● 唐紅の記憶  ●





この存在は一体何のためにあるのだろうと


時々、思うのだ





第17話 『二つの取引』





シークエンドがシリュウを指名した直後であった。

ズドン、と空気を裂いた耳をつんざくような銃声に、周辺にいた鳥たちが慌ただしく空へ
と逃げ惑う。突然の轟音に皆が音の発生した方向へと振り向いた。

「今すぐお嬢様を解放しろ」
「か、カイン…!?」
「聞こえなかったか?今すぐ解放しろと言っている」

ヒューガとグランの後ろから静かに歩んでくるカインの片手には、海山賊が所持していた
銃剣が装備されていた。天を向いたままであることを黙認すると、先ほどの一声はどうや
ら空に向かって放たれた空砲らしい。けれど慣れた動作で一つ、また一つ弾を込めると、
それをシークエンドの額に照準を合わせる。どんな時でも一つや二つ毒を吐いて相手を小
馬鹿にしていたカインが、今はこちらの背筋が凍りつきそうなほど鋭い目つきで、シーク
エンドとサルジュ、そしてエリーナを甲板に連れてきている乗組員を射抜いた。心なしか
語尾も荒々しい。普段から殺気に慣れているのか、シークエンドとサルジュの表情が変わ
ることはなかった。しかしエリーナを連れてきた乗組員は顔面蒼白で、今にも逃げ出しそ
うなほどのへっぴり腰である。

「ほぅ。随分と使い慣れているじゃねーか。それ、結構扱いが難しいんだぜ?」
「お前の戯言に付き合うつもりは毛頭ない。お嬢様を離せ」

安全装置を解除し、いよいよ引き金に手をかける。ただならぬ雰囲気に固唾を飲まずには
いられない。だがそれでもシークエンドは一瞬たりとも怯む様子は見せない。寧ろこの状
況を楽しんでいるのか、場違いにも喉で笑っている。頭を撃たれれば即死であるというの
に、構える動作も見せないそれにカインは苛立ちを募らせた。

「いいぜ?やってみろや。その時はあんたが守りたいあのお嬢ちゃんも道連れだがな」
「………」
「穏便に行こうぜ護衛さん。俺は今、兄弟と取引をしているんだ」
「………シリュウ君」

目を伏せ、全員に聞こえそうなほど大きな溜息を吐いたカインはその場に銃剣を下ろす。
身も心も凍えそうな色を伴った視線は相変わらず健在で、それが向けられた瞬間シリュウ
は一瞬声にならない声を上げそうになったが、ぎりぎりの所でそれを呑みこんだ。

「俺を海山賊に招待って…どういうことだ?」

カインの視線が痛いと感じながらも、それまで歯ぎしりでもしそうなほど歯を食いしばっ
ていたシリュウがようやく絞り出した言葉は、今にも枯れてしまうのではないかと思わせ
るほどひどく掠れていた。目の前にいる男はひょうきんな表情を浮かべたままで、頭上を
見上げれば、きっと泣いているに違いない今助けなければならない人が一人。突然の事態
に怒りを覚えたものの、気の抜けるような、だが隙のない姿に言葉を詰まらせる。せめて
憎悪や殺気が込められていれば、ただ感情のままに身を任せることが出来たのに。流そう
とした瞬間にころりと態度を変えられては、こちらが折角構えていた防御を一気に崩され
てしまうではないか。

「そのままの意味さ。是非ともお前に海山賊に入って貰おうと思ってな」
「あんた、何考えてんだい?この子は曲がりなりにもフィラインなんだよ」

背後のサルジュに気を配りながらも、シェンリィは露骨に眉間に皺を寄せながらシークエ
ンドを睨みつける。昔から言動がおかしな部分がいくつかあった人間だということは理解
していたつもりではあるが、まさかこんな事を仕出かすとは夢にも思わなかった。馬鹿だ
馬鹿だと思ってはいたが、ここまで馬鹿だったとはと頭を抱えたくなる。しかし、馬鹿で
あってもこの騒動を起こした張本人であることに変わりはない。一発、いや十発以上脳天
を殴らなければ、腸が煮えくり返ったこの衝動を抑えることは出来ない。

「欲しい物は力づくでも奪い取る。……それが俺ら盗賊のモットーだろ?」
「あんたの勝手な解釈を他人に押し付けるんじゃないよ。あんたの所は盗賊でも、
こっちは義賊なんだ。一緒にしないでおくれ。第一シリュウは物なんかじゃないんだよ」
「物は物でも、俺たちのとっては宝石なんかよりもずっと価値のあるものだ」
「だから物じゃないって。山積みの宝石を献上されたって誰が渡すもんか」
「譲ってくれないか?」
「人の話を聞いてたのかい!?」

背中からひしひしと伝わるシェンリィの怒気にシリュウは一つ嫌な汗を流す。渦中の人物
は自分であるはずなのに、何故か疎外感を感じるのは何故だろうか。二人の止まない攻防
戦を前にして幾分か冷静さを取り戻し余裕が出てきたシリュウは、もう一度大空を仰ぎ見
る。帆がピンと張られているおかげで眩しさに目を細めることはなかった。

(エリーナ…っ)

はっきりと伺えない顔色にもどかしさを覚え、手のひらを力の限り握りしめる。手袋の上
からでも皮膚を裂いたような痛みを感じるが、たった一人引き離されて孤独になっている
エリーナの辛さと比べれば、こんな痛みなど大したことはない。視線を逸らし離れにいる
ヒューガとグランを見つめれば、その気配に気づいて二人が振り向く。双方似たような表
情を浮かべてはいるが、ヒューガはシリュウの僅かな心境に気づいたのか、剣呑に目を細
めて小さく頭を振った。その姿を見て瞠目したシリュウは、申し訳なさそうに苦笑する。
そうなると分かっていたのか、思いの外ヒューガの表情が驚きに変わることはない。けれ
ど益々不機嫌面になっていく様子は決して穏やかなものではない。

(ごめん)

要求されているものは既に把握している。シークエンドが望む二つのものは、皮肉にもこ
の場所に全て揃っていた。状況は明らかにこちらの不利。突破出来ないこともないのだろ
うが、人質を取られてしまっては下手に動くことは出来ない。捕らわれている者が武芸に
長けた者であれば話は別だが、エリーナは普通の少女なのだ。指示通り動けるわけがない。

ならば、シリュウが取れる選択は一つしかなかった。


「仲間にはならない」


きっぱりと言い放ったシリュウの言葉にシークエンドが初めて眉をひそめた。

「だけど、人質を交換したい。エリーナを解放して、俺を船に乗せてくれ」
「シリュウ…あんた、自分で何を言っているのか分かっているのかい!?」
「この取引はあんたと俺との取引だ。師匠が欲しいのなら、自力で何とかしろ」

強引に肩を掴まれ耳元で叫ばれるが、シリュウは振り返らなかった。真っ直ぐシークエン
ドを見据える真紅の瞳は何の汚れもない。あまりに純粋なその視線に身じろぎたくなった
シークエンドは、その衝動を隠して黒髪の間から見える新緑の双眸を弓月のように細めた。
口元に手を当て、シリュウを見つめ返す。沈黙が続いたが逃げ出したくなるような重いも
のではなかった。

「…確かに、これで手に入れても俺の風評が悪くなるだけか」
「兄貴―、今やってることも結構悪どいっすよ?」
「いいだろう。人質交換の提案、呑んでやる」

間延びしたサルジュの突っ込みも華麗に無視したシークエンドは、甲板でおろおろしてい
る二つの影を見上げた。海山賊の方が有利だというのに、先ほどのカインの殺気に当てら
れてしまった乗組員までも人質であるエリーナと同じ状態であることに思わず吹き出しそ
うになった。乗組員に合図を出し、ゆっくりとエリーナを連れて陸地に足をつければ、そ
れまで不安な面持ちであったその表情が、カインとシリュウを交互に見てみるみる涙目に
変わっていく。

「良かったなぁお嬢ちゃん」

身長の低いエリーナとでは視線が合わない。おもむろに顔を覗き込んだシークエンドに、
エリーナはヒッと短い悲鳴を漏らした。その大きな手がエリーナの頭を撫で回した途端に
気温が二度以上は下がったような寒さに襲われる。ゆったりとした動きで振り返れば、今
にも切り殺さんと言わんばかりにいつの間にか抜刀したカインの姿がゆらりと視界に映し
出される。剣の錆になるのはごめんだ、と苦笑したシークエンドは戸惑った様子のエリー
ナの背を強く押す。こけそうになりながらも何とか前に進むことが出来たエリーナは、す
れ違いざまにシリュウと視線が合うとぼろぼろと大粒の涙を零し始めた。

「い、嫌よシリュウ。行っちゃ駄目っ」
「怪我はない?痛い所があったら師匠に言ってね。それから……怖い思いをさせてごめん」
「シリュウっ!!」

儚げに笑うシリュウが今にも消えそうで、せめて温もりを確かめようと必死に手を伸ばす。
けれどあと少しで肩に触れそうだった所を誰かに取られた。咄嗟に振り返れば、そこには
険しい顔をしたままのカインの姿。シリュウとカインがアイコンタクトをした後にエリー
ナはその場から引きずられるような形でシリュウのもとから離される。シリュウの傍には、
シークエンドとサルジュがいた。

「―――シリュウっ、行かないで!!」

悲痛な泣き声にぎくりと肩が震える。隣には同じ黒髪の男、そしてその部下である男。ど
ちらも全く隙がない。飄々としている態度とは裏腹に、数々の修羅場を潜り抜けてきたの
だと一瞬にして悟る。たった一人の力では、どう足掻いても抵抗出来ない。泣かせてしま
ったことにひどい罪悪感を覚えつつも、シリュウがエリーナの手を取ることはなかった。


「湿っぽいのは、好きじゃねーんだよな」


カインの胸の中で嗚咽を漏らしながら泣き続けるエリーナを見て、シークエンドは一人呟
いた。ぴくりと真っ先に反応したのは、彼のもとで働き続けているサルジュである。かと
思えば次に見せた表情はげんなりとしたもので、細い目を益々細くしてシークエンドをジ
トリ、とねめつけた。幾分か呆れも含まれているその視線はどことなく疲労感が伺える。

「兄貴―……」
「悪いなサルジュ。出航は明日の早朝だ」

すまなさそうに隣を見やれば、面倒くさそうに息を吐くものの、その言動がよくあること
なのか、それほど気分を害した様子は見えない。その細目に短く礼を言えば、移動させた
視線の先のシェンリィに微笑む。

「今度はお前と取引したい、シェンリィ」

一歩前に出たシークエンドに警戒心を剥き出しにする姿は懐かない猫そのもの。それが可
笑しくて、またしても笑いが込み上げる。しかしいい加減顔を引き締めないと、命を懸け
た乱闘が始まるかもしれない。いや、シェンリィならそれくらいやってのけるだろう。

「あくまでこいつは”人質”だ。……俺の欲しいもの、分かってるんだろう?」

それまで陽気であった声色を、一気に抑揚の欠けたものへと変化させる。視界の片隅にい
たエリーナの細い肩が揺れたような気がしたが、今はこちらの深層心理を伺っている鋭い
目つきのシェンリィに集中しなければ。時折シリュウを見つめながら、思い出したかのよ
うにシークエンドにも視線を送る。あまりの素っ気なさは普通の男ならば悲観するところ
なのだろうが、手に入れたい相手がつれないほど相手をするのが楽しいと感じているシー
クエンドにとっては、シェンリィの今の行動は胸が高ぶるようなもの同然であった。

「……だから私は、二度とあんたに会いたくはなかったんだよ」

苦しげに吐き捨てたその言葉は、こちらの意図を理解した合図。にやり、と口端を上げれ
ばシリュウの頭を犬を扱うかのように大きく撫で、船に上がるよう指示をする。サルジュ
を先頭にシリュウが続き、最後にシークエンドが船へと乗り込む。

「明日の早朝までに用意出来なかった場合すぐに出航する。その場合、人質は俺たちが好
きなように使わせてもらうぜ。……闇市では馬鹿高い値で売れるってこと知ってるか?」
「っあんたは、シリュウを海山賊にしたいんじゃなかったのかよ!!」

闇市、という言葉に過敏に反応した者が三名。声を荒げたのは、悔しさを堪え切れなくて
噛んでいた唇から血を流しているグランであった。こんな形で友を奪われ、今にも飛び出
しかねない気迫であるにもかかわらず前に出ようとしないのは、一重にフィラインの頭領
が動こうとしないからだ。次に殺気を放ったのは、目を伏せていたシェンリィ。ゆっくり
と瞼を持ち上げれば、静かな怒りがその瞳には宿っている。その心の代弁をグランがして
くれたので何とか憤りは抑え込んではいるが、次にシークエンドが軽々しい口を切ろうも
のなら、飛び道具でも出しかねない勢いである。

「………」

その中で最も冷静に反応した者は、捕らわれているシリュウ本人であった。僅かに瞠目し
たものの、その言葉を耳にした途端、自分でも驚くほど頭が冷えたのだ。そうか、売れる
のか。と、まるで他人事のように現実を受け止める。こんなことは過去にいくらでもあっ
た。だからそう驚くものではない。慣れている、と言えばまだフィラインに入って間もな
い頃はシェンリィに本気で頬を打たれたものだ。滅多に泣かない人が一筋だけ流した涙に、
どれだけ酷いことを口走ってしまったのだろうと後悔したことを、今でも鮮明に覚えてい
る。

「勿論俺だって非道なことはしたくないさ。
だが手に入れたものをどう使おうがお前らには関係ない。違うか?」
「シリュウは物なんかじゃないわ!!」

じたばたとカインに押さえられながらも必死に抗議するエリーナはキッとシークエンドを
睨みつける。全く恐れる要素がないが、その言葉にシリュウはこの騒動の中ひどく穏やか
な笑みを浮かべた。エリーナやシェンリィは勿論、シークエンドも一瞬たじろぐ。

「ありがとう。でも、俺は大丈夫だから」

短い旅の中で見せてきた数少ない笑顔の中で、今ほんの少し見せたものが最も美しかった。
だからこそ分からない。どうして今、笑顔を浮かべることが出来るのだろうかと。

「俺にはやらなくちゃならないことがある。だからそう好きなようにはさせないよ」

カーマインを追いかけているのだと、少ない情報を語った。それは窮地に陥っている今も
変わらない。あくまで当分の目標は、カーマインに追いつくこと。海山賊に入るつもりも
なければ、闇市で売られるつもりもない。

「師匠」

こんな事態にも関わらず弱音の一言すら零さなかった弟子に呼ばれたシェンリィは、神妙
な面持ちで甲板から見下ろすシリュウの赤い瞳を射るように見つめた。端正な顔にある歪
んだ眉が、今まさに様々な感情を抱いているのだと訴えているようだ。

「貴女は、頭領です」

一回り違う子供の台詞は、予想以上にシェンリィの肩に重くのしかかる。まるで鉛をつけ
られたような感覚に、思わず見上げていた視線を逸らしそうになる。けれどそんなことを
してしまっては何の示しもつかない。母のような存在であり、家族同然であり、師匠であ
り、そして仲間である。弱くて脆いと思っていたはずなのに、一年離れただけでどうして
こんなにも大人びてしまうのだろうか。そしてどうして自分は当たり前のことをすっかり
忘れてしまっていたのだろうか。こんな時ばかりは鈍感でいてほしかった。もっと馬鹿で
いてほしかった。泣き叫んで、助けを求めたって誰も非難するはずない。非難などさせや
しない。物分かりが良すぎることを、これほど疎ましく思ったことなどなかった。

「シリュウ…」
「来ないでください」

何度も開閉したままの口がようやくシリュウの名を紡ぎだした瞬間、ぴしゃりと投げかけ
られた言葉に柄にもなく立ち竦む。一瞬、地面がなくなったような感覚さえ覚えた。

「師匠にとって何が有益であり、何を最優先すべきか。
 ……俺は、貴女に大切にしてもらっている自覚があります。だから……ごめんなさい」

決断をする者は組織を統べる者。その重みを受け取る者もまた、統べる者。

「皆もごめん。約束、守れそうにないや」

それぞれに視線を移せば、視界に映るものは様々であった。泣きそうな者。やりきれない
思いを顔面に出す者。怒っている者。唖然としている者。……ヒューガだけ、無表情であ
ったことが少しだけ寂しい。いつも何かしら喜怒哀楽を見せていた彼なら、今回も何かし
ら感情を剥きだすのではないかと思ったのだが。だが冷静である彼ならば、この後の処理
も上手くやってくれるだろう。そう自分自身に言い聞かせて、シリュウはサルジュに促さ
れ船室に移動する。そうして、シリュウの姿はシェンリィたちの目の前から消えていった。





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