● 唐紅の記憶  ●


「―――貴方は何も知らない、ただの偽善者だ」
「……ぎぜんしゃってよくわからないけど」


カイン・アルベリアっていうひとがげんきなら、それでいいなあって、おもったの。

カイン、あのね。


「おかえりなさい」




貴女の傍に帰ってきても良いというその些細な言葉が、どんな気休めよりも、何よりも。





第35話 『酷薄の男』





無邪気なのか、ただ無垢なだけなのか。
年端もいかぬ幼子に振りかざしたものは、言葉という刃物。

気に入らなかった。世界の穢れを知らぬ、何ものからも守られる鳥籠の中にいた少女が。
眩しかった。愚かなほど真っ直ぐひたむきで飾ろうとしない素直な言葉が。
だから気付いたのだ。これは、自分とはかけ離れた存在なのだと。
彼女が尊きものなのか、それとも異端なのか。

尊きものだとしても、異端だとしても。
初めて心から言われたその言葉は、枯れ切っていた私の心の何かを潤した。へにゃりと溶
けるように柔らかに笑う、ただそれだけの動作だったというのに。
首筋に手を当て、ほんの少し握りでもすればあっという間に折れてしまいそうな、そんな
非力な子供なのに。
『酷薄の男』と罵られ嫌煙されていた男が、たった一人の少女に、惑わされる。

これは愛ではない。そんな生ぬるい表現では物足りない。
けれど、満たされた言葉の前に感じていた嫌悪も、また事実なのだ。
これは愛ではない。友愛でもなければ慈愛でも、どれにも当てはまらないもの。

エリーナ・ファイナンスという少女は、愛とは違う、特別。
そう。それは安定剤にも似た。

これは愛ではない。けれど―――。




血飛沫が舞った瞬間、鉄臭さが鼻の粘膜を刺激する。
水を含んだ塊が地面に落ちた後、走る絶叫。いや、これは断末魔か。
血の臭いは精神を穏やかにさせる。最早過去の話であったと思っていたというのに、いざ
魔物を、人を斬ってみれば、どういうわけなのか苛立っていたものが治まるのだ。
この赤が良い。体を構成する一部の、この紅色が。渦巻いていた余計な邪念を払拭する。

「痛いですか?痛くするように斬り落としましたから当然と言えば当然なのですがねえ」
「が、あぁああぁぁあ!!」
「ああ、そんなに驚かなくても良いですよ。斬り落としたお前の右腕は、ほら」

足元に転がる薄汚れた塊を、剣を持つ手とは逆の方で持ち上げる。筋肉質であったその物
体は、案外重い。

「ここに、ちゃんとある」

断片から未だ流れる赤いものをうっとりとした表情で見ながら、所有者であった男の顔に
近づける。痛みのせいなのか、それとも自らが切り落とした他人の腕を、にこやかに近付
けるカインに戦慄を覚える。土色に顔色が変わった男は一筋涙を流した。

「て、テメェっ!何てことしやがる!!」

呆然と硬直していたもう一人の男が、膝を震わせながらそれでも仲間を助けようと前に出
る。その様子をちらりと見遣ったカインは、まるで今気付いたと言わんばかりにほんの少
し目を見開いた。そして、朗らかに一笑する。

「―――っ!?」

一見すれば穏やかな気分になれそうなカインの表情に、男は再び身を硬くした。暑くもな
いはずなのに次々と毛穴から出てくるじっとりとした汗が、目の中に入ろうとして何度も
瞬きを繰り返す。その瞳の中で、カインは笑っていた。口元だけを器用に動かして。

「何をそんなに怯えて?」

口端を上げたまま、目を細めカインは剣先を一振りする。風を切る音と一緒に、付着して
いた血が飛んだ。
廊下の壁際にあるロウソクがゆらりと揺れ、銀色に光る剣を晒し出す。一層冷たさを強調
させるその色と、笑っているはずなのに笑っていないカインの様子に、男はごくりと固唾
を呑み込んだ。己の手先は、今は氷のように冷たくなっているだろう。

「―――が、ぁあぁぁあっ!」

ゴッ、と鈍い音が響く。腕を切断された男が倒れたのだと判断出来るまで、少し時間を要
した。ああ、頭を蹴られたのかとまるで他人事のようにそう思いながら、叫び声が木霊す
るまでの僅かの間放心する。

「心配せずとも、これの後に斬って差し上げますから」

瞼を伏せ、笑う。
その下には、声にならない悲鳴を上げ、地獄、いや死すら懇願してしまいそうなほどの激
痛にのたうち回っている男の姿があった。斬り落とした男の右腕の傷口に足を乗せ、踵で
傷口を抉る。狭い廊下に、濁音の混じる男の声が波打つ。

その残酷な世界に、男はヒッと引き攣ったような悲鳴を上げる。倒れ込んだ男は、どうに
か逃げようともがくが、カインは踏みつける力を弱める様子はない。寧ろこの状況を楽し
んでいるのか、視線を下ろし泣きながら「助けてくれ」と泣き叫ぶ男に無邪気に笑いかけ
た。

「―――やめろカインっ!」

そろそろ飽きたのか、カインが剣先を真下に振り下ろそうとした瞬間だった。
ふいに右手を取られる。手首を掴むものは、似たような温もりを持つ柔らかすぎず硬すぎ
ないもの。

カイン?……ああそうだ、私の名はカインだ。では誰が私を呼んだのだろうか。

ぼんやりと考えに耽っていたカインは、ゆったりとした動作で振り返る。

「……ああ、シリュウ君?どうかされましたか?そんなに息を切らせて」

汗だくになり肩で息をする少年を見つめ、カインはにこりと微笑んだ。

「もう、やめろっ。そんなことよりも早く、エリーナを……っ」
「そんなこと?あの方を傷つけたことがそんなことで済まされるのですか?」
「そうじゃない!」

叫ぶシリュウにピクリとも表情を変えぬまま、容赦なく掴んでいる手を振り払う。まだ身
体の構築が完全でない華奢なシリュウが一度揺れるが、踏みとどまる。

「申し訳ないのですが、私にはやるべきことがあるので邪魔しないでいただけますか」

視線は足元に向けたままで、シリュウの位置からではカインを窺うことは出来ない。けれ
ど、その様子が混沌としていることは間違いなかった。尋ねるように聞いておきながら、
その言葉には有無を言わせる隙がない。
例えるならそう、まさに黒。あるいはカイン自身が浴びた返り血の、あの錆色。

ゾッと背筋に向かって何かが這う。瞠目して怯んだシリュウは言葉を失った。カインが持
つ気配が、あまりにも普段とかけ離れているから。

「―――これは、私の大事なものを傷つけた。だからそれ相応の報いがいる」

もがき苦しむ男が、踏みつけるカインの足を掴もうとする。それを、鬱陶しげに目を細め
見下ろしたカインは、迷わずその手の甲に剣を差し込んだ。
絶叫が走る。貫かれたそれは床も貫通したのか、男が逃れようとするが逆に傷口を抉るだ
けで解放される兆しはない。

目を逸らしたくなる光景を前にして、シリュウは空気を尖らせた。気違い沙汰を放ってお
けるほど、落ちぶれていないからだ。

「だったらっ!大切なものを守ろうとすることの方が大事だろ!?」

これは誰だ。そう頭の中で囁く言葉は、まさしく己の声だ。目の前に広がる事実を、自分
自身が否定する。何故、こんなことが起きているのだと。
血の海と変貌しようとしている廊下の隅に放心したまま動かない、傷だらけの少女を見据
えシリュウは奥歯を強く噛む。

カインを見失ったのは、ほんの数分の間だった。エリーナを攫ったやつらのアジトへ侵入
するまでは、確かに一緒にいたのだ。

けれど。思えば彼が豹変したのは、その時からだったかもしれない。
聞き馴染んだ少女の叫び声が、微かに耳に届いたあの、瞬間。

「大事なものが壊れる前に、ゴミを片付けなければ…」
「そいつらはもう戦えないっ!それ以上は……っ!」
「言ったでしょう?これとあれには、報いが必要だと」
「―――あんたがしていることがエリーナを壊すってどうして分からない!?」

怒声が空気に伝染し、肌に電撃が走ったような感覚が襲う。
だが、シリュウの声に敏感に反応したのはカインではなかった。

「あ……」

座り込んだまま、それまで呆然として動かなかった影が、のそりと緩慢にこちらを食い入
る。頭部から流れる血はいくらか止まっているのか、肌についた血が固まりつつあった。
傷を負った身で、少女は目を泳がせる。何もかもがゆっくりで、本当に意識があるのかど
うか危ういほど、その動作は覚束ない。

「か、いん?」

ようやく焦点が定まった少女は、寝ぼけたような様子で返り血を浴びている男を凝視する。

「かいん?」

どこか舌っ足らずな声に、シリュウは一抹の不安を覚える。
どれだけの間カインが拷問にも似た光景を繰り広げていたのかは分からない。だが一つだ
け確かなことは、その間エリーナは気を失っていなかったということだ。普段の彼女なら
ば人が斬られた時点で倒れ込むのだが、その様子は全く窺えない。
まさか既にもう、壊れたのだろうか。

「き、きゃあぁぁあぁあああっ!!」

血生臭さが充満する廊下に木霊する、布を裂くような悲鳴。その視線の先にあるものは、
紛れもなく彼女が絶大な信頼を寄せる従者だった。けれど薄茶色の瞳は、安堵や喜びより
と真逆の恐怖の色を濃く映し出している。

甲高い声にピクリと反応したカインは、澱んだ瞳を泳がせ、未だ叫び続ける少女に焦点を
合わせた。飛び散った赤色が、普段清楚なイメージを持つカインを見事に染め上げている。
端正な顔だからだろうか、血の色が似合わぬ男の頬にかかっている赤色がやけに目立つ。

カインの反応は、乏しかった。
だが、ゆっくりと双眸が開かれ、口元を真一文字に結ぶように顔全体を硬くさせる。引き
攣るような弱々しい少女の声がカインの鼓膜を響かせ、ぬるま湯に浸かっていた身体は一
気に冷水を浴びせられたかのように現実に引き戻される。

血が放つ独特の臭いは、荒んだ心を落ち着かせる。誰かの絶叫なんてどうでも良い。ただ
そこに赤い、あるいは錆色に変色した液体があれば。

「お、じょう……さま」

何度も詰まらせ出てきた言葉はひどく掠れていて、それが仕える少女に届いたかどうかは
分からない。これまでの所業を覚えていないわけではなかった。しかし、彼女の存在をた
とえほんの数分の間でも忘れてしまっていたことに変わりはない。
多分、気が動転したのだ。彼女があんなにも手酷い傷を負っていたから。必ず守ると誓い
を立てた少女が、今にも殺されそうだったから。そう、気を取られていたのだ。血の臭い
に。

ふいに血生臭さが強くなったような気がした。それまでかかっていた靄が晴れるかのよう
に、冷たい風が廊下を走り、カインの身体を冷やす。
身も心も凍えてしまいそうなほどの冷気に、カインは片手で顔を覆う。
ああ、早く彼女を手当てしてこんな劣悪な環境から抜け出さなければならないというのに。
どうしてなのか、体が動かない。男を踏みつけていた足の力は、とうに緩くなっていた。

「エリーナっ!」

指の間から見える視界の先で、黒髪が動いた。それを目で追いかけながら、カインは隅で
震える少女を同時に見つめる。少女が何かうわ言のようにシリュウに訴えていた。その中
に自分の名前が何度も出ていたような気がするが、冷静を通り越してどん底にまで落ちた
心は、未だ回復する兆しを見せない。
足元を見遣り、踏み潰している男の様子を窺った。あれだけ騒ぎたてていた男が、途中か
ら微動だにしなくなっていたのだ。
そっと、傷口から足を退ける。ようやく肉の上から床に落ち着いた靴裏に、水を含んだ何
かが反発する。―――辺りはまさしく、血の海だった。

「”酷薄の男”、ねえ。笑っちまうな。俺からしてみればこれくらいのことでそんな渾名が付
くとは到底思えねえよ。……それとも、その名に相応しい別の姿があったってわけか?」

カツ、と比較的ゆったりとした足取りで近付いてきた靴音に音もなく振り返る。所狭しと
広がる赤色の世界にそぐわない青い色が、口端を上げてこちらに歩み寄る。その後ろに見
えるバンダナを巻いた軽装の女も確認し、カインは視線を落とした。

「…………」
「チッ、だんまりか。まあ別にお前が何者だろうが、俺には関係ねえな」
「それ以上炊き付けるんじゃないよ。これは、カインの問題なんだから」

皮肉気に吐き捨てたヒューガの頭部を軽く一発殴ったシェンリィが、呆れたように一つ溜
息を吐いた。大した痛みを感じていないもののヒューガにとっては不服なのか、いくらか
不機嫌そうな面を見せる。けれど反抗することが面倒なのか、大袈裟に肩をすくめて見せ
たかと思うと、今度は血にまみれた床を踏みつけ、動かなくなった男の傍へと戸惑うこと
なく近寄る。
それからしゃがみ込み、男の首筋に手を当て脈を測った。すぐに手を離して立ち上がる。
そのまま顔面を土色に染めて腰を抜かしている男の方へ向き直ると、ヒューガは眉一つ動
かさずきっぱりと言い放った。

「残念だったな。こいつ、もう事切れてるぜ」
「―――ヒッ!」
「別に俺はテメエなんぞ興味ねぇよ。逃げるんならさっさと逃げちまいな」

こいつが次いつ切れるか分かんねえぞ。そう言ってヒューガは男に立ち去るよう手で払う
仕草を繰り返す。死んでいる仲間を一瞥した男は、更に顔色を悪くさせそそくさと立ち上
がりその場を去ろうと駆けだす。何度もよろめき転倒しそうになる情けない姿を見送った
ヒューガは、次に騒がしく喚いているもとへと歩きだした。

「カインが、カインが……っ!」
「落ち着いてエリーナ。まずは傷を治そう。ね?」
「でもでもっ!だって、血…!その人、動いてないよっ!?」

錯乱状態に陥っているエリーナにはどんな宥めの言葉も届かぬのか、シリュウとの会話は
全く成立していなかった。嫌だ嫌だと頭を振り、自身を守ろうと壁沿いに這いだす。
見た目は酷いが、致命傷を負っている様子はないエリーナの様態に安堵したシリュウであ
ったが、重傷であることに変わりはなく早急に手当する必要がある。出来ることならばこ
の場で、せめて応急処置だけでも施したいのだが、エリーナがそれを拒絶する。寧ろ怪我
をしていることを忘れてしまっているのか、視線は赤一色に染まった悲惨な現場を凝視す
るだけでまともにこちらを向こうとはしない。

「とにかくここから出よう。ほらエリーナ俺に掴まって」

出来得る限り相手を刺激せぬよう、柔らかな声を出して手を伸ばす。
利き腕である、左手を。

「――――いやっ!」

パン、と弾く音がやけに大きく響く。
一瞬何が起こったか判断出来なかったシリュウは、次第に感じる左手の痛みに愕然とする。
まさか、拒絶されると思わなかったのだ。
呆然とするシリュウを無視して、鬼のような形相でエリーナが睨み上げる。普段絶対に見
せない表情を、頭の中にいるもう一人の冷静な自分が、この視線は一体誰に向けているの
だろうと囁いた。俺を見ているんじゃない。俺を通して誰かを見ているのだと。

「そうやって私も殺すの!?こんなの酷いよ、最低だよ!同じ人間なのに!!」

シェンリィの傍らにいるカインの肩が、ビクリと一度跳ねた。背中を見せているシリュウ
にそれは伝わらない。

彼女が言いたいことも、誰に伝えたいのかも分かっていた。だから自分自身が傷つくなん
ておかしいのに、真っ直ぐなエリーナの言葉に息を詰まらせる。
彼女の言っていることが、決して間違っているわけではないからだ。

「色んなものから私を守ってくれるって言ったのに、ちっとも守れてないよ!
 人殺ししなくちゃ守れないなんて嫌っ!こんなの、こんなの悪いことじゃないっ!!」

責め立てる泣き声が容赦なく襲う。加減も何も知らないその素直さが、心に巣食うものを
抉る。
傷ついている暇があるのなら、早く彼女を落ち着かせろ。本当に傷ついているのは、後悔
しているのは、彼女と長く主従関係を築き上げてきた男なのだ。そう言い聞かせるが、エ
リーナを黙らせる方法が何一つ思い浮かばない。それが悔しくて、振り払われた左手を握
りしめ、己の不甲斐なさを嘆く。

「それ、本気で言ってんのか」

落とした視線の先に出来あった、一つの影。
驚いて振り返ったシリュウは、無表情にエリーナを見下ろす男の姿に瞠目した。
ぞくりと皮膚が粟立つ。殺気にも似た鋭い視線に、シリュウは声を失う。不機嫌なのか無
表情なのか判断し辛い男は、ただ静かだった。けれど間違えた答えを出そうものならば、
何ものでさえも斬り伏せてしまうような気配に、息を呑まずにはいられない。
制止することも忘れ、穴が空きそうなほど男を食い入る。今はその視線さえ気付いていな
いのか、男は変わらずエリーナを見据えたままだった。

「おい答えろよ」

ぴたりと泣きやんだエリーナは、驚いた様子でヒューガを見返した。何が起きているのか
理解していないのか、返答する気配はない。何度か瞬きを繰り返すが、唇は固く結ばれた
ままで次の音が出る様子はみられなかった。
態度の変わらぬエリーナを睨みつけ、ヒューガは一度舌打ちし、ぐしゃりと前髪を鬱陶し
そうに掻き上げる。

「自惚れんなよ、クソガキ」

心底憎んでいると表現したくなるほど、男の声色は冷然としていた。それは全てを撥ね除
け、一切の温もりも感じない。
誰かの息を呑む音が耳に届いた。いや、もしかすればその音は自分のものだったのかもし
れないが。

「テメェのその平穏は、誰のおかげで成り立っていると思ってる」

ヒューガを見上げたままのエリーナが、僅かに薄茶色の瞳を揺らした。目を逸らすことも
出来ぬのか、蛇に睨まれた蛙同然の少女は、途端に怯えたような顔つきに変化する。

「で、でも……っ!人殺しなんて………」
「人が人を殺すのは道徳に反するってか?ハッ、随分おめでたい頭なこって」

先ほどまでシリュウに食ってかかった勢いは萎み、今は弱者として語尾を震わせていた。
身を縮こまらせ、長身の男から逃げるように壁に寄りかかる。逃げ口がないと分かってい
ながらも更に後退しようとする姿は、ただ哀れだった。

「テメェ、魔物を斬った時には何も言わなかったな。それは何故だ」
「え………」
「お前以外全員、毎日腐るほど斬ってる。…じゃあ何でそれについては何も言わない」
「だ、ってそれは…」
「”人間じゃないから”」
「――――っ!」

言い終える前に口を挟んだヒューガに、俯いていたエリーナは弾けたように顔を上げる。
図星を言い当てられ驚愕した少女を、苦々しい顔つきで見下したヒューガは、暫くの間を
おいて口元を弧に描く。下等な生物を嘲笑うかのように、冷酷な眼差しで。

「相も変わらず、吐き気がしそうなほどの偽善っぷりだな」

一度鼻で笑ったヒューガが、硬直しているシリュウを押しのけ、ガクガクと揺れるエリー
ナの前で足を止める。それと同時に少女の胸倉を掴み、ヒッと引き攣った悲鳴を上げる小
柄な体を持ち上げた。軽々と宙に浮かされたエリーナは顔面を蒼白にし、手足をジタバタ
させるが、作り上がった男に適うはずもなく、恐怖と息苦しさにもがくしか術を持たなか
った。

「それは優しさなんかじゃねえ。縋るだけ縋って、甘えてるだけだ」

壁に押し付け、再び泣き出した少女に男は非道なほど真っ直ぐ淡々と正論を述べる。少女
がシリュウに言い放ったものとは真逆の素直さで。

「よく覚えとけ、エリーナ・ファイナンス」

初めて、名前を呼ばれた。しかし喜びなどというものは感じない。
名前の一文字一文字に見えない重圧をかけられているような、妙な感覚。ただ名前を言わ
れているだけなのに、どうしてこんなにも寒気が走るのか。

視界一面に広がる青色は、快晴のようなのに清々しいはずなのに。

「テメェの偽善ぶった正論が、誰かを殺すってことをな」

髪の色より深い青を持つ瞳は凍てついていて、どこかこの状況を楽しんでいるようにも見
えた。





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