● 唐紅の記憶  ●


涙を流さないと決めたのは、いつだったか。

記憶の中で揺れる緋色の世界の時であったか。それとも、親しい者たちとの別れからであ
っただろうか。淡白で面白みの欠片もない少年の記憶には、ただ一つだけ鮮明に残ってい
る色がある。おぼろげな中にあるものではない。唯一はっきりとした色が、ずっと色付い
て褪せることはない。

憧れだったのか、恋い焦がれていたのか。

ただ、その色は少年にとっては非常に眩しいもので、毎日太陽を見るかのように、目を細
めて見つめていたものだった。

(シリュウ、シリュウ)

鈴を鳴らすような可愛らしい声で、その人は名を呼んだ。飽きることなく、何度も。他の
者に止められても、少年がその人を無視し続けても。その人の周りで騒いでいた子供たち
は、少年を指さして馬鹿にするような言葉を吐いた。しかし何が楽しいのか、その人は嬉
しそうに微笑むのだ。その人は、子供たちとは違う存在だった。

(シリュウ、シリュウ。私とお話しましょう)

豪奢で美しい衣服を着せられた着せ替え人形のようなその人は、泥が服に跳ねても嫌な顔
一つせず、少年の後ろをちょこちょこ付いて回った。まだ、名前も知らぬ人だった。けれ
ど、狭い村の中では有名で、金持ちの子であったことは少年も理解していた。

柔で真っ白だったはずの少年の指は、常に冷たい水に晒されているせいで真っ赤で、あか
ぎれが特に酷かった。乾燥した藁を両手いっぱいに抱えていたせいで、衣服には乾いた草
の屑がこびりついていた。毎日隅々まで丹念に掃除をしていたせいか、顔は埃まみれであ
った。地毛である黒髪と似たような色であったので、侮蔑の視線は更に酷くなった。

けれど少年は、文句や弱音の一つを零すどころか、恐ろしいほど順応に指示という名の命
令を一つ返事でこなしていた。少年の背丈は、着飾った美しい人より、頭一つ分ほど小さ
かった。年は、同じほどか、一つか二つ上であるとその人は楽しそうに教えてくれた。

(一緒に遊びましょう。私のお友達も一緒に。ねえシリュウ、一緒に遊びましょう)

ずっと少年の背中を追っていたその人が、その日初めて少年の手を半ば無理やり掴んだ。
呆気に取られる少年のことなどお構いなしに、その人は少年の仕事を中断させ、森のほう
へと駆けた。

その人の手は、温かかった。少年のものとは違いまっさらで、きめ細やかな美しく白い肌
だった。少年の手は汚れていた。だがその人は、怯む少年を安心させるように微笑むと、
小さな手でギュッと壊れ物を扱うかのように包み込んだ。ただその人は、眩しい存在だっ
た。触れてはいけないものだった。目を合わせてはいけない人だった。視線が交われば最
後。眩んだ世界に呑まれてしまえば、もう引き返すことなど出来なかったのだ。

(ねえシリュウ、名前で呼んでくれませんか?私の名前を)

それは朱色の世界。薄れる記憶の中で唯一欠けることのなかった、夕焼けのように心落ち
着く温かな色彩だった。







第27話 『異なる声』







肌寒さに身を震わせる。鼓膜に更に膜を張られたように、外の音が丸みを帯びている。脳
からの伝令が指先にまで伝わると、びくりと痙攣するように一度跳ねた。それから間もな
く、ゆるゆると緩慢な動きで瞼を持ち上げれば、広がる世界は薄暗い景色。未だ正確に働
かない脳に抵抗するように、瞬きを何度も繰り返した。視界が元に戻り始めた後に、次は
聴覚が素早く回復し出す。緩やかな風の音が聞こえた。身震いしてしまいそうなほどの冷
気を感じていたのは、これのせいだろう。

「おや。皆さん、シリュウさんが目を覚ましましたよ」

状況が掴めず、ぼんやりとしていた途端。にゅっ、と視界いっぱいに現れた男の顔に、シ
リュウはギョッと目を見開いた。咄嗟にそれが誰なのか判断出来なかったのは、彼がこの
パーティーに馴染めていないからだろう。暫く呆然としていたが、すぐに冷静さは戻って
くる。そうだ、あののんびりとしたような風貌の男の名はフォルトだ。

「本当かい?」

あまりの驚きに身を起こしてしまいそうであったが、少し体を浮かしただけで走った痛み
に顔を歪める。思わず涙目になってしまったシリュウは、ぞろぞろと近づく複数の足音に
怪訝そうな顔を浮かべた。

「おはようございますシリュウ君。いつまで寝ている気ですか、さっさと起きなさい」
「……お、おは、よう?カイン」

フォルトの次に視界に入ってきた男は、目を細めてシリュウを見下ろしていた。膝を付い
て様子を見る気など更々ないのか、直立したまま見下ろす様子は、まるで見下しているよ
うにも見えた。普段は健全的で爽やかに見える面持ちも、今は機嫌が悪そうなことも加え
薄暗さの中ではまるで般若のように空恐ろしかった。優しくしろなどとは言わないが、一
応こちらは負傷者なのだから、もう少しそれらしい扱いをしてほしいと願ってしまうのは
贅沢なのだろうかと、思わずにはいられない。

「おそよう。………全くあんたは、毎度毎度無茶ばかりして」

くしゃり、と髪の毛を撫ぜられた心地良さに、シリュウはそっと目を閉じる。ふわりと香
るシェンリィの匂いに安堵の息を吐く。小さい頃は、ぎゅうぎゅうと無理やりこの腕の中
に抱きしめられたものだ。もう少しこの心地良さに浸りたいと思いながらも、それを頭の
片隅へと追いやる。もう一度瞼を開ければ、母親のような慈悲深い表情でシェンリィが静
かに微笑んでいた。思えば、心配をさせてしまった日は、必ずシェンリィは眉をハの字に
しながら微笑を浮かべていたものだ。その姿を見るたびに胸を締め付けられるような痛み
に襲われた。だから彼女を困らせぬように注意を払っていた。…それでも彼女は気付いて
いたのだろう。シリュウが陰で無茶ばかりをしていたことを。気付いていない振りをして、
そっと見守っていたのだろう。

「シリュウ、シリュウ。大丈夫?痛いところとかない?」

足元にはカインが。右にはシェンリィが。残る左を見やれば、思ったとおり、今にも泣き
出しそうな顔が一つ。きっとシリュウが気を失っていた時に散々泣いたのだろう。薄暗さ
の中でも分かってしまうほど、少女の目は赤く腫れていた。

「おはようエリーナ。ちょっと背中が痛いけど、大丈夫だよ」

あちこちが痛むが、骨が折れているわけではない。肺にも問題ない。その様子を信じたエ
リーナは、力が抜け切ったような笑顔を浮かべた。心底安心したという表情に、どれだけ
彼女が心配していたのか、はっきりと表れていた。泣き腫らした瞼が、全て自分のせいな
のだと思うと再び胸が痛む。

「よう。……お互い満身創痍だな」

エリーナの手を借りながら起き上ると、隅の方で座り込んでいる男が白い歯を見せながら
片手をこちらに向けた。本人が言うように男もやつれているが、それでもシリュウの方が
症状が軽く見える。所々掠った傷は塞がってはいるが、数が多い。痛々しさの加減は彼の
方が上だった。

「…………お前の顔、一発殴りたい」
「は!?」

思いのほか元気そうな姿に、シリュウは強く下唇を噛む。疲れたような、いつもより覇気
のない笑顔を見た瞬間に、庇われた時の記憶が思い起こされた。気を失う前に見た困った
ような表情。視界がぶれて、ぐにゃりと歪んでしまっていた世界でヒューガは微笑んでい
た。ホッとする気持ちは勿論あるが、冷静になると沸々と苛立ちが込み上げる。急に眉を
ひそめたからだろうか。それともシリュウが物騒な言葉を言ったからだろうか。素っ頓狂
な声を上げて目を剥いているヒューガは、顔色が悪いシリュウを訝しげに見つめる。

「何だ、頭でも打ったか」

苦笑を零すヒューガは、目を細めたままじとりと見つめてくる視線に身をよじる。しかし
どうしてシリュウの機嫌が悪いのかいまいちピンと来ない。訳が分からずゆっくりと首を
傾げる動作を見せるが、それでもやはりシリュウの機嫌が直る様子はない。困ったように
頬を掻く仕草がヒューガを幼くさせた。

「何で、あの時庇ったんだ……」

何故不機嫌なのか気付く気配もないヒューガに怒りを通り越して呆れた表情を浮かべたシ
リュウは、据わったような目付きでヒューガを見上げた。シリュウの問いに暫し間を空け、
こくりと小さく頷いたヒューガは、申し訳なさそうに少しだけ眉を下げた。弱っているよ
うな表情を向けられると、どうにも強く出ることが出来ないシリュウはグッと息を詰まら
せるが、今ここで引くわけにはいかなかった。本当ならば倒れる前に聞きたかったことを、
どうしてもこの男から聞き出したかったのだ。

「助けたかった。それだけじゃあ理由にならないってのか?」

然も当然に。今度は間を空けることなくきっぱりと。

「そ、それは…でも……」

そう来るとは思っていなかったのか、シリュウはヒューガの返答に言葉を失う。形成が逆
転したかのように、今度はシリュウが眉を下げた。

「でももへちまもねぇよ。お前が無事で、生きていたんだ。それで良い」

急に真面目な顔つきになったかと思えば、目尻を少し下げて微笑する。それがあまりにも
突然で、尚且つ綺麗なものだったから、シリュウは一瞬息を止めた。そして何故か、とて
つもない不安に駆られた。胸の辺りで何かが渦巻いているかのように、ざわめくのだ。放
っておいても問題なかったのかもしれない。普段のシリュウならば、一度一人で云々と考
え込む所なのだが、何故かこの時はぽろりと口から出てしまった。


「なんか、ヒューガらしくない、よな」


無意識だったのだろう。零した言葉は小さく、感情が篭っていなかった。シリュウが失言
にも似た言葉を吐いてしまったということに気がついたのは、目の前に鎮座する男が表情
をなくして瞠目して姿を捉えてからであった。しかし、それも数秒のこと。

「何だそりゃ。ははっ、面白いこと言うなぁお前」

ごく自然に。その苦笑は、誰が見ても不自然なものは見当たらないものであった。それで
も真正面から見据えていたシリュウは、僅かな変化に気付いてしまう。髪の毛一本程度の
差であったが、人の心の変化に敏いシリュウには十分なものであった。強張った表情はす
ぐに元に戻る。これまで生きてきた中で、この男は何度表情を作り続けていたのだろうか。
それとも、素面と思わせるその表情全てが偽物で、本物の顔など誰にも見せたことがない
のだろうか。そんなことを思わせるほど、ヒューガの変化は自然だった。

だから、シリュウは悟った。この話はこれ以上進めてはいけないのだと。

「で、お前動けるのか?」

座り込んだままのシリュウの傍に腰を下ろしたヒューガは、一度くしゃりとシリュウの髪
を撫ぜる。口端を上げてにやりとして見せたヒューガに、シリュウはこくりと頷いた。他
の四人の気遣わしげな視線に応えるように、地面に手をつけてよっこらしょ、と立ち上が
る。

「うん。大丈夫」

両腕を回したり、捻りながら異常がないか確かめる。ここでどこか悪くしていようものな
らば、遺跡の奥には進めない。一度体勢を整え、傷が癒えてから再びここを訪れなければ
ならないのだ。思いがけない足止めを食ったものの、一日二日という時間を失わずに済ん
だ。そう思えば、顔や腕に負った掠り傷など安いものだった。

「さあさあ、遺跡が僕を待っています。二人ともご無事みたいですし、先を急ぎましょう」

気絶していた割に思いのほか元気そうなシリュウの姿を見て、エリーナ達はホッと胸を撫
で下ろした。下ろしていた荷物を担ぎ、再び遺跡の奥へと早足に進む。相変わらずカビと
埃の臭いが蔓延している。時折風の唸るような音が、前からなのか後ろなのか聞こえてく
る。まるでそれが魔物の呻き声のようで、その度にエリーナは肩を竦めてシリュウの服の
裾を握っていた。少年と少女の歩幅は微妙に違うので、少し遅めに歩くエリーナがシリュ
ウの服を掴んでいるということを忘れてしまうと、うっかりつんのめりそうになる。どち
らが悪いかと言われればエリーナであるのだが、困った様子で苦笑するだけのシリュウは
文句の一つさえ零さない。エリーナが無事ならば特に問題はないのか、カインは素知らぬ
顔ではあるが、少しでも少女がこけそうにでもなれば、ぎろりとシリュウを剣呑に見据え
る。背中に嫌な汗を一つ二つと流しながら、シリュウは乾いたような笑いを見せるしかな
かった。

「ほう。この遺跡の最深部とは、どうやら地下のようですね」

思わずカインが溜息を吐く。無理もない、暫く道形を歩いて行くと、天井が高く開けた部
屋に辿り着いた。部屋の隅々を見渡しても、地図を確認しても、これ以上先に進むような
扉は見当たらない。代わりにあるものは、底の見えぬ底なしのように深い穴であった。螺
旋状の階段が、肉眼では把握出来ぬほど深い場所にまで続いている。耳を傾けると、ヒュ
オオ、と不気味な音が聞こえた。ここに辿り着くまでに何度も聞いた風の唸り声は、どう
やらここから発生していたものらしい。

「こりゃあ、すげえな」

まじまじと果てしなく続く螺旋階段を見下ろしていたヒューガは、何度も瞬きを繰り返し
た。この男でさえ、息を呑むほどの深い穴に、エリーナは蒼褪めた様子で後ずさりをした。

「こ、これ、下りるの?どこまで続いてるのか分かんないのに?」

どんなに目を凝らしても、地表が見えることはない。風が下から上へと吹いているせいか、
冷気が皆の体に容赦なくぶつかる。鳥肌が立っているのは、決して寒さからとは言い切れ
ないだろう。

「最深部はこの先なんだろうね?」
「ええ。どうやら地下に遺跡の財産が眠っているようですよ」
「と言われちゃあ、行くしかないねぇ」

夜目の利くシェンリィでさえも底が見えぬのか、幾ばくか不安な要素があるようで表情が
硬い。しかしそれさえも彼女にとっては良い刺激になるのか、暗闇を見つめる瞳はどこと
なく輝いて見える。もともと足場の悪い場所や、暗闇に乗じて活動することの多かったフ
ィラインは、これくらいの闇など恐れるに足りぬのだろう。それを証明するかのように、
シェンリィと同様、シリュウも涼しい顔で螺旋階段を見つめている。表立った動揺を見せ
なかったのは、シェンリィとシリュウ、そしてこの場面でもへらりとにこやかなフォルト
の三人であった。

「じゃあ私が先頭を行くよ。次にカイン、エリーナ、シリュウ、フォルト、ヒューガ。
 何か異論はあるかい?…………よし、ないようだね。皆足元には気をつけな」

松明を手に持ったシェンリィとヒューガが、隊の前後に回る。最低限の松明の灯は、光を
知らない闇を仄かに色付かせた。

「こんな所から落ちでもすれば、無傷では済まないでしょうね」

ぼそり、と呟いたカインの一言にびくりとエリーナが過敏に反応した。恐る恐る階段を下
りてはいるが、あまり幅が広くないため、壁に手を当ててでもいないと、ぽっかりと空洞
になっている左側の穴へと落っこちてしまう。中央だけが底なしの穴になっているので、
段を踏み外しでもすれば、そのまま落下する可能性もあるだろう。

「ゆっくり慎重に歩けば大丈夫だよ。何かあっても俺やカインがエリーナを守るから」

身を硬くして一歩一歩進むエリーナの背を見つめながら、宥めるようにシリュウは穏やか
な声色で宣言した。その言葉に振り返りそうになったエリーナであったが、最後尾を歩く
ヒューガの後ろを向くな、というきつい言葉にそれを改める。確かに、振り返った瞬間に
足を踏み外しでもすれば、笑いごとどころか大事になりかねない。ヒューガも場所が場所
なのでそれ以上は非難の言葉を浴びせることはなかった。

こんな状態であるというのに、相変わらずな二人の険悪さにシリュウは笑いを噛み殺した。
お世辞にも手を取り合えるような仲の良さではないが、どんな場所でもいつもと変わらぬ
言動を続けることができるエリーナとヒューガは、ある意味つわものであろう。

「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」

ほのぼのとした様子でそう言ってみせたフォルトは、くすくすと笑みを零している。エリ
ーナには聞こえていないのか、覚束ない足取りでゆっくり階段を下り続けている。最後尾
にいるので誰にも表情が見えないヒューガは、何気ないフォルトの言葉に不機嫌そうな面
をこれでもかと浮かべる。見ていなくても気配で分かるのか、フォルトの台詞とただなら
ぬ気配に苦笑したシリュウは、後ろを振り向くことなく気配だけで二人の様子を見守って
いた。

「あ?阿呆なこと抜かしてんじゃねぇよ」
「ふふ、随分とツンケンしてますねぇ。心を閉じてばかりでは誰にも信用されませんよ」
「………黙ってさっさと歩け。てめえと話すことなんぞ何もありゃしねぇ」
「ははっ、今度はつれないときましたか」

フォルトの軽い口調とは裏腹に、ヒューガの語尾はどんどん低くなっていく。最後に吐き
捨てた言葉など、腹の中が凍ってしまいそうになるほど冷たいものであった。

「それに比べて、シリュウさんはお優しい方なのですね」

話の矛先が急に変わり、シリュウは間を置いて反応を見せた。まさか自分に振られるとは
思っていなかったので、少しも構えてなどいなかった。

「え…そう、ですか?」

振られた話も返しにくいもので、これといった話題の盛り上がりは見当たらない。だとい
うのに何が楽しいのか、フォルトは終始笑ったままだった。よく笑う人だ。第一印象は正
直暗そうであったのだが、大きく覆される。

「シリュウさんの説得のおかげで、僕はこの遺跡にやってこられたんです。
 もし貴方に出会えなかったら、僕はきっと一生後悔していましたよ」
「そんな、大袈裟ですよ」

やたらと褒めるような言葉を並べるフォルトに、シリュウは慌てたように訂正しようとす
るが、物語を紡ぐように一度喋りはじめたフォルトは、口を閉じようとしない。幾ら呑気
な性格の持ち主とはいえ、こちらが言おうとする言葉を遮るほど饒舌な人間であったかと、
ふと疑問を覚えた。

別段、今ここで話す必要もないだろうに、フォルトはしつこくシリュウに話を振り続ける。
根が優しいシリュウがそれを邪険に出来るわけもなく、律儀に受け答えをするが、段々と
ヒューガの表情が険しくなっていることに誰も気付いていない。

「僕思うんですよ。貴方みたいな人がもっとたくさんいれば、平和なんだろうなって」
「は、はあ」
「何もかもを包み込めるような優しさを持つ人間なんて、そういませんよね。
 だから俺はシリュウさんが羨ましいんです。僕にないものを貴方はたくさん持っている」
「……あの、フォルトさん?」

おかしい。何故、そんなことをこんな場所で言うのだ。今言う必要などどこにあるのだ。
何故こちらの返答を待とうとしない。

いよいよ不審に思ったシリュウは、訝しげに眉をひそめた。前方は変わりなく進んでいる
ので、一人だけ止まるわけにはいかない。しかし、どうにも後ろが気になる。これが対面
であれば、こんなにも胸は騒ぐことはなかっただろう。だが今は背中が気になって仕方が
ない。むず痒さに似た感覚が、背筋から全身に伝わる。突然寒気がするのは何故だと思わ
ず両腕を摩る。本当に下から吹く風のせいだけなのかと疑問に思うほど、シリュウは気味
悪く感じていた。吐き気でもない。頭痛を起こしているわけでもない。熱を出したわけで
も、立ち眩みがしたわけでもない。

この寒気は何なのだと、考えが堂々巡りしていた途端。ぞわりと粟立つ。

(な、に?)

纏わりつく冷気を振り切ろうと、シリュウはぴたりとその場に立ち尽くす。これ以上訳の
分からない感覚に襲われるのは御免だと、未だ語り出そうとするフォルトの顔を見ようと
振り返ろうとした。

「本当に、羨ましいんですよ。……心底ね」

振り向いた先は真っ直ぐ立っている人間がいるはずなのに、どうしてなのか、シリュウの
視界だけは斜めに傾いていた。視界の端で松明を持つヒューガの表情が、驚きに染まる。
灯りの源である松明を所持していた彼の表情は、フォルトよりもずっと色鮮やかに映し出
されていた。ぽかんと口を開き、こちらを凝視している目が大きく見開かれる。それから
間もなくして、シリュウは視界から色を失う。

落ちる。


「―――――シリュウっ!!」


その間、一秒もない僅かな時間。一瞬にして暗闇の中へ吸い込まれたシリュウは、臓器が
口から出てしまうのではないかという感覚に襲われた。空気を切るようなヒューガの叫び
声が小さくなる。寒さのせいなのか、それとも落下する不快感からなのか、シリュウの意
識は再び闇へと誘われる。落下してしまっている状況だというのに、思いの外シリュウは
冷静だった。いや、もしかすると事の事態をいまいち上手く呑み込めていないだけなのか
もしれない。

おぼろげな意識の中で、シリュウは落ちる時に背中を押されたような感触を思い返してい
た。

(そんな、でもまさか…)

一瞬過った青年の笑顔。だが、すぐにそれを頭の片隅へと追いやるが、どうやっても再び
その笑顔が浮かんでしまう。満足な受け身の形を取る時間さえなく、風の抵抗を受けなが
ら、少年の頭から見えぬ底へと落ち続ける。抗おうとしても瞼はゆっくりと落ち、とうと
う少年は身を投げ出したままの恰好で意識を失った。

これまでに見た夢の中の人物とは違う、慈悲深く穏やかで美しい声を頭の中に響かせなが
ら。






(おやすみなさい。かわいい、わたしのシリュウ)






ふわり、と黒の世界に淡い赤色が不自然に灯り出す。小さく控え目な赤は次第に黒い塊を
包み込み、まるで全ての障害からそれを守るように、速度を落として静かに下へと舞い降
りていった。







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