● 唐紅の記憶  ●



霜が降りそうなほど冷えた空気が肌を刺す。芯から凍えそうなほど寒い冷気は、一面を霧
で覆い隠し、太陽の光さえ射し込ませようとはしない。日の光を浴びるには、この濃霧が
晴れるまで待つしかないだろう。四方から鳥たちのさえずりが聞こえてはくるが、一体ど
の木々に止まっているかは予測がつかない。

たぷたぷと揺れる海面。肉眼でははっきりと捉えることは出来ないが、ハーティス港には
幾つもの船が停泊していた。漁船から始まり、豪華客船に終わる。ここ一帯の領域を確保
しているハーティス港は、すぐ傍が海辺であることだけあって海産物という資源には大変
恵まれている。おまけに背後には鉱山があるのだから、この土地が枯れることは早々ない
だろう。その他にも遥か遠い地の商業船も迎え入れているため、ハーティス港のみならず、
この大陸全土が潤っていた。物々に恵まれ、商業を生業にしやすいこの地域には年中問わ
ず多くの船が行き来していたのである。

が、その順調さは昨日の事件が起こるまでの話だ。今ここに残っている船のほとんどは、
悪名高いと噂される海山賊の暴挙によって、移動の制限を余儀なくされていた。この時間
帯ならば既に多くの漁船が海へと赴いて行くのであろうが、波止場には人っ子一人見当た
らない。それどころか妙に静かで、心なしか海鳥たちの気配も普段より少ない。

そんな中、軽快な足音とともに霧の中から現れる複数の影が、躊躇いなく波止場に向かう。
よくよく見てみれば随分と大所帯のような気もしないでもないが、生憎ここには一人も
出歩いている者がいないおかげで、不審な目を向けられることはない。


「来てやったよ、シークエンド」


鬱陶しげに掻き揚げた前髪が海風に揺れる。どこか威圧感を感じさせるような態度に、
ハーティス港より少し離れた海面で漂っている巨大な船にいた人影は、にやりと薄ら笑み
を浮かべる。手を上げ、合図を出すと同時に波止場に近づけられる船は、ゆっくりとタラ
ップを降ろす。乗組員の一人が安全性を確認すると、全身黒づくめの男がしっかりとした
足取りで地表に降り立った。


「ようこそシェンリィ、我がアジトへ」






第19話 『合流と出港』






「ひーふーみー……ああ?随分とお付きの人数が多いなぁシェンリィ」
「あんたのせいで港の人間が怯えて、この子たちに船を出してくれそうにないんだよ。
 その分は責任取ってもらうからね。タダで目的地にちゃんと送ってやんな」

多少の荷を持参したシェンリィの後ろに見える影に訝しげに眉をひそめたシークエンドは、
胡乱気に視線をシェンリィに戻す。

「ええ。貴方の馬鹿げた行いのせいで我々の安全な旅が見事にぶち壊されましたから」

早朝にも関わらず爽やかな笑顔を向けたカインであったが、その腹の奥底では恐ろしい事
を吐いているに違いない。彼の目は、そう言っていた。バックに花が舞っているようだな
んて、とんでもない。その背後に佇むものはゴロツキより性質の悪い…そう、阿修羅だ。

「おーおー。これはまた腹に一物も二物も抱えてそうな野郎だな」
「はははは。お褒めいただき大変光栄ですよ」
「は、ハイレベルな戦いっす……」

一癖二癖あるカインの性格は、やはりフィライン内でも厄介であった。親切丁寧な話し方
であり、物腰も柔らかで人畜無害そうな笑みを常に称えているが、本性を知ってしまうと
その姿は全て嘘の塊に見えてしまうのだから不思議なものだ。知らぬが仏、とはよく言っ
たものだが、カインの場合エリーナ以外の人間ならば嫌でもすぐに気が付いてしまう。知
らぬ振りが最も楽な方法であるのだろうが、彼の場合この戦法は通用しない。

「し、シリュウは無事なの!?」

目もとが笑っていないカインの背中にぴっとりとくっついたまま、己の身長を優に超えて
いる長身の男を睨みつけたのは、空気が読めているのか読めているのか微妙なところのエ
リーナだ。しかしシークエンドとカインの渦を巻いたような重苦しい空気を掻き消したこ
とは事実であるので、その辺りは称賛に値するだろう。

「そんな剣幕で怒ると眉間に皺が寄っちゃうぜ?可愛い顔が台無しだ」
「ああ貴方はそれ以上近づかないでくださいねお嬢様が穢れてしまわれますから」

犬猫でも撫でようかとシークエンドが近づいた刹那。間髪入れずに一息でそれを阻止した
カインが立ちはだかる。腰に下げた剣の柄に手をかけている姿を見せているのは勿論意識
的にだ。あからさまな牽制である。

「……分かった。他でもないシェンリィの頼みだ。
未来の妻の要望の一つや二つを叶えられないようじゃあ夫とは言えないからな」
「はぁ…あんたの頭の中にはそれしかないのかい?」

呆れた言い草で肩を落としたシェンリィは、相手に何を言っても無駄だということが改め
て理解したのか、深く追求するつもりはないようだ。この男は一度言ってしまったことを
撤回することはないだろう。

「お前らが心配している兄弟は無事さ。……な、シリュウ」

今にも噛みつきそうなほど剣呑な表情であるエリーナは、話が流されそうになったことが
不服なのか、片方の頬を膨らませて不満な様子を訴えている。だからといってシークエン
ドに立ち向かおうとすることはない。一度捕まり、痛い目を見ているからだ。ここで身勝
手な行動を取れば迷惑がかかるということをエリーナなりに理解しているようだ。

懐かないエリーナに肩をすくませたシークエンドは、ふと甲板の方を仰ぎ見る。あの場所
には出港するために準備をしている乗組員たちがせっせと働いているはずだ。

「―――え、なに?」

…の、はずなのだが。

ひょい、と体を乗り出して地上を見下ろす黒一色の影。よくよく見てみれば、その双眸は
夕焼けよりも赤い。霧のせいでぼやけているが、間違いなく現れた姿は見慣れた者。何故
か肩に背負っているしめ縄に似た太いものは、明らかに他の乗組員が運んでいるものと同
様のものだ。服装自体は変わってはいないが、いつも両手に付けている手袋は脱ぎ捨てら
れ、あまり日に焼けていない白い腕が重そうな縄を支えている。

「シリュウ!」

視界に現れた姿に安堵の溜息が周囲から零れる。しかし、予想していた姿と大きくかけ離
れていたせいか、数名ほど顔を引き攣らせている者もいる。それもそうだろう。何せ心配
の種のシリュウが、シークエンドの部下よろしく甲板を駆け回り、比較的にこやかに出港
の準備に勤しんでいるのだから。……何をやっているんだあれは、と言いたげに凝視する
姿を責めるものなど、誰もいない。

「―――無事、だったか」

その中で最も表情を和らげたものが一人。それまで表情らしい表情一つさえ浮かべていな
かった顔が、一気に緩む。けれど微笑むとは程遠い、僅かな変化ではあるが、シリュウで
はなくヒューガをジッと見つめていた少女、シスアは気付いていた。父親であるダイオン
の手を握り締めながら、波止場にいる面子をゆっくり、だが確実にじっくりと一人ずつの
表情を伺っている。表面上ではなく、当人の中身を透かして見ているかのように。

「シークエンド、弾薬が入った積荷は地下倉庫に置けばいいんだっけ?」
「そうそう。いやー、ほんとお前がいると助かる。器用な男は得だねぇ」

にやにやと口端を上げたシークエンドは、まるで自分の事を喜ぶかのように大きく頷く。
その返答に幾分か嫌そうな表情を浮かべたシリュウであったが、シークエンドの周りに見
える幾つもの影のうち、ある一点を捉えると珍しく瞠目する。凝視している先に見えるも
のは、エリーナでなければヒューガでもない。自らが所属していた、フィラインの頭領の
姿である。

「し、しょう…」

何故、彼女がここにいるのか。来てはいけないと、確かに伝えたはず。頭領であり師匠で
ある彼女、シェンリィが鈍いわけがない。言葉の意味を汲み取って、嫌でも理解したはず
だ。エリーナやカイン達がここに来ることはある程度予想はしていたが、まさか彼女まで
ここにやってくるなど、シリュウは少しも思っていなかった。

「何で、来たんですか」

突き放した言葉は重く、彼女を、ましてや自分自身でさえ辛いというのに。

「言ったじゃないですか、貴女にとって何が有益であり優先すべきかって。
 それなのに、どうして頭領自らが敵陣に入り込もうとしているんですか」

捲くし立てるように言葉を連ねるシリュウは珍しい。子供のくせに大人ぶったような雰囲
気を醸し出しているいつもの姿は微塵も感じられない。そこにあるものは、突然の事態に
どうすれば良いのか分からなくなり、子供のように慌てふためく姿があるのみ。虚を衝い
たことにより現れたシリュウの素がさらけ出されていた。心なしか眉は下がり、語尾は弱々
しく萎んでいる。普段の姿を知っている者ならば、到底考えられないものだ。

「…確かにあんたは昨日言ったね。何が有益か。何を優先すべきか」

腕を組み、片足を軸にするような姿勢を取る姿はシークエンドと対峙していた時とは大き
く違う。上を見上げている形になっているにも関わらず、威圧感がある様子は相変わらず
ではあるが、目を細め、諭すような言葉使いはさながら母親のように偉大だ。ぎくりと肩
を震わせたシリュウは、唾を飲み込み喉の渇きを潤した。

霧が晴れる。東から昇る太陽が力を増したのか、それとも気温の変化か。良く見えなかっ
た視界が一気に鮮明になり、互いの顔色がくっきりと伺えるほどの光が射し込む。空を仰
げば、雲一つない晴天。風も穏やかで、海鳥たちが気持ち良さそうに何の障害のない世界
を飛び交っている。後ろからちらほらと感じる気配は、町の人間がこちらの様子を家屋か
ら覗いているものだ。どうやら干渉する気は微塵もないようで、傍観に徹している。

「一晩、じっくり考えたさ。私にとって、フィラインにとって何が大事なのかを」

言葉とは裏腹に寂しそうな笑みを浮かべたシェンリィは、戸惑いを隠せないでいるシリュ
ウを真っ直ぐ見据える。まるで、逸らすことは許さないと言わんばかりに力強い眼差しで。

「だけどさ、何時間悩んでもそこら中歩き回ってあれこれ考えても、答えは同じ」

お手上げだ、と言いたげに肩を竦めて見せたシェンリィは、困ったような表情のまま硬直
しているシリュウにそっと微笑む。

「あんたが欠けることは、私らフィラインにとって大きな損失になるんだよ」

逃げる術は知っていても、現実から目を背ける方法を知っていても、子供は立ち止まらな
い。常に前を進み、掴みそうで掴めない所からこちらを時折振り返るだけで、伸ばした手
を取ろうとはしない。独りでいることを当然とし、他者に寄り掛かるという行いを拒み続
けてきたその背は、決して広くはない。背伸びをして大人の中へ入り込み、だがその存在
を悟られぬよう身を潜めながら耳をそばだてている。

その姿を、今よりもっと幼い時から見ていた。無理やりその腕を取って、子供と同じ年代
の中へ放り投げても、子供はその中で自らを異端とし、再び大人の輪へと戻ってくる。け
れど勿論誰の手も握ろうとしない。子供の手は、まるで自身を戒めるように握り拳を作り
続けたまま、緩むことはない。そんな子供が大切で愛しくて、いつから目を離せなくなっ
たか。同時に傍にいることが当り前で、この腕から離れて行くなどと、現実を突き付けら
れるまで気がつかなかったというのに。

「あんたは気付いていないんだろうけど」

時折見せるはにかんだような笑顔も、困ったようなあどけない表情も。子供をフィライン
に連れてきたことは決して間違いではなかったのだと。

「私らフィラインにとって、あんたっていう存在はちっぽけなものじゃないんだよ」

長く居座ろうとせず、腰を上げて行く先に何があるのかは分からない。何を求めているの
かさえ、それは本人も気付いていないのかもしれない。無意識に手探りで追い求めるもの
は。真っ直ぐ見詰める、虚無の世界は。

この手から零れ落ちてしまいそうになる感覚。それは浮遊感にも似た、安定のない移ろい
だ心。ここで手離してしまえば二度と会い見えることのないだろうという、断定に近い予
想が頭をちらつかせる。その腕を確かに取って、離さないと言わんばかりに寄り添って。
子供は、すぐにすり抜けてしまうから。ほんの少し悲しそうに一笑して。

「―――逃がしはしないよ、シリュウ」

あんたは、私の弟子。子供同然のような、姉弟のような家族。その絆が深いということは
一番理解している。自惚れでも何でもない、確信。道を間違えそうになった時、独りで痛
みを堪えている時に言ってやろう、馬鹿だね、と。そうしてその背を叩いて、表情筋を目
一杯活用して、天に飾られた太陽よりも強く、優しく、笑ってあげるのだ。

「…………」
「愛されているなぁ。チッ、兄弟じゃなかったら嫉妬で一つや二つの小言が吐けたのに」

ぽかんと口を開けたまま言葉を失っているシリュウに対し、シェンリィの台詞に嫉妬の炎
を抱いているシークエンドは意味もなくその場で数回地団太を踏む。ガシガシと黒いバン
ダナ越しに頭を掻き悶えている姿は、やはり海山賊の頭領とは到底思えない。

「それじゃあ、あんたたち後は頼んだよ」

言いたいことを言い切って清々したのか、ダイオンやグランの方へと振り返ったシェンリ
ィの表情は思いのほか晴れやかだった。その姿に思わず呆気に取られたのか、シリュウ同
様数名のフィラインは目を見開いたまま瞬きの運動を一瞬忘れた。その中で微笑んでいる
シスアが妙に浮いている。

「頼んだって…頭領、いつ帰ってくるんすか?」
「さあ。年内に帰れるよう努力はするつもりさ」
「おいおい、そんなに頭領の座を空けあられるとその内誰かに乗っ取られるんじゃ…」
「はっ、やれるもんならやってみな。
帰ってきた暁には嫁、婿に行けないような身体にしてあげるから」
「………頭領が言うと冗談に聞こえないから性質悪いっす」
「馬鹿だね、本気に決まってるじゃないか」
「尚更性質が悪いっす!!」

顔を真っ青にしてぎゃんぎゃん吠えるグランににやり、と一笑したシェンリィは一つ息を
吐くと幾分か背の低いグランの頭を、勢いよく撫でつける。突然の行為に短く悲鳴を漏ら
したグランであったが、何も口を挟まない。ただされるがまま、大人しく受け入れている。

「お袋と親父がいるからそうそう不祥事は起こらないと思うけど……その時は頼んだよ」

代々フィラインの頭領として君臨しているシェンリィの家系には、隠居した父母がいる。
隠居と言っても二人ともまだ五十を少し超えたほどでぴんぴんしているが、頭領の座を娘
に託したのち、フィライン内への事情に口出しすることはなくなった。現在は前頭領とし
て、また一フィラインとして活動している。隠居をしたくせに情報収集という前線に出て
いる所が不安な種でもあるのだが、彼らの実力は現頭領であるシェンリィさえ舌を巻くほ
ど。フィラインのオカン、と称される彼女でさえ実の親には頭が上がらない。つまり、現
頭領が不在な今、確かに乗っ取るチャンスではあるのだが、第一の壁が彼女の親という、
へっぴり腰になりそうな障害が待ち受けているのだ。

「ま、任せてくださいっす!俺やダイオンさんがいれば百人力っすから!!」
「お前の代わりにはなれんだろうが、何とかしていくさ。親御さんと協力して、な」
「ああ……シスアも、大変だろうけど」
「はい〜任せてくださいです〜。シスアは幻術をしっかりマスターします〜」

それ以上マスターする必要はないだろうに、と苦笑したシェンリィは、再び少ない荷を担
ぎ直し、巨大な船のタラップへ足をかける。さりげなく腰に手を回すシークエンドの脇腹
に正義の裏鉄拳を食らわせることも忘れず。手加減の欠片もないそれにのたうち回る姿は
何とも情けない姿であった。

「薄汚い船に足を入れることは大変癪ではありますが、仕方がありませんね」
「う、薄汚いとは、失礼だな、この野郎」

それなりのダメージを伴ったせいか、言葉は所々掠れている。たとえこの男とシェンリィ
が無事に夫婦となったとしても、尻に敷かれてしまうことは簡単に予想がつく。どれだけ
格好良い姿を見せたとしても、シェンリィの手にかかればあっという間に打ち砕いてしま
うのだから、男としては複雑なものだろう。

そんなことをつらつらと考え耽っているカインは、エリーナの手を取って転ばぬよう細心
の注意を払いながらタラップの坂を歩き続ける。暫くは海の旅かと思うと大変気が重い。
海は陸地と違い安定性がない上、もし嵐に巻き込まれでもすれば、流石のカインでも命を
張ってエリーナを守り切れるか正直自信がない。次の陸地までどれほど時間を費やすのか
定かではないが、今広がる晴天がこれからも続けば良いと切に願う。

「シリュウーーーっ!!」
「う、わ。エリーナ?」

視線を戻せば、ようやく近距離で感じることが出来る黒い塊に飛びついたエリーナの姿が。
何とか倒れることは免れたようだが、驚きのあまり目を白黒させている。感動の再会と言
ってもたった一日しか離れていなかったのだが…なんてことを言えばエリーナが激怒する
ことを知っているので、心の中でしか呟かない。


「世話になったな」

エリーナの声がここまで聞こえたかと思うと、途端呆れたように溜息を一つ吐いたヒュー
ガがダイオンやグランたちの方へと振り返る。最後の一人、ヒューガがタラップを上りき
れば、この船は大海原へと出港するだろう。

「いや、こっちこそ余計なことに巻き込んですまなかったな」

昨日からずっと不機嫌そうな面だったヒューガからそんな言葉を受けるとは思っていなか
ったのか、少し間を開けてダイオンが微笑む。それ以上残す言葉もないのか、小さく頷い
たヒューガがタラップに足をかけようとした瞬間。



「―――ヒューガさんはずっと立ち止まり続けるんですか〜?」



背を向けたヒューガが、勢いよく振り返る。その眼は、信じられないと言わんばかりに瞠
目しており、まるで化け物を見るかのように怯えているようでもあった。

「お、ま……」
「おーい、早く乗ってくれないかー?あとはあんただけなんだよー」

乾いた唇が言葉を放とうとした時、頭上から急かすような声が一つ。それに気を取られ、
再び視線を泳がせれば、そこにいる者は最年少の少女。幻術を駆使する少女。間延びする
話し方に脱力感を感じずにはいられなくなるが、それ以外では何の変哲もない少女だった。
先ほどの言葉を、無邪気に言われるまでは。

「ああ気にすんな。時々変なこと言うんだよなシスアは」
「はい〜、皆さんお元気で〜」

ぽんぽん、と大きな手で頭を撫でられているシスアの姿は至って普通の子供。意味深な台
詞を吐いたあととは思えない、屈託のない笑顔。

「あ、ああ…」

たじろぐ姿を隠す余裕などどこにもない。ただ促されるままに足を進め、船へと乗り込む。
その坂がまるで延々と続いているようなほど、険しい道のりだった。思わず自嘲せずには
いられない。何を戸惑っているのかと、と。迷うことなど何もないだろうに。

「ヒューガ」

ホッとしたような、安堵感に溢れる表情を浮かべたシリュウが迎える。一日ぶりだという
のに数日間離れていたような感覚に襲われるのは何故だろう。無事な姿を生で見ることが
出来て、ようやくそこで本当の笑みが零れる。

「ったく、心配かけてんじゃねーよ」
「うん。ごめん」

短い会話を交わしているうちに、出港の合図がシークエンドから出される。帆が上がり、
一層乗組員たちの慌ただしさが伝わる。よく駆け回る甲板に集まっていても邪魔になるだ
ろうと、場所を変えようとした瞬間、陸地から怒鳴り声にも似た声がシリュウの耳朶を響
かせる。ゆっくり進みだした船は動きを更に速める。どんどん港から離れそうになるにも
かかわらず聞こえる声を追うように、シリュウは最後尾へと駆ける。

「シリュウ!絶対、絶対帰ってこいよなーーーっ!!」

波止場のぎりぎりまで全力疾走で走ったのか、叫ぶグランの頬は赤い。呼吸は乱れている
が、それでも精一杯声を張り上げる。

「俺たちずっと待ってるから!頭領と一緒に、絶対に帰って来いよ!!」

全身で大きく手を振り、段々小さくなる船に向かって声帯が痛みそうになるにも関わらず
叫び続ける。グランの後ろには、数人のフィラインが同じ様に手を振っていた。

「………っ!」

喉が熱い。込み上げるものの正体を知っていたから、声を張り上げられない。だから懸命
に、この想いが伝わるように。小さくなる影に向かって、必死に手を振る。今生の別れで
もないはずなのに、どうして視界が滲みそうになるのか。油断してしまえば堪えていたも
のが溢れ出てしまいそうだった。

大海原へと船は進む。そのマストに掲げられた漆黒の旗を海風によってはためかせながら。
そうしてシリュウ達は、晴天の中紺碧の海へと旅立っていった。






Copyright (c) 2008 rio All rights reserved.