● 唐紅の記憶  ●



結局、悶々としたままなかなか寝付けずにいたシリュウが翌朝起床した時刻は、いつもよ
り大幅に遅れた時間帯であった。
文字通り飛び起きたシリュウは、寝癖が酷いことにも気付かず宿屋の階段を駆け降りる。
すれ違う宿泊客に不審な目を向けられたが、気にしている余裕などない。

駆け込む先は厨房。
食事は自分たちで作ることで宿泊代が大幅に浮くのだ。一人旅ならばまだしも、こうも大
所帯では資金がいくらあっても足りるものではない。
港町に一つだけある宿屋には、船に乗り遅れ、立ち往生して仕方なしに宿泊する者もいる
が、シリュウたちと同じように別の町へ行くための準備期間のために足休めにする者も多
い。食事は別で宿泊する人のために、食堂とは別の簡易な厨房があるこの宿屋には大変感
謝しているが、今はさして遠くないはずの道のりを全速力で疾走することで精一杯だった。

「ごめんっ、寝坊した!」
「あ、おはようシリュウ!」
「随分とごゆっくりのようでしたねぇ」

けたたましい音を響かせて扉を開ければ、そこにあったのは閑散とした厨房ではなく、湯
気の立つ食事をせっせと準備している者たちの光景が広がった。
寝坊したことの焦燥感も便乗したせいか、たった十数秒で息を切らせたシリュウは、扉の
取っ手を掴んだまましばらく呆然とする。いくらか瞬きを繰り返した後にぐるりと周囲を
見回せば、そこには既にシリュウ以外のメンバーが揃っていた。今にも朝食が始まりそう
であり、あとはエリーナとカインが持つパンを机に並べれば終わりといった段階である。

「…あ、あれ?」

扉を開けたままの姿勢で硬直したシリュウは、いまいち状況が把握できず視線を泳がせる。
そんなシリュウらしくない行動に、クツクツと堪えるかのようにシェンリィは笑いだした。

「師匠…?」
「ふふ、何でもないよ。さあ、折角二人が朝食を作ってくれたんだ。早く座りな」
「え、二人って…」

促されるまま、空いていた席に大人しく座ったシリュウは、次いで隣に着席したエリーナ
とカインを凝視する。
言葉にすると大変失礼だが、まさかの事態だ。何せこの団体の台所事情は、全てシリュウ
が回していると言っても過言ではないからだ。
おまけに、この二人が料理をしている風景を見たことがないものだから、当然味が心配に
もなる。

「君が惰眠を貪っている間にエリーナ様がお作りになられたのです。心して食しなさい」
「で、でも結局カインがほとんどやってくれたの。その、私失敗ばっかりだったから……」
「いいえ、この料理の数々にはお嬢様の真心が詰まっています。もし不味いなど言う傲慢
極まりない不届きな輩がいるのならば……………ああ皆さんどうぞ、お先に召し上がっ
てくださって構いませんよ?」

恥ずかしそうに視線を落としたエリーナの肩にそっと触れ、少し沈んだ様子の主を慰める。
その雰囲気は実に穏やかなものであったが、顔を上げた瞬間にシリュウたちを見据えたカ
インの表情は、貼りついたような笑みを本日も爽やかに輝かせていた。
例え味が悪かろうと文句を言うことは許さない、と彼の目が語っている。口元だけが綺麗
に笑顔を浮かべている完璧なそれに、シリュウは引き攣った表情のままただ頷くしかなか
った。

カインの不敵な笑みに気付かぬまま、エリーナは気を取り直したように明るい笑顔のまま
合掌をし、スプーンに手をつける。それに倣うように皆が動き始めた。

「あ」

少々いびつで焦げたパンを取ろうと手を伸ばした瞬間、同じものを取ろうとして伸びてき
た手とぶつかりそうになる。咄嗟に顔を上げれば、恐らく自分も同じ顔をしているであろ
う複雑そうな表情が映った。
一瞬の硬直後、青い瞳が泳ぐ。戸惑った様子は見て取れたが、食事をしている面子は気付
いていない。

「………お、おはよう、ヒューガ」

息が詰まりかけたのをしっかりと抑え、シリュウは腹に力を入れて声を出す。妙な緊張感
が全身を駆け巡ったが、喋ったあとは案外すっきりとした。
なるべく普段と変わらぬ微笑みを浮かべたつもりだが、上手くいっているかどうかは鏡が
ないので把握出来ない。けれどヒューガは面喰ったようにぽかんとするものだから、まさ
か相当顔が引き攣ってしまったのか、と背中に嫌な汗が流れ始める。
何てことだ、折角のチャンスだったのに。腹の中でほんの少し前の自分を責める。ただで
さえ今は気まずいというのに、これ以上悪化してしまっては元も子もない。

「ん。おはようさん」

どうやってこの状況を切り抜けようかと思案していたシリュウに気付いたのか、目の前の
男が苦笑する。それがあまりに自然だったものだから、ついいつもと同じように流してし
まいそうになるのを慌てて抑え、シリュウは視線を戻した。

「ほら、早く食っちまえって。お前が作るもんより大分劣るが……まあ腹は壊さねぇだろ」

焦げたパンを手にし、何も付けずに頬張る。途端に顔をしかめるが、カインがギロリと睨
みつけているせいか無言で咀嚼を繰り返してた。

「……いただきます」

褐色に近い色のパンを一口かじる。顎が外れそうなほど硬くてパサパサしていたが、不思
議と不味いとは感じなかった。





第32話 『静かなる拒絶』





「それじゃあ、あんたたち二人は鍛冶屋に行っておいで。私とエリーナ、それからカイン
とで必要な物を揃えてくるから」
「え、でも…」
「でもじゃない。準備が終わったら出立するんだから、ぐずぐずしないように」
「は、はいっ」

エリーナ以外の武器を見てもらうためにも、鍛冶屋へは全員で行ったほうが効率が良いの
では、というシリュウの提案は、言葉にする前に却下された。まるで犬猫を追い払うかの
ように閉め出されたシリュウは、少ない荷物を担ぎ外へ駆けだす。

(気を遣って、くれたんだよなぁ)

既に宿屋にはいないヒューガは、恐らく外で待っているのだろう。
今更ながら組まされた理由は、考えずとも分かることだ。団体行動を共にしているのだか
ら、気まずい雰囲気を長丁場なものにするわけにはいかない。いくら朝食の光景でましに
なったとはいえ、根本が解決していなければずるずると引きずったままになるだろう。

長布を被り、木製ながらも分厚な扉を開く。射し込む陽光に思わず視界を手のひらで隠し、
そっと窺うように指の間から見える青空を仰ぎ見る。

「おら、んなとこでボーっと突っ立ってんな」

死角からごつ、と軽い痛みを感じた瞬間、呆れたような声がすぐ近くで響いた。勢いよく
振り返れば、予想通り何か物言いたげに男が見下ろしていた。赤の他人が見ればかなりの
仏頂面であるが、これが平素なのだ。

「往来が激しい場所でボケっとしてっと踏み潰されるだろうが」
「………俺はアリではないはずなんだけど」

どこから突っ込むべきか。いや、その前に人間として扱っていないと見せかけて、実は身
長の低さをからかっているのかと、成長期であるシリュウはムッと眉をひそめる。
そんなことを知ってか知らずか、ヒューガは軽くシリュウの背を押す。さっさと行くぞ、
という催促の意味なのだろう。

「さっさと用を済ませてあいつらと合流しねぇとな」

シェンリィたちの思惑は、どうやら筒抜けだったようだ。
長布越しから乱暴に頭を撫でたヒューガが、軽やかな足取りで賑わう市場へと姿を消す。
反応が一歩遅れ、すぐさま長身で青い衣服を身にまとった男を追いかける。まるで、迷子
になっている子供が親を探しているような気分だった。自分よりも遥かに高い身長を持つ
周りの者たちを掻き分けるのが精一杯で、これが現実とは言え劣等感を抱かずにはいられ
ない。

揉みくちゃにされながらも何とか追いついたシリュウは、すっかり息が上がっていた。置
いてきたつもりはないが、結果的に置いてきてしまった相手を見て、ヒューガは落ち着か
ない様子で頬を掻く。
シリュウがヒューガの首根っこを掴み、反対方向にあった鍛冶屋にたどり着くまでどれだ
け苦労したか。
方向音痴であるヒューガが簡単に鍛冶屋へと到着出来るはずがないわけで。何度も道を間
違えては、後ろから必死に着いてきていたシリュウに気付くことなく、再び勘でそこらを
歩き回ってようやく捕獲出来たのだが、息切れなど戦闘や鍛錬をしない限り滅多にならな
いはずのシリュウは、今はげっそりとしていた。

「あー……わりぃ」

本当にそう思っているのだろうか。
ようやく呼吸がもとに戻ってきたシリュウが、軽く睨め付ける。しかし、シリュウにカイ
ンのようなおぞましさが感じられるわけもなく。幼子を宥めるかのようによしよしと、ま
たしてもヒューガは頭を撫でてきた。それが更にシリュウの癇に障っていることなど、こ
の男は微塵も気付いていないのだろう。
一言、いや二言三言ほど文句をぶつけてやろうと意気込んでいたのだが、あまりに幼稚な
ため、喉から飛び出てしまいそうなものをすんでのところでグッと抑え込む。

「前ばっかり見てないで、俺の後ろにちゃんと付いて来てよ」

不満の代わりに出てきたものは、懇願にも似た溜息だった。こめかみ部分に手を当て、完
全に視界を隠しているのでシリュウには何も見えてはいない。俯き加減であるので、見え
ていたとしてもそれは、自分の簡素な革製の靴だけである。

「……そうだな」

だから、気付かない。
まだ何か言いたそうにしながらも、昨日のようなぎこちなさは感じられない。どっちが年
上なのか分からないようなしっかりとした物言いは自然体で、何かを探ろうとする様子も
なければ、こちらを気遣うような気配もなかった。
溜息とともに無意識に零れた台詞に、視界を覆ったままのシリュウを見て頬が緩む。

本当に、何気なかったのだろう。飾った言葉なんて一つもありはしないが、素朴で勘繰っ
ていないシリュウらしい窘め方に、肩に乗っかっていた重苦しいものが解れる。
互いに警戒していたが、必要以上に構えていたのはどうやら自分自身であったようだ。

「ほら、ヒューガも剣直してもらわないと」

皮膚を焦がすような日差しをものともせず突っ立っていたヒューガの肩に、まだ大人にな
り切れていない小さな手が置かれる。
いつの間にか自分の武器を鍛冶屋の男に手渡していたシリュウは、既に日陰の方に移動し
ていた。長布を巻いていただけまだましかと思うが、帽子の役目を果たしているようで実
はそれほど役割は果たせていない。
直射日光は確かに避けることは可能だが、その代わりにむせ返るような籠った熱が延々と
襲う。下手に長布を外すことも出来ず、パタパタと僅かな隙間へ手を扇がせるが、熱を外
へ追いやるほどの風力はない。

遅れて鍛冶屋へ足を踏み入れたヒューガが、玉のような汗をかきながら刃こぼれした武器
を修繕する男へと手渡す。今日も旅人たちの得物を前にして精を出す男たちは、真剣な眼
差しを刃に向けながらも、それはどこか楽しそうに見えた。

カンカン、と金属がぶつかる音をぼんやり聞き流しながら、シリュウは鍛えぬかれた鍛冶
屋の男たちの傑作品を見つめていた。壁に立てかけているものもあれば、ガラスケースの
中に収容されているものもある。
使い勝手が良さそうなものはどれも埃が被ったもので、ケースにしまわれているものはた
だのお飾りであった。随分と値が張るのだろう、煌びやかに輝く宝石がはめ込まれている
ものもいくつかある。

「シリュウ」

暫くお互いが沈黙していた。しかし、痺れを切らしてどこか焦ったような声色でシリュウ
を呼んだヒューガが、振り返った少年を見てくしゃりと顔面を歪める。
泣きそうというよりは、不安に押し潰されているようだった。

「俺は、お前を傷つけたくてあんなことを言ったんじゃない」

ハッと目を見開いたシリュウは目を瞑り、下唇を軽く噛み黙り込む。それをどう捉えたの
か、ヒューガの眉がぴくりと動いた。

「……知ってるよ」

幾分か沈黙を守った後、吐き出すようなシリュウの言葉に、ヒューガは気付かれぬよう胸
を撫で下ろした。
瞼を閉ざしたままであったが、シリュウの口元は穏やかだ。

「ヒューガがあんなに感情を露わにしたのって、アリオル山岳で俺がグランとダイオンさ
んに捕まった時以来だよね。滅多に見ないから、ほんと驚いた」
「……くだらねぇことで、いちいち喚きたっていられるかよ」
「うん。だから、さ」

ずっと考えてきた。半強制的に仲間になった頃から。エリーナ達といった新たなメンバー
を加えてからも、ずっと。

「分からないんだ」
「…シリュウ?」

ヒューガにとって何がくだらないことで、そうでないのか。
何が必要で、何を躊躇することなく捨てられるのか。

「何でヒューガが俺ばかり気にするのか、全く分からない」

日頃から毒を吐きつ吐かれつの犬猿な仲であるカインとも、戦闘時には息が合った動きを
することをシリュウは傍から見てきていた。互いに牽制し合いながらも、必要な時は譲歩
し合っていることも知っている。
ヒューガ自身が毛嫌いしているせいか、エリーナとの不仲は相変わらずだが、何だかんだ
と言いつつ時折視線を送っていることにも気付いている。
口では勝てないシェンリィとは、夜更けに酒を酌み交わしているほどの仲だ。シェンリィ
はフィラインの長であることもあり警戒心が人一倍強いが、それは既に彼女の無意識の中
に入ってしまっている。互いに心を許しているわけではないが、彼らの関係にぎこちなさ
は感じられない。

では、自分は。
最も多く時間を共にして、剣術の手ほどきを何度も受けている自分は。
師弟とも、年の離れた兄弟とも見えるだろう。そんな穏やかな関係に見えるのも、比較
的柔和なシリュウの性格が、気難しいヒューガと偶然合ったからだ。
だが、それだけのことだ。

「ずっと不思議だった。何で俺といるんだろうって」

真っ直ぐ見据えたヒューガの表情が、僅かに剣呑になる。

「……俺がお前の傍にいるのは、迷惑か?」

纏う雰囲気とは裏腹に、こちらの様子を窺うような掠れ声が妙に頼りない。
機嫌が悪くなったのかと一瞬構えたが、どうやら思い違いらしい。では、一体何故そんな
にピリピリしているのだろうか。

「違う。迷惑じゃ、ない」

予想以上に緊張しているのか、上手く声が出ない。喉が不自然に渇いていた。

「そうじゃなくて、だって、おかしいじゃないか」

整理していたはずの言葉の数々が、一気に吹き飛ぶ。
何を焦っているのだ、冷静になれ。
そう自分に言い聞かせるが、瞬きを繰り返すだけで次の音が上手く出ない。眉間に皺を寄
せたまま射抜くようにこちらを見つめる視線に、言いようのないものが足元から襲ってく
る。

「何でヒューガは俺を、真っ直ぐ見るんだ?」

彼は一度も、仲間に対して”本気”を見せたことがない。多分それは、エリーナ以外ならば誰
もが気付いている。
だが、シリュウは見て聞いた。直接、しかも自分に向けられた”本気”を。

「………その場しのぎの方が良かったか?」
「え…」
「あいつらと同じように振る舞ったほうが良かったか?」

悲しげに歪んだ顔を見て、しまった、と口元を押さえたが遅かった。
咄嗟に視線を落とす。傷ついたような視線から逃げるように。

「今からでも演じることは出来る。だが俺は、お前にそれをしたくはない」

何てことを言わせてしまったのだろう。何て表情をさせてしまったのだろう。

「ごめ、ん。ごめん、ヒューガ」

傷つけるつもりなんてなかった。
ただ、境界線に触れてほしくなかっただけだ。
線と言っても、それはシリュウが勝手に作ってしまっただけで、ヒューガが分かるはずが
ないのに。

また逃げようとして、結果的に傷を抉った。

「お前が謝ることじゃないだろ」

視界に映らない男の声を、敏感に聴覚が拾う。
きっと、彼は寂しげ笑みを浮かべているのだろう。
このままでは駄目だと、自らを叱咤して視線を上げ、向かい合う。突然顔を上げたシリュ
ウに驚いたのか、ヒューガは瞠目していた。

「俺は、傍にいてくれて、さらけ出してくれるヒューガが嫌いだなんて、そんなこと一度
だって思ったことない」

必死に弁解しようとする少年の姿に、ヒューガはフッと目尻を下げた。

「でも俺は、ヒューガに何も返すことが出来ない。何一つ、返せないんだ」

手のひらをグッと握りしめ、再び視線を落とす。
その間も金属がぶつかる音が、耳障りと思えるほどの大音量で鍛冶屋内に響き渡る。客は
シリュウとヒューガだけであったが、深刻な話をしている二人に気付く者はいない。

「いらねぇよ。そんなもん」

溜息が鼓膜に届く。心臓が、やけに速く鳴る。だが指先は氷水に突っ込んだように冷たい。

「見返りなんざ求めちゃいねぇ」

怖々と上げた視線の先に、苦虫を噛み潰したような顔が映る。眉間に深く皺を寄せ、もう
一度息を吐いた。二度目の溜息は、やけに大きい。

「………ダチになりたい相手に、そんなもん欲しがってどうする」

何度か瞬きを繰り返し、挙句の果てに唸り始めたと思ったら、今度はガリガリと後頭部を
掻きだす。心なしか、口元が気難しげに歪んでいた。
気が抜けたようにきょとんとしたシリュウは、分かりやすいほど視線を泳がせる男を半ば
呆然と見つめる。
それがひしひしと肌に伝わって居心地が悪いのか、わざと咳をしてみせたり、髪の毛を弄
ったりして誤魔化そうとする。

「ダチ……友達……?」

あまり言い慣れていないものだったのか、復唱され、ヒューガはそれまで忙しなく動いて
いた体を、ぎくりと硬直させた。
滅多にお目にかかれない男の動揺に、思考が止まっていたシリュウが思わず吹き出す。
ぎろりと軽く睨まれるが、威圧感など欠片もない。

「笑うな。柄にもねぇこと言ってんのは俺が一番分かってんだ」
「ああ、うん。分かっちゃいるんだけど」

緩んでしまった口元を直そうと手を当て、少し強く押さえつける。少々無理矢理に強張っ
た筋肉を解した。完全ではないが、見るに耐えないほどではないだろう。

「お前がダチとか、そういうものが苦手なのは分かってる。そりゃあ疑問に思うけどよ、
言いたくないことを無理に聞く気はこれっぽっちもねえ。ただ…………」

一瞬躊躇した青色の瞳が、決心がついたようにシリュウをひたと見据える。遊ばせていた
手を下ろし、顎を引き、背筋もピンと真っ直ぐになる。
息を、詰まらせた。男の口から出てくるものを聞いてはいけないような気がして、耳を塞
ぎたい衝動に駆られる。
けれど、どうしてなのか身体は硬直していて、ぴくりとも動かない。全てを見透かしてい
るような青から逃げようとするが、焦点すら変えられない。

瞬時に脳裏に浮かんだ、幼い頃の似たような光景。
飽きることなく、何度も、何度も差し伸ばされた小さな手。
素っ気ない態度を見せても、必死に後ろから付いてきた子供は、いつも笑顔だった。

冷たいものが、背筋を伝う。

「ただ、お前を一人にしておきたくないだけだ」
(シリュウを一人にさせるのは、嫌なんです)

閉ざされた窮屈な世界にきっかけを与えた、困ったような少女の微笑みが頭にちらつく。
ぐらりと、視界が暗転するような感覚に襲われた。
これは、恐怖なのか。それとも過去に感じたものと同じ喜びなのか。
差し伸ばされている男の手は、あの時の少女のものより遥かに逞しく、強い。

「…………ありがとう」

下唇を強く噛みしめ、一度だけきつく目を閉じる。
一呼吸置いて、肩の力を抜く。きっと今、満面の笑みを浮かることが出来ているはずだ。

「俺はヒューガのこと、すごく信頼してるから」

カン、と鉄を打つ甲高い音が、一際大きく鍛冶屋に響いた途端、男たちの歓声が上がった。




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