● 唐紅の記憶  ●



我ながら、驚くほど平常心が失っていたのではないかと思う。
目の前から少年が消えた瞬間、まさに音を立てて血の気が引いた。懸命に伸ばした手は虚
空を掻き、行き場をなくす。冷たい風が手の平を容赦なく叩きつけたが、余程必死だった
のか手汗は乾かなかった。

少年が落ちた。
漸くそう判断した頃、脳内は混乱していたせいで、一度眩暈を引き起こす。ふらつきそう
になる足を叱咤して、壁に手を沿わせて少年の二の舞にならぬよう、必死に足もとに全神
経を集中させた。ここが暗闇でなければ、自分の顔は面白いほど蒼白か、土色に変貌して
いたのだろう。唇は不自然に乾ききっており、口内の唾液もすっかりと失せていた。

(……落ちた……?)

異常事態に気付いた者たちが、少年の姿がないことに気付き慌てはじめる。何度もどもり
ながら経緯を説明する男の姿を、恐ろしいほど緩慢に動かした眼球で食い入るように見つ
める。表情という表情がごっそりと抜け落ちた顔を見ている者は、誰もいない。
状況を理解した者たちが、弾かれたように底の見えぬ暗闇に視線を落とした。そして、誰
かが少年の名を叫んだと同時に、自らも声を上げる。

「急げ!」

脳裏にちらついた元気そうに微笑む少年の姿を振り払おうとするが、どうしても消えてく
れない。それはまるで、走馬灯のように駆け巡る現象だった。最悪の事態をどんなに隠し
たとしても、本能が簡単に暴きだす。
可能性は低いのだと。ここから落ちて、どれだけ高さがあるか分からない場所から叩きつ
けられれば、どんな強靭な人間でも死ぬのだと。そう告げられているようだった。

指先がかじかむ。けれど、男は急ぐ心を落ち着かせる余裕もなく、一段一段を重苦しく下
り続けた。最悪の事態をわざと無視して、ただひたすら、時折もつれそうになる足に舌打
ちをしながらも、黙々と進み続ける。
無理やり頭の中に喝を入れ、前向きになろうとするが、下手にそう振る舞おうとするたび
に躓きそうになった。落ち着け、と自分自身に言い聞かせるが、どうしてなのかこの時だ
けは上手く感情をコントロール出来なかった。一秒、また一秒。刻々と時間が経つにつれ
焦燥心は益々煽られた。分かっているはずなのに、出来ないことが苛立ちを募らせる。

(落ち着け焦るな。大丈夫……そう、大丈夫なんだよ)

冷えた手先を握りしめ、自分の弱さを嘆く。
俺は、こんなにも弱い男だったのかと。
平常心を保たなければならないことは頭では分かっていても、理性がそれに追いつかない。
無理に膨れ上がったものを抑えつけようとすれば、無謀なことをしかねなかった。

大丈夫。過去のように、この手から零れ落ちることなどない。

一瞬脳裏に映し出された、掻き消したい過去に息を呑む。思い出すだけで全身の身の毛が
よだつような感覚に襲われる最大の失態。そして汚点。何年経っても色褪せることのない
記憶。
今という現状と重ねてしまった瞬間、言いようのない恐怖が足元から襲ってくきた。だか
ら、何度も言い聞かせる。この内側を吐露してしまえば、あまりの愚かさとみっともなさ
に嘲笑われるのだろうけれど。

二度と、同じ過ちは犯さない。そんなものは赦されない。

ぷつりと唇の端が切れる。口内に鉄臭さが広がった。






第29話 『開いた距離』






パン、と小高い音が耳朶に響いた瞬間。それから間もなくしてじわじわと左頬が痛みはじ
めたことを、ぼんやりとする意識の中シリュウは確かに感じていた。やけに重い瞼をのろ
のろと起こすが、いまいち視界がはっきりしない。膜が張ったような視界の悪さだ。一瞬
これは夢なのではないかという考えが一巡するが、前後に激しく揺さ振られれば、誰だっ
てこれは現実なのだと信じざるを得なかった。

何度か苦しげな呻き声を上げ、シリュウは億劫そうに瞬きを繰り返す。その反応に、ぴた
りと揺れが治まった。そのせいなのか、それとも別の要因なのかは定かではないが、頭が
ひどく重いと感じた。鈍痛に悩まされながらも、とにかく起きなければという信号が全身
を駆け巡る。

「シリュウ!」

喜びの混じった声は、エリーナのものだった。仄かに揺らめく明りの動きを追っていたシ
リュウは、緩慢な動きで視界に入る複数の影を見つめる。

「う……あ?」

何とも気の抜ける声でようやく覚醒したシリュウは、視界いっぱいに広がる少女の姿に焦
点を合わせる。ふいに、左手が妙に温かいことに気付く。ゆっくりそれに視線を落とせば、
柔らかくて小さな手が、冷たくなったシリュウの手を包み込んでいた。

「まったく……流石に生きていないかと思ったよ」
「あまり余計な世話をかけさせないで欲しいのですがね」

皮肉めいたシェンリィとカインの言葉とは裏腹に、それには明らかに安堵した色が含まれ
ていた。それでも内心を表に出さない辺りはやはり年の功か、上手く隠している。
心配しているのか呆れているのか、微妙な顔つきで見下ろす二人に、シリュウは苦笑いを
浮かべた。
確かに、一人で旅をしていた頃よりも反応が鈍くなってきたかもしれない。緊張感が欠け
てしまっていると反省していたシリュウは、先ほどから黙り込んでいる男に視線を向ける。
この二人と同じ様子であろうと確信していた相手は、きっと苦笑でも浮かべて、少し小馬
鹿にするような言葉を言って、何でもなかったかのように振る舞うのだろう。
心のどこかで、そう信じていた。

「………………」

ゆらり、と炎がヒューガを一瞬はっきりと映し出す。生気の抜けたような疲弊した顔は、
シリュウを見下ろしているはずなのに、それを通してまるで違う誰かを見ているようだっ
た。
ふと、左頬に痛みがあることを今更のように思い出す。握られている手とは逆の方でそっ
と押さえてみるが、鏡でも見ない限り、いまいち腫れ具合が分からない。けれどその場所
は確かに疼くような感覚があった。
エリーナの手を借りながら、シリュウは重い体を半ば無理やり起こした。それほど長い間
気絶していたわけではないのだろうに、全身がギシギシと音を立てる。

「ヒューガ……?」

優しくも畏怖の念を抱く白い世界の次に見えた、懐かしい色。再び気を飛ばしてしまう瞬
間に見た青色は、この男のものであった。必死に呼び起こす声は、ぼんやりとではあるが
確かに届いていた。
頬が痛むのは、彼のせいなのだろう。しかし女の子ではないのだから、気付けに一発叩か
れたぐらいでは、シリュウは気にも留めていなかった。

だというのに、この男は何故こんなにも思いつめたような顔をしているのだろうか。

「あの、……」
「―――馬鹿野郎っ!何で一人で行動した!?」

沈黙を守っていた男の、突然の怒声。雷が全身に落ちたような痺れを感じたシリュウは、
びくりと大きく肩を震わせる。隣に座り込んで心配していたエリーナも、仁王立ちしなが
らシリュウを見下ろしていた者たちも瞠目し、何事だと言わんばかりに大声を上げた男を
凝視した。

「何で俺たちを待っていなかった!?魔物が一匹だったから良かったものの、もし増援が
来ていたらどうするつもりだったんだ!下手をすれば死んでたんだぞ!!」

今にも掴みかかりそうな勢いで捲し立てるヒューガに、シリュウは返す言葉もなく俯いた。

どれだけ迷惑をかけたのか、分かっていないわけではない。寧ろ人一倍理解しているつも
りだ。けれど、幻覚のようなものを見てうっかり奥へ進んでしまったなど、あまりに身勝
手であまりに情けなかった。正論すぎる正論に、言い訳さえ浮かばなかった。

黙り込んだシリュウは、俯いたまま奥歯を強く噛む。前髪がはらりと視界を塞いだ。

謝らなければ。そう思うも、口は固く閉ざしたまま一向に開こうとはしない。頭の中では
分かっているはずなのに、出来なかった。
目の前で激昂する男が怖い、などという幼子のような心があるわけではないはずなのに、
どうしてなのか喉から言葉を吐き出せない。
感情的に怒鳴り散らすこの男に対して、恐怖とはまた違う恐れを抱いた。アーク遺跡でエ
リーナを庇い続け、負傷した時に説教されたものとは比較すら出来ない。
そう、この声はどれにも当てはまらない。知らない怒りだ。

真っ向から来る怒りを受け止めきれない。

「一人で行動することがどれだけ危険なのか分かってんのか!?」

ああ、多分。戸惑いを感じたのは。
ヒューガが今、本気で”シリュウ”という個体に向き合っているからだ。

「―――やめてよっ!」

身を乗り出して手を伸ばしたヒューガが、シリュウの肩に触れようとする。
しかし、乾いた音を一つ鳴らせ、甲高い声がそれを拒絶する。激情に身を委ねていたヒュ
ーガが、一度目を瞠った。

「そんなことあんたに言われなくたって、シリュウはちゃんと分かってるんだから!」

シリュウを庇うように前に出たエリーナが、涙目になりながらもヒューガを睨み付ける。
普段から苦手意識を持っている男を前にしてこんなにも強気でいられるのは、その後ろで
少年が悲愴な面持ちをしていることに彼女が気付いたからだ。

「…っ!てめえは関係ねぇ引っこんでろ!」
「か、関係なくなんてないわ!」
「黙れっ!俺は今こいつと、」
「怒鳴ってばっかりで、シリュウが辛そうなの全然分かってないくせに!」
「――――!」

ぎくり、と一瞬硬直したヒューガが遠慮がちにエリーナの背にいるシリュウを見つめる。
先ほどまでの憤怒の形相は消え、代わりに困惑した様子で言葉を失っていた。

「あ………いや、………」

ようやく我に返ったヒューガが、気まずげに視線を泳がせる。
途中で傍観に徹しているシェンリィとかち合った。少々過保護である彼女がどんな罵声を
飛ばすのだろうと構えるが、ヒューガが予想しているようなものは何一つやってこない。
意味ありげに双眸を細め、腕を組んだままジッとこちらを見据えている。何も言わない辺
りが不気味であった。

「シリュウが無事だったのに何でそんなに怒るの!?シリュウが嫌いなの!?」
「それはっ――――!」

敵意を含んだようにヒューガを睨み付けたエリーナは、弾かれたようにこちらに振り返っ
た男に、再度責め立てる言葉をぶつけようと息を吸う。

「―――違うよ、エリーナ」

遠慮がちに触れられた肩に僅かな重みを感じる。ゆっくりと首を動かしたエリーナは、未
だ俯いたままで顔色が伺えないシリュウを見詰めた。

「庇ってくれてありがとう。俺は大丈夫だから、もういいよ」
「でもっ」
「俺が勝手に行動しちゃったんだから、怒られても仕方がないんだ。だから、ヒューガを
あんまり悪く言ってあげないでくれないかな?」
「……でも……」

納得がいかないのか、なかなか下がろうとしない。少しだけ顔を上げたシリュウが、そっ
と苦笑を漏らす。そこには先ほどエリーナが見た、弱ったような様子は欠片も見当たらな
い。それでもいくらか躊躇したが、笑みを深くしたシリュウに後押しされるように、よう
やく押し黙る。

「本当に、ごめん」
「…………ああ」

ぎこちない空気が緩む場面を、ヒューガは愕然とした様子で見つめていた。眉を下げて謝
るシリュウにさえ、一瞬気付かなかった。

「あ、喧嘩は収まりましたか?」
「……そのようだよ」

今の今まで我関せず、と辺りを散策していたフォルトがひょっこりと顔を覗かせる。ある
意味大物だ、と呆れた顔をしたシェンリィが疲れたような溜息を吐いた。

「僕は先ほどのような神妙な空気、というものが苦手でしてねぇ」
「ははは、苦手とか言う以前に神妙な空気が好きな人間なんているわけないでしょう?
本当に貴方という人間は人を苛立たせるのがお上手ですねああ鬱陶しい」
「……まあまあ。気持ちは分かるけど剣を抜こうとするんじゃないよ、カイン」

貼り付けたような笑みを浮かべたまま、腰に下げている剣に触れた瞬間、すかさずシェン
リィが待ったをかける。ふざけているのか、もとからこういう人間なのか分からない相手
に、痙攣しかけているこめかみを押さえずにはいられなかった。

シリュウの黒髪や赤い瞳を見ても、フォルトは特に気にした様子はなかった。考古学者と
名乗っているのだから、無知ということはあるまい。彼の許容範囲が広いということなの
だろう。その辺りは好感が持てるのだか、いまいちフォルトには信憑性がなかった。なか
なか、言っていることがいい加減だからである。
そのせいかフォルトとカインは相性が悪い。ヒューガとも犬猿の仲であるが、やはり険悪
の種類が違った。

「シリュウも目立った外傷はないようだし、さっさと奥に行こう。私もあんたたちも、そ
ろそろこのうすっ気味悪い場所から出た方が良い。いつまでも暗がりの中にはいるもん
じゃあないよ」

そう言いながら、ちらりとヒューガに視線を移す。彼は気付いていないのか、エリーナと
会話をしているシリュウを静観していた。
立ち上がった二人が、服についた埃を払う。それからようやく、視線を逸らした。
何か言いたげな表情のままで。

「見てください。あれがウィンデル遺跡の遺産ですよ」

背中を支えながら奥へと向かったシリュウは、目を凝らして薄暗い空間を睨み付ける。
そう、ここへ来た目的は、全てカーマインの足跡を見つけるためなのだ。クロスピル、ア
ークに続き、これで三つ目の遺跡へと潜ったこととなる。
奴らが何のために遺跡荒らしをしているのかは分からないが、追いかける身であるシリュ
ウにとっては、そんなことどうだって良かった。少しでも手掛かりがあるのなら、どれだ
け時間がかかろうとも、奴らが現れたという場所に向かうだけだった。

「予想通り、と言いましょうか。もぬけの殻ですね」

注意深く辺りを見回していたカインが、先陣を切って何かを祀っていたであろう場所へと
歩み寄る。風の通りが悪くないことも加え、天井が高いおかげか息苦しさは感じられなか
った。
数百年単位の歴史に詳しいとは言えないカインは、あちらこちらに散乱している装飾品を
興味ありげに観察する。

「これって、骨董品に入るのかな?」
「骨董品!?そんな陳腐な言葉では片づけられませんよエリーナさん!
それにしても、随分な散らかりようですねぇ。……ってああ!貴重な手鏡が!」

慌ただしくそこらに散らばっている物を掻き集めたフォルトが、顔面を蒼白にして一つ一
つを丁寧に分別しだす。考古学においては頓珍漢な者たちは、一体何がどう凄いのか分か
らず、置いてきぼりにされっぱなしだった。

そんな様子に苦笑を漏らしながら、シリュウはそっとその輪を離れる。自分が探している
ものは、この遺跡にまつわるものではないからだ。それが必ずあるわけではないのだが、
カーマインの足跡を追う者として、確かな確証がどうしても欲しかった。
きょろきょろと、忙しく辺りを見渡す。無残に引きちぎられた宝飾品を見て毎度思うが、
何故もっと丁寧に扱えないのだろうと疑問を覚えずにはいられない。

「………おや?これは、遺跡の品ではないようですね」

今回も収穫なしか、と肩を落とした瞬間であった。大方の収集を終えたフォルトが、最後
に片付けようとしたナイフを持ち上げ、不思議そうな声を上げた。

「見せてごらん」

首を傾げたままのフォルトから即座にシェンリィがナイフを奪い、手のひらに収まりそう
なほどのそれを上下左右からジッと見極める。普段からナイフを扱う分だけあってか、そ
の手つきは絵になるほど美しかった。

「……確かに、これはここの物とは違うね。まず古代語ってのが書かれていない」

全てに細かな字が彫られているが、このナイフだけは他の物と比べても質素であった。鈍
い金色で縁どられていいる以外に、目立った宝飾は施されていない。
何より、ここにある武器類の全てが鉄で精製されている。だというのに、今手の中にる物
だけが鋼で出来ているなど、おかしな話だ。

「ほら、シリュウ」

先ほどから落ち着きのないシリュウに、当たり前のようにそれを渡す。受け取った時の少
年の手が、少し震えているように思えた。すっと目を細めてみるも、気付かれぬようすぐ
にそっぽを向く。

手の上に乗った重みに、瞬きを忘れ凝視する。恐る恐る手を這わせ、小さく彫られた現代
語の文字に、息を呑んだ。


『カーマイン』


探し求めていたその文字を見た瞬間、少年の手のひらにある物がずしりと重みを増したよ
うに感じられた。






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