● 唐紅の記憶  ●



―――ねえ、どうしてあんたは泣こうとしないんだい?


霞む記憶の中、問いかけられた子供はきょとんとして首を傾げた。


―――泣いたら楽になれることを、知っているからですよ。


然も当然と言わんばかりに、平素のまま答えた子供は、薄ら笑みを浮かべていた。
思えば、その頃から子供は子供ではなかった。その返答自体、がそもそも子供らしからぬ
回答であったのだ。


―――あんたが逃げたって、誰も咎めたりしないんだよ?


逃げることは卑怯なことではないのだと。時として逃げることも重要なのだと。
だが子供は小さく頭を振り、困ったように、少しだけ眉を下げる。それが精一杯だった。


―――俺が生き続ける限り、俺が俺を咎め続けるんですよ。


子供は大人を諭すようにゆっくりと口を開いた。
ゆっくり、ゆっくり。まるで老人が昔話を語るかのように。





第18話 『渦中の人』





漁港から少し離れた入り江で揺れる松明のかがり火が、月の光だけしかない静かな海の世
界に映る。南の方向を見やれば、港町の生活している灯りがちらほらと浮き上がっていた。
風もほんの少し髪が揺れる程度で、雲一つ見当たらない空には白光する丸い月が一つ。全
ての生きものが眠りにつく時刻に、見回りの船員以外に甲板に突っ立ったままの者が一人。
船の先端に身を乗り出し、魚一匹さえ跳ねない海面をジッと見つめる姿は、数時間前から
一向に動こうとしない。食事の時間だと呼ばれてもやんわりと断わり、ただぼんやりと港
町のある方向を眺め続けていた。時折痛む左額を、丁寧に手当された包帯の上からそっと
押さえ込む。打たれた頬にも真っ白な湿布が貼られていた。

「いくらこの地域が温暖って言っても、夜中にその恰好はいかんぞ兄弟」

かけられた言葉にまたか、と肩を落として振り向けば、一定の位置に設置してある松明の
灯りに照らされる漆黒の色。月明かりの力もあってか、その色は昼間に見たものよりもず
っと恐ろしく、だがそれ以上に神聖である。

「俺のことは放っておいてくれって何度も言ったはずだけど」

全長五十メートル以上はありそうな巨大な船の所有者は、昼間ハーティス港を襲った男、
シークエンドである。この騒動を引き起こした張本人の、海山賊の拠点とも言える船に乗
っている少年シリュウは、今日何度目かの溜息を本人を前にしても何の躊躇いもなく、や
や大袈裟に吐いた。シークエンドが示唆した通り、シリュウはいつも首に巻いていた長布
も身につけず、剥き出しになっている腕の部分を擦っていた。長布はしていないのではな
い、ここにないから、することが出来ないのだ。

「昼飯は食わない、晩飯も却下、上着は拒否。…明日俺がシェンリィに殺されるだろう?」
「そうかもしれないね」
「ったく。そっけねぇやつだよ、お前は」
「何とでも」

そう言いながらもどこか楽しげに近づいてきたシークエンドは、シリュウの頭の上に無理
やり毛布を被せる。まさか強硬手段で来るとは思わなかったシリュウは、一瞬遅れてそれ
を跳ね返そうとするが、悪意のない静かな笑顔を見せられては強く突っぱねることが出来
ない。毛布とシークエンドの顔を交互に見つめた後、渋々とそれを羽織る。食べ物ならば
ともかく、こんなものに毒類の薬物は混入されていないだろう。されていたとしても、明
日シェンリィに殺される事実は変わらない。

「そう沈むな。まあ、少しだけ大人気なかったのは認めるが…」
「少しじゃない。あんたのやったことは子供が駄々をこねることと一緒だ」
「ははっ、そりゃあサルジュにも言われちまったよ」

目を細め軽蔑するような視線を向けているはずなのに、シークエンドはへらりと笑って頭
を掻くだけだ。全く以て悪びれた様子を見せようとしない。今頃彼の部下、サルジュは彼
の仕出かした事態の後処理に追われているのだろう。敵であるはずなのに、同情せずには
いられなかった。晩の食事を持ってこようとした時のやつれた表情が忘れられない。

「とにかく、だ。明日の早朝、お前は俺の忠実な部下になる」
「『明日の早朝報せがなかったら』だろ。勝手に話を進めるなよ。
 それに俺はあんたの部下になる気は全くないんだからな。全く、付き合ってられない」

一体どこからそんな余裕が出てくるのか、シークエンドは真っ直ぐとシリュウを見据えて
僅かに目を細める。けれど双方に浮かぶ真摯な色に射ぬかれてしまっては、たじろがずに
はいられない。思わず目を逸らしたシリュウは、昼間に交わした約束を思い出していた。
全ては明日の早朝に方がつく。あくまでこの身は人質であり、利用価値のある物体だ。真
にシークエンドが欲するものは猫のように飄々とかわすフィラインの頭領、シェンリィだ。
だから彼女に間違ったことなど何一つ言っていない。

(来てはいけない。そんなことをすれば、こいつの思う壺になる)

瞼を閉じても未だ蘇る昼間の風景。そして頬に伝わった熱い一撃を。

哀愁漂うシリュウの背中をジッと見据えていたシークエンドは、気付かれぬようそっと息
を吐いた。子供と呼ぶには大人びていて、大人と呼ぶには儚いその姿は思春期を葛藤する
年頃そのものなのだが、この少年はその対象にはどうも当てはまらない。冷めているのか
と思えば、感情のままに怒りを見せることが、皮肉にも今回利用した少女のおかげで判明
した。己の非力さを嘆き、悔しみ、悲観する。それはかつてシリュウと同じ程の年の頃、
シークエンドも体験したものだ。

「心配するな。シェンリィが来なくても売ったりしない」

手すりに両膝をついたシークエンドはどうにか視線を合わせようとシリュウを追いかける。
素直でないわけではない。捻くれているわけではない。真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐで、
だがそう簡単に折れない芯の強さをシークエンドは見抜いていた。

「知ってる」

執拗に追いかける視線に嫌気がさしたのか、幾分かうんざりした様子であるがシークエン
ドの瞳をしっかりと受け止める。返答は実にさっぱりしたもので、慰めるつもりで言った
本人も暫しぽかん、としていた。

「あんたがそう悪い人間じゃないことくらい、最初から分かってたよ」

呆れたように溜息が一つ。年の程は十代半ばであろうに、纏う雰囲気は彼より倍以上生き
ているシークエンドでさえ息を呑む。しかし伊達に年は食っていない。いや、自身を年寄
りなどとはまだまだ思っていないが、やはり立ち直りは早かった。

「へぇ…やっぱりお前を連れてきて正解だったようだな」
「語弊だよ。連れてきただなんて生易しいものじゃないだろ」
「はっ、そういう的を突く所もシェンリィにそっくりだ」

ますます気に入った。そう言ってシークエンドは再び海面を眺める。正しくは、海面に揺
れる松明の灯りだが。

「痛むか?」

妙な沈黙が流れた後突如口を開いた言葉は、シリュウが予想していたものと全く違った。
昼間手酷く打たれた左頬はその後軽く腫れたのだが、サルジュが冷えたタオルや湿布を与
えてくれたおかげで可哀想な顔にならなかったことは確かだ。男の勲章、とは大きくかけ
離れてはいるが、シリュウの左頬には大きな白い湿布が、額には痛々しい包帯が巻かれて
いる。

「大丈夫。手当してもらったし、頬の熱も引いたみたいだから」

そんなことを気にかけられるとは微塵も感じていなかったシリュウは、僅かに二の足を踏
んだように怯むが、それでも平静さを崩す様子は欠片も見当たらない。

「でも痛いだろう?」
「今は痛くない」
「違う。心が」

言葉を言い終えるか否かに遮られた、容赦のない凛とした声に弾かれたように顔を上げ、
シークエンドを凝視する。海面を眺めていたはずのその姿は、いつの間にかこちらを向い
ていた。それに気付かなかった自分自身に舌打ちをしてやりたくなるが、何とか押し留め、
無表情とも言えぬ掴み切れない色を醸し出すシークエンドを、怪訝そうな顔をして探る。
けれど、まだ十数年しか生きていない子供では、倍以上を生きている男の考えていること
など全く以て理解出来なかった。

ハッとまん丸に目を見開いたかと思いきや、胡乱気に目を細める仕草はどう見ても友好的
とは言えない。そんな状態にさせているのはどこのどいつだ、と自分自身に苦笑が漏れる。
勿論、心の中での話だが。

「俺もさ、この色のおかげで散々な目に遭ってきたわけだ。
 お前をあの婆さんから引き離したのは、昔の俺と重ねちまったからなんだろうなぁ」

まるで他人事のようだ。食えぬ笑顔も、掴みそうで掴めない立ち振る舞いも。

「この黒髪を嫌ったことはない。どんな色を足したって変化することのない永遠の色は、
俺にとっては宝石なんかよりずっと価値のあるもので、誇れるものの一つさ」

だが、それでもこの世の半数、いや大多数の人間は黒という色をこの上なく嫌う。もとも
と黒髪の人間は稀少だと言われるこの世界では、負の色と罵られるように気味の悪い対象
でしかないのだろう。魔物を引き寄せる色として定着しているが、今まで生きてきた中で
意図的に魔物を引き寄せたことなど、当たり前だが一度もない。そんな暴言は明らかに自
分たちを正当化するための言いがかりだ。

「海山賊の一員になって俺自身の世界が広がって……俺と同じ様な色を持つ人間を見つけ
 た時は胸が高鳴った。同時に、己の無力さに打ちひしがれたけどな」
「…そういえばここの船員って黒髪に近い人が多いんだね」

神妙な面持ちで語り始めるシークエンドにシリュウは他人事とは思えず、静かに耳を傾け
ていた。おどけた様子のない男の風貌はどこか寂しそうで、相手が敵だということさえ一
瞬忘れそうになる。

「俺が海山賊頭領になったのは初めてシェンリィと出会った十七年前だ。その頃から俺は
それまであった海山賊の好き勝手な方針を改め、俺と志を同じとする仲間を集めた」

欲しいものは力ずくで奪え。盗賊として当たり前とも言えるような主義を掲げた海山賊の
風評はすこぶる悪く、内部で協力者を仰ぎクーデターを起こした。当時の海山賊頭領を討
ち、新たな方針を掲げて再スタートさせたのは、二十歳になるかならない頃の時期。十七
年経っても悪評が流れることは仕方のない。それだけ嫌われるようなことを長年し続けて
きたのだ。弁解するつもりは毛頭ない。

人がこのクーデターの件を耳にすれば、若気の至りだの、衝動に身を任せてだの、と馬鹿
にするかもしれないが、そうではない。この世に生を受け、畏怖される対象として認識し
だした時から既に胸の中に誓った、果てしない野望。

「俺のような境遇の人間を救い出して、俺たちだけの国をつくる」

それが、シークエンド・カルデスが死んでもやり遂げたい望み。全ての人生を投げ打って
でも達成したい…いや、達成しなければならない大きな夢だ。

「生きる目的を、権利を、何の根拠もなしに剥奪され居場所さえ奪われた。それが俺だけ
なのだと思っていた。だがそれは違う。俺と同じように今も苦しんでいる奴らが、俺に
とって兄弟みたいなもんがこの世界で少数でもいるんだと思うと……胸が痛む」
「シークエンド…」

これが、自分よりも年上なのかと思わせるほど、今のシークエンドの姿は弱々しかった。
けれどそれ故に強さを感じる。その意志の強さ、覚悟は並大抵のものではなかろう。シー
クエンドの決心は、世界の大半数を敵に回すようなものと何ら変わらない。このまま表立
った行動をしなければ、シークエンドのほどの力量、性格の男ならば自由気ままに過ごせ
ることは確実だというのに、この男は生涯を自分と同じ境遇を受けた人間のために捧げる
のだと言う。遠い未来を夢見る顔色は、まさに子供そのものだ。

「ここにいる兄弟は、漆黒の髪でなくともその色に近いという理不尽な理由で疎まれ、
蔑まれた奴らさ。俺の方針を受け入れ、俺の夢を共に追いかけてくれる大切な仲間だ」

次第に熱くなってきたのか、生き生きと語り出すシークエンドをシリュウはただ静かに耳
を傾けていた。こんな締まりのない笑みを見て、誰が海山賊の頭領だと思えるだろうか。

「お前を見つけた瞬間は震えが止まらなかったぜ。
まさかこの世で嫌われている色を二つ持つ人間に会えるとは思ってなかったからな」

光の加減で色が変化するのかと思えば、太陽の光に燦々と当てられながらも変化しない色
に驚かされたのは事実だ。生きてきた中で同じ色を持つ人間を、これまで見たことがなか
ったのだから仕方のないことだろう。

まだ親に甘えたって何らおかしくない年の少年は、世の中の汚さを全て知り尽くしたよう
な目をしていた。まるで全てを体験したような、悟ったような真紅の瞳に固唾を飲み込ま
ずにはいられなかった。たとえこの世で気味が悪いのだと言われようとも、漆黒と真紅を
兼ね備える存在は、このちっぽけな世界に恐ろしいほど映えていた。それは一種の芸術品
だ。仮にこの少年を闇市へと売りさばいたとしても、目を剥くような値段がつけられるこ
とはまず間違いない。金持ちは善悪関係なく珍しいものを欲しがる。だから売れる。しか
しそれ故に、この少年の存在は海山賊に必要なのだ。


「俺たちと一緒に来い、シリュウ。お前の力が必要なんだ」


真っ直ぐ下ろされた視線に息を呑む。松明の灯火だけで輝く新緑の瞳は、吸い込まれそう
なほど澄んでいた。目を逸らせないほどの真剣な眼差しに、シリュウは小さく口を開けて
口内に空気を送り込み、音を放つ。

月明かりに僅かに照らされる海面は、静かに揺れていた。










「あんた等シリュウの仲間なんだろ!?頭領も……どうして何も言わないんすか!!」

ダン、と木製の机を力任せに叩く。カップに注がれていた琥珀色の茶が激しく揺れた。

「明日の早朝にはシリュウが連れ去られるんっすよ!?何で悠長に構えられるんすか!」

厳しい表情で、唾が飛散しそうなほど大声を張り上げたグランは、ハーティス港からフィ
ラインのアジトへ戻ってきた者たちを苛立たしげに見回す。声を上げるたびにシスアがび
くりと小さな肩を震わせ、父親のダイオンの足にしがみつく。その柔らかな髪をそっと撫
でながらも、ダイオンは珍しくグランを止めようとはしなかった。止める理由がないのだ。

「どうするシェンリィ」

血の気の多い青年に便乗するように、ダイオンは静かに俯いて両腕を組んでいる頭領を射
るように見据えた。グランの問いに答えようとしなくてもダイオンの言葉には耳を傾ける
のか、ちらりと視線を上げたシェンリィだったがその顔色に覇気は感じられない。

「どうするもこうするも…私は拒まれた」

喉が渇いているわけでもないのに口から出る言葉は全て掠れていた。まだ寝るには早い時
間帯だが、フィライン内はまるで葬式事でも執り行っているかのように奇妙な静寂に包ま
れていた。

シリュウを人質に取られたあの後、町の人たちを落ち着かせ、取りあえずアジトに帰還し
たのだが、いつの間にかフィライン内に事の真実が広まっており、皆複雑そうな表情を浮
かべていた。幻術の出入り口で出迎えてくれたのは、涙を湛えたシスアの姿。稀に見る勘
の鋭さを持つ少女は、シリュウに何かあったということに気付いていたようだった。それ
から緊急会議を開いているのだが、救出する術が見つからず手をこまねいている状態だ。
それ以前にまともに会話に参加しないシェンリィやヒューガ達に痺れを切らし、とうとう
グランがキレたのだが。

「じゃあ、身捨てるって、言うんすか…?」

途方に暮れたような、頼みの綱を一瞬で絶たれ弱気な声を漏らしたグランは今にも泣きそ
うだ。しかし奥歯をグッと噛みしめ、油断すれば滲み出てしまいそうになる涙を堪える。
まさかシェンリィがそんな返答をすると思っていなかったのか、訪ねたダイオンでさえ軽
く瞠目し、次第に眉間に皺を寄せ始めた。苦渋に満ちた表情であることは分かっている。
けれどシェンリィにしては答えを出すのが早い。たとえ可能性が低くとも、僅かな希望に
懸けて前に進み続ける。それが彼女の良さの一つだというのに…。

「朝日が昇るまであとどれくらい時間があるか分かるかい?」
「そうですね、おおよそ七時間ほどでしょう」
「七時間、か」

空に飾られた月の位置を眺め、カインは静かに答える。更に黙り込んだシェンリィを動か
すのは、たとえ古株のダイオンであっても不可能なのだということは空気で読み取った。
隣ではらはらと落ち着きのない様子で椅子に座っているエリーナを見やれば、膝にある両
の手がグッと強く握りこまれる。彼女なりに責任を感じているのだろう。拉致事件の後、
泣き崩れたエリーナを懸命に宥めたものの、彼女が笑顔を取り戻すことはなかった。

今回の件について口を挟む気がないのか、カインは必要最低限の返答しかしていない。グ
ランが憤りを露にするのも理解出来る。しかし喚き散らせば良いというものではないのだ。
人質という名の盾をかざされれば、そう簡単に動くことは出来ない。フィラインが総動員
で海山賊を襲うとなればまた話は違うが、そんなことをして人質が無事でいるのか。

(術がないわけではない)

エリーナからシェンリィに視線を移し、カインは心の中で息を吐く。正直、エリーナさえ
無事であるのならどうでも良いのだが、流石に今回は見過ごすわけにいかない。ここでエ
リーナだけを引きずれて旅を続けたとしても、意気消沈している少女がそれを許すはずが
ないのだ。それに、果敢にも自ら敵地の陣へ足を入れたシリュウの決断に敬意を表する必
要がある。エリーナ至上主義と掲げていても、そこまで非道な人間ではない。

成す術がないわけではない。シークエンドは言っていたではないか、本当に欲しいものを
よく知っているのだろう、と。裏を返せば望むものを与えてやれば済むという話。しかし
あまりにリスクが高い上に、下手をすれば男の欲すもの二つを奪われかねない。

「取引、という割にはこちらが圧倒的に不利ですからね。
貴方は頭領であるからこそ、そう簡単に応じるわけにはいかないのでしょう?」

的を突いたカインの指摘にのろり、と緩慢な動きで頭を持ち上げる。その言葉は、シリュ
ウがこちらを拒んだ台詞と同様のものだ。

「シリュウ君の判断は懸命です。貴女は頭領で彼は貴女の部下。
窮地に立たされた時、誰が犠牲にならなければいけないのか、ちゃんと分かっている」

統率者が抜けるわけにはいかない。そんなことをすれば、組織が崩れていく日はそう遠く
ない。シリュウの決断は間違っていない。もし仮に、シリュウでない他のフィラインが同
じ状態に遭っても、シリュウと同じことを言っただろう。

「で、も…」

ぐうの音さえ出ないシェンリィは苦々しく顔を歪めると、軽くカインを睨みつけて視線を
逸らす。重苦しい沈黙が流れた後、遠慮気味な、泣きだしそうなほど揺れた声がカインの
耳を過る。その声の主が隣にいる少女のものだと気付くのに時間はかからない。

「シリュウ、寂しそうだったわ」

俯いたまま下唇を噛みしめる姿は何と儚いものであろうか。小刻みに震える肩は華奢で、
昼間町の人々を引率した者とは思えぬほど小さく縮こまっている。スカートの裾は泥で汚
れ、揉みくちゃにされたせいか全体的に皺が寄っている。普段の彼女ならば身だしなみが
乱れた時点で喚きそうなものなのだが、今はここにいない想い人の姿を思い出すことで必
死のようだ。自分のせいでシリュウが敵の手に渡ってしまったことに罪悪感を抱いている
のか、いつものような活発な発言は見当たらない。

―――怖い思いをさせてごめん

意志の強い瞳がほんの少し揺れたことを、間近で見ていたエリーナは知っていた。自分に
力がなかったから、無力であったからこそ招いた事態にただ涙を流し、声を張り上げるし
かなかった。子供のように喚き、止めようとするカインへきっと知らず知らずのうちに酷
い言葉を吐いていたのかもしれない。掴もうと思えば掴める距離だったというのに、あの
時駄々をこね続けてシリュウの腕にしがみついていれば、もしかすれば現状は変わってい
たのかも知れないと思うと。

「ごめん、なさい。ごめんな、さい」

徐々に霞みだす世界。すん、と鳴る鼻。目頭が熱くて、音をたてて一粒ずつ熱い涙が零れ
落ちる。途端に誰かが慌てだし、とうとう泣き出してしまったエリーナを見て焦り出す。
皆の視線を全身に浴びている羞恥心はとうに超え、今はシリュウの言葉が何度も頭の中を
駆け巡り、一向に消え去る様子はない。己の失態にただ悲しみが溢れ、今シリュウが無事
なのかどうかさえ分からないという事実に打ちひしがれるしかなかった。

――――ガシャンッ

カインが本格的に泣きだしたエリーナを宥めようとその肩に触れた瞬間。白い何かが弧を
描くように宙を舞い、重力がある世界で勿論途中で勢いを無くして床へ落下する。陶器が
割れる音とともに中身の琥珀色の液体が四方へ飛び散り、割れた破片は一番隅にまで飛ぶ
ものもあった。それほど大きな音ではなかったはずなのに、派手に聞こえたのは何故なの
だろうか。

「―――策がないのなら正面から向かえばいい」

シン、と静まり返った部屋の空気を裂いた低い声の主は、コップを投げたヒューガだった。

「ヒューガ…?」

訝しげに目を細めたカインは警戒心を露にして表情の読めない男を見据える。肌を刺すよ
うなぴりぴりとした雰囲気に皆が固唾を飲み込んだ。お世辞にもこのメンバーを相手にし
て社交的と言えないヒューガは、シリュウが人質に取られてから一言も喋ろうとしていな
かった。不審だと感じていた。あれだけシリュウに懐いていたというのに、戻ってきてか
らもだんまりを決め込んでいた姿に。悲しみに暮れるわけでもなく、怒り心頭になったわ
けでもなく。延々と無表情であったそれは空気が薄れるほど、存在感がなかった。だがそ
れ以上にカインには恐ろしいものだと警戒を怠らなかった。その結果、今に至る。カイン
の勘は外れていなかった。

「俺が行く。あの野郎を殺せば終わりだ」
「おいちょっと待て、頭を冷やせ。そんなことをすればヒューガが…」
「うるせぇ。傷つけられる前に殺せばいいだけの話だろうが」

ダイオンの制止を遮り、ヒューガは机に置いていた己の剣を持ち、テントから出ようとす
る。だがそれを止めようとヒューガの前に立ちはだかる者が一人。

「どけ」
「ダメです〜!行っちゃダメですヒューガさん〜!!」

首がもげるかもしれないと思わせるほど何度も大きく頭を振ったシスアは、テントの入口
に立ち、ヒューガが出ようとするのを防ごうとする。しかし図体の大きさがその果敢な行
為を邪魔するのだ。

「ダメったらダメなんです〜!!」
「おい、お前の娘を斬られたくなかったらこいつをどかせ」
「シリュウちゃんは大丈夫です〜っ、今動いちゃダメなんです〜!」

シリュウ、という言葉にぴくりと反応したヒューガは疑わしげに視線を下ろす。見上げて
いるシスアからすれば睨まれているも同然なのだが、グランの叫び声には涙を浮かべてさ
えいたというのに、どうしてなのか今は強気だ。泣きだすどころか、意地でもここを通さ
ないと言わんばかりにヒューガの足にくっついている。これがもしエリーナであったり他
の人間であったりしたのなら、容赦なく蹴り上げることは確実だ。

「…その根拠はどこにあんだ」

第一声を放った時よりも何割か増して声が低い。シスアほどの年代の子供なら泣き出して
逃げて行きそうなほどの殺気が含まれているのにもかかわらず、シスアは視線を逸らすど
ころかヒューガの青い瞳をジッと見つめ返している。それに負けたヒューガは、舌打ちを
しながら視線をずらした。どこかシリュウ似た真っ直ぐな瞳は苦手だった。

「根拠はないです〜。でもシリュウちゃんは無事です〜、分かるんです〜」

梃子でも動く気はないのか、更にしがみつく力が強くなる。二人の言動を茫然と見つめて
いた取り残されたメンバーは、力強く言い切ったシスアの言葉にハッと我に返る。

「…そう。シスア、分かるんだね」

意味深に頷いたシェンリィは疲れたように微笑んだ。そして椅子から立ち上がり、懸命に
ヒューガを押し戻そうとするシスアへ近づき、そっと頭を撫でた。気持ち良さそうに、猫
のように目を細めたシスアの表情はとても穏やかである。

「この子の勘はよく当たる。勘だからといって馬鹿にすんじゃないよ」

年上と言っても頭一つ分は背の高いヒューガを見上げる行為は実に癪だった。それでもち
らり、視線を流せば、またしても一つ舌打ちが響き、苛立ちを隠すこともなくあからさま
に視線を逸らした。未だ納得しきれていないのか、今にも抜刀しそうな勢いは鎮まってい
ない。全員の視線が鬱陶しいのか、振り返りざまにエリーナをギロリと睨みつける。相手
によって温度差があることは、この中にいる全員が分かっていることであった。

足にしがみつく少女を見下ろす。彼女もまたこちらをジッと見つめたまま微動だにしてお
らず、自然と視線が交わった。

「………取りあえず今は動かねぇ。分かったらさっさとどけ」
「…シリュウちゃんは大丈夫ですよ〜?」
「分かった。分かったからどけ、鬱陶しい」

大袈裟なほど大きな溜息を一つ。肺にある酸素がなくなるほど長く息を吐けば、自分の頭
をガシガシと掻き、諦めた様子でシスアがどくように示唆する。殺気が失せたことと本当
に断念した様子を幼きながらも感じ取ったのか、幾分かホッとした顔つきでするすると小
さな腕を解く。離れた途端、その小さな手にどれだけの力があったのか、と思わせるほど
力強かったのをヒューガは身をもって体感し感嘆した。

この面子の中で最年少で最も非力であるが、誰より芯が強いのはこの子供なのだと。だか
ら苦手だった。心の強さを見せつけられ、ここにはいない黒髪の少年を思い起こしてしま
うから。

「とにかく皆落ち着け。正面突破も不可能じゃあないが、
あのシークエンドは相当の手慣れの者だ。そう簡単に屈するわけがない」

娘のピンチにさえも臆することなかったダイオンは静かに口を開く。心ここにあらず、の
シェンリィに任せていては埒が明かないと判断したのか、その口調はいつものような陽気
さは微塵も感じられない。年長者としての威厳だけがそこにはあった。

「おい」

再び重苦しい雰囲気が漂い始めた刹那。先ほどよりは随分と明るくなった声に反応したシ
ェンリィは、声の主を見据えた。そこにいるのは、椅子にも座らず仁王立ちしているヒュ
ーガであった。不機嫌面は相変わらず健在で、言いたいことが山ほどあるのか眉間に皺が
寄りっぱなしだ。シスアでない子供が彼を一見すれば、火がついたように泣き出すのだろ
う。

「なんだい」

一癖も二癖もある得体の知れない男とどうして仲間になったのか。ここにシリュウがいれ
ばヒューガの問いは無視して真っ先にシリュウに問いただしただろう。頭領として仕事を
しているせいか、色んな性癖の人間を見てきたがヒューガはそれらを上回るほど性質の悪
い人間だとシェンリィは判断している。好き好んで近づきたい相手ではない。

「お前が期限前になっても答えを出さなかったら、俺は単独で動く。…文句は言わせねぇ」

たとえ再びシスアの妨げがあったとしても、今度は本気なのだろう。斬り殺してでも敵地
へ向かうと、その瞳が語っている。どんなに正体で不明であろうが、どうしてシリュウ以
外に懐かないのか。聞きたいことは山ほどある。けれど青い瞳は訴えていた、容赦しない
と。仮にこの男がその鞘から剣を抜けば、全員でかかっても苦しくなるだろうとシェンリ
ィは既に頭の中でシミュレーションしている。普段隠している気配を感じ取っていたから
だ。それは本当に微弱なもので、シスアほどでなくとも並の人間より数倍勘の良いシリュ
ウでさえ、この禍々しい気配には気付いていない。不審がる点は幾つか見つけだしている
のだろうが、構えるほどではないだろうと自己完結している。今の所危害を加えるような
雰囲気は醸し出していないが、もし男の要求が断ち切られた場合…。

(斬る。何の躊躇いもなく)

静かに怒りを見せる瞳を見つめ返し、シェンリィは背中に伝い落ちる冷たいものを感じ取
る。ごくりと喉が鳴った。それでも不自然に渇いた喉は潤うことはない。僅かに動転して
いることを隠すように、自分用に注がれた茶を一気に飲み干した。湯気の立っていたはず
の茶は、いつの間にか冷たくなっていた。




―――ねえ、どうしてあんたは泣こうとしないんだい?
―――あんたが逃げたって、誰も咎めたりしないんだよ?


心配する大人を余所に、子供はほんの少し目を細め答えた。


―――貴女は、優しいんですね。


あんたほど優しくて馬鹿みたいに真っ直ぐ過ぐで不器用な人間を、見たことないんだよ。

シリュウ。








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