● 唐紅の記憶  ●




視界が霞む。ぐわん、と鈍器で殴られたような痛みが、後頭部に一つ。焼けるような喉の
痛みなど知ったことかと言わんばかりに、肺は何度も酸素を取り込もうとする。喘息でも
起こしたような咳き込みように、思わず顔をしかめる。千鳥足になっている足を叱咤する
が、思うように動かない。叫び声と、咆哮が同時に聞こえた。耳を塞ぎたくなるような音
をグッと堪え、男は一度口内に溜まった血を唾とともに吐きだした。大丈夫、先ほどより
は眩暈も、吐き気もなくなっている。どす黒く染まった剣先を見つめ、男は静かに奥歯を
噛んだ。

まだ霞んでいる視界の中で、こちらに背中を見せている小さな背中を見つめながら。






第26話 『零れたもの』






人間の大人の首の太さほどあろう牙を持つ、竜の形をした魔物の攻撃を素早く交わしたシ
リュウは、剣呑に目を細めた。小回りの利く体で巨体な魔物の周りをジグザグに回る。す
ると図体がでかい魔物はどすどすとこちらに近づこうと足音を鳴らすが、歩幅が合わない。
おまけにシリュウは決して直線に動いていないので、足を取られて転倒する魔物さえいた。
それを狙っていたシリュウは、一気に倒れた魔物へと加速し出す。剣先を下に向けていた
ものを、近づくにつれ少しずつ円を描くように天井へと持ち上げる。加速をつけて舞い上
がったものは、縦に噴き出す血飛沫と魔物の悲鳴だった。体を横にずらし、生ぬるい血を
避けるが左腕に点々と滲み付いた。シリュウの黒い服が、濡れた所が更に深く染まる。

「左!それと上っ、来るよ!!」

上がった息を整えようとするが、シェンリィの尖った声にハッと眼球を前後左右に動かす。
指示された方向から来る攻撃を間一髪で避け、シリュウは再び走った。けれど、ある場所
を遠ざけて。間合いが取れたシリュウは、ちらりと正反対の方向を見やった。そこで蹲っ
ている男は、未だ復活する様子はない。大きく肩で呼吸をしているのか、何度もその場所
が動いている。立ち上がろうと試みているようだが、その度に崩れ落ちていた。

(ヒューガ…っ!)

噴き出す汗が頬を伝い地面に落ちた。残りの魔物はどれほどだと、忙しく辺りを見回すが、
翼を持つ魔物を含め二体残っていた。

フォルトが何らかのスイッチを解除してしまった後現れたものは、今の数より倍はいた魔
物の集団だった。よほど飢えていたのか、魔物の眼は外にいる魔物よりもずっとぎらぎら
と不気味に光っていた。だらしなく口を半開きし、その端から流れる涎が気持ち悪い。不
幸中の幸いは、その涎が人間の肉を溶かす作用がないということだった。しかし腹を空か
せている魔物は性質が悪く、もとの気性が荒いことも加え、空腹なくせしてどこからそん
な力があるのか、一度吹き飛ばされでもすれば気を失うほどの破壊力を持っていた。

その餌食になったのが、ヒューガだった。

「何をしているのですヒューガ、さっさと立ち上がりなさい。それとも何ですか、そのみ
っともない姿を晒したまま犬死するおつもりですか。ああ何て嘆かわしいんでしょうね」

本人は否定するだろうが、毒舌という名の励ましの声にヒューガは意識を浮上させていた。
何度も咳き込み、血反吐を吐く。腹や胸の辺りを触るが、どうやら骨に異常はないようだ。

「ぅ、るせぇっ」

苦しげに吐き出された声はしゃがれていた。カインの声援とも言えぬ声援に立ち上がろう
とするが、膝に力が入らない。無様に再び地に伏した。脳震盪を起こしているのか、眩暈
や吐き気が襲う。目の前でヒューガを庇いながら戦っているシリュウの姿が、二重に見え
た。数分でもとに戻るだろうが、その数分が今は一刻を争う。

「今戦えるのはシリュウ君だけなのですよ。あなたが倒れてどうするのですか」

カインの言葉に、グッと息を詰まらせる。そうだ、今戦力となるのは倒れているヒューガ
と、たった一人で大勢の魔物と対峙しているシリュウしかいない。鉄格子で阻まれている
者たちは、降りかかる攻撃の方向を叫ぶだけで、それ以外の手段を持たない。ナイフより
も細い鋭利な凶器を隠し持っていたシェンリィが、鉄格子の隙間から何とか応戦出来ない
ものかと機会を伺っているが、一度成功しただけでそれ以後は隙が見当たらない。悔しさ
に奥歯を噛みしめることしか出来ない無力さが腹立たしかった。

シェンリィが投げ落としたナイフを走りながら拾ったシリュウが、それを指に挟み空を飛
び回る魔物の急所を狙う。見事命中し落ちてきた魔物を、真っ直ぐ剣を突き立てれば、声
にならない悲鳴を上げて魔物は絶命する。それに一息つく暇もなく、シリュウは再び走り
出した。先ほどシリュウがいた場所に魔物が爪を立てる。あと少し遅ければ、シリュウの
肉片が飛び散っていただろう。

「困りましたね、せめてこの鉄格子を何とか出来れば…」

両手で鉄格子を握るが、びくともしない。それでも無理と分かっていながらも試みようと
するのは人間の性なのか。蹴ってみたり押し上げてみたり、何とか動かないかとあれこれ
試してみるが、全てが無駄に終わってしまう。それでももう一度、と再び鉄格子に触れよ
うとしたその時。

ガン、というけたたましい音ともに黒い塊が鉄格子に叩きつけられた。その瞬間聞こえた
くぐもった呻き声に、四人は息を呑む。蒼褪めたエリーナは言葉を失っているのか、口元
に手を当て驚愕した様子で目を見開いていた。ずるずると崩れる黒い塊は、苦しげに何度
も咳き込み、立ち上がろうと唯一離さなかった剣を地面に突き刺す。息切れした呼吸は掠
れており、所々破れた衣服には赤い血が滲み込んでいた。何とか気力で意識を保っている
ようだが、先ほど打ちつけられた背中が痛むのか、前屈みになったまま立ち上がる気配は
ない。地面を見つめている瞳は、俯いてしまっているせいで見ることが出来なかった。


「――――何してるんだいシリュウ!さっさと立たないかっ!!」


空気を切るような鋭い声に、皆がハッと我に返った。驚きで瞠目していたカインは、鉄格
子に叩きつけられた小さな塊が、たった一人で魔物と戦っていた少年だと気付くと、こち
らにゆっくりとした足取りで近づく竜の魔物を睨みつけた。

「や、やだシリュウ、魔物が来ちゃうよっ。…早く、早く立って!早く逃げて!!」

悲痛なエリーナの声が届いていないのか、うんともすんとも言ってこない。不味い、と嫌
な汗が伝い落ちた。妙に脈が速くなる。涎を流し、中途半端に口を開いた魔物が、シリュ
ウを狙っている。不味い。

「立ちなさいシリュウ君。貴方、食われますよ」

底冷えするような低い声に、ぴくりとシリュウが一度反応を見せる。のろのろと持ち上げ
た顔は、魔物をしっかりと見据えているのか。背中を向けている姿では、それははっきり
とは確認出来ない。けれど、戦闘をする際にいつも感じられていた少年の覇気が感じられ
ない。ということは、もう立ち上がる力もなければ剣を振るう余力も残っていないのだろ
う。

「シリュウっ!はや、く…早く、逃げなきゃっ!!」
「この馬鹿弟子がっ。あんたの力はそんなもんじゃあないだろう!?」

真っ青になったエリーナは、鉄格子から懸命に手を伸ばし、シリュウの背に触れた。普段
のシリュウならば、こんなに取り乱しているエリーナを放っておくはずがない。振り向く
ことはなくとも、一言二言、安心させるような言葉を言うはずだ。だというのに、返事が
ない。痛みにのたうち回ることもなければ、地面に突いた剣が抜かれる様子もない。シェ
ンリィの叱責が飛ぶ。本気で叱られているような、身が竦みそうになるような声色にさえ
届かない。下唇を強く噛んだシェンリィは、ぷつりと何かが切れた音とともに鉄の味が広
がる唾を飲み下した。不快な味は、沸騰した頭を冷やす。どんどん近づいてくる魔物が一
度、にたりと笑ったような気がした。そんなことあるはずないと分かっていながらも、不
気味に歪む魔物の表情は、窮地に追い込まれた人間の思考を麻痺させる。

「私が奴の足止めをする!その間に……シリュウっ、いつまでくたばってる気だい!」

針よりも太く、ナイフよりも細い鋭利な道具を構えたシェンリィは、僅かにある隙間から
勢いよくそれを投げつける。二つ三つと、同時に投げつけた凶器がこちらに真っ直ぐ歩み
寄ってくる魔物の足にぶつかるが、皮膚が硬いせいで貫通しない。しかし、少しでも時間
が稼げるのならばと何度も同じ行為を行うが、魔物は虫に噛まれたとしか感じていないの
か一向に気にする様子は見せない。

どすどすと足音が近づく。揺れるような、重い足音だ。ぞくりと背筋が粟立った。そろり
と視線を落とすが、少年は前を見据えたまま動こうとしない。鉄格子越しに見える少年の
背中が、とても小さく感じた。まだまだ小さいとは思っていたが、こんなにも頼りないも
のであっただろうか。背負うものが大きければ、握る剣も重い少年はそこらにいる子供よ
りずっと強かった。身体も心も、桁違いの強さを持っていた。その、はずだった。

「――――い、いやぁぁああ!!」

再び鉄格子が揺れた。傍に寄っていたシェンリィ達も、鉄格子に食い込む赤黒く厚い皮膚
に飛び退く。金切り声を上げたエリーナを庇うように前に立ったカインも、この時ばかり
はサッと顔色が変えた。ギリギリと軋む音は、一人の少年を捕らえている。後ろには鉄格
子が。前には、赤い眼をぎらつかせている魔物の手が。

「や、やだシリュウっ!やだやだやだっ!!」

カインの手を振り解き、鉄格子ごとシリュウを捕えている魔物の手へと駆け寄る。慌てた
様子でエリーナを引き離そうとするカインだが、華奢な姿とは裏腹に止めようとするカイ
ンの腕を振り払おうとする。未だシリュウを掴んだまま動く気配がない魔物の手を怖がる
どころか、それを邪魔なもののように扱い始める。それに肝を冷やしたカインは、引き離
す力を強くする。喚く声が大きくなったが、魔物に余計な刺激を与えてはこちらにまで害
をなす可能性がある。この凶暴な爪がエリーナの柔肌を少しでも掠めでもすれば、血飛沫
が舞い上がり、傷が癒えたとしても痕が残るかもしれない。大切な少女にもしそんなこと
があってはと、普段エリーナにだけ甘いカインも、この時ばかりはこの悲痛な我儘を聞き
入れることは出来なかった。軽い少女の体はすぐに離れる。けれど、耳に届く布を裂くよ
うな叫び声を素面で聞き流せるほど、カインは非情になれなず、思わず顔面を歪ませた。


「やかましい、馬鹿女が」


ぽろぽろと透明な涙を流してシリュウの名を叫び続けていたエリーナの声が、ぴたりと止
まる。くぐもったような、少し苦しそうな低い声によって。

「……そん、な」

口内は乾ききっているというのに、ごくりと喉を鳴らせた。それは、誰の者であったのか。
しん、と静まり返った世界に、低い音の咳き込んだような声が響いた。まるで何かに遮ら
れているのか、その声ははっきりしない。ぎょろりと眼球だけを動かしてその声の主を探
した。けれど姿が見えない。まさかと思い、ある場所に視線をずらした。この鉄格子のす
ぐ傍で倒れ込んでいた、男の姿を。

「この、トカ、ゲ風情が……っ」

吐き捨てるような言葉は、すぐ前方から聞こえた。だが、シリュウの声はここまで低くは
ない。そんな馬鹿な、と視界に移るシリュウの黒髪を見つめる。この頭は、確かにシリュ
ウのものだ。反応はないが、この黒髪を持つ者は彼以外いない。

「くっ、そ、馬鹿力が…っ!」

驚きに目を瞠ったシェンリィが、鉄格子を凝視した。ギシギシと不可思議な音を鳴らすそ
れは、一瞬魔物がシリュウを掴んでいる手の力を強めたのかと思ったが、そうではない。
息を呑んでその光景を見つめていると、がっちりとシリュウを捕えていたはずの魔物の手
が、おかしな様子で痙攣しながら、少しずつ鉄格子から、そしてシリュウの体から離れて
行く。押さえ込まれていたことにより支えが失ったシリュウの体が、ずるりと傾く。漸く
見えた少年の顔は、ひどく疲弊した様子で青白かった。固く閉ざされた瞳が、一度ぴくり
と動き出し、そろそろと瞼が持ち上がった。

押し潰されていた肺に、冷たい空気が入る。あと少しで気が遠のきそうだったせいか、ゆ
っくりと開いた世界は白く歪んでいたが、間近に巨大な影があることは確認出来た。ああ、
魔物にやられてしまったのだろうかと、働かない頭が緩やかに回転し出す。だが、不思議
なのだ。息苦しいのは相変わらずだが、それ以外致命傷を負ったような痛みを感じない。
背中は硬いものに押さえつけられていたせいか所々痛むが、骨を折った様子はない。押し
潰されている中心であるどこかが一つぐらい故障してしまっても何らおかしくないという
のに、寧ろ温かみを感じるのだ。一瞬、魔物の手の温度かと思ったが、それはないと自分
の中で答えを出す。厚い皮膚には温かみはない。冷たいだけで、人のような温もりなど感
じられるはずがない。

では、この温もりは誰のものなのか。

「まだ死んでねーだろうな………シリュウ」

一度咳き込み、何かを吐き出した後に耳朶を響かせる聞きなれた声に、シリュウは一気に
覚醒する。徐々に元に戻りつつある視界は、やはり薄暗い。

「……な、ん……」

水分を求める喉はひどく掠れていて、発した声は言葉らしい言葉一つさえ吐き出すことは
出来ない。濁ったような言葉はそれでも届いたのか、目の前にいるはずのない影が、ゆる
りとこちらに首を回せば、意地の悪いような笑みを浮かべていた。言葉を失って瞠目すれ
ば、そこで漸く自分の位置を理解する。

背中にあった冷たさや痛みは鉄格子のもの。節々を掴まれていたものは魔物の手のもの。
だが、この人のような温もりは……。

「な、んで……どうし、て………ヒュ、ガ?」

固く握られた剣を魔物の掌に突き刺すように食い込ませているヒューガは、肩で息をしな
がらも少しずつ、だが確実に魔物を押しのける。剣を握るその腕は震えていた。汗だくで
幾粒もの滴が顎から地面へと伝い落ちている。厚い皮膚を抉るように、何度も角度を変え
た途端、耳を塞ぎたくなるような叫び声が遺跡を揺らした。一体何が起きたのだと皆が目
を泳がせる。

「はっ、弱点が、手と、足の裏とか、分かりにくいんだよ」

息も切れ切れにヒューガが嘲笑した瞬間。皮膚から肉に到達した剣を、一気に横に引き裂
く。支えるものがなくなった剣は、あっさりとヒューガの手から離れ、カランと音を立て、
弧を描くように地面へと落ちる。赤黒い血飛沫がヒューガの顔面に飛び散り、思わず目を
瞑ったヒューガが、その僅かな隙を突かれ痛みにのたうち回る魔物に蹴飛ばされた。

「ヒューガっ!!」

目の前で起きた事態に目を剥いたシリュウは、風のように飛んで行ったヒューガを目で追
いかける。背を丸くして吹っ飛ばされた体は、再び壁へと打ちつけられる。ひびの入った
壁が、どれだけ魔物の蹴飛ばす力が強かったのかしっかりと表現していた。小さな悲鳴が
聞こえただけで、打ちつけられた反動で仰向けに倒れたヒューガが動く様子がない。悲痛
な叫び声とともにばねのように立ち上がったシリュウがヒューガのもとへ駆け寄ろうとす
るが、弱点を突かれ大怪我を負った魔物が血を流しながらそこら中をじぐざぐに歩き回る。

「……っこ、の!」

ヒューガが落とした剣を素早く拾ったシリュウは、己の剣を左手に持ち直し、不安定に動
き回る魔物の背後を取る。我を失っている魔物は、既にシリュウの姿など見えていないら
しく、痛みから逃げようと悲鳴を上げながら辺りをのたうち回る。

「だあぁぁぁああっ!!」

ヒューガが負わせた傷の掌が、こちらに向いた刹那。二つの剣を構えながら低い姿勢で走
り出したシリュウが、左手に持っていた剣を勢いよく突き立てる。再び襲った強烈な痛み
に立っていられることが出来なくなった魔物は、ゆらりと巨大な体を地面へと叩きつける。
一度尻尾がバウンドし、だらしなく開かれた口の端からは黒っぽい長い舌が覗いていた。
ビクビクと痙攣する魔物の動きが弱々しくなっているのを確認したシリュウは、肩で息を
しながら覚束ない足取りで魔物に近寄る。残った剣、自分のものよりも幾らか重みが感じ
られるヒューガ剣を持ち直し、一度こびり付いた血を除くため一振りする。

「これで、最後だ」

魔物の首元に剣先を突きつけたシリュウは、一度大きく深呼吸して閉ざしていた瞼を持ち
上げる。少し濃くなった赤色の瞳が、痙攣し続ける魔物を見下ろした。両手で柄を持ち直
したシリュウが、全体重をかけて剣を皮膚の薄い首へと突き刺す。思った以上にすんなり
と貫通した瞬間、ビクリと一つ大きく痙攣した後、魔物は目を白くしてぴくりとも動かな
くなった。

「…………終わった」

放心したような声で、シェンリィが大きく息を吐いた。何も出来なかったというのに。今
頃ドッと疲れが押し寄せてくる。涙を溜めていたエリーナはその場で崩れ落ち、立つこと
も出来ないのか口元を押さえながら何とか嗚咽を堪えようとしていた。

ギギギ、と地響きのような音がした途端、目の前で固く阻んでいた鉄格子がゆっくりと上
へと持ち上がる。呆然とその光景を見つめていた四人が再び動くことができたのは、鉄格
子が完全に見えなくなり、もとの装飾されたアーチの門が現れた時であった。

「どうやら、魔物を倒すことがここから出られる条件だったみたいですね。
 いやあ、シリュウさんとヒューガさんがいなかったら今頃どうなっていたことか」

のんびりとした声色で門を潜ったフォルトが、きょろきょろと辺りを見渡す。足元に転が
っていた魔物の死骸を嫌そうな顔で見ていたが、これ以上の仕掛けがないと分かると、未
だ動くことのできない三人ににっこりと微笑んだ。


「―――ヒューガっ、おいヒューガってば!」


弾かれたように我に返ったのは、泣きそうな叫び声が聞こえたからだ。一目散に駈け出し
たシェンリィは、倒れ込んでいるヒューガのもとで懸命に彼を揺さぶっているシリュウの
もとへと急ぐ。

「なあ起きろって、ヒューガっ」

くしゃりと顔を歪めたシリュウは、固く瞼を閉ざしたままの男の頬を軽く叩いた。呼吸と
脈はすぐさま確認したのだが、起きる気配がない。真っ青になったシリュウが目元を押さ
える。視界が歪み始めた。

押し潰されそうになった所を助けたのは、この男の背中だった。魔物の手に完全に掴まれ
る前に、滑り込むようにシリュウの前に立ち塞がった男が、シリュウを守った。僅かに出
来た隙間によってシリュウは内臓を潰されずに済んだのだ。

「なん、で…何で、こんな………」

一つ、二つ。それがヒューガの顔に落ちた。

「ふざ、けるなよっ、ばっかじゃないのか」

目元が熱い。これ以上は落とすものかと、必死に目元を拭う。

間違えれば、死ぬ所だった。運が悪ければ重傷を負う所だった。無謀だった。生きるか死
ぬかの選択をしているようなものだった。

「起きろよ、まだ死んでねーだろうなって、お前俺に言っただろう」

シリュウの背中を、駆け付けたシェンリィが支える。それでも視線はヒューガに向いたま
まだった。ヒューガの怪我の具合を診たシェンリィが、一度険しい顔つきになる。だが不
安そうなシリュウに微笑むと、いきなりシェンリィは大きな平手打ちをヒューガに食らわ
した。手加減がないそれは、パン、と乾いた音を響かせる。

「ほら、さっさと目ぇ覚まさないか。この馬鹿もんが」
「え、ちょ、し、し、師匠……?」
「なぁに、ちょっと伸びているだけで目立った外傷はないよ。ほれ、さっさと起きんか」
「ちょ、ま、待ってください師匠!それは幾らなんでもヒューガが可哀そうですっ」

先ほどまでの重苦しい雰囲気はどこへやら、突然のシェンリィの行動にギョッと目を剥い
たシリュウがその腕を掴んで必死に止めようとする。しかしそこには師匠と弟子の壁があ
るわけで、何度制止しようとしてもあっさりと撥ね退けられるのだ。その間にも何度も頬
を叩かれるヒューガの顔と言えば、青白いのは相変わらずだが頬だけが異様に赤かった。
何とも哀れな姿である。

「……う、なん、だぁ?」

何度叩かれた後であっただろうか。おろおろとしながらシェンリィを必死に止めていたシ
リュウがぴたりと止まる。そして、恐る恐る視線を下ろした。

「いっ、てぇ………あ?何で、顔がいてぇんだよ」
「ヒューガ…」

よっこらせ、と爺臭い掛け声とともに起き上ったヒューガの姿はぼろぼろだが、シェンリ
ィの言ったように目立った外傷がないのか、思った以上にケロッとしていた。だが節々が
痛むのか、腕を回したり首を左右に動かしたりと調子を見ている。

「あーしんど。久々に頭打ちつけられたせいかぐわんぐわん言ってるわ」
「脳震盪だろう。場合によっちゃ危険だけど、あんたは石頭だから助かったんだろうね」
「うるせぇ。………ん、どうしたシリュウ」

いつもと変わらぬ光景にぽかん、としていたシリュウは、何度も瞬きをした。凝視されて
いたヒューガは少しくすぐったそうに微笑を浮かべていた。

「大丈夫、なのか?」
「おう」
「怪我は、ないのか?」
「おう」
「………本当に、大丈夫なんだよな」
「……ああ大丈夫。心配掛けて、すまん」

最後に笑ったヒューガを見て、そこで初めてシリュウは詰まっていた息を吐いた。

生きていたことに安堵する。本当に良かったと。冷えた腹の底が、再び温かくなる。

背中から、誰かに声をかけられた。振り向こうとした瞬間、それまで入っていたはずの力
がフッと抜けて行く。まるで全身の筋肉がなくなったような。体を支える骨が抜けてしま
ったような、そんな感覚だった。

誰かの悲鳴が聞こえた。男なのか女なのかさえ判別が出来ない。ゆっくり、ゆっくりと瞼
が落ちる。まだ言わなくてはならないことがあるのに。無茶をしたヒューガに文句の一つ
や二つ零して、泣いているエリーナを宥めて、カインの毒舌を聞いて、心配をかけたシェ
ンリィに謝って。

それから、それから。

視界が真っ暗に落ち、少し遅れて聴覚や全ての感覚が、消えていった。







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