● 唐紅の記憶  ●




何を言えば良いのか、分からなかった。
露骨とは言えないが、開いた距離。それは多分、手を伸ばせば届くほどの微妙な距離だ。
無理に詰め寄れば以前と変わらぬほどの間隔まで近づけるだろう。けれど、彼がそれを許
すかどうかは定かではない。警戒心とも取れる微妙な雰囲気を漂わせる相手の領域に、土
足で踏み込める勇気は持っていなかった。

言葉が、浮かばなかった。
少なくとも、あのいけすかない女よりは理解しているつもりだった。毒舌を吐く男よりも
観察は長けていると思っていた。数年という短い期間ではあるが、家族同然に過ごしたあ
の女には流石に負けてはいただろうが。それでも、誰よりも知ろうとしていたはずだった。

だが、怒りで我を忘れたときに垣間見えた不安そうな顔に、それまであった自信は瞬く間
もなく打ち砕かれる。恐怖とも取れる複雑な表情に気付かされたのは、耳障りな甲高い声。
不覚にも口籠り、言葉を失った。必死に弁解しようとするが、あまりに強すぎる衝撃に、
口元が麻痺したような感覚に陥った。反応が遅れれば遅れるほど、弁解というものはみっ
ともなく映る。結局それから、少年とまともに会話はしていない。

培ってきたはずの信頼に、ヒビの入る音を聞いた。





第30話 『信頼と信用』





「いやあ、本当にお世話になりました。皆さんのおかげで一日足らずで遺跡を攻略するこ
とが出来ましたよー」

遺跡を無事に脱出したメンバーは、すっかり薄暗くなりかけている空を見上げた。茜色の
夕焼けが、遺跡の背後にある青い海を染め上げる。風は穏やかで、断崖絶壁に打ち付ける
波の音は静かであった。

一番乗りに外に飛び出したフォルトが、まるで猫のように大きく伸びをする。てくてくと
その辺りを歩いていたが、時折白骨化した魔物の残骸に足を躓いていたので、慌ててシリ
ュウとエリーナがそれを助け起こしす様子が目撃された。

「ようやく解放されるのですね」

にこり、と貼り付けたような笑みを浮かべてカインが三人に歩み寄る。心なしかその笑顔
は、いつもの三割増しほど輝いて見えた。カビ臭くて湿った空気から解放されたのが嬉し
いのか、それともフォルトというお荷物が減ることに安堵を感じているのか。
そんなカインを見遣って、シリュウは苦笑をこぼす。疲れた様子一つさえ見せてはいない
が、怒涛の一日であったことは確かだ。フォルトに気を回していたかどうかは微妙なとこ
ろだが、エリーナの護衛も兼ねていたのだ。いくら腕が立つとはいえ、緊迫した空間から
脱け出してホッとしないはずがない。

「この時間帯じゃあ、流石に次の町まで行くには危険だね。一旦港に戻ろう」

カラスが空で呑気に鳴いている姿を見つめながら、シェンリィは提案した。誰もそれに不
満を唱える者はいない。くたくたになっているエリーナと言えば、宿に戻った時に沈むこ
とが出来るベッドを想像しているのか、少し頬の筋肉が緩んでいた。柔らかな桃色の服も
所々が黒ずんでいるので、洗濯もしたいのだろう。

「早くお風呂に入ってふかふかのベッドで寝たいよ…」
「そうだね。俺も今日は疲れた」

互いに苦笑しながら港までの道を少し早足で進んでいた二人の傍に、カインは控えめにで
はあるが自然と並ぶ。時折少年と少女の会話に交じりながら、微笑みを返していた。それ
を追うように、だが周りの白骨化した魔物が気になるのか、何度も振り返りながらフォル
トがふらふらとした足取りでついて行く。
四人から少し距離を置いて、比較的ゆったりとした足取りでいたのは二人の男女だ。その
一人は、ここ数十分の間ずっと口を閉ざしている。

穏やかな雰囲気である前方を見遣りながら、シェンリィはやけにわざとらしい溜息を、盛
大に吐いた。辛気臭い空気を放ち続ける男は気付いているだろうが、シリュウたちには聞
こえていないだろう。

「それで?いつまでその馬鹿面下げてるつもりなんだい?」

台詞に反して、シェンリィの表情はそれほど深刻そうではなかった。目を合わせないのは
彼女なりの優しさなのか、それとも彼らが大人同士であるから素直になれないだけなのか。

想像通り、返答はなかった。僅かに動揺していたが、それもほんの一瞬。こちらが気付い
たことは向こうも察知しているだろうが、敢えて気付かない振りをした。

「あんたも大概不器用だねぇ」

腰に手を当て、時折横髪を弄りながらクスクスと笑いだしたシェンリィに、生気を失った
ような顔をしていた男がぴくりと反応を見せる。しかし、いつものような生意気な反論は
飛んでこない。それにほんの少し寂しさを感じながら、シェンリィはまた一つ溜息を吐い
た。

大分歩く速度が遅くなっていたせいか、気付けば先に進んでいる者たちとかなりの距離が
開いていた。時々心配そうに振り返る見慣れた姿を見ては、隣で鬱陶しいくらい沈んでい
る男の腹に一発叩き込みたい衝動に駆られる。いや、鳩尾に一発くらいなら許されるとシ
ェンリィは勝手に思い込んでいる。文句を言われても黙らせる自信があった。

「………何も言わねぇのか?」

どれだけ沈黙が続いていたのか。呆れを通り越して、ついには暇だと思えるほど時間が流
れていたのは確かだ。
突然かけられた言葉に、一瞬何を言われたのか理解出来ず、シェンリィはきゅっと眉をひ
そめた。

「何がだい?」

この返答が気に食わなかったのか、ようやく視線を合わせた男の顔はものすごく嫌そうな
顔をしていた。普段聡いくせに何故今分からない、と明らかにその目は訴えている。
そこでようやく、男が言いたかったことに気付く。しかし悪びれた様子など微塵も見せず、
寧ろ怪訝そうな顔をして男に振り返った。

「何だ、そんなことかい」
「そんなことって……」
「馬鹿馬鹿しい。シリュウに対しての説教なら、あんたが全部言ってくれたんだから何も
気にしちゃあいないよ。まさかそんなことでぐだぐだ悩んでたっていうのかい?」

慰めるどころか、しまいには鼻で笑うのだから、この女には優しさというものがあるのか
どうか本気で問いただしたくなる。そんなことをしてしまえば、にこりと綺麗に笑いなが
ら絞め上げられそうな気がするので口には出さないが。

「それもあるが………ちげぇよ」

苛立った様子で頭を掻いたヒューガは、段々小さくなっている影を見据えた。いい加減急
いで追いかけなければ、あとで何を言われるのか分からない。
少しだけ歩く速度を上げたヒューガが、シェンリィを追い抜く。

「シリュウは、別にあんたを嫌ってないよ」

数メートルほど間隔が開いて聞こえた声に、ぴたりと急停止する。振り向きざまに見たシ
ェンリィの顔は複雑そうであった。

「あれはただ困惑しているだけさ。あんたが思っているようなことはない」
「別に、俺は………」
「ま、エリーナに言われた言葉の方が結構グサッときてるんだろうけど」
「う、ぐ……」

図星を突かれ、言葉を詰まらせる。ばれていることは百も承知であったが、本人を前にし
て、こうもあっさり言われてしまえば誰しも傷つく。これしきのことでへこみはしないが、
配慮の欠けた棘のある言葉に顔が引き攣らずにはいられない。
そんなヒューガの変わり様を見てにやにやと含み笑いするシェンリィは、相当性質が悪い。
まるで傷口に塩を揉み込まれているような気分だった。

「エリーナも一直線だからねぇ。ああいう言い方しか出来ないのも無理ないさ」

彼女は、シリュウを庇うことで精一杯だったのだろう。度重なる戦闘や、蓄積した疲れも
入り混じっているのだから、全面的にヒューガを突き放すような言葉が出てきても仕様が
なかった。それに、エリーナが思慮に欠けた言動をすることなど今に始まったことではな
い。今更といえば今更だ。
そんなエリーナに噛みつきながらもあしらっていたのは、この男であったはずだ。面倒な
ことを敢えて無視することだって、この男には造作もないことのはずだ。
だというのに、ヒューガは振り払えなかった。シリュウに対する感情があまりに大き過ぎ
て、冷静さが欠けていた。だから真に受けてしまった。

「でもあの子は真っ直ぐだからこそ、時々的を突くようなこと言うんだよねぇ」

そういう所はシリュウに似ているよ。
苦笑にも似た少し切ない表情を見せたシェンリィは、赤々とした夕焼けに染まっていて、
艶やかさを増していた。感慨深い面持ちで、他愛もない話をしているのであろうあどけな
い子供を見つめては、寂しそうに瞼を閉じる。

シリュウに子供らしい無邪気さがないのは、誰しも承知のことだ。それは、傍に寄り添っ
ているエリーナも、理解しているかどうかは定かではないが、」何かを感じ取っているはず
だ。
シェンリィは、エリーナがシリュウの傍にいることに対して嫌悪感を抱いたことはない。
世間知らずで多少我が儘ではあるが、育ってきた環境もあるだろうし、何より殺伐とした
仲間の内では現実に引き戻してくれ要素を持つ。多分彼女がいなければ、もっと重苦しい
雰囲気だっただろう。
戦いや小難しい話には縁遠い彼女だからこそ、シリュウは眩しそうにエリーナを見つめる。
それに恋慕の情が篭っている様子はないが、庇護しなければならないと、どこかでそんな
責任感を抱いているのだろう。
腹の探り合いをするような輪の中で育ってきたシリュウには、エリーナが珍しいのかもし
れない。駄々をこねても、ほんの少し困った様子を見せるだけでシリュウはエリーナを拒
みはしなかった。

無垢で無知なエリーナに、無意識に安らぎを感じているのだ。

「傍から見てるとでこぼこしているコンビだけど、悪くはないと思うんだよね」
「はぁ?」

しみじみと一人頷いていたシェンリィに対し、不機嫌そうな声を漏らしたヒューガがくし
ゃくしゃに顔全体を歪める。よほど気に障ったのか、男の濁声が耳に残る。

「あの女にシリュウだ?んなのシリュウが勿体ねぇだろうが」
「あんた、それカインが聞いたらどうなるか知らないよ」

ようやく調子を戻してきたヒューガに、シェンリィは一人ほくそ笑む。当の男と言えば、
エリーナに対する不平不満をこれでもかと漏らすだけで、こちらに気付く様子はない。

「有り得ねぇ。つか俺が許さねぇ」
「……普通そういう言葉は私が言うもんだけど。ほんと、あんたシリュウに入れ込んでる
ねぇ。だったらどういう子ならあんたは許せるんだい?」

微妙に立ち位置は違うが、まるで娘を嫁に出さないと言わんばかりの険相だ。あるいは口
煩い姑。どちらにせよ、あまり良いものではない。

エリーナを毛嫌いしているヒューガが、シリュウの隣に立つ別の女の姿を黙々と考える。
正直、エリーナのような女以外ならばこれほど口出しするつもりはないのだが、いざどん
な相手が良いのか、と聞かれると口を閉ざしてしまう。
と言っても、これはシリュウの問題なので口出し以前の無駄な問題なのだが。

「……こう、もっと静かっていうか、落ち着きがあるっていうか……」
「へぇ。あんたそういうタイプが好きなんだ」
「ちげぇよっ!!」

何故矛先が自分に向くのか分からず、顔を真っ赤にして抗議するがシェンリィは聞く耳を
持たない。憤慨するヒューガを追い越し、クスクスと笑う。それは控え目であるが、小馬
鹿にされているようにしか思えなかった。

「ま、冗談はさておき。……あんたが何を考えようが知ったこっちゃないけど、それをシ
リュウに押し付けるのはやめなよ」

ふと、声色が変わる。警戒の混じった、ある意味拒絶ともとれる域だ。

「あの子はあんたを信頼してはいるけど、信用はしちゃいない」

女が、振り返る。茜色から濃い赤紫に変色した空は、女の表情をうまく隠していて、笑っ
ているのか睨んでいるのかも分からない。


それは、一種の警告であった。



「え、フォルトさん泊らないんですか?」

驚きの満ちた声は、へらへらと笑う男に対してのものだ。

あれからシリュウたちが港に戻ったのは、辺りがすっかり暗くなり、濃紺の空に星が輝き
始めた頃であった。それでも港町はまだまだ賑やかで、露天の灯りや飲み屋からこぼれる
声で溢れていた。ちょうど食事時の時間帯だったおかげもあり、露天で立ち食いしている
者も多い。
昼間は携帯食で済ませた面々も、香ばしい匂いに腹の虫を鳴らせる。しかし今は宿屋を取
らなければ、とシェンリィが先立って向かおうとしたのだが、その最中にフォルトは申し
訳なさそうに宿泊することを辞退した。

「野宿でもする気なのかい?」
「いえ、どうやら今日最後に出る便があるみたいで。夜間渡航になるので速度は遅いんで
すけど、僕が次に行く場所はまだまだ遠いので早く行きたくって」

シリュウたちが次に目指す場所は、この港からずっと西にあるアルエリータ軍港だ。そこ
からアルエリータ軍事国家に向かうのだが、軍港を経由しなければ辿り着かないのだから
いくらか不便なのである。

「短い間でしたが、お世話になりました」

少ない荷物を片手に、フォルトは一笑する。乗組員が催促している声が聞こえた。

「ああ、そうだシリュウさん」

慌てた様子で船に乗り込もうとしたフォルトが、いきなり踵を返しシリュウの傍に寄る。
一抹の不安を抱えていたシリュウが、一度それにぎくりと身を強張らせた。それを知って
か知らずか、無遠慮に近付いたフォルトが耳打ちをする。その声が普段のようなふざけた
ようなものではなくて、思わず息を呑んだ。

「え……」

気付いた時には、フォルトは既に船へと駆けて行っていた。ほんの数秒の内緒話は、シリ
ュウの思考を一旦停止させた。

「シリュウ?」

不思議そうに覗き込むエリーナに、取り繕ったような笑みを浮かべる。その間に、出港の
合図がけたたましく鳴り響いた。中には身内を見送る者もいるのか、波止場にはちらほら
と沖へ出る船に手を振る人がいた。まだ出港して間もないので、フォルトがこちらに手を
振っている姿が見える。一瞬手を振るか否かで躊躇していたシリュウは、結局一度も腕を
上げることが出来なかった。



彼は、信用しない方が良いですよ。



それが誰を指しているかなど考えなくとも分かってしまう自分に、激しい嫌悪感を抱いた。







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