● 唐紅の記憶  ●



「要求はただ一つ。シェンリィ、大人しく俺の妻にな――」


シークエンドが言い終わらぬ内に何か鋭いものが頬を掠める。


「地獄に落ちな、シークエンド」


地を這うような頭領の声が、フィラインの攻撃合図だった。




第15話 『騒動の狭間で』




「おいおいおい、ちょいと血の気が多いんじゃねえの?」
「やかましいねぇ。あんたらがさっさとここから出て行けば丸く収まるんだよ」

一瞬の隙をついて突進していたシェンリィの一撃をひらりとかわしたシークエンドは、余
裕綽々の笑みでシェンリィの右腕を取る。触れられたことに粟立ったシェンリィは凶器を
持ったまま、勢いよく男の腕を払い落す。ぞんざいな態度にも怯んだ様子の見えないシー
クエンドは、先ほど頬を掠めた血を拭う。左頬に一線。傷自体は大したことはないのだが、
出血の量はおびただしい。血に慣れていない者ならば青褪めることは間違いない。

頭領同士の開戦で、彼らの仲間が次々と怒声を上げながら敵に向かって走り出す。火蓋が
切られたのだ。その大混乱に乗じ、シリュウとエリーナ、そしてカインは身を低くして
捕らわれている人のもとへ駈け出した。頭上で金属の交わる音が絶えることなく鳴り響い
ているが、この時ばかりはエリーナもそれに気を取られなかった。自分のすることで頭が
いっぱいだったのだろう。今にも泣きそうな様子ではあるが、しっかりと握られたカイン
の大きな手とその温かさに幾分かは正気を保っていた。

「な、何だテメ―――っ!」

見張り番の声を黙殺し、カインが男の鳩尾に一撃を加える。抉るように殴ったので普通の
一撃よりは数段威力はある。そう簡単に起き上がることはないだろう。

「全く、手間をかけさせてくれましたね」

白目を剥いて気絶した男を器用に縛りあげ、最後に目隠しをして陰に転ばせる。突然の
騒動と現れた人物に驚きを隠せないでいる町の人々は、声を上げることすら忘れ、唖然と
カインを見上げていた。

「もう大丈夫よ」

不器用ながらも、縛られた町の人たちの縄を次々ナイフで切っていったエリーナは、既に
フィラインが奪取に成功した場所まで誘導する。その間にも辺りは男たちの野太い声が
広がっていたが、自分たちのことで精一杯なせいか、人質が逃げだしたことに気付いてい
ない。

「お嬢様はこの群れと一緒に入口まで戻って待機していてください」
「え、でもカインは?」
「私はまだ解放されていない人質を救出しに行きます。シリュウ君一人では心配ですから」

途中まで一緒だったはずのシリュウはここにはいない。この場所がもう問題ないと確認し
た途端、あろうことか一人で他の場所へ走り出したのだ。その姿を何とか捉えたカインは
舌打ちしたくなる衝動に駆られたが、最優先すべき事柄を再度頭に叩き込み、収集がつく
まで留まっていた。本当ならばエリーナのもとに四六時中ついていたいのだが、この混乱
の中これ以上彼女をこんな危険な場所に置いておきたくはない。戦力補充のために仕方な
く騒動に加わってはいるが、この混乱をどうにかしない限り次の目的地へ行く手段がない。
それに、待機場となっている入口ならば危険性はここよりも数段低くなる。何よりこの目
でフィライン達の腕前を確認したのだ。男だけでなく女も多く混じっているので、預ける
分にはちょうど良い。

「でも……」

未だにごねるエリーナは逃げ惑う人々を見つつ、不安そうにカインを見上げる。その意図
を理解したカインは、エリーナと同じ目線まで腰を下ろし、宥めるようにこの場に似つか
わしくない笑みを浮かべた。

「貴女なら必ず出来ます。いいえ…貴女にしか出来ないことですよ」

我先にと逃げる者たちに、正気の色はほとんど残っていない。彼らが通る道を応戦してい
るフィラインたちが何とか作ってはいるが、もたつけばもたつくほど、逃がそうとしてく
れている者たちの負担が増え続ける。迅速に誘導する者が必要だ。けれど、武器を手にし
ている者は、海山賊の襲撃に応対することで手一杯で、他のことに力を割く余裕はない。

「ぎりぎりのところまで私も援護します。大丈夫、貴女の力を信じてください」

エリーナの手をそっと包み込む。カインの手はエリーナのようにきめ細やかですべすべと
していないが、肉刺が出来てごつごつしたそれは、今こんなにも力強さを与えてくれる。
いつの間にか冷え切っていたエリーナの手に、じんわりとカインの温もりが伝わる。そう、
幼い頃から不安な時、彼はいつもこうやって手を握ってくれた。そして一番奇麗な笑顔を
見せるのだ。あと一歩が出ない。目の前の見えない事柄に怯えて、逃げだそうとしていた。
カインはそれを見て、叱るわけでも呆れるわけでもなく、穏やかに微笑む。

「……うん、私やってみる」

カインの優しさに泣きだしたくなった。けれど今はそれを堪える。ここで泣いていたって
誰も助けてなどくれやしない。今自分に出来ることを力の限りすればいい。そうすれば
きっと道は切り拓けるのだと、彼は何度も言っていた。努力をした分彼は必ず手を伸ばし
てくれた。

「分かりました。では早速行きますよ」

鞘に入れていた剣を抜きだす。ちょうど正午に近い今、太陽はほぼ真上に位置していた。
その光を燦々と浴びた鋼製の剣が鈍く輝く。姿勢を正し、混乱している状況を一瞬で把握
するとエリーナに合図をだし、駈け出した方向へカインも小走りに追いかける。

「皆、こっちよ!!」

懸命に声を張り上げ、逃げ遅れる人がいないか確認しながらの同時作業は、エリーナに
とって大変な重労働であった。こんなことは一度たりとも経験したことなどない。エリー
ナの声に町の人々は弾かれたように意識を向ける。その間に何度もエリーナは叫んだ。

「入口にフィラインがいるわ!捕まりたくないなら私についてきて!!」

それまでどこに逃げていいかも分からず右往左往していた者が、顔を輝かせて目的地へ
走り出す。どこへ逃げ込めば助かるかが分かった途端、彼らの顔つきは絶望の中から希望
を見出したような明るいものへと変わっていっていた。

「こら、テメッ!何勝手なことしてんだ!」
「俺らがシークエンドの頭にどやされるだろーが!!」

人質が次々にフィラインのもとへ駈け込んでいることを理解した海山賊たちは、足止めし
ているフィラインを退かそうと懸命にもがく。その一人が渾身の一撃をフィラインに食ら
わし、ほんの一瞬隙をつく。剣先が横腹を掠めたせいで態勢を崩した男は、すぐ横を走る
エリーナを視界の端に捉えた。

「―――お嬢っ、あぶねえ!!」

食い止めきれなかった海山賊の男が、背中を向けたエリーナに斬りかかろうとする。フィ
ラインの男の声に気付いたエリーナがハッと振り返るが、目を見開く暇もなく勢いよく剣
が振り下ろされる。主の危険に気がついたカインは、溢れる人を掻き分けて辿りつこうと
するが、間に合わない。

「お嬢様!!」

悲鳴すら上げず、ただ茫然と立ち尽くしているエリーナに声を張り上げる。その時の海山
賊の男の表情など、確認する暇はなかった。

ぐらりと視界にある姿が傾く。影になっていた部分もゆらりと動き、どさりと音をたてて
体は重力に従って完全に地に伏せた。

「……ヒュ、ガ…?」

倒れこんだのはエリーナではない。剣を構え振り下そうとした海山賊の男だ。その男はと
言うと、泡を吹いて気絶している。何が起こったか理解できないでいたエリーナだったが、
ふと新しく出来た影にゆっくりと顔を上げる。

「邪魔だ、さっさと行け。……そいつは気絶しているだけだ」

剣を肩に担いだまま憮然とした面持ちで立っている男がヒューガだと識別した瞬間、エリ
ーナの中で固まっていた恐怖が一気に溶け始める。あんなに険悪であったにも関わらず、
この人物は助けてくれたのだ。それがいかなる理由かなど、エリーナはそれを瞬時に判断
できるほど頭の回転は良くない。ただ彼女にとって今のヒューガは、危険を回避してくれ
た命の恩人なのである。

「ヒューガ…」

ようやく辿り着いたカインは、思わぬ人物の登場に一瞬思考を閉ざす。けれど相変わらず
のぶっきら棒な物言いに眉間に深く皺を寄せる。周囲の騒音も加わり、苛立ちが更に募る。
けれどここで爆発するわけにはいかない。茫然としているエリーナが無事に逃げ出せて
いないからだ。

「あ、ありがとう」

ようやくまともに絞り出せた声は随分と掠れていた。その様子を面倒くさそうに見下ろし
ていたヒューガは、いつまで経っても動こうとしないエリーナに痺れを切らし、素人でも
十分に感じ取れるほどの殺気を放つ。びくりと肩を震わせたエリーナは、足もとが覚束な
い状態で再び走り去る。

「…礼は言っておきますよ。一応、ですが」
「手前はいちいち一言余計なんだよ」

文句の一つや二つを吐いてやりたいところだが、そんな時間は残されていない。一度ヒュ
ーガを見据えた後、念のために辺りを見渡しながら、逃げ遅れがいないか確認をしつつ
危なっかしいほど無防備なエリーナの後ろ姿を追いかける。その時にまたしても海山賊の
一人がフィラインの防壁を突破して襲いかかろうとしたが、不機嫌絶好調のカインによっ
て容赦なく地に伏せられる。それはもう、見るも無残な形と言っていいほど。

カインの姿が小さくなったのを確認して、ヒューガは交戦しているフィラインと海山賊を
見据える。随分とごった返しになったせいで、双方の頭領の姿が見当たらない。舌打ちを
したくなる衝動を抑え、ヒューガは不機嫌面丸出しで石造りの広場を横断する。

「ったく、あいつはどこに行ったんだ」

戦闘開始まで確かにいた相棒の姿が忽然と消えた。まさかやられたのでは、と一度懸念し
たが、いざ海山賊と対峙した瞬間、その最悪な疑問は簡単に払拭された。決して弱いとは
言い切れないが、それほど訓練もされていない勢いだけの集団に負けるほどシリュウは
子供ではない。力そのものは根負けするかもしれないが、俊敏性と技術で十分に対応出来
る。いや、寧ろ相手にするのが勿体ないというほどであろう。

血の気の多い場所は嫌いではない。ストレスが溜まっている時は爽快と感じてしまえるほ
ど。けれどそれは独りであることが条件だ。集団で行動している今となっては、響き渡る
雄叫びも剣の交りあう音もただの雑音にしかならない。

「ヒューガさん!」

勇敢にも飛びかかってくる海山賊を鞘の入ったままの剣で鳩尾に一撃を加え、とどめに
足蹴りを一発。蛙の潰れたような声を無視し、我が物顔で突き進むヒューガに最近慣れた
声が一つ。周囲の気配に注意しつつ、胡乱気に首を傾ける。そこにいたのは、息を切らし
たシリュウの友人、グランの姿であった。

「おう、そっちはどうだ」
「制圧完了したっす。…こっちも大分片付いてきたっすね」

両手の指にあの忌まわしき糸を絡ませながら嬉々として語る姿に、少し呆れたような溜息
が零れる。敵に回すと厄介であるが、味方につけるとまさに切り札。下手に喧嘩を吹っ掛
けないで良かったと、流石のヒューガも少し安堵する。

「それで、何をそんなに慌ててんだ?」

切羽詰まったような顔に見えたのは気のせいだろうか、と思わず首を傾げる。すると今思
い出したかのように瞠目したグランは、少し身長の差があるヒューガの肩を掴んだと思い
きや、大きく揺さぶり始める。思えば暇さえあればシリュウに抱きついたり腕を引っ張っ
たり、こんな風に肩を掴んで目が回るほど揺らしていた記憶があるが…正直自分にされる
と嫌なものである。

「だっ、ま、て…ぅぉぉおい!」
「シ、シリュウ見かけなかったっすか!?ダイオンさんに言われて来たんす!」

吐き気に見舞われたヒューガが抗議しようともがくが、グランの言葉にぴたりと動かなく
なる。それに気づいたのか否や、肩から手を離したグランは年の近い友人をきょろきょろ
と探し出す。

「そりゃ、こっちが聞きてぇよ。あいつまた単独で動きやがって…」
「単独って、まさかシリュウは一人なんすか?…うわ、それだとヤバいんじゃ……」

突然頭を抱え出したグランにヒューガは不審げに眉をひそめた。確かに心配ではあるが、
シリュウは海山賊に負けるほど落ちぶれてはいない。今も一人で人質となっている町人を
必死に助け出しているのであろう。無自覚にお人好しの少年の考えることは、短い付き合
いであるヒューガでも十分に把握している。

「ヤバいって、どういうことだ?」

剣呑に目を細めたヒューガは困惑したままのグランを見下ろす。一瞬ヒューガの瞳に影が
混じったような気がしたが、案外パニック状態に陥っているグランにはその真意を確かめ
る余裕はない。訝しげにしたところで、掴み所のないこの男が、そう簡単に口を割るとは
到底思えなかった。

「詳しいことは俺にもさっぱりで。
 ただ、海山賊の頭領と鉢合わせするような事態は避けろって言われて」

広場に来るまでは商店の並ぶ場所を制圧していたのだが、途中で別行動を取ったダイオン
にそう言伝された。その意味を聞く前にダイオンはシェンリィを追いかけたのだが、恐ら
くシェンリィの相手をしているのが海山賊の頭領であろうから、そこまで心配する理由が
分からないでいる。けれど冗談のない本気の目つきであったことに変わりはない。ダイオ
ンはあんな図体をしているが、明るく朗らかで気さくな性格だ。そんな彼が苦渋に満ちた
顔でいたのだから、それほど深刻な事態なのであろう。

「…とにかく、シリュウを見つけることが先だ。制圧出来ていない場所は分かるか?」

一度身震いしそうなほど表情が落ちたのを、今度こそグランは目撃した。その視線はグラ
ンでもなければ辺りにいる人間に向けられたものではない。けれど心臓を鷲掴みされたよ
うな、ひやりとした何かが襲いかかる。ぎくりと硬直したグランに気付いた様子のない
ヒューガは、顎に手を当てて何か考え事をしていた。

「…俺が確認できたのは、商店と住宅地、それとここだけっす」

震えを悟られないようしたせいか語尾が弱々しかった。そんなグランに逸らされていた視
線が再び交差する。心臓が喉から飛び出てくるのではないかと懸念しそうなほど大きく
脈打ったのだが、先ほど見せたあの冷たい表情ではなく、ヒューガという人物特有の色が
そこにはあった。不審そうに何度も瞬きをしていたが、へらりと応急対策として笑みを見
せれば、興味がなくなったかのように逸らされた。

「それだけ分かっていれば十分だ。既に入口とその付近はこちら側が確保。
 お前の言っていた場所も制圧完了しているなら、残るは奴らの移動手段がある港だ」

言い終わるや否や踵を返すヒューガに茫然としていたグランであったが、すぐさま我に返
り駆け出し始めたヒューガの背を慌てて追いかける。

「ちょ、待ってくださいっす!」

足には自信があったグランはすぐに追いつくことができた。そんな彼を一瞥したヒューガ
だったが、その表情はやはり穏やかなものではない。

敵の妨害なく走ることができるのは、フィラインが海山賊を次々と倒していっているから
だ。潮風に煽られながらちらりと視線だけ一巡させれば、拘束されて地に伏している男
たちの姿が数多く見られる。

(胸糞わりぃ。何かが引っ掛かるんだよ)

山賊、海賊、あるいはフィラインのような義賊の間では有名な海山賊。どんなに強豪な連
中かと思えば、いざ戦ってみると素人同然のように隙のある者が多い。決してその率は高
くはないのだが、完璧に鍛え上げられている者もいれば、剣など全く握ったことのないよ
うな逃げ腰の者もいた。そもそもそれがまずおかしい。海の戦闘も陸の戦闘もこなせなけ
れば海山賊として成り立たない。もしどちらかの戦闘の不向きがあったとしても、果たし
て負けると分かっている部下を敵へ送るだろうか。送る可能性も頭ごなしに否定できない
が、そうなると話は大きく変わる。

(最初から、罠だったってことか?)

シェンリィに狙いが定まっているのは誰しも把握していること。その目的は違えない。
しかしもし、彼らにまだそれ以外の目的があったとすれば…?




「薄汚れた手で触るんじゃないよ!この化け物!!」




あと少しでパズルのピースが完璧に埋まりそうになった刹那。行商の船や観光の定期船
がずらりと海面に並ぶ港に溢れる人だかり。その中でも一際大きな声に周りの者は何事だ
と目を向けた。フィラインも、海山賊も、ハーティスの人々も。

老婆に手酷く頬をぶたれ呆然と立ち竦んでいる黒髪の少年を、食い入るように。






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