● 唐紅の記憶  ●



どこまで続くのか分からない螺旋状の階段をひたすら折り続けていたヒューガは、真っ暗
で変わらぬ景色に段々飽きたのか、進む足の速度を少しだけ緩めて、黒ずんでいる壁をぐ
るりと見回した。下から吹く風が全身を叩きつけ油断すればよろめきそうになるが、そん
な素人のようなヘマはしない。足もとに重心を置きながら、それでも己の身体能力に過信
し過ぎることなく、最低限の注意を払う。自意識過剰、自惚れることが最大の敵であると
言いたげに剣呑に目を細めながら、ヒューガは何かを探るような様子でひどく汚れている
壁を見詰める。まるでスス汚れのようだ。

立ち止まるわけにはいかないので、静止することは出来ない。しかし、ヒューガにとって
はこの退屈な時間をどうにか出来れば、それで良かったのだ。何せ底なし沼のように果て
しなく続く穴の中を、かれこれ数十分は下り続けている。いい加減何かしらの変化があっ
ても良いのだが、とこれまで巡ってきた数々の遺跡の中を思い出しながら、ヒューガはこ
っそり溜息を吐いた。唸るような風が終始耳朶を響かせているのだ、ヒューガの溜息一つ
など誰にも聞こえるわけがない。

少しぼんやりし過ぎていたか、と視線を自分よりも先に進んでいる者たちに向ければ、黙々
と歩く先頭の連中とは対照的に、盛り上がっているわけではないが、細々と何かを囁き合
っている者たちが目に付いた。それはまるで密約を交わしているような、微妙な雰囲気だ
った。別に誰も話すな、とは言っていない。だからいつものように、普通に話せば良い。
ただ後ろを振り返ってもらっては困るが、それ以外は足元にさえ注意してもらえれば、別
段誰がこの場を盛り上げてくれようと全くもって構わない。

(なんだ、あいつら)

訝しげに眉をひそめたヒューガは、三、四段先を歩くフォルトとシリュウを見詰めた。囁
き合っている、というよりもフォルトが一方的にシリュウに何かを言っているようだ。明
らかに困ったような様子のシリュウに気付いていない訳がないはずなのに、空気が読めな
いのかそれともわざとなのか、フォルトは休む間もなくシリュウに話しかける。段々その
様子に苛々し出したヒューガは、冷たくあしらうことの出来ないシリュウの代わりにフォ
ルトを止めてやろうと、開いた段差を詰めようとした。

その、瞬間。

ぞくり、と背筋に何か冷たいものが流れたような感覚に陥った。まさか敵か、と思わず頭
上に松明の光を当ててみるが、ただ薄暗いだけで何もありはしない。敵がいるとするなら
ば、殺気の一つや二つあったっておかしくないというのに。妙な違和感を残しながらも、
ヒューガは気を取り直して前を向いた。それまでの所要時間は、数秒もない。

再び前を見た瞬間、ヒューガは己のあまりの失態に後悔した。

視界の端で捉えた、一つの影。それは全体が黒っぽいから、松明の光がなければただの塊
にしか見えない。赤ともオレンジとも言えぬ火の光が、ゆらりと不気味に揺らめいた。そ
の中で唯一この暗闇の世界とはかけ離れた色が、ヒューガの視界に容赦なく映り込む。見
知った赤を見つけた瞬間、ザッと血の気が引いた音を聞いた。瞠目したまま叫ぼうとする
が、喉の前と後ろが張り付いているように乾いていて、上手く息が吸えない。それよりも
先に腕が伸びて、届くわけがないと分かっていながらも、決して短くはないその腕を、暗
闇へと伸ばす。

かちりと、確かに互いの視線が交差した。

「――――シリュウっ!!」

少年の姿が完全に消えたのは、丁度ヒューガが少年の名を叫んだその瞬間であった。







第28話 『白の世界』







風景なんて、何も思い描けない。広がる世界は、ただ真っ白で静かだった。

(…俺、死んだのかな)

黄泉の国などまるで信じていないシリュウが漠然とそう思ったのは、前後左右何故か変わ
らぬ白の世界で、尚且つ暑くも寒くもないと感じていたからだった。いや、感じるという
表現は些か御幣だ。何故なら、声すら出せないこの場所で、温度や痛み、そして音を果た
して五感で感じ取っているかさえ、見当がつかないのだから。

だが不安というものは一切シリュウに襲ってこない。はて、感情という面々でさえもこの
気味が悪いような、心地良いような、相反する世界では通用しないのかと、苦笑が漏れそ
うになる。そこではた、と口元を押さえた。何だ、感情はちゃんと出るではないか、と。
ということは、本能はこの状態を危険と感じていないのだろう。確かに、真っ白な世界に
ぽつん、と取り残されたようなシリュウに、まさかどこからともなく魔物が襲ってくると
は考えにくい。出来ることならば、是非とも魔物が現れて脱出口を教えてほしいものだ。
そんなことを考えていても無駄だということを分かっていたシリュウは、ただこの緩やか
な世界に身を任せるしかない。本当に死んだのならば、誰か迎えに来てくれと言いたげに
瞼を閉じる。

皮肉なものだ。あれだけ死んでたまるものか、と自分自身に言い聞かせておきながら、実
際その黄泉の国へと誘われた瞬間、これまで背負っていた重苦しいものが、お前はもう用
済みだ、と言っているかのように離れていく。…勿論、それは本当にこの世界が死後の世
界であった時の話だが。

(白い。それなのに俺だけ、白くない)

対極の位置にある色彩。黒以外はほとんど無縁であったせいか、どうも汚れのない白が鬱
陶しく感じられる。いや、そうじゃない。黒で固めた確固たる色彩を、この白がじわじわ
とシリュウを食いつくしてしまいそうで、怖いのだ。その途端、膝が笑い始める。ドッと
汗が毛穴から吹き出し、体温を奪っていく。

(お、ちつけ。落ち着けっ!)

この世界が実は布切れで出来た世界であったのならば、崩れた瞬間にシリュウは大量の布
の下敷きになるだろう。そうなれば、重量さえ定かではない布を掻き分けるのは困難であ
るし、何よりどこが出口かさえ分からない。生き埋めになってしまう可能性だってある。
しかし、シリュウが恐れているのはそんな仮定の話ではない。生き埋めされてしまった時
の苦しさなど、どうでも良かった。

そう、どうでも良いのだ。直接的な圧迫が死に関することであっても、今のシリュウにと
ってはどうだって良いことだ。寧ろ直接的な表現があった方がどれだけ気が楽か。意味も
分からず震え続ける体は、やがては全身を巡る。その場に立っていられなくなったシリュ
ウは膝をつき、自分自身を掻き抱きながら何度も深呼吸を繰り返した。大丈夫、と何度も
言い聞かせながら。

(怖いっ。誰か、誰か……)

血の気の引いた顔は真っ青で、段々寒さを感じたのか上下の歯がガタガタと鳴る。言いよ
うのない恐怖は、蝕むかのように侵食する。こんなにも人を求めたのは初めてだった。ど
んな時も他人を頼ろうとしなかったあの決意は、いとも簡単に打ち砕かれる。誰か、と残
った僅かな理性を掻き集めて、シリュウは仲間の顔を思い浮かべようとした。


(おやすみなさい。かわいい、わたしのシリュウ)
(おやすみ。わたしの、いとしいこ)
(おやすみ。おれの、たいせつな――――)


ふわり、と温かなものがシリュウの頭に触れた。壊れ物を扱うかのような、優しさの塊の
それにシリュウは勢い良く振り返る。何度か記憶の中で出会った幼げな少女の声ではない。
聞いたことがあるような、なかったような曖昧なもの。視界の中に映る、三つの影。逆光
になっているかのか、彼らの顔は全く見えない。けれど、その誰もがシリュウに向かって
微笑んでいるような気がした。息をすることさえ忘れたシリュウは、呆然と影を食い入る
ように見つめる。そんなシリュウに気付いているのかいないのか、三人の中でも華奢な影
が、延々とシリュウの頭を撫で続ける。何度も、おやすみと子守唄を歌うように囁きなが
ら。

その声が女性だと気付いた瞬間、頭の中がスパークする。心地良い穏やかで優しい声が遠
のき始め、視界がグラつく。おまけに吐き気なんぞ覚えるものだから、何とか声を出そう
とするが結局漏れた音は言葉になってはいなかった。

(もう少し、待ってくれ!あと少し、ほんの少しでいいからっ)

切羽詰まった状態になりながらも、シリュウの頭を撫で続けるその動作はひどく優しい。
慈愛の満ちたそれに、涙が込み上げそうになる。息を詰まらせながら、シリュウは小さな
影に手を伸ばした。思うように動かない体を、叱咤して。

(あんしんして、おやすみ)

そっと微笑まれたような気がした瞬間、強烈な眠気に襲われる。伸びていたはずの腕はゆ
っくりと落ち、ほろりと頬を生温かいものが一つ零れ落ちた。








「――――っ!」


びくり、と一度だけ痙攣した体に、脳内が一気に活性化し始める。突然加速し始めた心臓
が喉から飛び出てしまうのではないかと危惧するほど、不安定なリズムで脈打ち続ける。
底冷えするような風が、お世辞にも穏やとはいえぬ勢いで体中にぶつかっていた。平素で
あったのならば寒さで凍えてしまいそうであるが、激しい運動を長時間続けたような茹だ
るような熱に侵された体を冷ますには丁度良かった。

「い、きて…生きて、る?」

荒くなった呼吸のまま瞠目していたシリュウは、未だ天に伸ばす己の左腕を不審に見つめ
る。何故自分は、宙に手をかざしているのかと。それはまるで何かを掴もうとして失敗し
てしまったような形だ。

(あれは夢?いやでも……)

少しずつ頭の方も覚醒し始めたのか、まずは荒い呼吸を落ち着かせる。何度も深呼吸を繰
り返し、直接胸に手を当てながら鎮まるのを待つ。最終的にシリュウが上半身を起こせる
ようになったのは、それから数分後だった。

「ここは…」

体のどこにも問題がないと確認したシリュウは、一筋の光さえ差し込まない真っ黒な空を
見上げた。ぐるりと周囲を見渡して状況を確認する。どうやらだだっ広い円形の中央に倒
れこんでいたようだ。視界の端に入り込んだ螺旋状の階段の終り。壁側に沿って何十、何
百もの足場がある。恐らく、今シリュウがいるこの場所が、この遺跡の最奥なのだろう。
空を見上げてもやはり何も見えない。ということは、かなりの高さから落下したことにな
る。

(―――そうだ、俺あの時…)

冷静に状況分析をしていたシリュウが、ぎくりと身を強張らせる。ふと背中に蘇る、あの
感触。誰かに背中を押されたような、違和感。

(いや、でもそんな、まさか)

大きく頭を振り、シリュウは手の平に爪を立てる。痛みで残っていただるさが吹き飛んだ。
はっきりと覚醒した脳内は、懸命にあの光景を思い出そうとしている。だが、理性がそれ
を拒んだ。

(そうだ、はっきりとした確証はないんだ。あの人が俺を突き落とすなんて、そんな…)

シリュウが立てた仮定が正しいのであるならば、それに越したことはない。誰かに背を押
されたのではなく、自らの失態により足を滑らせ落ちたのだ。根拠も証拠も見当たらない
今、実際やったのかどうか分からない相手を疑うのも時間の問題だ。堂々巡りをして終っ
てしまう。

一抹の不安を抱えたまま、シリュウは神妙な面持ちで一つ息を吐いた。何はともあれ、五
体満足であることには助かった。落下の途中で気を失ってしまったせいで、一体どれほど
の間落ち続けたのかだなんて定かではない。生きているということに対しては素直に歓喜
を覚えるが、腕の一本や二本、あばらの二本や三本、下手をすれば腰をぼっきりといって
しまったのではと危惧していた。しかし、驚くことに傷一つさえ見当たらない。不審に眉
をひそめながらも、本当に体のどこにも不具合がないかもう一度確認する。

「どういう、ことなんだ……?」

己の手のひらを見下ろしながら、シリュウはぽつりと呟く。掠れたような声は簡単に風の
音によって掻き消された。

「………ん?何で俺、今手のひらが見えるんだ?」

はた、と動きを止めたシリュウはもう一度手のひらを見下ろす。そして、上半身や下半身
も全て。腰に下げていた剣もどこか別の場所に落とした様子もない。長い付き合いである
己の半身のような剣があったことにホッと安堵しつつ、シリュウは仄かに薄暗い空間に首
を傾げた。この巨大な空洞を下りる際には、足元すら確認出来ないほど真っ暗闇であった
はずなのに、何故今ある程度の距離まで見えるのか。きょろきょろともう一度辺りを見回
し、この原因を探る。すると視界の端でこことは明らかに違う明るさを見つけた。もしや
どこからか光が漏れているのか。淡い期待を抱きながら、シリュウはゆっくりと立ち上が
り光の先へと歩み始める。どうやらこの空間には更に奥へと進む通路があるようだ。

けれど、頭の中で警鐘が鳴っているような気がした。下手に動かず、恐らく急いで下りて
くるであろう仲間を大人しく待つ方が良い。冷静なもう一人の自分が囁き続ける。そうだ。
こんな時こそ冷静に待機しておくべきなのだ。いくら仄明るい光が奥にあるからといって
魔物がいないとは限らない。遺跡に入って最初に罠にかかった時のように、一人では対処
出来ない事態が待ち受けているかもしれないというのに。

何故だろう。どうしてなのか、この光に誘われるように足が勝手に動くのだ。その間も延々
と頭の中が喧しかった。

(懐かしい気がする)

これは、夢に見たあの真っ白な世界の光なのか。それとも失った記憶の中で見たことがあ
るものなのか。普通の人間ならば、何らおかしくもない白っぽい光。いや、正直光の色に
反応しているのかさえ定かではない。ただ、惹かれるのだ。奥にあるであろう、何かに。

虚ろな瞳でふらふらと歩いていたシリュウは気付いていない。上着の下にある赤い石が、
淡く光を放っていたことに。





「―――魔物!?」

足元がすっかり見えるようになってはいるが、まだ安心しきれない明るさの域まで来たシ
リュウは、角を曲がったところで勢いよく一歩下がる。反射的に鞘から剣を抜き、その先
端を真っ直ぐ魔物へと向ける。剣呑に目を細めた先にいたのは、遺跡に入って間もなく現
れたものと同じ、竜の形に似た魔物であった。幸いなことに数は一匹。心なしか図体があ
の時のものよりも少しでかいような気がするが、弱点は分かっている。ヒューガが命がけ
でシリュウを助けた時に刺した、足の裏だ。

だが、あれだけの苦戦を強いられたのもまた事実。果たして一人で太刀打ち出来る相手な
のか。怖気づいたように一歩後ずさりしたシリュウは、ごくりと固唾を飲み込む。のそり、
とこちらに近づく魔物の爛々とした赤い瞳が、自分の持つ瞳と重なって見えた。黒ずんだ
ような深い赤に捉えられてしまえば、一気に恐怖が溢れるだろう。虚勢でも何でもいい。
とにかく負けてたまるかという底力を見せなければ、精神的に参ってそれが原因であの世
に葬られてしまう。


深く、だが静かに息を吐いたシリュウは相手の瞳を見据えたまま、ゆっくり歩み始める。
手前に剣を引き、そのまま、一気に駆け出す。

「――――っ!」

最初の一撃は皮膚が分厚く太い尻尾によって弾かれる。大きく仰け反りそうになる体を叱
咤し、腹筋を使い何とか持ちこたえた。半開きになっている口端から滴り落ちる涎が、み
っともなくボタボタと音を立ててシミを作る。こんな最奥に一匹だけいること事態が可笑
しな話なのだが、どれだけ長い間腹の中に詰め込んでいないのかは明らかだ。薄ら笑みを
浮かんでいるように見える魔物の顔に、知らずのうちに冷や汗が流れた。

(あと少し。あと少しなのに…!!) 

視界の端で捉えた光まで、あと一歩。漏れた光は確実に強さを増し、最奥がすぐそこなの
だと訴えているようだった。腕力が僅かに足りないシリュウは、焦る気持ちを抑え確実に
魔物の体力を減らす。

一人芝居のような剣劇は続いた。俊敏性という誰にも引けを取らない長所を生かし、自分
より二回り以上はでかい魔物を押し退ける。剣と魔物の尻尾、鋭い爪の攻防が収まる様子
はない。シリュウが一撃を食らわすまでに、二、三度魔物の重い攻撃が入る。最初に爪を
振り下ろし、避けた場所へと尻尾を旋回させる。これに直撃すれば、ヒューガの二の舞を
食らうことは目に見えていた。ヒューガでさえ脳震盪を引き起こしてしまったというのに、
彼よりも小柄で、お世辞にも体力が十分にあるとは言えないシリュウがもろに食らえば、
下手をすれば内臓破裂するか、もしくは死を覚悟しなければならないだろう。

寸でのところで魔物の回旋攻撃を避けたシリュウは、大きく後ろへと飛び退く。乱れた呼
吸を整えようと急ぎ深呼吸を繰り返すが、速度を上げた心臓の音はなかなか鎮まらない。
激しい攻防の末、いつの間にか右腕に裂傷を負っていたが、流血の量の割に大したことは
ない。その内に血は止まり、傷口は血液が凝固してかさぶたになるはずだ。右手で汗を拭
い、左手に持った剣を握る手の力を強める。見据えた先にいる魔物も、繰り返し弱点であ
る足の裏を攻撃されたことで体力を失っているのか、どこか動きが覚束ない。加えて極度
の空腹であったのだ。覇気があったのは最初だけで、今は赤い瞳もどこか虚ろで危険だ。

下唇を強く噛み、気を引き締める。一気に駆け出し、動きが鈍くなっている魔物の背後を
取ったシリュウは、高く跳躍し低い姿勢になっている魔物の背中に着地した。抵抗を見せ
る魔物に、振り落とされぬよう必死にしがみつく。向かう先は、大きく揺れ動く頭部を支
える首だ。

(あと少し。この角を曲がれば…!)

弾けるような白い光。暗闇に慣れてしまったせいでそれはひどく眩しいけれど、夢で見た
白の世界と同じものであるのだと、シリュウは確信する。虚無のようで、孤独のようで、
実はそれを全て覆すような柔らかな光。

この先に何があるのか。それはシリュウでさえ言葉に詰まる。ただひたすら、我武者羅に。
そこに行き着くことで、果たして意味があるかどうかだなんて分からない。だが、次々と
浮かぶ疑問をあっさりと跳ね退け、己の欲のまま走り続ける。行きたいんじゃない、行か
なくてはならない気がしたのだ。

(―――俺を呼んでいるのは、誰?)

振りかざす剣先が、ゆっくりと魔物の首筋へと食い込む。途端、鼓膜を破るような絶叫。
背を反らせた瞬間、両手で剣を引き抜き地上へと着地する。その際に飛んだ血飛沫が顔を
汚していたが、剣にこびり付いた血脂を払うだけで拭う様子はない。

完全に事切れた魔物を瞬き一つすることなく見下ろしていたシリュウは、のろのろと緩慢
な動きで光の方向へと歩きだす。通路の壁に手を添えながら、最後の一角を曲がり切る。
弾けるような光が、ぶわりと風を纏ったように襲いかかる。夢とは違う光に目を潰されそ
うになりながら、シリュウはその場に崩れ落ちた。






戻ってきては駄目。
振り返らないで。
この子の手を離してはいけないよ。
決して、失くさないで。






さようなら、シリュウ。






「う、ぁ……ぁぁああぁああ!!」


女の声。ざわめく音。複数の気配。離れた手。流れた涙。突然の、別れ。

吸い込みきれない情報が、脳内へと次々に注がれる。許容範囲を超えても尚、真っ白な映
像は微かな音を交えて侵入し続ける。人であろう顔の輪郭も、差し伸ばされた手の骨格も、
葉が擦れ合う背景でさえも。ただ真っ白だった。周りの音もぼやけていて、聞き取れない。
だというのに、女の声だけは鮮明であった。ただそれだけが、白の世界に浮かんでいた。

(俺の記憶にない声。俺の知らない誰か)

ぐわん、と鈍器で強く殴られたような痛みが、脳全体を襲う。まるで脳内を掻き混ぜられ
たような不快感に、吐き気を覚える。それでも情報は流れ込み続けた。その速度があまり
にも速過ぎて、抵抗しようと声にならない悲鳴を叫び続ける。何を叫んでいるかなんて全
く分からない。

(頼むから、お願いだからっ。もう俺の中に……入って、くるな!)

懇願に似た心の叫びに、ぴたりと情報が侵入を止めた。意志をもったような動きをしてい
た光は、次第に色を灯しはじめる。薄ら瞼を開き、怯えるかのように恐ろしい白を探しは
じめる。恐怖なのか、安堵なのか分からぬ世界は既に消えていた。ホッと胸を撫で下ろし
たシリュウがもう一度瞼を閉じようとした時、頬に強烈な痛みが襲う。


「おいシリュウ、しっかりしろよ、おいっ!!」


ぼんやりと焦点を定めた先にいたのは、必死な形相でシリュウを揺さ振っていた、今度は
本当に見知った青色の世界であった。








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