● 唐紅の記憶  ●



きらきらと光る海面から時折魚が飛び跳ねる。その瞬間を逃さぬと言わんばかりに急降下
してきた海鳥が口ばしを凶器に変え、色の白い胴体の部分を加えて空へと舞い上がる。
飛び散った飛沫が太陽の光によって反射し、思わず目を細めた。静かな海原を航海する船
のマストの先には、黒々とした旗が一つ揺らめいている。視線を下ろせば、それと同じ色
のバンダナを巻いた乗組員たちの姿がちらほら映る。彼らの髪の色や目も、全く同じでな
くとも限りなく黒に近い色を持つ者が忙しく動いていた。

「風が気持ちいいなぁ」

潮風が鼻孔をくすぐり、あまりの陽気に眠気さえ誘われる天候に欠伸を噛み殺さずにはい
られない。日差しの温もりが木製の船にも伝わっているせいか、甲板も手すりも人肌のよ
うに温かい。寄り添って眠ってしまいたくなる衝動を堪え、目を擦る。与えられた林檎を
頬張りながら、シリュウは快速に進む船の上で大きく伸びをする。驚くほど快適な船旅に
表情が緩まずにはいられない。


「うっ、ぐ、おぇぇぇぇ」


隣にいる、船酔いがいなければ。





第20話 『水面上での襲撃』





顔面蒼白で口元を押さえ座り込んでいる者は、大の大人。それも男だ。

「まさかあんたが船に弱いだなんて…思わなかったよ」

憐れむような視線を送りながらその背を擦るシリュウは、脂汗を掻いているその額にそっ
とハンカチを添える。どうやら見た目以上に辛いらしい。

「う、るせぇ」

短く反論を返すも、語尾が小さく聞き取りづらい。一面に広がる空の色より、潮の香りが
する海面の色に近い髪を持つ男ヒューガは、ずるずるとその場に座り込んでいる。帆のお
かげで日陰にいるのだが、その顔色は蒼白だ。日光を直射させるのもいかがなものかと思
い、率先して涼しい場所へ連れてきたのだが、一向に体調は悪い方向へ傾いていた。

「ああほら、俯いてたら尚更吐き気がするだろ」

甲斐甲斐しく看病するシリュウと言えば、かじりかけの林檎を置き、先ほどシークエンド
に頼んで手配してもらった酔い止めの薬をヒューガへと差し出す。その間に借りた扇で風
を送り、少しでも楽になるようとするがいまいち効果はない。

「く、そ…」
「何だっけ、柑橘類とか卵料理は食べない方が良いんだったかな」
「ぐっ…今食い物のはな、しは…すんじゃねぇ」
「あ、ごめん」

シリュウの何気ない言葉にウッと口元を押さえたヒューガは恨めしそうにシリュウを睨む。
確かに、こんな時に飲食云々の話は気分が悪くなるだろう。そろそろ正午になるので、船
の台所から嫌でも漂う昼食の匂いがヒューガを更に窮地へと追い込む。吐いてしまえば楽
になるだろうに、吐かないのは彼のプライドなのか、それとも吐こうにも吐けない理由が
あるのか。それは定かではないが、かれこれ小一時間ほどこの状態が続いているせいで、
ヒューガの瞳はどこか虚ろになりつつある。ある意味、末期症状だ。

「こんなところにいないでさ、部屋に戻って休んでた方が…」
「四方八方敵だらけの船、で…そう簡単、に背中見せられる、かよ」
「師匠がいる間は、安全は保障されてると思うけど」

青い顔は相変わらずだが、空気が凍りそうになるほど剣呑に目を細めたヒューガにシリュ
ウは呆れたように溜息を一つ。海山賊の本拠地に乗り込んでから警戒心を一向に解かない
人物が二人ばかしほど。その一人が言わずもがな、エリーナの守役カイン。そしてもう一
人が……。

「シークエンドは悪い人間じゃないよ、ヒューガ」

乗組員には目を向けないくせに、海山賊の若き頭領、漆黒の髪を持つシークエンドに敵意
を剥き出しにしているヒューガは、鉢会わせにでもなれば今にも剣を抜きだしてしまいそ
うなほどの険悪な雰囲気が流れるのだから、そのストッパー役が必要なわけで。

「勧誘されてる、お前、が…油断してっから……」

危機感のないシリュウの台詞に盛大に溜息を吐いたヒューガだったが、その瞬間再び嘔吐
感が襲いかかる。青白い顔を更に青くさせ、不自然に黙りこめば会話は当然打ち切られる。
苦笑を洩らし、何度もその背を擦る。薬が効き始めるまで暫し時間を要するだろう。それ
までの辛抱だ、と言い聞かせるが、やはりヒューガの表情に覇気が戻る様子は見受けられ
なかった。

一触即発、と言ってもそれは片方だけなのだが、その第一場面に不幸にも出くわしたシェ
ンリィが一度はヒューガとシークエンドを止めたのだが、何度注意しても話を聞かないヒ
ューガに呆れ返り、その後不幸にもたまたま通りかかったシリュウに任せたのだ。

「っていうかさ、船酔いしてる奴が喧嘩売ろうとするなよな」

最初の勢いはどこへやら。不安定な船の揺れに徐々に顔色を悪くしていったヒューガが崩
れこむまでそう時間はかからなかった。その時のぽかんとした、シークエンドの間抜け面
はまさに見物だった。結局大笑いされ、船全体にヒューガの船酔い情報が溢れ返ってしま
っているのだが、今のところ馬鹿にしに来た者は、昼間の太陽の爽やかさに負けないほど
眩しい笑顔を湛えたカインだけだ。その現場を目撃してしまった可哀想な乗組員たちが、
弱りきったヒューガに同情の視線を送るほど、カインの台詞は凄まじかったらしい。

シリュウの正論にぐうの音も出ないのか、眉間に皺を寄せる仕草はまるで子供だ。そんな
ヒューガに呆れながらも看病することを忘れない。こんな衰弱した状態の人間を放ってお
けるほど、シリュウは薄情ではなかった。

「船酔いとか病気は、師匠の治癒術でも治せないんだから…無理するなよ」

困ったようにほんの少し微笑んだシリュウを眩しそうに見つめたヒューガは、暫し黙った
後、大変不服そうにではあるが、一つ縦に頷く。シリュウが港で老婆に受けた傷も、船に
乗り込んだと同時にシェンリィによって治療されたので、その額には傷痕一つ見当たらな
い。間近でその様子に感涙していたエリーナの姿は本当に鬱陶しかったと、ヒューガは一
人心の中で毒づく。何かあるごとに大きく騒ぎたてるあの少女は、苛立ちの対象にしかな
らない。そんな彼女が船酔いをしているヒューガの前にでも現れでもすれば、いつも以上
に八つ当たりする場面はすぐ目に浮かぶ。

「あ、いたいたシリュウーーー!!」
「……マジで鬱陶しい声だぁぁ」
「は、ははは」

心の中で噂をすれば何とやら。期待を裏切らない…いや、是非とも裏切ってほしかった登
場にヒューガが大きく肩を落とし、大袈裟なほど溜息をついてうずくまる。もともと馬が
合わない二人は口を開けば互いの罵倒。優勢な方はいつもヒューガだが、彼が彼女にいち
いち突っかかるから大喧嘩になることをヒューガは理解しているのだろうか。好きな子ほ
ど虐めたくなるとはよく言うが、二人の犬猿の仲はどこをどう汲み取っても恋愛沙汰には
繋がらない。的を突く嫌味に過敏に反応する方も問題があるのだろうが、彼女はカインの
ように器用ではない。右から左へ聞き流せでもすれば適当にあしらえるだろうが、彼女は
素直なので一つ一つの事柄に勢いよく噛みつくのだ。

「エリーナ、今ヒューガ船酔いしているからもう少し静かに…」
「え!?ヒューガが船酔い…」
「て、めぇ…何だその、目は……っ!」

天変地異でも起きたのではないか、と思わせるほど驚きを露にしたエリーナは、途端に目
を細め疑わしい、という視線をヒューガに向ける。その態度に頬の引きつきを隠しもしな
いヒューガのこめかみには、幾つも青筋が立っている。その姿を見てぎくり、と肩を震わ
せたシリュウは、とばっちりを受けるのは御免だ、という本音と、このまま二人を放置し
て後々カインにばれた時に凄まれる自分の姿を頭の隅に浮かべ、葛藤していた。この場を
離れるべきか、止めるべきか。

「私、ハーブティー持ってくる!」

ああどうしよう。今にも火花が散りそうな雰囲気だと思った矢先。突然踵を返したエリー
ナは振り向きざまぽかんとしているシリュウに叫ぶ。まさかそんな行動に出ると思ってい
なかったヒューガも、突然の事態に肩透かしをくらった気分にならずにはいられない。

「は?何だ、あれ」
「ハーブティー……ああ、そうか」

合点いった、と手を叩いたシリュウは混乱した様子のヒューガに軽く微笑む。

「ハーブって鎮静効果あるんだ。エリーナはそれを淹れに行ったんだよ」
「……あいつが持ってきた、やつなんざ…飲めるか」

暫し沈黙を間守り、そっぽを向いて零した言葉には覇気がない。素直じゃないなぁと苦笑
せずにはいられないシリュウだったが、そんなことを本人を目の前に言ってしまえば全力
で否定された挙句、またしてもエリーナに食ってかかりそうなので、喉まで出そうになっ
た言葉を寸でのところで飲み込む。


「―――はい、これ飲んで」

それから数分もせずにエリーナは慌ただしく戻ってきた。お盆に載せた真っ白なカップの
中に注がれている琥珀色に近い液体から香る独特な芳香に、酔っていないシリュウさえも
気分が爽快になる。匂いだけでこれほどリフレッシュするのならば、実際飲めば更に効果
が期待出来るだろう。しかし、当人のヒューガと言えばちらりと差し出されたそれを目に
入れただけで一向に受け取ろうとしない。それでも根気よく受け取るのを待っているエリ
ーナの姿を見れば、それだけヒューガを心配しているのだと推測出来る。

「ヒューガ、意地張らない」

呆れたようにうずくまる男の頭にぽんぽんと手を置けば、ぴくりと動く体。隙間から伺う
ことが出来るその顔色は悪くなるばかりで、回復の兆しが見当たらない。何度も口応えし
ているが、徐々に語尾が萎んでいることを彼は恐らく気付いてはいないだろう。

「べ、別に変なもの入れてないんだよ!?飲んでくれたって良いじゃない!」
「ちょっとはエリーナを信用してあげなって。な、ヒューガ」
「……………」

弱っている相手に寄ってたかっているようで良い気分はしないが、ヒューガのためだと己
の中で自己完結させる。抵抗する隙さえ与えないほど催促し続けたおかげか、のろのろと
緩慢な動きで頭を持ち上げたヒューガは、目の前に突き出されているカップを一度疑わし
く一睨みした後、シリュウへと視線を移す。安心させるように小さく頷いたシリュウを確
認したと同時に少しばかり荒々しく受け取ったカップに口をつけ、恐る恐るといった様子
でそれを飲み下す。途端に不機嫌そうな顔をしたヒューガにまさか、とエリーナを振り返
るが、弱々しく聞こえた「不味い」という言葉に懸念が払拭される。

「…っち、ミントか。ったく、強烈に匂いがきついやつじゃ、ねぇか」

変なものを入れられていたわけではなく。ただ単に、ハーブが苦手だったようだ。

「気分は、どう?」

悪態を吐く様子は相も変わらずではあるが、先ほどよりは返す言葉が増えている。眉をハ
の字にし、心配しています、という感情を全身で表しているエリーナは飲み干されたカッ
プを受け取ると、不安そうに声をかける。

「……………別に、悪くはない」

ムスッと軽く唇を尖らせながらエリーナの視線から逃げようとする仕草に苦笑しつつも、
どうしてもっと譲歩できないのだろうかと首を傾げたくなる。時折口元だけを上げてシェ
ンリィと会話をしている姿を見るが、別段不仲というわけではない。毒舌を吐きながらも、
常識がちゃんと備わっているカインはエリーナのことを悪く言わなければ基本的に穏やか
な人間だ。……ヒューガの第一印象がすこぶる悪いので、他の人間と比較できないところ
ではあるが。

他の二人との相性が決して悪いわけではないのに、水と油のように相反する青年と少女。
確かに若干我が儘気質と思われるエリーナの性格は好き嫌いが激しいであろうが、よく笑
い、よく喋り、よく怒る。感情の突起はあるが、裏表のない真っ直ぐな瞳は好感を抱く。
しかしそれすら頭ごなしに否定するような態度を取るヒューガは、口を開けば嫌味の一つ、
二つ。お世辞にも感情のコントロールが上手いと言えないエリーナが憤怒するのは、やは
り仕方がないと言えよう。何とか二人の関係が少しでも良くなれば、と考えを巡らせるが
これといった案が何一つ思い浮かばない。

「ハーブティーはエリーナが淹れたの?」

それから妙な沈黙が流れた。潮風に乗って海面を走る音と、大空を飛び交う渡り鳥の鳴き
声だけが優しく耳朶を響かせる。居づらい、というほどでもないのだが、このメンバーで
これだけ静かになると逆に気持ち悪い。何かあったのでは、と無駄に勘繰ってしまうのは
決してシリュウだけではないはずだ。

「うん!」
「へぇ、凄いなぁ…俺あんまりお茶については知らないんだ」
「そうなの?私お茶を淹れることはすっごく得意なのよ」
「また今度淹れ方教えてくれる?」

ぱあ、と弾けんばかりの笑顔を浮かべたエリーナはそれはもう、嬉しそうにシリュウへと
向き直る。褒められたことが余程嬉しかったのか、ほんのり両頬が染まるほど興奮してい
る。恋する乙女は慕う相手になら些細なことでも嬉しいのだろう。

「あ…シリュウ見て見て!」

はしゃぎ声につられるように示された方向を見やったシリュウは、一度息を呑む。

「う、わあ」

視界に飛び込んできたものは、海面上をすいすいと泳ぐ物体。三角形の背びれを持つもの
を、一瞬クジラか何かと見間違えたがそうではない。列を成して船の周りを悠々と泳ぎ回
るそれは、紺碧の海よりやや淡い色を持つ。体長はそれほど大きくはないが、平均的な人
間の身長ならば優に超えているであろう。甲板から距離があるため多少見づらいものの、
その愛らしい顔立ちは疲れた者に癒しを与える。

「イルカ…?」

気だるげに起きあがったヒューガが頭を支えながら海面を見下ろす。ピィピィとイルカた
ちが大合唱すると、エリーナは甲板から身を乗り出すように海面を泳ぐイルカたちを食い
入るように見つめる。時折可愛いだの、触りたいだのとという声が聞こえたが、船酔いの
せいかいつもより頭の回転が遅いヒューガは訝しげに眉をひそめる。イルカが海を遊泳す
ることなど、何一つおかしくはない。そうだというのに、喉に、胸元に引っかかりを覚え
ずにはいられなかった。

(胸糞悪ぃ、一体何だってんだ)

いつものように振る舞えない不甲斐無さと、口内に残るミントティーの香り。まだ鼻腔を
くすぐっているようで眉間に皺が幾つも追加される。おまけに先ほどから聞こえるイルカ
の鳴き声も頭の中、脳みそを掻き回すようで気分が悪い。高い音域がまるでワルツを奏で
ているようで、あまりに美しい歌声だからくらりと眠気が襲ってきて………。

「歌…ご、え?」

ぼんやりとしていた視界が一気に明るくなる。ふらふらとしていた思考も覚醒し、イルカ
の鳴き声に混じって聞こえる不自然な歌声に舌打ちをする。覚束ない足取りで反対側の海
面を見下ろせば、ヒューガの苛立ちは頂点に達した。

「くそっ、セイレーンか!」

海に住まう悪魔。魅惑的な歌で数々の船を難破させる化け物。見目麗しい姿で船乗りを魅
了し、海へ落ちた人間をはらわたまで貪る姿は肉食獣そのもの。だとすると、向こうにい
るイルカは、世間一般に言われているイルカではない。それらもまた、人間の肉をより好
む人食のものだ。

「歌を聴くな!下手に海に近づくんじゃねえっ!!」

シリュウとエリーナの首根っこを掴み、海面から遠ざける。どうやら二人とも虚ろになっ
ていたようで、何度も瞬きを繰り返し茫然とヒューガを見上げている。存外な扱いをされ
たことに怒り心頭のエリーナは今にも掴みかかりそうな勢いでヒューガを非難するが、ぎ
ろりと間近で一睨みされたせいで次の音が出ない。

「な、な、何のよーーーっ!」
「うるせえ!とにかく奴らを追い払わねーとこっちが全滅だ」
「ど、どういうことだ?」

エリーナの抗議を一喝したヒューガは、船室へ急ぐよう二人を誘導する。その際に倒れい
るシークエンドの部下たちを心配そうに見下ろしていたシリュウが、ヒューガのあまりの
焦燥感に初めて疑問を投げかける。

「あいつらは人肉を好む海の悪魔だ。セイレーンはあの歌で人間を惑わすだけでなく、
 嵐を呼び起こす力を持つ。その傘下にいる連中が、あの人畜無害そうに見えるイルカだ」

とにかく、双方とも腹が減って腹が減って仕方がないのだ。海に落ちれば最期。綺麗で可
愛い相貌が豹変し、隠している牙が軟らかい皮膚を貫くだろう。

「嵐って……っ!!」

事態を重く受け止めたシリュウが更なる質問を重ねようとしたその刹那。

「きゃあぁぁぁあ!」

脈打つように海面が大きく揺れる。浮かんでいる船もそれに倣うよう上下に揺れ、軋む音
がどこからともなく聞こえた。酷い振動は、今度は上下だけではなく左右にも不安定に揺
れだし、全員がその場に四つん這いになる。水飛沫が甲板まで張り込むほど荒れ始めた海
に、意味がないと分かっていながらも、先ほどまで鬱陶しいほどの晴天であったというの
に、段々曇り始める空を睨まずにはいられない。何事だ、と船室からばたばたと駆けだし
て来た愚かな乗組員に怒鳴りつけてやりたい衝動を堪え、ヒューガは必死に地べたに這い
つくばっているシリュウとエリーナに視線を送る。

「とにかく外は危険だ。一旦船室に戻って態勢を……」

整えるぞ。そう言いきろうとした瞬間だった。 

ザン、と水同士がせめぎ合う音が交差したほんの一瞬。船が大きく傾き、尚且つその状態
のまま激しい縦揺れが襲う。視界の片隅に、積み荷が海へと投げ捨てられる様子を確認し
たその直後。

「―――掴まれっ!!」

茫然とした様子で宙に浮く一つ、いや二つの影。それを認めた瞬間、現実から逃避したく
なった。空気が割れんばかりに喉から出た叫び声とともに手を伸ばすが、ぎりぎりのとこ
ろで空を切る。少年と少女の声にならない悲鳴は、波の音で完全に掻き消され、今この事
実を目の当たりにしているヒューガにしか分からぬほど、海の自然は証拠を揉み消す。も
う一度投げ出された手を取ろうとするが、立っていられるのもやっとのこの揺れは、ヒュ
ーガに隙を与えない。加えて延々と頭の中に流れてくるセイレーンの歌声に一度視界がく
らりと揺れる。

ほんの少し、気を緩ませてしまったせいだった。

「―――うあぁぁああ!!」

再び膝をついたその直後、耳をつんざくような悲鳴。荒れた海では決して大きくない声で
あるはずなのに、絶望が腹の底に落ちた瞬間、風も波も振動も…全ての音が聞こえなくな
る。

「シリュウっ!!」

力の限り叫んだと同時に、二人はヒューガの視界から消え失せ、海へ落ちて行った。









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