● 唐紅の記憶  ●



溜息を吐いて一呼吸。ボスンと音を立てて真っ白な寝具へと沈みこむ。ぼんやりとする視
界の中で、勢いよく小さな埃が舞い上がった。それを気だるい表情で見つめながら、寝返
りを打つ。安価な宿屋のベッドは、それだけでバネが軋む音を立てた。
しかし、その音に気を遣う相手も今はいない。別段、日頃からいびきや歯ぎしりが煩いと
か、そういった迷惑行為をしているわけではないのだが。
ただ、一人部屋というものが本当に久々であったから、無言のまま倒れ込んでしまったの
だ。
まだ成長途中の体を受け止めた布団は、さあ眠れ、と言わんばかりの心地良さをぐいぐい
と押しつけてくる。ただでさえ今日は慌ただしかったというのに、通常以上に体を酷使し
ているせいか、皆と別れて部屋に入った途端から、一気に眠気が襲ってきた。

(あー……お風呂、入らないと)

お世辞にも綺麗な身なりをしているとは言えない少年の衣服には、一般人には到底縁のな
さそうな汚れがこびりついている。その割合が少なく見えるのは、布が黒地であるからだ
ろう。このまま寝入ってしまえば、夜中に一度起きることなどまず不可能だ。起きたとし
ても、小鳥のさえずりが聞こえはじめる早朝になりかねない。

(眠い。寝てしまいたい)

既に意識は半分眠っているも同然だ。ふわふわしたような心地の中、何とか這い上がろう
とするが、じんわりと温かい布団と自分の温もりが、更に深い眠りへと誘う。
これはもう、完敗だ。
それまで半分閉じていた瞼が、完全に赤い眼を隠す。

―――刹那、蘇る怒声。

びくり、と痙攣して飛び起きる。瞠目したまま辺りを見渡すが、人の気配どころかネズミ
一匹さえ見当たらない。
心なしか乱れた呼吸を、何度も酸素を吸い込むことで落ち着かせる。一気に覚醒したよう
な気がしたが、冷静さを取り戻した途端に睡魔が容赦なく襲う。けれどもう一度そのまま
布団に沈むことは出来なくて、仕方なしに枕もとに腰を下ろした。

くたくたに疲れ果てたメンバーを気遣って、全員が一人部屋になったのはシェンリィの計
らいだ。普段は経費節約のために二人一部屋、三人一部屋なのだが、流石に異論を唱える
者はいなかった。
正直、一人部屋になれたことにホッとしている。いつものように男三人でも問題ないとい
えば問題ないのだが、今日は無性に一人になりたかったのだ。

(逃げてるつもりはなかったはずなのに……)

くしゃりと前髪を掻き上げながら、太腿の上に肘をつかせる。背筋が曲がってしまうが、
姿勢良く真っ直ぐいることが今は億劫であった。
重苦しい溜息を一つ吐いて、そっと目を閉じる。今こうして少しでも気を抜こうものなら
ば、苦手なあの声が飛んでくる。へばりついたまま、絶対に離れようとしない。

どうして自分は、平素を保てなかったんだろう。彼が気にすることは分かり切っていたこ
とではないか。
遺跡から港へ戻った後も、食事の時も、会話らしい会話はしていない。相槌をすることは
あっても、お互いが目を逸らしていた。息が詰まるような、というほどの空気ではなかっ
たが、皆が気付いているはずだ。悲しいことに、その原因さえも。

何も気にせず、なかったことのように振る舞えば良い。多少違和感を感じながらも、あの
男はそれを受け入れる。根拠もないくせに、どうしてなのか自分自身の中で確信を得てい
た。だが分かるのだ。こちらがなかったことのように接すれば、彼は必ずそれに順応する。

彼は、甘いのだ。

(懐に入れてなんか…ないはずだ)

ぎり、と強く奥歯を噛む。自然と眉間に皺が寄り手のひらに爪を立てるが、不思議と痛感
はやってこなかった。

家族と言ってくれるシェンリィやフィラインには別の感情を抱いているが、奥底にまでは
踏み込ませない。そこまで立ち入られてしまえば、自分は逃げるしかないのだ。旅の仲間
という曖昧な関係性で繋がっている面々なら、尚のこと。
多分それは、皆が薄々勘付いている。それを知ってか、シリュウが引く境界線から無理に
入ろうとはしない。シェンリィは時と場合によるが、必要以上に詮索しようとはしなかっ
た。エリーナは踏み込もうとはするが、邪気がない分不快感はない。こちらが困惑するも
のの、彼女はこういう人なのだと割り切れば、変に警戒する必要がなかった。

けれど、一人だけいつも見えなかった。靄がかかったかのようにはっきりとしない彼は、
果たして踏み入ろうとしているのか、それともただ傍観に徹しているだけなのか。上辺だ
けの、シリュウが望んでいるはずの関係であると、昨日までは確かにそう思っていた。多
少他より贔屓目に見られていながらも、利害一致した旅の仲間、というカテゴリーに属し
ているだけだと。

(何で)

鮮明に焼き付いた必死の形相。
感電しているのではないかと思えるような、鈍い痺れが全身に駆け巡り、一瞬呼吸するこ
とさえも忘れた。
普段の様子からは考えられないほどの大声。それに乗算した怒り。

(何で…)

不平不満であれば何も問題はなかった。だというのに、彼はシリュウを裏切る。
純粋に向けられた、怒り。それはつまり相手を心配するが故に出てくる感情だ。どうでも
良い相手ならば多少の文句を言って終わる。それが、シリュウの中にあるヒューガという
男であった。

(何であんな顔するんだよ)

エリーナに咎められた後に見えた、後悔にも似た暗い表情。何度も口を開閉し、結局閉ざ
したままヒューガは今も無言を貫いている。それが更にシリュウを困惑させているなど、
彼は知りもしないだろう。

あの男は、境界線に触れた。今まさにその線を踏んでいる。
その瞬間に覚えたものは恐怖にも似た悪寒。走り巡るものは拒絶を意味している。聡い彼
は十中八九気付いているだろう。こちらの困惑に。だからなのか、それっきり踏み込む気
配は見えない。恐らくこれ以降も、下手に介入することはないだろう。

けれど。

(また、同じことが起こったら……?)

容易く、その線を越えてしまったら?

「…………だめ、だ」

漏れた声を抑えようと、口元に手を当てる。触れた瞬間に感じた冷たさと、小刻みにそれ
が震えていた理由を見つける余裕はなかった。





第31話 『夜が明けて』





「いたっ」

とんとん、と音を立てながら野菜を切っていた少女が、かれこれ何度か分からぬ悲鳴を小
さく上げる。反射的に持っていた包丁を落としてしまうが、床に落ちることなく何とかま
な板の上で止まってくれた。
ホッとしたのも束の間、今度は先ほど傷つけてしまった人差し指の腹の痛みに眉を下げる。
じわりと血が浮きはじめたので、取りあえず水で洗い流してみた。これで少しはマシにな
ったかと再び患部を見てみれば、一呼吸置いた後に再び赤いものが滲みだすではないか。
その間にも、火にかけていた鍋の中身が沸騰して溢れる。ギョッと目を剥いた少女は、指
と鍋を交互に見ながら、最終的に鍋へと走り寄り火を消そうとした。

「あっつ!」

何とか火は消すことが出来たが、鍋に指が触れてしまったせいで飛び退く羽目になる。涙
目になりながら赤くなった指に息を吹きかけるが、痛みは治まる様子を見せない。
ちなみに、切ってしまった場所と火傷した場所は、不運なことに同じ右手人差し指である。

「何をなさっておられるのですか…」

すん、と鼻をすすった時であった。
人差し指を見つめていた少女が、声のした方向を向こうとする。けれどひょいと、乱暴で
はないが有無を言わさぬ強さで手を引かれ、先ほど指を突っ込んだ水へと再び押し込まれ
た。

「火傷なんてしてしまっては痕が残る可能性があります。切り傷も同じです。変な方向に
 傷つけてしまえば、細胞が上手く再生してくれません」

淡々としながらも、気遣うような声色だった。恐る恐る見上げれば、視界に広がるのは見
知った金髪の青年。流石にこの状況で笑顔は見せていなかったが、痛ましげに少女の指を
見つめていた。

「か、カイン」
「おはようございますエリーナ様。それで、何故貴女がここに?」

無事であることを確認した瞬間、今度こそ青年が笑顔を浮かべた。控え目に微笑んでいる
姿は誰しも目を瞠るものであるが、普段から見慣れているエリーナは何がどう凄いのかが
さっぱりであった。

「朝ごはんを作ろうと思って……」
「確かに、この状況でそれ以外は考えられませんが……」

こほん、とわざとらしく咳払いをしたカインは、お世辞にも綺麗とは言えない台所に目を
やる。そして少し後悔をした。
エリーナが作業を始める前まではきちんと整頓されていていたのだろうが、今は見るに耐
えない……とは少々言い過ぎであるが、悲惨な状態であることは明らかであった。一定間
隔で切り揃えるはずの野菜は、どうしてなのか一つ一つがいびつで格好が悪い。皮を剥く
はずの根菜は、何故かそのままぶつ切りにされている。飛び散った野菜の欠片は、足元に
ころころと落っこちていた。

ひとしきり現状を見回したカインは、困惑した様子の主にばれぬよう、こっそり溜息を吐
く。とりあえず鍋の中はどうなっている、と蓋を開けてみれば、体に悪そうな色をしたス
ープが湯気とともに現れた。

引き攣りそうになる顔をどうにか抑え、カインは爽やかな朝に相応しい笑みを浮かべる。

「………是非、お手伝いさせてください」

静かな懇願に、エリーナはこくりと小さく首を縦に振った。



「なるほど。つまりお嬢様はシリュウ君のために朝食を作っておられたのですね」

エリーナの怪我を治療し終え、散らかったものを片付けながらようやく具を切るという段
階までに落ち着いた二人は、互いに白いエプロンを付け別々の作業を行っていた。
エリーナが刃物を持つことに盛大に反対したカインが、渋るエリーナから包丁をどうにか
もぎ取ることが出来た。
料理は得意ではないが作れないほどではない、という微妙な腕前を持つカインの手つきは
日頃から刃物を扱っている分、やはり初心者よりは見苦しくはない。それでも芋の皮を剥
く作業が苦手なのか、時折身までも削ぎ落とす。
台所事情を預かっているシリュウがこれを発見してしまえば、勿体ないと声を荒げるだろ
う。普段落ち着いているくせに、家事全般に対して彼は非常に口煩いのだ。
対するエリーナはと言えば、よく切り傷が一つで済んだと逆に褒めたくなるような不器用
さだ。いや、寧ろもう刃物は持たせないとカインは心の中で先ほど強く誓った。

「そうですね…今度からは私が切る作業を全て行うので、必ずご一緒させてくださいね」
「え、でも…」
「ご一緒させてくださいね」
「う、うん。そうする」

無意識に頷いたものの、妙に迫力のある笑顔が少し気になった。

「……シリュウ、元気ないね」

沸騰した水に、小魚を粉末にしたものを投入する。最初は塩や砂糖など、調味料という調
味料を全て入れようとしていたのだが、珍しく慌てた様子でそれを止めたカインによって、
エリーナの脳内でイメージされている料理が大幅に変更された。

ざく、とでこぼこに剥けてしまった芋を均等に切っていたカインの手が止まる。首だけを
動かし、隣で鍋の中身をかき混ぜているエリーナに視線を落とした。

「お気づきになられていたのですね」

誤魔化しはきかないと判断したカインは視線を戻し、幾分か間を置いてから再び食事の準
備を再開する。再びリズミカルな音が静かな台所に響いた。

「遺跡を出た時からずっとおかしいの。何だか無理に笑ってるみたいで…」
「ええ」
「ヒューガとちっとも会話してないのも不自然だわ。そんなこと、今までなかったもの」
「個人的に、ヒューガが静かであることは大変喜ばしいことなのですが」
「もうっ、カインったら真面目に聞いてる?」

ぼそりと呟かれたカインの言葉にエリーナは目くじらを立てる。右頬をぷくりと膨らませ
て睨んでいるのだが、ちっとも怖くない。かといってこのままでは主人のご機嫌が斜めに
傾く一方なので、カインはすまなさそうに笑うしかなかった。

「ええ、すみません。…それで、どうして急に料理を作ろうと思われたのですか?」

口には出さないが、エリーナは生まれてこのかた料理などという高度な技を成功させたこ
とは一度もない。何度か挑戦してみたことはあるが、ことごとく失敗しているのだ。
エリーナ自身も、自分が料理に向いていないことを理解しているはずだ。包丁どころか、
果物ナイフさえ持つ手が危なっかしいのだから料理云々の話ではない。

勿論、生粋のお嬢様である彼女に危険なものを持たせる、ということを敢えて避けてきた
のだから、一般人よりも家事が下手になってしまっていることは当たり前だ。そういう育
て方をしてきた自分にも非があると思っているし、それが甘やかしに繋がることも分かっ
てはいるが、彼女の真っ白な肌が、たとえ指先の僅かであっても傷つくことは許せなかっ
た。

「私がね、シリュウに何を言っても……多分駄目なんだよね」

寂しそうに微笑んだエリーナは、塩を一つまみ薄い琥珀色のしたスープの中へ入れる。一
つまみ、という料理用語を先ほどカインに教えてもらったので、鷲掴みした塩を投入され
ることはない。

「シリュウが何を悩んでいるのかちっとも分んないし、シリュウも言ってくれないし…。
 『何でもないよ』って言って、また辛そうに笑うの。本当はもっと聞きたいんだけど、
そうしたらシリュウすごく困りそうだから」

切り終えた野菜をエリーナに手渡し、今度は肉を適当に切り始める。火傷をしないように、
と再三注意したおかげか、エリーナは水音を立てないようにゆっくりと具を鍋に入れる。

ひたすら肉を切っているカインは、この肉は一体どこの部位だろうとおぼろげに思いなが
ら、先ほどのエリーナの言葉を器用にも復唱を繰り返していた。

「そうでしょうか。お嬢様なら、彼も話してくれるかもしれませんよ?」

シリュウは守りが堅いが、押しに弱い一面もある。特にエリーナのような純粋な人間には
あまり免疫がないのか、普段から彼女の言動に押され気味だ。

「駄目。そんなことしたらシリュウが傷つくわ」

カインの何気ない一言に、エリーナは真剣な眼差しを送る。この話に乗ってくると踏んで
いたカインは、少し驚いたように瞠目した。

「傷つきますか?」
「そうよ。だってシリュウ、いつも愛想笑い多いでしょう?」
「……そう、ですね」

さも当然と言わんばかりのエリーナの言葉に、カインは言葉を詰まらせる。見下していた
わけではないが、まさかこの少女がそれに気付いているとは思っていなかったのだ。
ああそういえば、と今更のように思い返す。彼女はあの薄幸そうな少年に恋心を抱いてい
るのだ。そこでようやく合点がいった。

「無理にでも聞き出すことは出来るかも知れないけど、でもその分シリュウが傷つくのは
嫌なの。シリュウは心配させないようにまた愛想笑いを浮かべるんだろうけど、そんな
ことしたら多分一生……もう笑ってくれない気がする」

恋とは何と末恐ろしい。
恋愛対象以外の人間にはとんと疎いというのに、心動かす相手のことならば何でも分かっ
てしまうのだ。
状況を呑み込んだカインは、悲痛な面持ちで俯いている主を見つめた。

「でもね、今は何も出来なくて全然駄目でも、少しは役に立ちたいなあって…」

小さなことだが、彼の支えになりたい。
はにかみながら鍋の中身をかき混ぜる少女に、カインはふっと表情を緩めた。

「ええ。得手不得手は人によって違いますが、その努力は決して無駄にはなりませんよ」

不安がっているエリーナの背中を後押しするように、ふわりと微笑む。そんなカインにホ
ッと安堵したのか、肩の力をスッと抜いた。

「ただ、大怪我をされては困りますので必ず私を呼んでくださいね」
「う、うん。ごめんなさい…」

菜箸でぐつぐつ煮えている根菜を突っつく。朝食が出来上がるのは、まだまだ時間がかか
りそうだった。




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