● 唐紅の記憶  ●



大丈夫、またあとで必ず逢おうね。

振り向いちゃ駄目。戻ってきては駄目。

約束よ。きっと、きっと。

だから……お願いね。



(どうか悲しまないで)

(どうか傷つかないで)








第21話 『染まる海で見る夢は』








身体が上下に揺れた途端に、尻餅をつく前に俊敏に受け身を取り頭上へと落下してくるで
あろう衝撃から身を守るため、頭を守るように交差させた腕を掲げる。扉一枚隔てた外界、
つまり甲板から聞こえる乗組員たちの悲鳴に舌打ちをしながら、シェンリィは安定しない
揺れの中、時折壁に激突しつつも、器用に落下物を避けながら木製のノブを大きく開け放
つ。まず初めに強風が無遠慮に襲いかかり、思いきり顔をしかめて見せ、忌々しく黒々と
した曇天を見上げた。穏やかな海は豹変し、今にも船全体を海の藻屑にしてしまいそうな
ほど、轟音をたてながらそこは荒れ果てていた。

「シリュウっ!」

微かに聞こえた叫び声に、ハッと視線を泳がせる。雨なのか、それとも海の水飛沫なのか
定かではないものが全身にめがけて髪や衣服を濡らすが、そんなことはどうだって良かっ
たのだ。すぐ目の前を波の揺れの振動で足を滑らせ転がり落ちてきた者がいたが、どうだ
って良いのだ。

「あん、の、馬鹿」

忌々しげに吐き捨てた言葉は、風と海の泣き叫ぶような声によって掻き消される。何故大
陸から切り離された海に歌声が聞こえるだとか、この場にそぐわない可愛らしい鳴き声が
聞こえるのだとか。幼子のように頼りない足取りで、喉が切れるのではないかと懸念して
しまうほど、今にも海中へと飛び込もうとしている男の首根っこを掴み後退させる。交替
して波のせいで泡だらけになった海面を覗き込むが、昼間の紺碧色ならばともかく、嵐の
ように忙しい今は、他の色を確認することなど容易ではないほど黒々としていた。

「落ちたのかい」

我ながら何故こんなにも冷静なのだろうかと不思議に思う。呆然と立ち尽くしていた男が
ようやく我に返るが、再び海を睨みつけ飛び込もうとする。迷いのない愚かな行為にシェ
ンリィは思いきり舌打ちをした。後ろから羽交い絞めにし、男の動きを完全に封印する。
女にしては十二分に筋はあるが、一体その細腕のどこに男の力を抑え込むような力がある
のか。

「この野郎、離せ!」
「落ち着きなヒューガっ」
「ふさ、けんなっ。これが落ち着いていられるか!
 海に落ちたんたぞ!?早くしねぇと、死んじまうだろうがっ!!」
「こんな荒れた海に飛び込んだって野垂れ死ぬだけだよ」

大馬鹿者が。そう一喝して何の躊躇いもなく片方の腕を捻じ曲げる。おかしな方向に曲げ
られたせいで大きく顔を歪めたヒューガは一度息を詰まらせる。手加減のないその制裁は
素人がやれば下手をすると骨を折ってしまいそうなほど強烈な力であった。今にも鞘から
剣を抜き、斬り殺してきそうな禍々しい気配を漂わせるヒューガを相手に、シェンリィは
怯むどころか更に呆れ返る。

「今のあんたはただのお荷物同然なんだよ!」

己の身を犠牲にしてでも助けようとするその信念は称賛に値するが、無謀となれば話は別
だ。どんなに強靭な肉体を持っている者でも自然の脅威には抗えない。そんなこと、彼は
とっくの昔から知っているだろうに。

執着。あるいは執念。

何がこの男をそこまで駆り立たせているのか。その姿はまるで義務を背負っているような、
大きく広いはずの背中に課せられているものは、決して軽いものではない。

(得体の知れない奴を、あの子に近づけさせはしない)

けれど必死に手を伸ばす姿も、飛び込もうとする意気込みも。

(それだけは認めてやる。そう、それだけは)

首に一刀でも食らわせて大人しくさせるか、と思案したその刹那。鈍色の空が薄ら朱色に
染まる姿を視界に捉えた。ぞくりと背筋が凍るような錯覚に襲われた。暗闇に近い世界に
染まっていた色が、何故か赤色に変色しつつある。ゆっくり、だが確実に。朱から赤へ。
赤から紅へ。徐々に色濃く染まる世界に、その場にいた者はごくりと固唾を飲み込んだ。

「こ、れは…」

空が赤く染まっている。そう思っていた。けれど違う。シェンリィは知っていた。何故な
ら、彼女はこのおかしな現象を一度、間近で見たことがあったからだ。急流の川で一度。
忘れるはずがない。まるで全てを焼き尽くす業火のような。そして、恐れ慄くような血色
の色彩を。あの時と同じ現象ならば、次なる予測はついている。

「歌が、やんだ?」

唖然とした様子で無意識にぽつりと零したヒューガの言葉にハッと我に返る。ヒューガを
拘束していた手を離し、急いで海を覗き込めば、そこにいるものといえば苦しげに自身を
掻き抱いているセイレーンの姿。不可思議な動きでその場を何度も旋回するイルカの姿を
見れば、それはまるで激痛に悶え苦しんでいるようだった。歌は止み、そのおかげか波の
揺れも穏やかになっている。何が起きたのだ、と甲板にうつ伏せていた乗組員たちは、突
然の平穏に驚きを隠せないでいた。

ピィピィと、最初に現れた時よりもずっと切なげな鳴き声がここ一帯に響く。助けてくれ
と言わんばかりの途切れ途切れの大合唱は、次第に語尾が小さくなる。

「シリュウ、おいシリュウ返事しろっ!!」

瞠目したまま海面を凝視していたシェンリィは、同じく身を乗り出して真紅に染まった不
気味な海にただただ叫び続ける。何度その名を呼んだのか、痺れを切らした様子で今度こ
そ手すりに足をかけ、落ちたまま浮かんでこない仲間を助けに飛び込もうとした瞬間。

真紅の海が、一瞬赤黒く染まる。
再び、シェンリィの背筋に冷たいものが流れた。

「―――危ないっ!!」

咄嗟にヒューガの体を両手で掴み、抱き込むようにして甲板に倒れ込む。ガタン、と派手
な音を立てた挙句、受け身も取らなかったせいか体のあちこちが悲鳴を上げている。

けれどシェンリィは確信していた。そう、この次に来るであろうものを。

ドン、と花火が上がったような音が一つ。いや、二つ、三つ…。数え切れないほどの音が
鼓膜を直に響かせる。その直後、化け物でもを見たかのような、声にならない悲鳴があち
こちから上がった。尋常でない騒ぎ様に、ギュッと下唇を噛み締め固く閉じていた瞼をそ
っと開く。

知っている。おぼろげに覚えている、あの記憶が確かならば。

「は、柱だっ。緋色の柱だ!!」

赤、紅、緋色。どれとも取れない色の柱が、幾つも天高く渦巻いていた。赤く染まった雲
を突き抜け、厚く覆い被さっている暗雲を切り裂く。その隙間から射す陽光がゆっくりと
海面を照らし、赤い色の海面を静かで穏やかな紺碧の色へと変えてゆく。さながら魔法の
かかった時間が解け始めるかのように。ゆっくり、ゆっくりと。赤色は青へと戻ってゆく。

―――ああやはり、あの時に見た赤い世界は、見間違いなどではなかった。

元の色素に戻り始めた海を眩しそうに見つめていたシェンリィは、静かに波打つ海面に浮
かぶ、幾つもの死骸を苦々しく見下ろしていた。







助けて。

おぼろげな世界に子供がいた。まだ背が伸びきっていない、華奢な子供だ。

助けて、助けて、助けて。

子供は走っていた。何かを大事そうに抱えながら、何かから逃げるように走っていた。

嫌だ、嫌だ、来るな、助けて。

蒼白な顔をしながらも、子供は泣いていなかった。腕の中にあるものを必死に守りながら、
子供は攣りそうになる足を時折叱咤して、我武者羅に走り続けた。

父さん、母さん。

子供はうわ言のように両親の名を口にしていた。それでも涙は流していなかった。

嫌だ、離せ、返せ。

抱えていたものが突然誰かに取り上げられた。子供はそこで初めて涙を零した。

止めろ、返せ、止めてくれ、お願いだから。

子供が必死に手を伸ばしたその瞬間。

大切に抱えていたものは、視界から完全に消え失せる。

言葉にならない悲鳴を上げた子供の顔は、恐怖と絶望で酷く歪んでいた。








「―――シリュウっ!!」

びくん、と一度痙攣する。泣き叫ぶような悲痛な声に瞼が緩く動くと、ぼんやりと霞む世
界に二つの影が映っていた。ぽた、と頬に落ちたものが誰かの涙だと気付いたところで、
眠っていた頭がようやく回転し始める。

「え、な、に……」

一体何が起きたのか。言葉にしようとするが上手くいかない。いや違う、呼吸が酷く乱れ
ていた。何度か唾を飲み込むが、口内も喉も渇ききっているせいか気持ちが悪い。おまけ
に体内中が水分を大量に欲している。体中の水分が相当抜けきっているであろうに、肩で
大きく乱れた呼吸を繰り返し、額には幾粒もの汗が浮かんでいた。脱水症状を起こしかね
ない状況だ。

「よかっ…良かったぁ」

涙声に混じった安堵の声に、シリュウは何度も目を瞬かせる。両手で顔を隠し、ぐすぐす
と鼻を鳴らしながら涙を流すエリーナを見て思わずギョッと目を剥く。どうしてここで自
分が横たわっているのか、という素朴な疑問よりも、目の前で泣きじゃくる少女のことの
方が心配でならなかった。

「え、エリーナ?」

放っておくことも出来ず、せめてその手を握ることが出来たならば、と体を起こそうとす
るが、一般人よりは何倍も鍛えられているはずの体はベッドから離れようとしない。鉛の
ように重い。起き上がろうとすればするほど、やっと目覚めたはずの瞼が再び落ちそうに
なるのだ。

(俺、どれだけ寝てたんだろう。……それにしても、凄く眠い)

油断すればまたしても深い眠りに誘われそうになる。その誘惑に負けそうになりながらも、
すすり泣く声がしっかりと耳朶を響くので、残っている体力を全て目を開け続けることに
費やす。

潮の香りがする。たぷんと、大量の水が揺れる音が聞こえる。どこからともなく鳥の鳴き
声が不定期に響いた。

ああ、そうだ。ここは海。シークエンドの船に、いるのだ。

「え、りー、な」

喉の渇きが酷い。喉の表側と裏側がくっついているような感覚だ。何とか力を振り絞って
声らしい声を口から出すが、いつもより幾分か低く、聞いていて可哀想なほど掠れている。
本当ならば早急に水分を摂取するべきなのだろうが、不思議とこの時だけは渇きを忘れる
事が出来た。掠れたか細い声に反応したエリーナが両手を顔から離す。泣き腫らしたその
表情が露になった途端、胸の奥に詰まっていた重いものがスッと消えた。

「だい、じょうぶ?」

上手く、笑えていただろうか。不安がらせてはいけない。エリーナは多少我が儘で高飛車
なところがあるが、本当は優しくて泣き虫な、ごく普通の女の子なのだから。泣かせては
いけない。女の子の涙ほど、心苦しくなるものはない。シリュウはそれを知っていた。

きょとん、と一瞬瞬きを忘れたエリーナだったが、今度はくしゃりと顔面を歪ませ、双方
の目に溜まった大粒の涙を堪えるために、下唇をギュッと噛みしめる。

「…っん、うん、だいじょう、ぶだよ!」

大きく首を縦に動かし、堪え切れなかった涙を乱暴に手の甲で拭い続ける。それを見て目
が痛む、と止めようとするが、やはり腕一本さえ持ち上がらない。酷い倦怠感だ。風邪を
引く一歩手前の、言いようのないだるさが全身に浸透している。これを除去するためには、
兎にも角にも体中が切実に欲している水分と、長時間の睡眠が必要だ。

エリーナの姿をぼんやりと一瞥して、外傷が特に見当たらないことに安堵すると、その僅
かな隙を睡魔が無遠慮に襲ってくる。ああもう駄目だ、と意識を再び闇に飛ばそうとした
瞬間だった。

「寝る前にこれを飲め、この大馬鹿野郎が」

抑揚の欠けた、耳に馴染んだ声に意識が浮上する。のろのろと視線を泳がせれば、エリー
ナとは逆の方向に無表情で突っ立っている男が、シリュウを見下ろしていた。

「なんだ、ヒューガか」
「…なんだってなんだ、おい」
「ううん、何でもない」

存外な反応にムッと眉間に皺を寄せたヒューガは、手に持っていた水差しをシリュウの口
元に当てる。久方ぶりの水分に体中が喜び舞っていることが分かる。一杯分の水では全く
と言っていいほど足りないわけで、それから一体どれだけの水を飲み干したのか、シリュ
ウがすっかり喉を潤した時は、用意されていた水が底を突くほどであった。単調な作業を
黙々と繰り返していたヒューガは相変わらず静かで、その静けさが少し不気味なほどだっ
た。仏頂面のまま、だがどこか神妙な面持ちでシリュウに水をやることに専念していたヒ
ューガの動きは、とても丁寧なものであった。例えるならそう、壊れかけのガラス細工に
恐る恐る手を伸ばすような、そんな姿。

「あー……生き返った」
「なに爺くせぇこと言ってんだ」
「あはは、俺もそろそろ年かなぁ」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。…それより腹は減ってないか?欲しいものは?」

頬にある筋肉がへにゃり、と緩くなったことをシリュウは直に感じ取った。やはり人間に
水は必要不可欠なものだと、改めて身を持って体感する。生気の戻ったシリュウを見てよ
うやくホッと安堵の表情を見せたヒューガは次々に欲しいものはないかと尋ねるが、その
姿がどこかで見た家庭の母親とそっくりで、吹き出さずにはいられない。

「なに笑ってんだ」
「ごめんごめん。気持ち悪いくらい優しいヒューガってのも、悪くないなって」
「お前は一体俺を何だと…」

不愉快だと言いたげに目を細めるが、決してそれを口に出しはしない。ひとしきり笑った
あと、先ほどよりも急激に襲いかかってきた睡魔に世界が一瞬真っ白に染まる。今にも瞼
が完全に落ちてしまいそうになるのを何とか持ち上げようとするが、そろそろシリュウの
体力も限界に近づいている。どうしてこんなに疲れているのか分からないが、次に目覚め
た時にでも誰かに聞けば良い。

「―――おやすみ、良い夢を」

霞んだ細い視界の中、ヒューガが慈しむように微笑んでいたように見えた。けれどそれを
確かめる間もなく、シリュウの瞼は閉ざされ、周囲の音も全て遮断された。最後に感じた
ものは、優しく頭を撫でる、大きな手の感触だけ。

―――おやすみなさい、シリュウ。

これは、誰の声だったのか。静かで、穏やかで、けれど凛としていたこの声は。
知っているような気がする。知らないような気もする。
男か女かも判別できない優しい声に、思わず泣きそうになった。


「寝た、みたいだね」

ホッと同じタイミングで心底安心しきったような表情を浮かべた二人は、同時に胸を撫で
下ろす。規則正しい寝息が聞こえてくれば、もう安心だ。それまで張っていた肩もゆるり
と下げ、ヒューガは用意されていた椅子に勢いよく座り込む。胡散臭いシークエンドの船
にしては、質素ながらも造りの良いそれは、眠りを誘いそうなほどの座り心地だ。軽くス
プリングが音を立てたが、壊れる様子はない。

「てめぇもさっさと寝とけ。じゃねーと、扉の前にいる奴がうるせぇからな」

一呼吸終え、眠り続けるシリュウをぼんやりと眺めていたエリーナを一瞥したヒューガは、
踏ん反り返るように胸の辺りで腕を組む。その視線は決して心配そうな色は見せていない
ものの、だからと言っていつものように邪険に扱っている様子も見受けられない。淡々と
していて掴み所のない雰囲気を漂わせているヒューガに、エリーナは些か疑問を抱くも、
控え目にノックされた扉に慌てて立ち上がる。それと同時に静かに開かれた扉の前にいた
人物は、エリーナを見つけると軽く微笑んだ。

「まだ、目を覚ます様子はありませんか?」

すやすやと寝入っているシリュウを見下ろした後、ほんの少し痛ましげな視線を送る。け
れどそれも僅かな間のことで、まるでヒューガは眼中にないかのようにあっさりとスルー
し、突っ立ったまま動こうとしないエリーナのもとへと歩み寄る。

「ううん、さっき目を覚ましたわ。でも、すぐ寝ちゃったの」
「疲れているんでしょう、大陸までまだ時間がかかるようですし…。今はたっぷりと休ま
せて体力を回復してもらいましょう。使い物にならなくなっては困りますからね」
「もうっ、シリュウにそんな言い方しちゃ駄目よカイン!」

ぷくっと片方の頬を膨らませたエリーナは、顔を真っ赤にして相変わらず棘のある物言い
をするカインを睨めつける。他の人物ならいざ知らず、シリュウに対しての暴言は許せな
いらしい。そんな主を爽やかに笑って誤魔化し、カインはそのままエリーナの額に手を当
てる。突然の行動にきょとん、と目を見開いたエリーナは暫く瞬きを繰り返し、最後にど
うしたのだと言いたげに首を傾げて見せた。

「少し、熱がありますね。すぐに床に就いてください。粥と薬もすぐにお持ち致します」
「へ…?熱?」
「少々無理をなされたようですね。シリュウ君もこの通りですし、今はお嬢様もご自身の
体調を治すことに専念してください。顔色もよろしくありませんよ?」

エリーナ自身も自らの体調不良に気付いていなかったのか、無意識に手を頬に当てている。
そこでふと、先ほどのヒューガの言葉が蘇った。思えば何故彼があんなことをわざわざ犬
猿の仲である相手に言ったのか。

「……ヒューガ」
「思い上がんな。余計な菌をこいつにうつすわけにもいかねーだろうが」
「う、うん。そうだよね」

ぎろり、と睨まれてしまえば下手に突っ込めない。まだ言い足りないこともあるが、渋々
といった様子で頷いたエリーナはそそくさとその場を立ち去る。最後にもう一度シリュウ
の寝顔を覗き込むことも忘れず。

「……では、彼のことはお任せしましたよ」
「言われるまでもねぇ」

シリュウを眺めたまま、一度も顔を上げなかったヒューガに多少呆れを感じながらも、カ
インはふらついた足取りで出て行ったエリーナを追いかける。シリュウを起こさぬよう気
を配っているのか、慎重に閉められた扉の音は耳をそば立てないと全く気付かないほどで
あった。

ざん、と波の打つ音が誰も言葉を話さない部屋に浸透する。相当眠りが深いのか、身じろ
ぎ一つしないシリュウを見下ろしながら、ヒューガは赤く染まった海のことを思い出して
いた。

(何故赤く染まったのか、全く検討がつかねぇ…)

緋色の柱が天を裂いたあの直後に現れたシークエンドによって、シリュウとエリーナは無
事に助け出された。浮き輪一つも身につけず、飛び込んだ頭領を見て目を剥いていたのは
あの場に居合わせた人間全員だろう。確かに自分も身一つで荒れた海に飛び込もうとした
が、確かにあの時は少し波も穏やかになっていたが、だ。この船の頭領である人間が、自
ら死んでしまう可能性のある海へ飛び込むだろうか。どうでもいい、と傍観に徹していた
はずなのに、この船の行く先が不安で仕方がなかった。

それよりも気になることが一つ。

(あの女、シェンリィの様子がどうもおかしい)

海面が赤く染まった瞬間から、シェンリィは狼狽していた。あの時は自身も取り乱してい
たが、押さえ込む腕の力が一時だけきつくなったことを今でも鮮明に覚えている。シリュ
ウ達が助け出され一段落した後も、彼女は紺碧に戻った海を睨み続けていた。何かを思い
出そうとしている姿が妙に不自然で、脳裏に焼きついたまま離れないのだ。

「…ま、とにかく無事で良かった。………本当に」

幾ら一人で考えてみても答えが導き出されたいのならば、今は保留にするしかない。苦笑
を漏らし、呑気に眠り続けているシリュウの頭をガシガシと撫でつける。些か力が強い気
もするが、それでも唸り声一つ上げない寝入りように、微笑まずにはいられなかった。人
としての温もりがじんわりと手のひらから伝わり、益々心が穏やかになる。二人が海へ放
り出された時の硬直が嘘のように、驚くほど今は落ち着いている。ああ、まさにこれが肝
が冷える、っていうんだろうなと実感した。貴重な経験ではあるが、二度と体感したくな
どない。。

「あんま、無茶すんじゃねーぞ」

目を細めて微笑めば、眠っているシリュウがほんの少し笑ったような気がした。










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