● 唐紅の記憶  ●



何も知らない、無垢以上の罪があるとお思いですか。
貴女が振りかざすものは他の人間にない権力であって、貴女自身の力じゃない。
それは、優しさなんて生易しいものではないのですよ。

「―――貴女は何も知らない、ただの偽善者だ」

そうあの人に包み隠さずはっきり吐き捨てたことを、私は今も鮮明に覚えている。



第34話 『捕らわれのお嬢様』



ポツ、と額に冷たい雫が一つ落ちた。

「う、ん?」

その軽い衝撃と鳥肌が立ちそうなほどの温度差のそれに瞼が開いたエリーナは、霞む視界
に不快感を覚えた。何度か瞬きを繰り返し、数回目元を擦る。普段ならばここでカインの
注意が入るのだが、不思議なことに今はその声がどこからもかかってこない。

「カインー?」

呑気に間延びした声を出し、エリーナはむくりと起き上がる。
何故自分は眠っていたのだろう。そう考えが行き着くまで時間はかからなかったが、相当
の時間寝入っていたのか、頭はまだぼんやりとしたままだ。

「…カイン?どこ?」

違和感が襲う。
ここは、妙に肌寒い。

「え、何で?カイン、シリュウ?誰か、ねえ誰かってば」

そういえば、なぜ自分はここにいるのか。
むき出しになっている二の腕を摩りながら、エリーナは薄暗い部屋を歩きだす。
家具らしい家具は一つも見当たらなかった。寧ろ、ここは本当に部屋なのかと疑うほど埃
っぽく、おまけに雨漏りさえしているのか、先ほどからポツポツと水滴が落ちてきている。

段々不安になってきたエリーナは、とにかくこの部屋から出ようと扉の前まで近づく。
しかしドアノブをグッと握ったところで、その動きはぴたりと止まった。
何者かが近付く足音が、エリーナの心臓の音を速くさせる。

「で?あの女の始末はどうするんだ」
「最終的に殺してくれれば構わないって要望だ。あとは俺たちの好きにすりゃいいさ」
「へへっ。それにしても今回は楽勝だったな。
あんなちんけな小娘を殺すだけだってのに、たんまりと報酬金もらえるんだからな」

下品な笑い声が鼓膜を響かせる。
この扉の向こうで、一体何を談笑しあっているのか。小娘とは誰なのか。
ふと、汚れた部屋を見返す。自分以外に、その小娘はどこにいるのだろうかと。

男の笑い声が、どんどん遠ざかる。どうやら扉の前にずっといるわけではないらしい。
口から心臓が飛び出すのではないかと危惧するほど、エリーナの心臓は煩く鳴り続けてい
た。もとから気温が低いせいもあるが、妙に湿った空気が更にエリーナの体を冷やす。ま
るで、生きる力を根こそぎ奪われているような、奇妙な感覚だ。

(始末?殺す?小娘って、私?)

完全にパニックになったエリーナは、その部屋から飛び出すことをすっかり忘れていた。
今なら人の気配がしないから一気に脱出することが出来そうなのだが、そんな判断力は既
に失われている。
ガクガクと膝が笑いだし、扉を前にしてへたり込む。

(なんで?どうして?)

これは悪い夢なのだ。
そう言い聞かせようとして呼吸を繰り返すが、一度速まった鼓動は簡単には治まらない。
現実から逃避してみせるが、頭の中にいる冷静な自分が、そうではないのだとこの事態を
受け入れさせようと足掻く。

いくら世間知らずで常識がないとはいえ、この状況を楽観視出来るほどエリーナは可哀想
な頭ではない。これが人攫いで人殺しの類で、下手をすれば人身売買か何かに遭うであろ
うことも知識として知っている。
身に覚えがない。ただその一言に尽きる。
こんな目に遭うなど、屋敷を飛び出しカインと旅を始めても、一度として想像しなかった
ことだ。

「逃げ、なきゃ」

うわ言のように呟いたエリーナの表情は、紙のように真っ白で血の気を失っている。それ
でも本能がこの現実を危険だと警鐘鳴らし続け、震える体に叱咤をかけ起き上がろうと踏
ん張る。

「―――え……?」

床に手をついて、起き上がろうとした。だからその床は多少埃っぽくても、決してぬるり
とした感触はあるはずないのに、どうしてなのか、冷たい何かが自分の手を濡らすのだ。

粘着力と言うには水気が多いそれに、エリーナは息を詰まらせる。
生温かいわけではない。応えるような冷たさだけれど、ただの水ではないことは断言出来
る。多分だとか、きっとだとか、憶測を付け足すが知っているのだ、これを。

恐る恐る、手元を凝視する。ああどうか自分の考えが外れていますように、と。

「―――ひっ!」

上擦ったような悲鳴が、小さく部屋に響く。
予想出来なかったわけではないのに、いざ本物を目にした途端先ほどまで奮い立っていた
逃走力が泡のように消えてしまった。
その代わり敏感になってきた嗅覚に、エリーナは吐き気を覚える。
何故これまで気付かなかったのだろう。こんな空気の悪い部屋に閉じ込められていたとい
うのに。

血の、臭いに目眩が起こる。一瞬視界が真っ暗になった。

手にこびり付いたものは、まさしく血。人のものなのか、それとも動物のものなのか。た
だ一つ確信を得たことといえば、この部屋で、何かが血を流すような惨劇があったという
ことだ。

(やだ、やだよ。どうして私がこんな目に遭わなくちゃならないのよ)

手のひらを凝視したまま、エリーナは目元に涙を浮かばせる。血がついた方とは反対側の
手で、零れ落ちそうになるものを拭う。嗚咽が漏れるが、こんな小さな音は恐らく外には
届いていないだろう。

(カイン、カイン!早く来て。早く助けに来てよっ!)

鼻をすすり、エリーナはせめて視界に入る現実から遠ざかろうとギュッと固く目を瞑る。
頭に真っ先に浮かんだ人物は、シリュウではなかった。金髪の、いつもこちらをホッと安
心させてくれる優しい風貌の従者であった。
常に傍にあり、小さな変化さえ見逃さないあの男は、今頃必死になって、血眼になって捜
しているのだろう。
彼は、これまで一度たりともエリーナを見失ったことはない。どんな時だってエリーナに
降りかかるピンチは、カインが薙ぎ払ってきた。それは未来永劫、きっとこれからも。


何者からも、どんな障害であっても。貴女を拒むものその全てから。
貴女を守ります。私に、カイン・アルベリアに貴女を守らせてください。


絶対的な信頼を寄せるのは、嘘偽りない忠誠を、幼い頃に確かに交わした約束を覚えてい
るからだ。

「カイン、カイン……っ」

堰を切ったように溢れ出た涙を何度も拭うが、止まる術を知らないのか幾つも雫が流れ落
ちる。何度も嗚咽を繰り返しては、途中で呼吸がしづらくなり咳き込む。
弱々しく背筋を丸める少女を宥める大きくて優しい手は、今はどこにもない。
言いようのない不安。迫りくる恐怖は、死ぬかもしれないからなないか。
けれど、混乱しているエリーナが唯一分かることといえば、それは孤独であった。

人が生活した気配がない部屋。溜まった埃。血がそこら中に飛び散っている床。澱んだ空
気に混じる死臭。それから、窓のない暗い空間。
人を閉じ込めておくには十分すぎる広さのそこは、まるで監獄。いや、その方が幾らかま
しだったかもしれない。

(逃げなきゃ。早くここから、逃げなきゃっ!)

ひとしきり泣き、長く息を吐く。顔は火照っており、恐らく目は充血して、目元は真っ赤
に腫れているだろう。
けれど、そんな姿を誰かに晒したくないという考えよりも、今はただひたすら、この場所
から逃げることで頭がいっぱいだった。身だしなみなど、そんなもの命よりもずっと軽い
ものだった。

未だ上手く力の入らぬ足を乱暴に叩きつけ、覚束ない足取りで立ち上がる。その途中で何
度か転びそうになりながらも、何とか体勢を整え、血の海になっている床に転げ落ちぬよ
うにする。
すぐ目の前にあるはずの扉までが、恐ろしいほど長い距離があるように感じられた。
先ほど掴んだドアノブに、もう一度触れる。平凡な聴力しか持たぬ自分の力のみを信じ、
辺りに誰かがいないか耳を澄ませ、固く目を閉じる。どうか、鍵がかかっていませんよう
に、と。

それから間もなくして、カチャリという開閉時独特の音がエリーナの耳に届いた。

(開いた!)

ハッと閉じていた瞼を開け、僅かに開いた隙間から射す光にほんの少し、落ちに落ちてい
た気分が浮上する。ドクドクと喧しく鳴っていた鼓動はますます速度を上げたが、絶望の
中で見出した小さな希望に、胸が高鳴らずにはいられない。
そこからそっと外の様子を窺ったエリーナは、視界の端でロウソクの火が揺らめいている
のを確認した。素人の感覚で、周囲に誰もいないことを確かめると、ギィ、と思いのほか
扉を開ける音が静寂に満ちた空間に響き渡る。その大きさにビクリと一度肩を震わせたエ
リーナは、この物音で誰かが気付いたわけではない、ときょろきょろと辺りを見回すと、
今度こそ胸に手を当て、肺の中にある酸素を全て吐き出す。

閉じ込められていた部屋から出た場所は、石造りの廊下だった。どこからか風が吹き付け
ているのか、ロウソクの火だけで灯りを保っているそれが、今にも消えそうなほど激しく
揺れている。一定間隔に同じ作りの扉があるので、それなりにこの建物は広いのだろう。
ただ廊下にも窓がないため、ここが地上なのか、それとも地下なのか。最低限の把握さえ
困難であった。

(ど、どっちに行けば良いの?)

右に進むべきか、それとも左か。
暫くその場で唸っていたエリーナは、先ほど数人の男が部屋の前を通ったことを思い出す。

(そういえば、左に進んでいたわ…)

ならば、右に進めば少なからず先ほどの男たちと出会うことはないだろう。
そう判断したエリーナは、足早にその場から立ち去る。ポツポツとあるロウソクを頼りに、
薄暗い廊下をひたすら歩き続ける。ヒールのある靴が、軽快な音を立てエリーナが通過し
た跡を、物音ではあるが一瞬残す。普段は気にしないような靴音が、やけに大きな音で響
く。ゆっくり、ゆっくりと音を殺して進もうとするが、気配の消し方の基本さえも分から
ず無駄に終わる。

(カイン、シリュウ……っ!)

気付かれぬよう忍び足で進まねばならぬというのに、気持ちが急ぎ足になる。それに連結
するかのように、一歩二歩と前へ出るタイミングも徐々に速度を上げ、しまいには小走り
に変化する。
その変化が靴音を更に響かせることになるなど、エリーナは気付かなかった。

「―――きゃっ!」

ようやく見つけた階段を上ろうとした時だった。
少し息が切れたエリーナが、埃の積もった手すりに手をかけようとする。しかし、それは
凄まじい力によって阻まれる。
手首に走る痛みに、エリーナは悲鳴を上げながら眉をひそめた。それから思い切り引っ張
られ、石造りの床に叩きつけられる。

「ネズミが一匹逃げ出そうとしてたみたいだぜ?」

ずきずきと痛む体を何とか起こそうとしたエリーナの髪が、ぐいと上へ持ち上げられる。
これほど乱暴に扱われたことのないエリーナは、声にならない悲鳴を上げ閉ざしていた瞼
を勢いよく持ちあげた。

「いけねえなお嬢ちゃん、勝手にウロウロすんのはよお」
「ったく、誰だー?あの部屋の鍵閉め忘れた馬鹿は」

耳元でゲラゲラと笑う下品な声が、エリーナの顔色をザッと青くさせる。何故ならば、こ
の声は先ほど、確かに一度聞いたことがあったからだ。

「う、うそ……」

どうして、と頭の中に数分前の光景が映し出される。何故あの男たちが、今ここにいるの
だろうかと。

「特になーんにも恨みはないんだけどさ、死んでもらわないと困るわけ。
 たっかい報酬金を前払いで頂いてるからには逃がすわけにもいかないんだよねえ」

もう一人の男が、視界の端でニタリと口端を上げた。

「な、んで…どうして!?私、何も知らないわ!何も悪いことしてないわ!?」

大きく目を見開き、エリーナは発狂したように叫びだす。甲高い女の声に一瞬顔面をくし
ゃりと歪めた男たちだったが、声が治まったと同時に一斉に笑いだした。
困惑したままのエリーナは、何故男たちが腹を抱えて笑いだすのか理由が分からず下唇を
噛みしめる。まるで自分だけが何も知らない、蚊帳の外に放り出されたような虚無感さえ
覚えた。

「あんたが何者で何をしてきたのかなんて、俺たちにゃ関係ない。
 とある人物から依頼されてんだよ。あんたを殺すように、ってね」
「とある、人物……?」
「おっと、それ以上詮索したって無駄だぜ?どうせお嬢ちゃんはここで死ぬんだからなあ」

髪の毛を掴んだままの男が、エリーナに顔を近づける。その瞬間強烈な臭いがエリーナの
顔面に吹きかかり、不快そうに顔をしかめた。これは、かなり度の高い酒だ。

「はな、して、離してよっ!」

腕を大きく振り、何とか拘束から逃れようと抵抗を見せる。けれどひ弱な女の力など、普
段から得物を扱う男たちにとってみれば虫を仕留めることよりも容易いのか、エリーナの
言動をにやついた表情で見下ろすだけだ。
それでも尚、エリーナは抵抗を続けた。髪の毛を引き上げられているせいで、既に幾つか
の本数は抜け落ちているだろう。こんな惨めな姿を晒したことなど一度たりともないエリ
ーナにとって、この状況は屈辱以外のものではなかった。

「おいおい、そんな乱暴に扱ってやんなよ。一応女なんだからもっと丁寧にしてやれって」
「あ…?悪ぃ、すっかりそのこと忘れてたぜ」
「―――きゃあっ!」

突然、上へ持ち上げられていた力がなくなる。かと思ったその瞬間、エリーナの体は勢い
よく石造りの床へ投げ飛ばされた。

「い、たぁ……」

ゴン、と鈍い音が頭に走り、暫くして頭部に激痛が走った。
鉛のように思い体をどうにか起こそうと、エリーナは手を付いて這い上がろうとする。け
れど刺すような痛みを二の腕に感じ、恐る恐る、その場所に目を向けた。

「――――っ!」
「うっわ。掠り傷一つない女の肌に傷をつけるなんて、お前えげつねぇ」
「バーカ、どうせテメエはこれを期待してたろ?」
「だはは!そりゃあ言えてるわ!
こういうお嬢様を力づくで捻じ伏せるのマジ興奮するんだよ。殺し甲斐あってさぁ」

懐から抜き出した銀色に輝く刃物に、エリーナは息を呑んだ。切れ味の良さそうな鋭さを
見せるそれに、無意識に体が後ろへと下がる。裂傷した部分は熱を帯びている。頭部から
も、生温かい液体がどろりと溢れだす。
けれど、命の危険に追い込まれた今はそんなものは本当にどうでも良くて。
ひたすら、この場から逃げ出そうと重い体に鞭打つ。

「や、やだ……来ないで、来ないでよぉっ!!」

最早立ち上がる余力はなかった。それでも逃走しようと身構えるが、男たちはにやにやと
締まりのない笑みを浮かべながら、少しずつエリーナを壁際に追い詰める。

「か、いん…っ。カインカインカインっ!!」

ゴツ、と壁に頭がぶつかる。視線を動かした瞬間、男に腕を取られた。

「観念しな。じわじわ切り刻んでやるよ」

男の笑みが濃くなり、ナイフがエリーナの顔に近づけられ頬の皮を薄く裂いた。
ピリ、とした痛みが走る前に流れた涙が、浮き出た血を薄く染める。


「――――観念?それか、それが貴様の遺言か」


従者の姿を思い浮かべながら固く目を瞑っていたエリーナの耳に、何かがぐしゃりと潰れ
るような音が届く。
それから、ひどく抑揚の欠けた、底冷えた声。
その声色だけで人を失神させそうなほど、それは冷淡なものだった。




Copyright (c) 2009 rio All rights reserved.