● 唐紅の記憶  ●






薄暗い雑貨屋から出た時は判別し辛かった男の色合いが、照りつける太陽の光を浴びて、
今まさに男の真の姿を映し出していた。浮き彫りになった男の髪の色は、金髪というには
くすんでいて、茶色というには色素が薄い。暫く髪を切っていないのかそうでないのか、
両目が隠れてしまいそうなほど前髪は長い。後ろ髪も少し長いようだが、だらしないという
のではなく、ちょろりと襟足が揺れているほどなので気にするほどではない。直射日光に当
たってしまえばすぐに皮膚が炎症を起こしてしまうのではと、こちらが危惧してしまいそう
になるほどの不健康な肌は、雪のように白い、という美しい表現とはかけ離れている。白
というより青だ。病的な青白さだ。寧ろ病に侵されているのではないかと不安になってし
まう。しかし生気を思わせない色合いとは反対に、男の瞳は爛々としていた。生きる気力
を、この男の身長と瞳に持って行かれたのでは、と懸念してしまいそうなくらいに。全体
的に色素の薄い男の、唯一の鮮やかさ。原色と比べるとやはりこちらも薄いが、双眸に嵌
め込まれた朱色の瞳は、淡白な色合いの男を神秘的に引き立たせていた。

「いやあ僕は運がいい。皆さんのような強い方たちと同行できるんですからねぇ」

後ろは断崖絶壁。遥か下でせめぎ合うようにうねっている波が、白い飛沫を上げて再び荒れ
狂う水面に落ちてゆく。万が一ここから海面へと落っこちでもすれば、間違いなく命はない
だろう。

だというのに。そんな危険極まりない場所でも何も気に留めていないのか、ほけほけと笑
う男は、ふらふらとした足取りで珍しい岩を見つけては、自前の本に何かを書き込んでいた。
自らを考古学者と名乗る男の名はフォルト。シリュウ達がいなければギルドで護衛を雇い、
それが無理ならば無謀にも武器も持たずウィンデル遺跡に突入しようとした、大分常識の欠
けた人間である。よくもまあこれまで生きてこれたものだと、感嘆せずにはいられない。

「う、わっ。フォルトさん近づくと危ないから、危ないからっ!」

ザン、と波の音が静かに耳に届く中、とても穏やかとは言えない騒音が不定期に鳴り響い
ていた。その多くは鋭利なものが肉を斬るような音だが、その中に爆発音が混じっているの
はなぜだろう。時折少女特有の甲高い悲鳴が聞こえては、その従者が、言ってはいけないよ
うな物騒な一言を吐いて、少女を襲っていた魔物の息の根を止めていた。その一瞬、体感温
度が軽く五度ほど下がったような気がした。

大人しく待機していないフォルトを気にしつつ、シリュウは顔面に迫ってくる巨大な虫を
剣で叩き潰した。どういう構造で出来ているのか、蜂に似た魔物は、切りつけると噴水の
如く緑色の血と体液をそこら中に分散させる。うげ、と嫌そうな声をあげるが遅い。体に
直接飛び散ることはなかったが、利き手である左腕は肌の色が隠れてしまいそうなほど緑
色に染まっている。どうやら毒性があるわけではないようなのだが、厄介なことに人間の
赤血球に似た要素がこの緑色の血に多く含まれているのか、急激に凝固していく。バリバ
リと音を立てて剥がすが、吸盤のように肌にシリュウの肌に密着しているせいで、尋常で
はない痛みが同時に襲う。

だが、ちんたらしている暇はない。

「シリュウさーん、これなんですかねぇ?」
「ちょ、え、ま、待って待ってフォルトさん!」

チッと清涼感のある色で統一された男が舌打ちを零した。それも、盛大に。

「あの、野郎。この状況をふざけてやがんのか……!」

鋭く細めた瞳が、探究心溢れるフォルトの後ろ姿を捉える。よほど腸が煮えくり返ってい
るのか、振り降ろされる剣先にいた魔物は、無残な形で死に絶えていた。飛び散る緑色の
液体を上手くかわしながら、ヒューガはフォルトを追いかけて彼から魔物を遠ざけようと
するシリュウを援護しようと一気に駆け抜ける。例えるならそう、鬼の形相。ぎらぎらと目
を不気味に輝かせているヒューガに、空気を読めるわけがない魔物が、数匹果敢にも立ちは
だかった。

にぃ。

形容するなら、そんな音。逆光でヒューガの顔色は見えないが、僅かに見え隠れする男の口
元が、おかしな格好でつり上がった。その数秒後、憐れな魔物は切ない断末魔を上げて朽ち
果てることとなる。






第25話 『増えた荷物』






「うわあ、これは大変貴重な鉱物ですよ。古代イニシアから重宝されていたものです」
「………彼を崖から突き落していいですか勿論良いですよねそうですよねシリュウ君」

ひくり、と頬を引き攣らせたカインは息継ぎもせずにシリュウに微笑んだ。と言っても、目
が笑ってはいなかったが。誰だこの常識のない男を連れてきた奴は、とカインの目は訴えて
いた。

「まあまあ、落ち着きなよ。あれがいなくちゃ遺跡で迷うことになるだろう?」

すっかり青褪めたシリュウを不憫に思ったか、一つ溜息を吐いたシェンリィが、一際大きな
岩に頬擦りをしているフォルテに近づいた。よほど珍しいものなのか、それともただ単に彼
が鉱物好きなのかは知らないが、その執着は異常であった。すぐ真後ろにシェンリィが近づ
いたというのに、全く気付く様子は見受けられない。この緊張感のなさは、シリュウとヒュ
ーガにフォルトを紹介された時から相変わらず変わっていないが、戦闘中も好奇心に負けて
探究心の赴くままに行動されてはこちらが堪ったものではない。先ほどもシリュウが駆けつ
け、更にはヒューガが援護に回ってくれたから良かったものの、一歩間違えば死に繋がる。
それくらいのことは分かっているだろうに、どうしてジッと出来ないのだろうか。ここ、ウ
ィンデル遺跡の周辺にたどり着くまでずっと喋っていたエリーナでさえ、この時ばかりは大
人しく下がっている。利口そうな顔をしていたから油断した。いや、実際利口なのだが、如
何せん常識というものがない。これはエリーナと張り合える。そういう意味ではなかなか強
敵だ。

「あんた、考古学者か何かだったかい?
 あちこち調べたくなる気持ちは分かるけどシャンとしな。下手をすれば死ぬよ」

声色は直接的なカインより大分穏やかではあるが、見上げる視線はぞくりと粟立つほどであ
る。師匠が怒っている、とやはり真っ青なシリュウは、きょとんとした様子でシェンリィを
見下ろすフォルトを心配げに見やった。女性にしては長身であるシェンリィでも、流石にフ
ォルトほどの長身な男には気迫負けするだろう、と誰もが思っていたが、実際この目で見て
みると全くと言っていいほどそんな具合はない。

「あ…すみません、僕ったらつい」
「つい、じゃ困るよ。戦えないのなら頼むからエリーナと一緒に大人しくしておくれ」

呆れたように嘆息すれば、少々縮こまった様子で項垂れるのっぽの男。背の高さだけを見れ
ば威圧感があるはずなのに、シェンリィが窘めるとどうしても子供っぽく見えてしまう。大
分年が離れているせいもあるのだろうが、諭し慣れている雰囲気には誰しも呑まれる。それ
は長い付き合いのシリュウも、彼女より年上であるシークエンドでもだ。結局はこの中の誰
もが彼女には頭が上がらないわけである。

「すみません、考古学者の血が騒ぐというか…皆さんお怪我はありませんか?」
「俺たちは大丈夫です。フォルトさんやエリーナに怪我がなくて良かった」

剣先にこびりついていた魔物の血を拭き取っていたシリュウは、一度皆を見回しホッと安堵
した。ガレオラ港を出立し、遺跡付近までは何の障害もなく順調だったのだが、いざ遺跡に
入ろうとした瞬間、蜂に似た巨大な魔物に襲われたのだ。ようやく決着がつき収拾がついた
のだが、魔物の残骸があちこちに転がっている風景は、見事にこの壮大な景観をぶち壊して
いる。

「ううう…緑、何で緑…?」
「お嬢様、あまりご覧になられない方がよろしいかと」

赤い血はまだ見慣れていても、緑色の血は見慣れていないのかエリーナはブツブツと同じ言
葉を何度も繰り返しては口元に手を当てて気持ち悪そうにしていた。

「おら、さっさと入るぞ」

少し休もうか、とカインが提案するのを遮るように、苛立った声が背中に投げかけられる。
スッと目を細めたカインは、不機嫌極まりない男を静かに睨み上げる。しかし、男は既に
手入れした剣を鞘にしまい、一人でさっさと遺跡の入口を怪訝そうに手探りで何やら調べて
いた。罠がないか探しているのだろう。

「だ、大丈夫よカイン。私まだ歩けるわっ」
「……辛くなられましたら、すぐに仰ってくださいね」

暫しの沈黙を守った後、カインはエリーナの顔色を一瞥してから嘆息する。最近の主は我慢
強くなってはいるが、痩せ我慢との違いを理解していないようだった。青褪めていた理由は、
もとから嫌いな虫が、それに輪をかけるように気味の悪い液体を流しているからだ。身体的
な疲労というよりも精神の方が参っているようだ。

「大丈夫?エリーナ」

気遣わしげにかけられた言葉は、その表情と同様いかにも心配しています、といった様子
だった。ようやく立ち上がったエリーナは、大好きな少年の声にパッと表情を明るくする。

「うん平気よ。これくらい、何てことないんだから」

えへん、と胸を張ったエリーナにシリュウはくすくすと苦笑を零す。エリーナの恋心とその
アプローチに気付いているのかいないのか、シリュウの反応はいつも似たようなものだった。
女子供には相変わらず甘いようで、強くは出ない。常に一歩引いて相手の様子を伺っている
姿勢を見てみると、シリュウはとてもじゃないが亭主関白になれる要素は欠片も見当たらな
い。尻に敷かれる人生を歩むのだろう、とカインは呑気に小さな二人を観察しているが、そ
の一方で時折見せる、シリュウの言いようのない哀愁の横顔をそっと思い出していた。

確か、年は十六ほど。エリーナより一つ年下。このぎすぎすとした仲間の中でも最年少。一
つや二つの我が儘くらいならば、大人組みである三人が叶えるというのに、子供は我が儘を
言うどころか、なかなか言い出せないこちらの我が儘を巧みに引き出そうとする。常々思う。
この子供は、子供の皮を被った年寄りなのではと。いつぞや、この少年に直球で言ったのだ。
「年寄りくさいですね」と。彼と同じ年頃の少年なら、普通憤るか拗ねるか、とにかく不快
の意思表示をする。ところが。ところが、だ。

(でしょ)

なにがでしょ、だ。おまけにちょっと気恥ずかしげにはにかんでいたのだから驚きだ。シリ
ュウの答えは、カインを困惑させた。予想外だった。シリュウが世間一般に言う少年たちと
同じ返答をするとは思っていなかったが、まさか年寄りくさいという言葉を不快に思うどこ
ろか、肯定的に受け止めるなど思ってもみなかったのだ。しかしそこでふと、これまで気付
きそうで気付けなかったことが頭を過った。

ヒューガとシェンリィ、そしてカインは互いに互いを牽制し合いながら均衡を保っている。
それぞれが支えである軸がしっかりと立っているからこそ、今は崩れていない。ヒューガと
シェンリィはシリュウを。カインはエリーナを。関係性など全く違う三人だが、支えたい
と思う者がいるからこそ、多少いざこざがあれどこれまで穏便に過ごしてきた。相手が腹の
中で何を企んでいるか、細心の注意を払いながら。

ところが、一人だけ腹の底が見えない相手がいる。ヒューガやシェンリィではない。いかに
も隠し事がありますという人間は、悟られぬようこちらに防壁を張る。それでも土足で入ろ
うとする者には情けなどという容赦はしない。それが、二十年以上生き抜いてきたカインが
知る世界だった。子供の心など、読むというレベルではない。喜怒哀楽が激しいうちは心を
読むなどという面倒なことをせずとも、勝手に顔が喋ってくれる。失礼ではあるが、エリー
ナがその見本だ。

「暗いから、気をつけてね」
「うん。…シリュウの手握ってもいい?」
「いいよ」

どうしても分からない。目を凝らしても、わざと挑発するような言葉を投げかけても。子供
の内側が見えない。これは何故だと問いかけてもそれまでは答えは出なかった。けれど、裏
表のない表現や偽善ではない優しさに、カインは自分にとって縁遠いものを感じずにはいら
れなかった。

内側が読めないのではない。この少年は、最初から内側という心がないのだ。
純粋ではあるが、無垢というほど綺麗ではない。人間という愚かさを、世界という汚さを、
少年は何故かこの年で、嫌というほど理解している。そんな目をしているのだ。だからこそ
食えない。ヒューガやシェンリィよりも食えない相手だ。本当に何を考えているのか、口に
出している言葉は果たして真実なのか。真っ直ぐなくせして中途半端に汚れているから、少
年の本心が見えない。


「どうしたんだカイン、ボーっとして」


珍しいな、と笑うシリュウに、カインは取り繕ったように微笑んだ。どうやら本当にぼんや
りとしていただけで、シリュウを睨んでいたわけではないようだ。子供らしい感情がないこ
とは相変わらずだが、自然に浮かんでいる笑顔は恐らく偽物ではないだろう。

いつの間にか他の者は遺跡に入ってしまったらしく、残されたのは子供二人と、最後尾を歩
くカインだけだった。いくら真剣に考え事をしていたとはいえ、この失態は二度も出来るも
のではない。疲れているのだろうか、と思わず自分の頬に手を当てた。角張った頬骨を擦る
が、特に問題はない。

「今行きますよ」

きょとんとした様子の二人を追いかけ、カインは駆け足で今にも崩れ落ちそうな遺跡の入口
を潜った。鼻につく水分をまとったカビ臭さに思わず顔をしかめるが、そんなことには少し
も気にも留めず、部屋の真ん中で地図を確認している輪に急ぐ。物珍しそうに周囲に目を泳
がせているエリーナが勝手に行動しないよう、シリュウは手を繋いだまま制止役としてその
様子を見つめていた。

「えーっとですね、僕たちの現在の位置はここなので……、
奥に行くには左側の通路を通るようですね。右側は書斎になっています……書斎…」
「何だい?もしかして見たいのかい?」
「はぁ?こいつのペースに合わせてたらどんだけ時間食うんだよ」

苦虫を噛み潰したかのように嫌そうな顔を見せたヒューガは、ぎろりと自分よりも高い身長
の男を睨みつけた。しかしやはりフォルトはつわものだった。彼の中には恐怖という感情が
ないのか、締まりのない笑顔を浮かべているだけである。

「ま、まあ落ち着いてヒューガ。少しくらい大目に見てあげてよ。
 地図の所有者はフォルトさんで、俺たちは彼の付き添いみたいなものなんだからさ」
「だ・か・ら。それが気に入らねぇっつってんだよ!」
「喧しい人ですねぇ。確かにこんな場所にお嬢様を一分一秒もいさせたくはありませんが、
状況が状況なのですし仕方がないでしょう。それくらい理解してはどうですか?」
「っかー!テメェに言われたくはねぇ!」

よほどむしゃくしゃしているのだろう、両手で頭を掻きだしたヒューガは嫌味たっぷりの小
言を言ってくれた男をぎろりと睨みつけた。いつも通り、そんなことはお構いなしのカイン
はちらりとフォルトが凝視している書斎を見据えた。アーチ状の入口には細かな花の形のし
た細工がこしらえられており、質素ながらも落ち着いた雰囲気を醸し出している。銅で出来
ているのか、それとも錆びているのか、縁取られている花々は赤銅に似た色合いであった。
アーチにかかっている埃の量を見れば、どれほどの間放置されてきたのか、という歴史が
嫌でも分かってしまう。カビ臭さに加え、埃臭さも混じっているせいか、気管に入ればむせ
返してしまいそうである。

「相当古い建物ですからね。それ相応の書物があったっておかしくはないでしょう」
「本って…恋愛小説とかもあるのかな?」
「おや、エリーナさんは恋愛ものがお好きなのですか?勿論そういったものだってたくさん
ありますよ。さあ、是非一緒に探してみましょう!きっと面白いものが見つかりますよ」
「え、え、ちょ、え!?」
「お嬢様!ちょっと、フォルトさんあなた…」
「さあさあ、カインさんも早く!」
「…全く、しょうがないねぇ」

弾む声、戸惑う声、苛立った声、呆れ返った声。四人がぞろぞろと書斎へ向かおうとする中、
ヒューガはその後ろ姿を見送りながらふと、一緒について行きそうなシリュウがその場に
いないことに目を瞬かせた。

「おい、どうしたんだシリュウ」

エリーナと手を繋いでいたはずの少年の姿が見当たらない。きょろきょろと辺りを見渡せば、
膝をついて腰をおろし、螺旋状に地下へと続く下り坂をジッと見つめているシリュウの姿が
あった。どこかへ一人で行ってしまったのではないかという懸念を、シリュウを見つけたこ
とにより振り払う事の出来たヒューガは、ホッと胸を撫で下ろした。簡単に見当たらなかっ
たのは、彼が目の高さにいなかったせいだった。

「おいこら、危ねえだろうが」
「ん?…うん、ごめんごめん」

渦巻くような風の呻き声に耳を寄せていたシリュウは、こつんと握り拳で軽く小突いたヒュ
ーガを見上げた。底の見えない地下に皺を寄せたヒューガは、よいしょと立ち上がるシリュ
ウと交互に見やった。この下に何があるのだろうかと再度濃い暗闇を覗くが、ただ風の音が
聞こえるだけで何か不審なものがあるようには思えない。

「シリュウー早くー!」

ハッと振り返ると、アーチ状の門のすぐ前で大きく手を振っているエリーナが大声でシリュ
ウを呼んでいた。その場にフォルトの姿がないようだが、恐らく既に中へ入ったのだろう。
残ったエリーナとカイン、シェンリィが逆方向にいるシリュウ達を待っていた。

「先に入ってて。すぐ行くよ」

それに大きく頷いたエリーナに続き、カイン達がアーチ状の門を潜った瞬間。

カチ、という音にシェンリィとカインが大きく振り返る。先に駆け出したのはどちらだった
か。呆然とこちらを凝視している二人の瞳が見えた。しかし、同時に視界に混じった網目の
格子。走るような速さに、手を伸ばすが間に合わない。

「―――――!!」

がしゃんという重みのある壮大な音に、気分が沈むような沈黙が流れた。誰もが瞬きを忘れ、
唖然とした様子で隔てられた鉄の格子を見つめた。

「な、何で!?私達閉じ込められちゃったの!?」
「罠ですか…厄介なことを」

苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたカインは、冷たいそれを握る。ざり、という音とと
もに手のひらに残ったのは、錆ついた鉄の跡だった。厳重に作られているので、ちょっとや
そっとではビクともしない。

「困りましたね。多分これは、本を盗まれないようにするための、
ハンター用の罠みたいです。ほら、これを見てください、このくぼみ」

非常事態にようやく気付いたフォルトが、奥から出てくる。しかし、入口が鉄格子で封鎖さ
れているのを見て思いきり嫌そうな顔をした。だがそれも一瞬で、すぐさま門下に腰を下ろ
し、薄暗い場所を手探りで何かを探し出す。真っ黒になった手など気にもせず、フォルトは
閉じ込められたであろう原因を突き止めた。

「どうやら人の重みに反応するもののようですね。…小賢しい」
「と言ってもねぇ、四人ともこの上は歩いたはずだよ。
何でフォルトが最初に入った時にこの鉄格子が落ちなかったんだい?」
「さあ。もしかすると古過ぎて作動しにくかったのか。それとも重量制限でもあったのか」
「わ、私そんなに重くないわよ!」

ぎゃいぎゃいと喚いている四人を未だ唖然とした様子で見つめていたシリュウは、思いの外
焦っていない彼らに恐る恐る近づいた。鉄格子で阻まれてはいるものの、完全な鉄壁ではな
いので、手が届かないわけではない。軽く左右に揺さぶってはみるが、やはり一ミリたりと
も動く気配はない。

「ど、どうしよう…」

途方に暮れているのは、意外にもシリュウであった。閉じ込められている四人といえば、閉
じ込められているという危機感があるのかないのか、苛立った様子は見受けられるが焦った
様子はあまり感じられない。その中で唯一エリーナのみが普通であろう反応を見せてはいる
が、カインやシェンリィが傍にいることで幾分か安心しているようだ。

大袈裟に慌てているわけではない。寧ろ無言のまま自分の中で焦っているシリュウは、傍か
ら見れば考え事をしているように見えるだけで、焦燥に駆られているようには見えない。そ
んなシリュウの変化を目敏く発見したヒューガは、それまで沈黙を守り続けていたが、そこ
で初めて、とうとう大きな溜息を吐いた。

「そう深く落ち込むな。なぁに、こういった類の罠なんぞいくらでも見たことがある」

萎れた様子のシリュウの頭を、数回撫でたヒューガは、薄暗さに加え沈んでしまうような空
気を見事に掻き消すような笑顔を向けた。ちらりと見えた白い歯が眩しい。ぽかんとするシ
リュウを置いて、ヒューガは慣れたような仕草で周辺の壁を触りだす。触れるというよりも
なぞると言ったほうが正しい表現だろう。指の腹で慎重に死角になりやすい四隅や、石像の
裏側を丹念に探っている。どうやら解除装置を探しているのだろう。その姿があまりにも真
剣そのもので、シリュウはただただ驚きで目を見張るばかりだった。そうだ、ヒューガはト
レジャーハンターだと名乗っていたではないかと、初めて出会った時のことを思い出す。ど
うやらそれは嘘ではなく真実のようだ。

頼もしい背中にホッと胸を撫で下ろす。四人が助かると決まったわけではないが、何らかの
手だてが見つかったのだ。今はそれに懸けるしかないし、何よりシリュウの動悸が下がった。
未だ鉄格子の向こう側、書斎に閉じ込められている四人を見るが、エリーナを除く三人は
既に自力で何とか出来ないかと、ヒューガと同じように辺りをうろうろしている。恐らくこ
の中で最も夜目のきくシェンリィは、どこに何があるかということが大体把握出来ているだ
ろう。そのおかげか、少し足元が覚束ない様子の男たちよりも機敏にそこらを動き回ってい
る。

「絶対、ここから出られるよね」

そわそわとした様子で辺りを見回していたエリーナが、鉄格子を挟んですぐ目の前にいるシ
リュウに不安そうに目元を下げた。鉄格子を握ろうとしないのは、先にカインがそれを握っ
て掌が汚れたからだ。

「大丈夫。俺たちで何とかして見せるから」

静かに微笑んだシリュウを見て安心したのか、エリーナの肩がスッと下にさがる。どうやら
緊張していたようで、肩がかちこちに固まっていた。落ち着きを取り戻したエリーナを確認
してから、シリュウもヒューガ達と同じように罠の解除装置を探そうと踵を返し、一歩踏み
出したその刹那だった。

ガコン、という、先ほど鉄格子が落ちてくるスイッチとは全く別の音が、静寂である遺跡の
中に不気味に響いた。思わず固まってしまったシリュウは、ぎこちない動きで再び後ろを振
り返る。この音の発生源はヒューガではない。当のヒューガも、驚いた様子でこちらを凝視
している。皆の手が止まった。しかし、隔てられた鉄格子が動く様子はない。ということは、
先ほど押されたスイッチは別のものであるということだ。誰だ、誰が何のスイッチを押した
のだと互いが互いを見つめている。そんな中、一人だけ首を傾げ、困った様子で振り向いた
者がいた。

「………すみません、僕、何か押しちゃいました」

えへ、と笑うが誰も何も返さない。妙な静けさが一帯を包み込んだ。重苦しい空気が立ち込
む。そこでようやくシリュウが口を開こうとしたまさにその瞬間。


「――――今、誰か何か言ったかい?」


シェンリィはごくりと固唾を飲み込んだ。気のせいなら良い。だが、一瞬耳を過った微かな
声が嫌に頭に響く。それは声かどうかも分からない。もしかすると、物音だったのかもしれ
ない。だが確かに聞こえたのだ。それも、聞きなれた音が。腹を空かせ唸るような、静かな
音が。一つ、二つ、三つ…。どんどん大きくなる音。そして、迫りくる殺気。

「……シリュウ」
「え、何」
「剣を抜け。…………来るぞ」

何が、とまでは続かなかった。シェンリィが危惧していた音が、確実にこちらに向かってい
る。ぞわりと背筋が凍り、無意識に左手は腰に下がっている柄を握っていた。僅かに手が震
えている。これは恐怖か、それとも武者震いか。額から滲み出る脂汗が頬を伝い、服に滲み
込む。瞬きも忘れ近づいてくる気配の方向、先ほどシリュウが見下ろしていた地下への螺旋
を食い入るように凝視する。口内に溜まった唾を飲み込む時に、もしかすればヒューガにも
聞こえたのではないかと思えるような大きな音がたった。心なしか鼓動が早まり、息苦しく
感じる。落ち着かなければ、と言い聞かせるがそれが更に焦りを引き立たせる。乾いた下唇
を噛みしめ、シリュウは一度瞼を閉ざした。


「――――行くぜ、シリュウ!!」


緊張を帯びたヒューガの掛け声と同時にカッと目を見開く。視界に広がる赤い瞳の数に鳥肌
が立ったが、鞘から剣を抜き出す時には左腕に感じていた震えは完全に治まっていた。







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