● 唐紅の記憶  ●




清楚な一輪の花の如く、そっと微笑む彼女に惹かれていた。
自分とは違う世界に住む彼女が、いつの間にか憧れになっていた。

―――ありがとうございます、シリュウ。

そう、あの場所こそが………俺の最後の、居場所だった。







第22話 『摩擦する関係性』







キェー、と何とも気の抜けるような鳴き声に意識が浮上する。窓から差し込む光に瞼を開
けようか否かで迷った結果、結局数分を要して起き上がればぼんやりとする思考と、跳ね
に跳ねた自分の髪の毛に思わず顔をしかめて見せた。取り敢えず簡素な机にお盆と一緒に
乗せられていた水を胃に流し込む。カラカラに渇いていた喉がようやく潤い、ホッと一息
を吐いた。

「あ、やば。寝すぎて頭痛い」

思わず頭を抱えて再び枕へダイブ。二度寝はしない。だが鈍く響くように痛いのだ。加え
て急に立ち上がったせいか、くらりと一転。一瞬真っ白に染まった視界に、頭痛を覚えて
いるというのに更に頭を悩まさなければならない。

この船が襲われたこと、エリーナとともに海に放り出されたこと、意識を取り戻したこと。
実はこれは夢で、本当は死んでいましただなんてオチでなければ、間違いないはずだ。

(そう言えば、師匠、見てないな…)

一見クールに見える彼女だが、身内にはこちらが呆れかえりそうなほどの過保護っぷりだ。
フィライン内での頭領としての彼女は自信に満ち溢れ、揺るぎない信念を胸に抱く引率者
であるが、懐に入れた者に対してはとことん甘い気がある。自分で言うのも何だが、シリ
ュウはシェンリィに大事にされていることを理解している。決して甘やかしすぎず、時に
は叱り、時には褒めてくれた。一回り年の離れた、姉とも母親とも形容しがたい人物だが、
人間の人間臭さを教えてくれたのは、紛れもない彼女であった。

そんな彼女が、姿を現さない。それが不思議で、今までになかったからこそ不安だった。

「――――おーい、起きてるかー?」

ふと、コンコンと控えめにノックされた扉を凝視する。一瞬頭の中を掠めたのは師匠の顔
だったが、師匠とは似ても似つかぬ野太い声に少なからず落胆を見せたシリュウは、通常
よりも幾分か遅い反応で是の言葉を返した。それからむくりと伏せていた体を起こし、や
や大袈裟に開いた扉をぼんやりと眺めていたシリュウは、久々に入ってくる大量の陽光に
目を細める。

「お、ようやく復活か兄弟」
「おかげさまで。迷惑掛けてごめん、シークエンド」

現れた黒い人物に言いようのない懐かしさを覚えたのは、シークエンドがシリュウと同じ
漆黒の色を持つからだろう。人当たりの良い笑みを浮かべたまま大股で近寄って来たシー
クエンドは、思いのほかはっきりとしているシリュウの言葉にそうか、と小さく頷く。

「一昨日目を覚まして、また眠りこけたって聞いて驚いたぜ。
 よっぽど疲弊してたのかと思ったんだが……何だ、思ったよりも元気そうじゃないか」
「お、一昨日…?」

一度目を覚ました時、エリーナとヒューガを見たのが最後だ。あの時は本当に倦怠感が全
身に残っていたから眠りの感覚は全く分からなかったが、少なく見積もっても二日ほどは
ずっと寝込んでいた計算になる。

「お嬢ちゃんは熱出して寝込んだが……」
「エリーナが!?」
「おおっと。もうピンピンしてるから安心しな。…しっかし海ん中に落ちたのは
流石の俺も肝を冷やした。よくあんな化け物みたいな荒波に俺も挑めたもんだ」
 
シークエンドの言葉にシリュウが小首を傾げる。海に投げ出された時、彼は甲板にはいな
かったはずだ。

「ん?ああ、お前らを助けたのは俺だぜ?」
「え…」
「いやもう、その後が大変だった。いや大変って言葉じゃ片付けられねぇな。
 サルジュには散々説教されるし、兄弟たちからは泣きつかれるし……。
 そういやシェンリィにも一喝されたな。な、これは愛情の裏返しだと思わないか?」

それはもう、嬉しそうに頬を緩めるものだから。

「そ、そうかも…」

心の中ではそんなことこれっぽっちも思っていないわけだが。口から出た言葉など全て無
意識で、今も何を言ったのか分かってなどいない。浮足立ったようなシークエンドの様子
を茫然と見据え、シリュウは先ほどの言葉を反復させていた。この男は、今重大なことを
さらっと口にしなかっただろうか。シークエンドがあまりに自然にさらっと流すものだか
ら、思わずこちらも流されそうになったが、そう簡単に流せるものではない。唖然として
いた思考が徐々に覚醒し、次に訪れる感情は怒りにも似た呆れ。

「あんたが、助けた…?」

それは誠なのか。冗談ならばそれで良い。

「ああ。他の連中が手をこまねいていたから俺が飛び込んだんだ。感謝しろよ兄弟」

再び、さらりと。あまりに簡単に言うものだから。

「あ、あんたは馬鹿かっ!どうして頭領自ら危険に突っ込むんだよ!」

言いたいことを曝け出してしまえば、どこかで堰き止めていたものが溢れだす。ああそう
だ、これは涙を流す時と酷似している。

突然シリュウが怒鳴り出したことにきょとんとしたシークエンドは、不思議そうに目を瞬
かせる。感謝される覚えはあっても、激怒される覚えはない。腹心の部下のサルジュや、
恋い慕うシェンリィ、この船の仲間たちに詰め寄られ延々と説教を食らわれることは仕方
がないことだと腹を括っていたが、この少年から頭からそれを否定されるとは思っていな
かった。

「お前は俺が助けたことに対して不服なのか?俺でなければ良かったのか?」
「そうじゃない、そうじゃなくて。
 頭領であるあんたは守られる位置にいなくちゃならないのに、どうしてこんな…」
「――――違うだろう」

言い終わらないシリュウの言葉を遮った声色は、硬かった。普段耳にしない音に思わずぎ
くりと肩を震わせたシリュウは、目の前に立っているシークエンドの顔を見ることが出来
ず不自然に視線を逸らした。獲物を狩るような、ぎらぎらと嫌に輝いている瞳を真っ向か
ら受ける。それを流すにはまだシリュウは幼すぎた。

「頭領ってのは守られる位置にいるものだが、それ以上に仲間を守る位置にいるものだ」

顔を伏せているからシークエンドの姿は視界に入ってはいない。あるのは、彼の足だけ。
怒声を響かせているわけではないのに、それでもびりびりと痺れるような言いようのない
感覚が体中の隅から隅まで行き渡る。

「よく覚えとけ、シリュウ。守られてばかりがリーダーってもんじゃない」

それが常識ではないというのなら、それでも良いだろう。

「それでも俺は後悔しない。これは俺の覚悟だ」

左胸にトン、と握りこぶしをぶつけて見せれば、それまであった謹厳な様子が崩れる。代
わりに浮かべた表情は、常に皆に振りまいているものとはまた違う。頭領として…いや、
そうではない。一人の男として、シークエンド・カルデスとしての決心がそこにはあった。
シリュウよりも倍以上年を重ねた男の顔には、どれだけ修業を積んでも獲得することの出
来ない何かがある。ただそこにいるだけなのに、宣言をしているだけなのに。

「…………」

言葉を失う。息を呑んで、何度も口を開閉させるが、結局何も浮かばない。

事実は無謀だ。誰がどう見ても、聞いても。シークエンドの行動は非難されるものだろう。
それは彼が大勢の仲間や、挙句の果てにシェンリィにさえも説教を受けるほどなのだから。
彼は純粋だ。こちらが頭を抱えたくなりそうなほど真っ直ぐだ。強靭な心を持ち、更にそ
れを支えてくれる仲間がいると分かっているから。羨望せずにはいられない厚い信頼を、
彼は手のひらに収めている。だから彼はあれだけ力強く豪語出来る。仲間に信頼されてい
るように、彼もまた仲間を信じ、愛しているのだから。

「それでも」

断り続けても、未だ差し伸ばされている手は温かだ。一度手に取ってしまえば、その温も
りが忘れられなくて、蟻地獄に落ちるかのように、蜘蛛の糸に絡まってしまったかのよう
に。踏み込んでしまえば戻ることは出来ない。振り返ることは出来ても、今いる場所へは
立てないのだ。

「その覚悟は、いつかあんた自身を滅ぼすよ」

どんな表情を浮かべていたかだなんて、一つも覚えてはいない。けれどやけに脳裏に焼き
ついた、少しだけ目を瞠ったシークエンドの姿がなかなか頭から離れなかった。






「いい加減口を割ってもらおうか」

薄暗い倉庫の壁に追い詰められていたシェンリィは、目の前に人がいるにも関わらず、少
しも隠すこともなく舌打ちをする。しかめきった顔はいつもより三割増ほど不機嫌そうだ。
億劫そうに顔を上げれば、同じく不機嫌そうに唇を真一文字に結んでいる男を睨みつける。
これがただの乗組員ならば、鳩尾に一発でも食らわせてなかったことに出来るのだが、相
手が悪かった。負ける気など更々ないが、狭苦しい倉庫での乱闘では、追い詰められた方
が不利なのである。つまり、今まさに逃げ場を失った状態というわけなのだが。

「あんたも大概しつこい男だねぇ。そんなんじゃ女に嫌われるよ?ヒューガ」

張り詰めた空気の中、現在の人間関係位置で不利なはずのシェンリィは、胸の前で腕を組
みながら見事に踏ん反り返っていた。どちらも油断も隙も見当たらない。神経を尖らせて
いるものの、幾分かの割合で勝利しているのは、シェンリィの絶対的な拒絶だった。

「それに、私はあんたを九割ほど信じちゃいないんだよねぇ」

にたり、と形容したくなるような薄気味悪い笑みを間近で見たヒューガは、彼女の目元が
これっぽっちも動いていないことを黙視する。一見、妖艶と思わせるほどの美しさではあ
るが、それに呑み込まれてしまえばこちらが喰われることをヒューガは知っている。仲間
にすれば心強いが、一滴ほどの不信感を与えでもすれば、彼女は腰に掲げるサーベルを喉
元に突き当てるのだろう。

「へぇ…。一割は信用されてんだな」

初対面の時から快く思われていないことは分かっていた。それでも一応”仲間”という枠付け
られたものに嵌め込まれているのだから、それらしい対応を見せなければならなかった。
上辺だけの笑顔。隠された腹の内。互いに互いを牽制し合い、隙を見せようものならその
場所に刃物を突き立てる。…結局それは、これまでの中にはなかった。そう、これまでは。

「カインも油断ならないね。あれは…そうだね、三割ほど」
「随分と差があるな」
「エリーナがいるからさ。あの子がいなかったら間違いなくあんたと同レベルだったよ」

性格や内面性はどうであれ、シェンリィはエリーナに対して悪い感情は持っていない。良
くいえば純粋、悪く言えば馬鹿。時折周囲を呆れ返すようなことを仕出かすが、決して悪
意がないことを周囲は知っている。箱庭の中で育て上げられたことが分かるような立ち振
舞いは、エリーナが不自由なく生活をしていた証しだ。多少不器用な面が見受けられるが、
何にでも一生懸命な所は好感が持てる。何より、慕っているシリュウに好かれようと努力
する姿は可愛らしいことこの上ない。残念ながら、目の前にいる男は相当嫌っているよう
だ。確かにエリーナの言動は好き嫌いが両極端になるだろう。だからヒューガがエリーナ
を嫌っていることは大いに結構だ。好きになれなどと、偉そうなことを言うつもりは微塵
もない。

「…結局、お前が認めている奴はシリュウだけってことか」

絶対的な信頼。背を預けられる存在は、恐らくシリュウだけなのだろう。些か納得のいか
ない顔つきで目を細める。シリュウだけではなく、彼女にとって家族同然のフィラインは
無条件で信頼に値するものなのだろう。

「ま、限りなく十に近い九だけどね」
「なに……?」

予想外の反応に思わず瞠目したヒューガは、泳いでいた視線を急いでシェンリィに戻す。
うっすら浮かべていた微笑みはどこか寂しさを含んでいて、白黒はっきりするタイプの彼
女にしては随分と覇気がなかった。どうしたものかと怪訝そうな顔を見せたヒューガは、
腕を組みながら気だるげにしているシェンリィの様子を困惑した様子で眺めた。

限りなく十に近い。だが十ではない。砂塵ほどでも、彼女にはシリュウに対する不信感が
あるのだ。驚愕の宣言をされたが、数回静かに呼吸を繰り返せば、ヒューガの動揺は鎮ま
る。その返答の可能性がなかったわけではない。こちらが用意していた答えの中で、最も
確率が低かったものだっただけだ。

「どうして、とは聞かないんだね」

どこか含みのある微笑を浮かべたシェンリィは、口を閉ざしたままのヒューガに余裕たっ
ぷりの視線を送る。心許ない灯りがゆらゆらと揺れる。等間隔に置かれたランプが、波の
動きに合わせて不定期に動くそれをぼんやりと眺めていたシェンリィは、参ったと言わん
ばかりに、少々大袈裟に溜息を吐く。突然の変容にぴくりと眉をひそめたヒューガは、そ
れまで希薄であった警戒心を徐々に内側から放出する。まだ若いその反応に一度鼻で笑っ
たシェンリィは、壁にもたれていた背を重そうに浮かべる。一歩前に出れば、ヒューガが
一歩下がる。形勢は逆転していた。

「そう猫みたいに警戒心を剥き出しにしてるんじゃないよ。別に取って食おうって
わけじゃないんだからさ。あんたって冷静そうに見えるけど、やっぱりまだ若いねぇ」
「うるせぇ。手前はカインよりも性質がわりぃんだよ」
「ふん、可愛げのないこと。もう少しシリュウやエリーナを見習ったらどうだい?」

余計な御世話だと言いたげに、ほんの少し眉間にしわを寄せたことをシェンリィは目敏く
見つけていた。口では勝てないと悟ったのか、それまで滲みだしていた警戒心をヒューガ
は幾分か解く。しかし口だけではなく実力の方さえ勝てる気がしない。是非とも覆したい
現実から逃げたくなるが、亀の甲より年の功。自分よりも多く生きている彼女には、恐ら
く毒舌魔人であるカインでさえも太刀打ち出来ないだろう。彼女に勝てる相手は、フィラ
インにいるダイオンか、彼女の親ぐらいだろう。悲しいことに年上であるはずのシークエ
ンドでは、散々蹴散らされた挙句、艶やかな笑みを浮かべられながら突き落されるだろう。

「――――緋色に染まった世界を見たのは、今回だけじゃないんだよ」

どつきまわされるシークエンドの姿を想像していたせいで顔色が悪くなっていたヒューガ
は、ピンと糸を張ったように鋭くなったシェンリィの声色に静かに息を呑む。真っ直ぐ見
据えれば、前髪に隠れた瞳が、身震いしそうなほど鈍く光っていた。獲物を仕留める寸前
の、優しさも甘さも捨てた色がそこにある。凡人が真っ向から彼女を見つめでもすれば、
足を竦ませ声を失うだろう。

「だろうな。手前のあの動揺っぷりは尋常じゃあなかった」
「ったく、よりにもよってあんたに気付かれるとは……私も落ちたもんだね」

あの混乱の中でも、僅かな変化を見逃さなかったヒューガの洞察力は群を抜いている。と
てもじゃないが、シリュウの言うようなただのトレジャーハンターとは思えない。生業と
日々の言動が一致しない男は、シェンリィにとって危険の対象でしかない。たとえ拷問を
受けたとしても、ヒューガは最期まで口を割ることはしないだろう。

「シリュウがフィラインに来て、まだ間もない頃だったさ」



その日は雷が落ちそうなほど天候が崩れていた。横殴りの雨が容赦なく地表を叩きつけ、
削られた地面は多分に水分を吸収し、今にも崩れてしまいそうなほど脆くなっていた。年
に一度あるかないかの大洪水に、人々は神がお怒りになられたと狂乱した。それからだ。
根も葉もない地方にある噂が彼らの間で急激に広がり始めたのは。

天地災いが降り注ぐ時、悪しき象徴を供物へ捧げよ。
悪しき異物を聖なる川へ。悪しき異端者を浄化せよ。
さすれば道は開かれん。光は天地に舞い戻る。

そんな噂が囁かれている村の付近にたまたま居合わせたのが、フィラインだった。身動き
の取れないほどの大雨に行く先を阻まれた彼らは、天候が回復するまでその地で過ごして
いたのだが、よりにもよってシリュウが村人たちに見つかってしまった。噂を妄信してい
た村人たちはシリュウを捕え、今にも殺しそうな勢いのまま叫んだのだ。

悪しき象徴を供物へ捧げよ
悪しき異物を聖なる川へ
悪しき異端者を浄化せよ

何かに操られたかのように、血走った目で村人はシリュウを捕まえた彼らは、その地域で
聖なる運河と呼ばれる広大な川に担いだ。どしゃぶりで大洪水を引き起こし氾濫している
川であるにもかかわらず。

突き落したのだ。三つの忌まわしき呪文を唱え続けながら。

あと、一歩のところだった。人という名の壁を懸命に掻き分け、小さな手が必死にこちら
に伸ばしていた。その手をあと少しで、握れたというのに。喉が切れそうなほど叫んだ。
フィラインに来て初めて見せた恐怖の色。初めて見せた、感情らしい感情。まだ年端もい
かぬ子供同然が、大の大人たちに担がれ、神聖な儀式を執り行っているかのように、供物
として投げ出された。最後にシリュウが叫んだ言葉は、今も鮮明に記憶に残っている。き
っとこの記憶は、生涯消え失せることはないだろう。泣き叫ぶわけでもなく、ただひたす
らこちらに手を伸ばし悲鳴に近い声を上げていたあの光景を。

(――――師匠っ!)

ざぶん、という音は、水面を叩きつける雨音と、茶色く濁った急流の音によって掻き消さ
れた。目立つ漆黒は濁流の中に呑まれ、小さな姿は視界から消え失せた。晴れた穏やかな
流れであれば、鉄鎚でもない限り溺れなかっただろう。危険を顧みず今にも溢れかえりそ
うな河原へと馳せ、何度飛び込もうとしたか。その度にダイオンに羽交い絞めされ、だが
他の仲間たちもどうにか大切な仲間を助けようと手をこまねいていた。

「それからすぐだった。濁った川が一瞬のうちに赤く染まったのは」

先日荒れた海で見た光景。禍々しくも神々しいと思える緋色一色の世界。曇天の隙間を裂
くように天に昇る緋色の柱。時が止まったかのようにぴたり、と激しい水音は消える。静
寂にも似た静けさに身震いを感じた。どうしてなのかは全く分からない。それでも緩やか
になった流れの中に浮き上がってきたシリュウを助けることが手一杯で、それ以上深く追
求することが出来なかった。

あれは神の怒りなのだと。宗教云々には砂塵たりとも興味も関心も抱いていなかったシェ
ンリィが、最終的に出した答えだった。それ以外、何も見出せなかった。経緯はどうであ
れシリュウが助かったのだからと、奇異な事件を記憶の片隅にやり、排除しようとしたの
だ。

再び、同じ光景を見るまでは。
そして確立した。十であった信頼が、限りなく十に近い九になってしまったことに。



「そうか」

どこか塞ぎ込んだような面持ちで一つ相槌を打ったヒューガは、いつの間にか手のひらを
握る力が強くなっていることに気付いていなかった。

「…あんたはさ、あの子のことに関する時はすごく良い顔してるんだよ」
「……?」
「あの子が嬉しそうだとあんたも嬉しそうで、あの子が悲しそうだとあんたは苦しそうに
 している。一心同体じゃないんだから、心の中の浮き沈みなんて分かるはずないのにさ」

甘えることに対して酷い抵抗があるシリュウを何とか手懐けようと勤しむ姿は、まるで必
死に主人に好かれようとする犬のようだ。そんなことを言ってしまえば失礼に値するので
口には出さない。エリーナとカインの関係とは違う、例えるならそう、親友のような間柄
に見える二人は、ふとこちらが気付くと笑いあっている。大概がヒューガ一人で盛り上が
っているのだが、多少迷惑そうにしつつも満更ではない様子であることを、いつも気にか
けているシェンリィは知っていた。恐らくそれは、エリーナ以外の誰もがそうだろう。

「初めてあんたを見た時、何て孤独で寂しい目をしているんだろうって思ったよ。
 誰も寄せ付けない眼光。人を拒絶する仕草。あんたはいつも一人になろうとしてた」

ただ一人を除いて。自ら孤独を選んでいる彼が、彼の許容範囲に土足で入っても構わない
と選定した者が、感情面で未だ不器用なシリュウだなんて思いもしなかった。数年間であ
ろうと、フィラインでシリュウを育てた歴史は事実だ。厳しくも過保護に育てた。ほんの
少しだが、甘えることを覚えさせた。それら全て、フィラインで培ってきたものだという
のに。…良い目をしていることは認めるが、鳶に油揚げをさらわれてしまった気分だ。だ
から人一倍警戒して、家族同然の仲間が悪用されないか、この目で見定めていた。残念な
がら、全てを見極めることは出来なかった。腹の底を探ろうとすればするほど、目の前の
男はごく自然に逃げる。こういった探り合いに場慣れしているのだ。そんな人物が普通の
人間だなんて到底思えるはずがない。男もまた、それを無理に隠し通そうとはしない。そ
れがまた、情報を掴もうとするこちら側の苛立ちを募らせる。

「悔しいのは事実だけど……全く、シリュウもシリュウさ。
よりによってどうしてこんな得体が知れないわ、あからさまに怪しいわ、チームワーク
を見事に無視するわ、のどうしようもない唐変木な男にわざわざ構っているんだか」
「て、てめぇ…喧嘩売ってんのか」
「さあ?」

くすり、と妖艶に微笑まれたヒューガは少々苛立った様子で舌打ちを零す。結局遊ばれて
いるのは自分だと気付くと、無性に腹立たしくなる。

「それで、手前はどうするんだ」

むしゃくしゃする思いをどこにぶつけていいのかも分からず、がしがしと後頭部を掻いて
いていたヒューガは、僅かにへの字に曲げていた唇をキュッと噛む。何を言われたのかさ
っぱりの様子のシェンリィは、きょとんとしたまま数回瞬きを繰り返す。意表を突かれた
おかげで、それまで称えていた大人の魅力たっぷりの笑みは消え去り、代わりにどこか少
女に似た相貌が露になった。

「何のことだい?」

視線を一度あらぬ方向に向け、ぐるりと思考を逡巡させるがさっぱり答えが出なかった。
気の抜けるような答えにひくり、と顔を引き攣らせたヒューガは、こめかみ部分を押さえ
る。

「何って……シリュウのことだ。手前はあいつの敵になるのか、味方になるのか」

脱力の形をとったまま胡乱気に視線を動かす。それでもしらばっくれる気なら、女であろ
うが、歩の悪い相手であろうが、一発くらい殴りたい衝動に駆られるだろう。引くつく頬
の筋肉を気にしながらも、ヒューガは再度シェンリィを見下ろした。腕組みをして、いつ
の間にか何が入っているか分からない積み荷の上に座り、足を組んでいる女は、ヒューガ
のあまりに真剣な眼差しに多少目を瞠る。

「………馬鹿だねぇ、あんた」

フッと和らいだ空気にヒューガはゆっくり瞠目した。

「私がシリュウの敵になるなんて、この先何年、何十年経ったって有り得ないよ」

そう、例え天と地がひっくり返ったって。どんなに世界があの子供を拒んでも、決して手
離さない。手離す時は…この身が、朽ちる時だ。それまで、最後の最期まで突き放したり
はしない。

「あんたは…って、聞くまでもないか」

くすくすと口元に手を当て笑う仕草に不自然なものは何一つない。心からの笑顔なのだろ
う、一物を抱えているようなものではなかった。思わず放心しそうになる返答に、ヒュー
ガは居心地が悪そうに身をよじった。上辺だけの笑みならばともかく、まっさらな表情を
向けられては毒気を抜かれる。それに加え、自分自身がこの場にいてはいけないような気
がしてならないのだ。


「ヒューガー、師匠ー、どこですかー?」


突如、タンタンと階段を降りる音が倉庫内に響く。びくり、と過敏に反応したヒューガは、
薄暗い階段を凝視した。間延びした、聞き馴染んだ声がシリュウだと分かると、どこかホ
ッとした様子で息を吐く。その珍しい光景を一部始終見ていたシェンリィは、ふうん、と
意味ありげに目を細めると、座っていた積み荷の上から飛び降り、ヒューガの前を通り過
ぎた。

「はいはい、ここにいるよシリュウ」

苦笑交じりの声で応答すれば、何やらシリュウの文句がぶつぶつと聞こえた。耳聡いシェ
ンリィは、にっこりと笑って顔を出して現れたシリュウの眉間に一度小突く。どうやら余
計なことを口走ってしまったせいで制裁を受けているらしい。シリュウが最も子供らしい
表情を見せる相手を、ヒューガはまるで他人事のように眺めていた。

「シークエンドが呼んでます。もうすぐ陸地に着くみたいですよ」
「分かった。あんた、もう大丈夫なのかい?」
「はい。ちょっと寝過ぎて頭が痛いくらいですけど。
 ………ていうか、二人ともこんな所で何をしてるんですか?」
「野暮なこと聞くんじゃないよ。ほら、さっさと行った行った」
「な、何なんですか、全くもう。
…じゃあ俺はエリーナ達を呼んできます。ヒューガもちゃんと来いよな」

疑わしげに二人を見やったシリュウだったが、シェンリィには逆らう術を持っていないの
で渋々その場を退散する。踵を返し、再び甲板へ向かったシリュウの足取りは、こちらが
心配するほどではなかった。完全にシリュウの気配がこの近辺からいなくなったことを確
認したヒューガは、今までの話が聞かれていなかったことに安堵を覚える。

盛大に息を吐こうとした、その刹那。

「―――――っ!」
「私を失望させるんじゃないよ、ヒューガ」

息と息が触れ合う距離に、剣呑に目を細めた女の顔がある。一度呼吸の仕方を忘れたヒュ
ーガは、何とか口内に残っていた少ない唾を飲んだ。ごくり、と音が鳴る。この音は女に
も十分聞こえているはずだ。

「あんたのシリュウを見る目は認める。確かにあんたの目は間違っちゃあいない」

けど、と続く言葉にヒューガは目を細めた。唐突な行為のせいで一度は驚きを見せたもの
の、既に動揺という無様な醜態はヒューガには存在していない。全てを拒絶するような、
氷のように冷たい瞳がゆらり、と幾分か低いシェンリィを見下ろした。

「覚えときな。あんたは、一割、なんだよ」

わざと区切りを多くしたのか、はたまた偶然なのか。にやり、と口元だけ動かしたシェン
リィは底冷えするような、抑揚の欠けた低い声を響かせる。

「――――上等だ」

不覚にも、今の姿の方が美しいと感じたヒューガは、互いに揺れ動くことのない双方の瞳
を面白そうに、静かに見つめていた。






Copyright (c) 2008 rio All rights reserved.