえ!?」
「………」

 まるで眼中に男が入っていないのか、少年は終始無言であった。ただ、何度も老人に視線を落としては、心配そうな色をその瞳に含ませている。ぐるぐると太陽に焼けた長い布を頭に巻きつけているせいでその色をしっかりと見据えることが出来なかったが、漂わせる雰囲気は、あからさまに意識してスキンヘッドの男を無視していた。

「大丈夫ですか?」

 ああ、やっぱり聞いちゃいなかった。
 あまりに唐突な出来事に、一時ギャラリーは固まるが、すぐにゲラゲラと大爆笑の嵐が起こる。何せ大の男が威嚇しているというのに、少年は一度たりとも視線を合わせていないのだ。これでは男のプライドが傷つくのも無理はないだろう。その証拠に、蒸気を立てそうなほど真っ赤になった顔は今にも爆発しそうだった。わなわなと震え、殺意を込めた視線が少年を襲う。

「てめぇっ、つけあがるんじゃねぇぞ!!」

 怒声とともに男が駆け出した。その手に握られたサーベルが、ぎらりと鈍く光る。それまであまり手入れをしていなかったのか、よくよく見れば刃先は斬った魔物の脂で薄く澱んでいた。
 少年と男の距離はそれほどない。少年の腰には獲物があった。しかし、少年はそれを抜こうとはしない。いや、この近距離では抜くことが出来ないはずだ。

「坊主っ!」

 思わず声を上げる。そのれと同時に、どこかで悲鳴も聞こえた。

「―――剣を抜くまでもないさ」

 まだ幼さの抜けきらない声は、ふっと何か企んだような笑みを浮かべると、面白いほど真っ直ぐ突進して来た男の攻撃を軽やかにかわす。するりと抜けたそれに驚いた男は、スピードを緩めようとするが足がついてこない。舌打ちをし、何とか振り返ろうとした途端。
 違和感を覚えた。風を切るような、小さな音が一つ。刹那、首筋に感じる痛み。観客の喚声が響いた。何が面白いのか、手を叩く者さえいる。

「力任せじゃ、俺には勝てないよ」

 目の前が徐々に暗くなってきたことを感じた男は、悔しさと恥ずかしさに後悔する前に、どさりと音を立ててその場に倒れ込む。意識は、既になかった。

「お祖父さん、大丈夫ですか?」




「いやー、ぶったまげた。お前さん見かけによらず強いんだなぁ」

 水不足であるが、不況であろうがなかろうが酒場はいつも賑やかであった。戦が始まる前はそれなりに高値のものであったが、如何せん今は水不足。酒よりも水の値段の方が高騰している始末だ。酒場を経営する者としては儲かって宜しいのだが、こうむさ苦しい男ばかり群がられても、正直嬉しくはない。
 毎日毎日、下品な男どもを見続けていたマスターは、今目の前でリンゴを一つ頬張っている少年に視線を落とした。しゃくしゃくと、先ほどからから無言でリンゴを食べ続けている。顔を布で隠しているが、隙間から見える顔のつくりは、やはりまだ幼さを残す子供であった。

「みんなお前さんに感謝してる。ありがとよ、坊主」

 そう言って笑うと、少年の後ろのテーブルで酒を呑んでいる男達がお世辞にも綺麗とは言えないだみ声で、「ありがとよ」と合唱する。いきなり背後から聞こえた大声にびくりとした少年が、一度むせた。そしてのろのろと緩慢な動きで振り向く。迷惑そうというよりも、どこか困惑した様子であった。

「い、いえ」

 何とも謙虚だ。それともただ単に口下手なだけなのだろうか。呑気に考えていたマスターは、ふと皿を拭く手を止める。

「しかし、あの野郎を手刀で倒すとはなぁ。見事なもんだった」

 ちらり、と少年の椅子の横に立て掛けられている剣を盗み見る。鞘にしっかり収まっているが、どこにでもありそうなシンプルな造りであった。獲物は片手剣であろう。その辺の武器屋で手に入りそうな、至って平凡なものである。それでも剣が貧弱そうに見えないのは、しっかり手入れをしているからなのだろ。錆びた部分はどこに見受けられなかった。
 しっかりした少年であることは何となく理解はしたが、こんな寂れた町に住んでいながらも、世の中は随分と荒れてきたものだと悲しくなってしまった。こんな子供が剣を取る時代が来るなど、枯れ果てる前までは感じなかったのだから。

「……それで、あの、お祖父さんは大丈夫なんですか?」

 最後の一口を食べ終えた後、丁寧に「ごちそうさま」と手を合わせ、マスターから差し出されたタオルで手を拭く。
 何と言うか、こうもちゃんと躾が行き届いている少年を見るのは大変珍しく、同時に久しかった。
 驚きのあまり何度も瞬きをしているマスターに遠慮がちに尋ねた彼の声に、ハッとする。少年はといえば、少し怪訝そうな顔をしてこちらの反応を待っていた。

「ああ、おまえさんのおかげで命拾いしたって、それはもう両手上げて喜んでたぜ」
「そうですか。それなら良かった」
「あのスキンヘッドも、今頃巡回兵士に詰問されているだろうよ」
「…そうですね」

 人の良い笑みを僅かに浮かべると、ほんの少し少年の雰囲気も和らいだ。
 用がなくなった少年はカウンターから立ち上がり、横に立て掛けておいた剣を腰にさげる。お世話になりました、と律儀にもマスターにも、挙句の果てには酒場にいる酔っ払った男どもにさえも一礼をして、日差しが爛々と照っている外へと早足で進み始める。

「坊主!お前さんの名前、聞いても良いか?」

 少年の無駄のないきびきびとした動きに呆気にとられていたマスターは、思わず背中向けた少年に問いかける。
 扉の取っ手を掴んでいた少年が、振り返った。窓から入る光と、酒場の暗さのせいで、彼が今どんな顔をしているのかは分からなかった。

「―――シリュウです。シリュウ・アンデリオ」

 木製の扉をぎい、と音を立てて開ける。シリュウと名乗った少年の僅かに微笑んだ表情がさらけ出された。




「さて、欲しかったものも手に入れることが出来たし」

 噴水がある方とは逆の、寂れた民家が建ち並ぶ影に腰を下ろしたシリュウは、きょろきょろと辺りを見回した。人通りがないことを確認すると、それまできっちり巻いていた長布をそろりと解く。日陰のもとに現れたそれは、恐らく太陽の日差しが降り注ぐ影の外でも目につくような、強い黒色だった。
 混じり気のない原色。何色にも染まることは永遠にない、艶のある漆黒。極めつけは、少し長い前髪から覗く、赤い瞳。
 それは、この世で最も不吉だと謳われる色彩。誰もが忌み嫌い、遠ざけるものである。

「……流石に、ちょっと暑いなぁ」

 ぱたぱたと空いた手で仰ぐが、乾いた空気しか流れてこない。うっすら額に汗が浮かんでいるものの、気にするほどではなかった。日陰を探し、ご丁寧にもベンチが設置されている場所へ腰掛ける。太陽の日差しを遮っているのは、数台の椅子に円く囲まれている樹木だ。水不足のせいか緑の葉はやや色褪せ、ひらひらと時々地面に舞い落ちていた。
 どかっと男らしく座るのではなく、どちらかと言えば遠慮がちに静かに座った少年は、左手に持っている物を広げた。そう、この町に来てまさかチンピラに出くわすとは思わなかったが、困っていた老人を助け、例の物は手に入り、少し遠回りになってしまったものの、結果オーライなのだから万々歳だ。
 シリュウが持っているものは、この近辺の地図と近辺にある遺跡の見取り図だった。
 それを読み込もうとすれば自然と髪が前に下がる。日陰に入っただけでも少年の黒髪は更に濃度を濃くするというのに、何故か一般的に不吉を感じさせる漆黒の色は、恐ろしさを感じさせなかった。
 前髪が少し長いので切らなければならない。と呑気にシリュウは心の中で呟く。その間に見える朱より濃い、紅の瞳は固唾を呑むほど美しい。本来、赤色の瞳も不吉な類の一つに入っているが、黒髪といい赤眼といい、凶と謳われる二つが互いに揃った途端、恐怖というよりも、言いようのない震えのほうが先に沸き起こってしまうのは何故だろうか。
しかし、世間は自分とは違うものを排除する。それを敏感に感じ取っているシリュウは、長布を手放すことはなかった。

 そんな珍しい相貌の少年の名は「シリュウ・アンデリオ」である。見た目とは裏腹に、名前はごく普通の、どこにでもありそうな少年の名だ。けれどどこか飄々としていて、尚且つ落ち着いた雰囲気を醸し出しているシリュウは、あまり剣士に向いていないようにも見えるだろう。

「うん、徒歩で十分行ける距離かな?」

 満足気に頷いたシリュウは、出した地図と見取り図をきれいに畳み、丁寧に鞄の中へ収納する。この辺りから彼が几帳面であることが伺えた。よく見てみればそこらにいる放浪者よりも身形はきちんとしていて、清潔感を感じさせられる。いかにも旅をしている服装、そしてあまり大きくない鞄。どこをどう見ても旅人だ。とてもじゃないが育ちの良いお坊ちゃまには見えない。
 しかし彼の頭の中にはがさつ、という単語は存在しないのか、決して自己中心的に模索するのではなく、町に住む人々に時には挨拶を交わすほど、シリュウは一般的旅人よりも、良い意味でずれていた。

「よし。準備完了」

 鞄の留め具をしっかりと固定する。その刹那、ふと微風が吹いた。木々に付いている葉が擦れ、がさがさと音を立てる。思わず葉の絨毯が敷き詰められている空を見上げると、時々覗く太陽の光に目を細め、鮮やかに、だがモノクロに映る世界に知らず知らずの内に溜息を漏らす。自覚がないのか口元には薄く笑みが浮かんでいる。しかし、それもほんの一瞬のこと。

「追いついてみせる。絶対に」

 激情に似た色が瞳の中を過ぎる。赤い瞳が少しだけ色濃くなったような気がしたが、それを誰かが気付くはずもない。一度目蓋を伏せ、隠すような仕草を見せたシリュウは、一度深い溜息を吐いた。背もたれがあるのにもかかわらず、ずるずるとベンチからずり落ちる。少々みっともなかった。頭が背もたれの部分に引っかかったおかげでそのまま落ちることはなかったが、誰がどう見ても不審者だ。いや、このくらいの年の少年ならば誰も気に留めないかもしれない。

「おお!さっきの若いもんじゃないか」
「あ…っ!さ、先ほどぶりです」

 頭上から聞こえた声にばちりと瞼を持ち上げたシリュウは、葉が擦れあう世界に飛び込んできた肉のない、骨と皮だけの老人を凝視した。そして、ギョッと目を剥いて隣に置いていた長布を掴み、無造作に髪を隠す。どうやら視力が低下しているおかげか、黒髪や赤眼をそこまで気にしている素振りのない様子に、ホッと胸を撫で下ろした。

「本当にさっきはすまなんだな、改めて礼を言わせておくれ」

 腰の曲がった老人は更にその腰を曲げ、頭が膝につかんばかりに深く頭を下げた。それに慌てたシリュウはベンチから飛び起き、困り果てた様子でそれを制する。しかし頑固者なのか、それとも本当に心から感謝しているのか、なかなか面を上げようとはしてくれない。

「あの、困ります、顔を上げてください!」
「本来ならここで金でも支払うべきなんじゃが、生憎わしも近所の友人も払えるような金は持ってなくてな。すまんがこの老いぼれの醜態だけで、勘弁しておくれんか」
「違いますっ、俺は金品が目的なんじゃないんです!ただ探しものをしてただけで!」

 人助けに報酬など必要ない。これまで幾度となく繰り返してきた行為だ。今更金を寄越せなどと、どうして言えようか。
 はなから報酬を目的としていないシリュウにとって、この老人の有り余るような行為は非常にこちらを困惑させるものである。誰しも目の前で頭を下げられ、それを訝しげにこそこそと町人に見られれば良い気分にはならないであろう。人通りが少ないことが救いではあるが、このままの状態でいても悪い噂が経つのに時間はかからない。それでも相変わらず頭を下げたままの男に視線を戻したシリュウは、一度嘆息した。

「じゃあ、最近クロスピル遺跡に何か異変はありませんでしたか?」

 その言葉に反応した男はバッと顔を上げた。どうやらこれで話題を変えることが出来たらしい。

「クロスピル遺跡……?お前さん、あんな物騒な所に行くつもりか」

 酷く驚いた様子の男は瞬きさえ忘れているのか、瞠目したまま動かない。彼の問いに答えるために、シリュウは軽く頷いた。それを見て更にたまげたような顔をした男は、今度は珍獣を見るかのような視線を無遠慮にもシリュウに向ける。
 こうなることをある程度予想していたシリュウはというと、苦笑するだけだった。

「あそこは最近性質の悪い盗賊に入られたんじゃ。悪いことは言わん、やめておけ。中には何にもないぞ?」

 それに加えて魔物の巣窟だ。トレジャーハンターが時折遺跡に入るが、年間数名ほどは魔物に食い殺されているのが現状。助けられた上で言える台詞ではないが、とてもじゃないが少年が凄腕の剣士には見えない。

「大丈夫です。ちょっと見て出てくるだけですから」

 まるでちょっとそこまで買い物に、と言わんばかりのあっけらかんとした態度に、老人はぱちくりと眼を瞠る。毒気を抜かれるような笑顔に益々心配になったのだが、敢えて口にはしない。

「まあ、わしがどうこう言える義理じゃないからな。あそこは夕方から魔物が凶暴化しやすい。くれぐれも気をつけるんじゃぞ」
「はい、ありがとうございました」

 納得し切れていない様子ではあったが、男はもう一度頭を下げてその場を去った。残ったシリュウはというと、嵐が去ったことに安堵していたが、表情は晴れなかった。
 一息ついてベンチに腰掛けた瞬間、汗が滲み出す。容赦なく降り注ぐ太陽の光をいくら木の葉の影で遮っているとはいえ、乾燥したこの一帯は汗ばむ陽気だ。けれどシリュウは汗を拭おうとはしない。寧ろ寒そうに己の体を掻き抱き、何かに怯えた瞳でジッと地面を見据えていた。

「逃がすものか。絶対に」

 胸元を強く握る。そこにあるものは、シリュウと同じ色を持つ唐紅のペンダントだった。





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