● 唐紅の記憶  ●



(あの子はあんたを信頼してはいるけど、信用はしちゃいない)

「俺はヒューガのこと、すごく信頼してるから」

信頼しているから。
……だから、もう入ってくるな。
そう、言いたかったのだろうか。

貼りついたような笑顔を浮かべ、修繕し終えた武器を見に行った少年の後姿を、かける言
葉もなくぼんやりと追いかける。己の不甲斐なさに手のひらを握りしめ、爪を立てた。

この声は、届かない。





第33話 『エリーナの従者』





「それじゃあ私は薬を買いに行ってくるよ。あとはあんた達だけで大丈夫だね?」
「ええ。では後ほど」

購入品のリストがずらりと並べた紙を持ち、シェンリィは器用に人混みの中を掻い潜って
行った。それなりの量が予測されるであろう食糧品は荷物が多いため、いつもならば男二
人ほどで買い揃えるのだが、今は意図的に荷物持ちを離しているので、使える人材は限ら
れる。
当初は三人こぞって店を回ろうとしていたが、時間がかかるためその提案は却下された。
港といえど、ごった返すほど人が溢れている所に飛び込めば、三人のうち一人は確実に引
き離されるだろう。


シェンリィの姿が完全に見えなくなったのを確認すると、カインは隣で買い物リストをブ
ツブツと呟いているエリーナに目を向けた。
次に目指すのはアルエリータ軍事国家という、名前の通り軍事力に優れた都市だ。アルエ
リータの領土の北東に位置する、つまりは自分たちが通過しなくてはならない平原が果て
しなく長い距離であるため、ある程度の食料を確保しておかなければ、途中で食べる物に
困窮し、餓死してしまう恐れもある。
真っ平らな平原には木々が少なく、木の実を手に入れることさえ困難だ。幸いなことに砂
漠はないためいくらかましであるが、夜になれば魔物も活発になり、獲物を探すために動
きまわるだろう。準備に万全を期しても、損をすることはない。

「それでは、私たちも急ぎましょうか」

ある程度の品を頭に入れたエリーナに、にこりと人の良い紳士的な笑みを浮かべる。
それを見上げたエリーナが、力強く一つ頷いて見せた。シリュウたちがいない分自分がし
っかりしなければ、と今朝から張り切っていた少女に、カインはそっと目を細める。

(随分と、良い表情をされるようになられた)

先に先に、と行こうとするエリーナの姿はとても落ち着きがあると思えないが、最近、い
やシリュウたちと出会ってから、彼女の姿勢が変わった。
元来明るく、思ったことをそのまま口に出すような素直さや無邪気さを持っていたが、庶
民筆頭とも言えるシリュウの傍にいるようになってから、ほんの少しではあるが変化を見
せている。以前ならば見向きもしない庶民がするようなことを、積極的に見て、時には行
動に移そうとしているのだ。
勿論、全てが上手くいくはずもなく。
お世辞にも彼女は器用ではないため、同じことを何度も失敗する。それに対してヒューガ
がいちいち口を挟むという、カインにとっては煩わしいことこの上ない事態もしょっちゅ
う勃発するが、それを理由にして投げ出すことをしなくなったのは事実だ。

ふと、シリュウたちに出会う前の、主人と従者だけで旅をしていた頃を思い返す。

「ジャガイモ五つでこの値段は高いわ。もうちょっと安くして?」

まず、値切るという庶民にとっては当たり前の方法を覚えた。
いくらお忍びとはいえ、正直これは覚えて良かったものかと頭を悩ませているが、仲間の
台所事情を全て管理しているシリュウの主夫っぷりは徹底的なもので、値切らず素直に購
入などしてみせれば、顔をしかめてぶつくさと文句や回りくどい小言を言うに違いない。
カイン自身が既に経験済みなのだ、これは間違いないだろう。

当時の光景を思い出し、カインは頭を振った。
いやいや、今は感傷に浸っている場合ではないのだ。

八百屋で値切りをし始めたエリーナだったが、どうも店主の方が一枚も二枚も上手のよう
で、なかなか値切りに踏み出せず定価のままである。
恐らく、エリーナの品行が良いことを見抜いているのだろう。とてもじゃないが旅人には
見えない形をしているからそれは致し方ない。だが、まさかぼったくる気でいるのか……
それは定かではないが、カインはスッと目を細める。一瞬、男の空気が数度下がったよう
な気がした。

「苦戦されているようですね」

ヒューガいわく、胡散臭い笑みを浮かべたままエリーナに近づいたカインは、そのままの
表情でちらりと小太りの男を見上げた。
突然現れた美丈夫に、ぽかんと口開けたまま間抜けな顔を晒していたが、カインの笑みが
一層濃くなった瞬間、顔色をザッと変える。

「そうなの。ジャガイモだけじゃなくて人参とか他の野菜も買おうとしてるんだけど、全
然安くしてくれなくて………おかしいなぁ、シリュウはいつも値切ってたのに」
「なるほど」

ふむ、と顎に手をあて考える素振りをしたカインは、黙り込んでいる店主を見下ろす。そ
の瞬間、ぎくりと店主が身を強張らせた。心なしかじわりと、脂汗が浮かんでいるように
見えた。

「ではこの店は諦めましょう」
「え?でも……」
「向かいにある八百屋さんはどうですか?あそこの女店主ならこことは違ってとても気前
の良い方ですよ………ああ、失礼。こういった話は店主の前でするものではありません
ね。私としたことが、つい、うっかり、口が滑ってしまいまして」

ははは、と白い歯を見せて困ったように眉を下げたカインは、呆然としたままの店主に腰
を折る。表向きは爽やかな好青年に見えるため、素性を知らぬ道行く人々は不審そうに店
主とカインと見つめている。その大半の女性、主に主婦層がギロリと目を光らせて店主を
睨みつけていた。男前はどこでも有利なのか、買い物客のおばさんたちを見事に手中に収
めたカインは、こっそりとほくそ笑む。それなりに端正な顔立ちをしていることを自負し
ているので、折角あるものは最大限使ったほうが良い。それがカインの心情である。
別にあくどいことを企んでいるわけではない。ただ懇切、丁寧に、この八百屋の店主と対
応しているだけだ。ただほんの少し、この店の評判が明らかに悪くなるだろうが、何もこ
ちらは取って食おうとしているわけではない。多少回りくどさは否めないが、少しばかり
強引なお願いも大目に見てもらいたいものだ。

「さ、いつまでもここにいては失礼ですし、あちらへ参りましょう」
「うー……うん」
「ちょ、ちょいと待った!分かった分かった、分かったから!出血大サービスするから!」
「おや、これはありがたい。こちらの商品全て半額にしてくださるなんて、いやあ本当に
助かります。あ、皆さんお聞きになられましたか?半額ですよ。太っ腹なお方ですねぇ」
「―――!?」

そんなことは一言も言っていない、と目を剥いた店主が営業妨害だと叫ぼうとする。
だが、カインのわざとらしい大きな声に反応した買い物客が、我先にと八百屋へと雪崩れ
込んできた。しまいには一体何が起きたのだ、と外野まで出だす始末。

「店主」

この惨事をどう抑え込むか頭を抱えていた店主は、ポン、と肩を軽く掴まれ振り返る。
今こんな状況でただでさえパニックになっているのに、一体誰が自分に何の用だ、と険し
い顔で振り返る。しかし、その威勢もほんの僅かな間で、すぐにヒクリと頬が引き攣った。

「こちらがお代です。それでは私たちは失礼しますよ」

抱え込んだ野菜の数々の半額分の値段をきっちり手渡したカインは、エリーナを連れて何
事もなかったかのように人混みの中へと消えて行く。
何もかもを計算しつくし、有無を言わせぬ輝かしい笑顔に、店主は叫ぶ気力も失せその場
に膝をついた。
その間にも客は増え続け、あっという間に全品半額などと勝手に宣伝された商品はなくな
っていく。ついに完売になり、客全員が置いて行った半額分の金を見つめ、店主は商売あ
がったりだ、と盛大に肩を落とした。



大量の袋の中にある大量の戦利品に、エリーナは尊敬の眼差しでカインを見つめる。それ
があまりにきらきらしているものだから、カインはくすぐったそうに苦笑を浮かべた。

「すごいっ、すごいよカイン!半額だったら絶対シリュウ喜ぶわ!」
「お嬢様のお役に立てたのなら良かったです」
「あの店主の人も気前の良い人だったのね。私ケチな人だと思いこんじゃってたわ」
「ははは………ええ、とってもお優しい方でしたねぇ」

今頃店の前で落胆しているだろうと、明らかに責任はこちらにあるというのに、いけしゃ
あしゃあとエリーナの素直な感想に相槌を打つ。エリーナが交渉に出だした時点で値下げ
をしない方が悪い、と開き直っているので、罪悪感など一欠片も感じていないのが実情だ。

「あらかた買い出しも終わりましたし、そろそろ戻りましょうか」
「うん!シリュウたちも戻ってくる頃だよね」

カインより数倍少ない荷物を抱え直したエリーナは、軽い足取りでカインの前を歩く。
揃える物を全て揃え終えたら宿屋に戻る。自分たちよりも大分前に鍛冶屋へと行ったシリ
ュウたちは、恐らく既に待っているだろう。
人数不足で買い出し係のメンバーは限られたので、帰りが遅くなるのは一人で買い物へ向
かったシェンリィだろうが、彼女は基本的に道草を食うタイプではないので、もしかする
と食材担当である自分たちが一番遅くなっているかもしれない。

食材が半額になったことで、ほくほくと顔を綻ばせながら歩いていたエリーナの頭の中は、
シリュウに褒められることでいっぱいだ。
実際のところはカインが、ややごり押しで値切ったも同然なのだが、そんなことには露に
も気付いていないエリーナには関係のない話であった。それに、たとえこの事実をシリュ
ウが知ったとしても、カインを非難するどころか滅多に見せない良い笑顔で輝くだろう。

すっかりとご機嫌になっていたエリーナは、人混みの中をすいすいと?い潜る。小柄な少
女は小さな隙間さえ上手く縫うように進むものだから、それなりの長身を誇るカインはそ
の背を見失わないようにするだけで精一杯だ。

「お嬢様、あまり先を急ぎませんようにっ」

しかも、今は両手が塞がっていてエリーナの手を取る暇さえない。人の波からちらほら見
える亜麻色の髪と、大人しい桃色の衣服を追いかけるがなかなか追いつかない。カインが
何度か制止の声を上げるが、時々振り返るものの立ち止まる様子は見せない。

焦りを感じたカインが、多少目立ってでも彼女を立ち止まらせるべきだと判断し、叫ぼう
とする。

「お――――っと!」

お嬢様。
そう言おうとしていた言葉は、最初の一文字を発音しただけで終わる。
何かが自分に激突してきた妙な違和感に、カインはらしくもなく慌てたような声を出した。
それから、ゴロゴロと何かが転げる音。カインの靴に一つ二つ小さな塊が落ち、しまいに
それは四方へと散らばった。

「ご、ごめんなさい!」

胸元に入った、朱色。その見事な色に、カインは一瞬息を呑む。

「ああ、いえ。それよりも貴女は?お怪我はありませんか?」

エリーナと同じほどの体躯の少女がぶつかったのか。
ようやく合点がいったカインは、荷物からこぼれた野菜を拾う少女と同じように自分も腰
を下ろし、あちらこちらへと転がっている食材を拾い集める。

「はい、私は大丈夫です。本当にご迷惑おかけしました」

全て拾い終わった少女が、丁寧にそれをカインの持っていた袋に戻す。そのまま深々と腰
を曲げ謝罪する少女に、カインは首を振る。

「いいえ。お怪我がなくて何よりです」
「本当にすみませんでした。あ、では私はこれで……」

再度頭を下げた少女が、人混みの中へと駆けて行く。
何か急ぎの用事でもあったのだろう、とずれた荷物を抱え直したカインがエリーナを追い
かけようと辺りを見回す。

「…………お譲様?」

最後に見た、あの姿が見当たらない。

「―――っ!」

ザッと血の気が失せ、言葉を失う。その瞬間襲うこの寒気は一体何なのか。
しきりに四方八方へと首を回し、強引に人々を押し退け、最後に見たエリーナがいた場所
へと駆ける。

けれど、どこを見ても。
あの少女がいた形跡はどこにもない。
視界に入るものは皆呑気な買い物客ばかりで、探している人物は一向に姿を見せることは
ない。

「お嬢様、エリーナ様!」

声を荒げても、自分の横を通り過ぎる人々が不審な目を向けるだけで、どこからも聞き慣
れた声が返ってくることはない。髪一筋さえ、何一つありはしない。

鼓動が、速く走る。
手に持つ荷物が、やたらズシリと重みを増した。

「――すみません、この辺りに桃色の服を着た亜麻色の髪の少女を見かけませんでしたか」

気配を探るが、どこにもいない。
気持ちばかりが焦り、冷静さを失っていることはカイン自身が痛いほど感じていた。
とにかく今は落ち着かなければ。自分自身にそう言い聞かせ、情報を集めようと手当たり
しだい店員や行き交う人々に同じ質問を繰り返した。けれど、誰もかれもが首を捻るだけ
で、カインが最も欲しい情報を与えてはくれない。
段々苛々が募り始めたその頃、人気のない狭い通路に座り込んでいた薄汚れた男が、不審
そうにカインを仰ぎ見た。

「あんたが言う女なら、さっきお前くらいの年の男に向こうへ連れて行かれたぞ。
何だ、お前らの仲間か?そりゃあ災難だったな。あれは人身売買か人殺しの類だぞ」

男の言葉を全て聞き終わらないうちに、カインは走り出す。途中でいくつか荷物が転がり
落ちたが、今はそれに気を取られる暇はなかった。

(何という失態だ!)

己に罵倒を浴びせ続けながら、カインは無我夢中で細い路地を突き進む。
暗い通りには、先ほど情報を得た男のような、みすぼらしい姿をした老若男女が溢れてい
る。興味深そうにカインを目で追ってはいるが、それも一瞬だけで誰一人としてそれ以上
興味を持つ相手はいない。

幸いなことに、路地は真っ直ぐ一本道だった。
カインが先ほど少女とぶつかり、荷物を拾っていた時間を加算しても、それほど遠い場所
にまでは逃げていないはずだ。
どんな理由をつけてエリーナに近づいたのかは知らない。だがそんなことよりも、もし彼
女が身売りにでもされる場所へ連れて行かれれば。もしくは誰からの差し金か分からぬ相
手に殺されでもすれば。

(お嬢様、お譲様っ!)

焦りなのか恐怖なのか分からない感情が、全て混ざって気分が悪くなる。
こんな衝動、滅多に感じるものではない。ごく一般の他人が感じたとしても、自分が直接
襲われるだなんて思いもしなかった。

「―――うわっ!」
「っ!!」

狭い路地から大通りに出ようとした瞬間。ドン、と聞こえた派手な音と衝撃にかかり切っ
ていたエンジンがようやく鎮まる。
またしても誰かにぶつかってしまったことを瞬時に理解したカインは、それでも今は誰か
を気遣う余裕など皆無で、申し訳なさなど微塵も感じず、そのまま走り去ろうとする。
カインを突き動かすものはただ一人、エリーナだけだった。

「おい待てコラっ!何してんだテメエは!!」

ふいに、腕を引かれる。それは並みの人間の握力ではない。
僅かに眉をひそめたカインが、鬱陶しそうに振り返る。機嫌の悪さは一目瞭然であるが、
引っ張った相手はその空気にさえ動じず、寧ろカイン以上に剣呑な雰囲気を漂わせていた。

「……ヒューガ、それに……」
「大丈夫か?シリュウ」
「いたた……はは、派手に尻もちついたけど大丈夫だよ」
「シリュウ、くん」

珍しく自分が息を切らせていたことを知ったのは、見知った仲間が声をかけた時からだっ
た。
顔をしかめながら立ち上がったシリュウが、土埃を払う。怪我もしていないようで、苦笑
さえ浮かべていた。

「珍しいね、カインがそんなに慌ててるだなんて」
「そういう問題じゃねえよ。こいつ、謝るどころか無視してどっか行こうとしてたんだぞ」
「まあまあ。……あれ?カイン、エリーナと一緒じゃないの?」

余程虫の居所が悪いのか、ブスッと仏頂面でカインを睨みつけるヒューガを、シリュウは
困った様子で宥める。納得がいかない様子ではあったが、事実怪我をしていないのは確か
なので、ヒューガもそれ以上追及するつもりはなさそうだ。
喧嘩の火種にならずに済んだことにホッと胸を撫で下ろしたシリュウは、ふと違和感を覚
える。
何故彼の傍に、常日頃からいるエリーナがいないのだろうか。
それ以上に、どうしてカインはこんな薄暗い路地から出てきたのだろうか。
エリーナの安全を第一に考えるカインらしからぬ行動に、疑問を抱く。

「お嬢様を、見ませんでしたか」
「え?」
「エリーナ様が攫われました。シリュウ君、あの方を見ませんでしたか」

暫し呆然としていたシリュウの顔色と顔つきが変わる。隣に佇むヒューガも、訝しげにこ
ちらを見据えているが、その表情に心配というものは備わっていなかった。

「見ていないのなら探すのを手伝ってください。犯人はお嬢様を連れてここを突っ切った
ようですから」
「突っ切る?ここから先は町の出入り口しかねえぞ」
「まさか、別の場所へ!?」

運ぶ気なのか。
そうシリュウが言い切る前に、カインは飛びだした。背中に大声で何かをかけられていた
ようだったが、それが一体何なのか全く聞こえない。

全速力で駆けるカインの姿を、町の者が怪訝そうな顔で振り返る。その途中、ヒヒン、と
いう馬の鳴き声を聞き取り、機械的に動いていた足がぴたりと止まった。手に持っていた
全ての荷物を落とし、腰に携えてある剣を、抜き出す。
入口の門構えを横切り、今にも出発しそうな荷馬車の中に見えた姿に、けれどぴくりとも
動かない体に、それまで打ち続けていた鼓動が静かに止む。

「―――何をしているのだ、貴様らは」

別の荷物を運んでいた男が、底冷えするような冷たい声にぎくりと肩を震わせる。カイン
の存在に気づいた他の連中が、早く馬を出すよう催促した。
逃がすまいと追うカインの前に、馬車に乗り損ねた男どもが立ち塞がる。下品な面を下げ
る男に、カインはスッと目を細めた。エリーナに見せるような優しい笑顔は、名残さえあ
りはしない。

「苦しむ程度で済むと思うなよ、下種どもが」

それは、エリーナや、それからシリュウたちが見てきたカインではない、別の誰か。





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