● 唐紅の記憶  ●


(お嬢様)

そう言っていつも柔らかに微笑む貴方に、私は深く考えずに笑い返していた。
何も言わず手を差し伸べてくれたり、ごくたまに背中を押してくれたり。貴方は、私が欲
しいと思っていることを何でも与えてくれた。まるで、何もかも見透かしているかのよう
に。振り返ればいつだって、同じ笑顔を浮かべて。

……どうして、同じだったんだろう。どんな時だって貴方は、決してその決まった笑顔を
揺るがせなかった。それが偽物のとは到底思えなかったけれど、思い返せば、貴方は私に
対して「笑顔」以外を見せたことはほとんどなかった。

(エリーナ様がいつまでも健やかで笑顔でいてくださることが、私の糧なんです)

何も知らなかった、知ろうとしなかった私はただその言葉に満足したように頷いて、薄く
笑む貴方の期待に添おうとにっこり笑ったのだろう。
そんな私を見て、貴方はどんな顔をしたか。残念なことに私は覚えていない。
でも、多分。ホッとしたような、安堵にも似た表情を滲ませていたのかもしれない。

多少無理をしても、大抵のことならば寛大に受け入れてくれる貴方のその優しさに付け込
んで、押しつけて、わざと現実から逃げていた。逃げる隙間を、また貴方は分かりやすい
ように用意していてくれていたから。
楽に、簡単に。都合の悪いことは全て貴方に渡して。不満を漏らさない貴方に、貴方が糧
と言って喜んでくれる笑顔を安売りして。そしていつの間にか、拒否させる隙さえ失わせ
て。

甘えるだなんて一言で片付くものではない。縋っている表現もどこかしっくりこない。
ああそうだ、私は貴方に、依存していたのだ。ずるずるとこの温い関係を引き延ばし、気
付けば引き返せない所まで堕ち、私は貴方がいなければ何も出来ない人間になっていた。
いや、そんなことはただの言い訳にしか過ぎない。それでも、私は貴方なしでは生きてい
くことさえ困難な、愚かな人間に朽ち果ててしまっていた。

貴方が望むものをずっと私が与え続けていれば、貴方はどこにもいかない。
そう言い聞かせて、まるで貴方を騙すかのように私は、いつも馬鹿みたいに頬を緩ませて。
貴方を安心させることは建前で、本当は私が安心出来るように。ホッとした貴方を見て、
まだ貴方を縛れると私が逆にホッとして。
交わした約束をちらつかせ、離れていかないように絡めて、一つ返事で頷く貴方に気分を
良くして。それが益々どん底へと堕ちているということに気付かないで、私は貴方を常に
傍に置いていた。目に届く場所にいなければ、いついなくなってしまうか分からなかった
からだ。

(私は貴女の意志を、尊重しますよ)

時折誓約を交わし、この紛いものの絆を更に深めて。





第36話 『塗り重ねた嘘』





「偽善ぶった、正論……?」

胸倉を掴まれたままの少女は、愕然とした様子で目を見開いたまま男を凝視した。胸元を
抑えつけられる圧迫感を超える意味深な言葉に、思わずオウム返しで声に出す。

背中にある石造りの壁が、服越しからその冷たさをリアルに伝える。二の腕に走る鳥肌が、
それを直に表していた。
本当ならば、こんな場所からはさっさとおさらばしたい。けれど今はそれ以上の混乱が少
女の思考をはびこっているせいで、直接的に感じるもの全てが後回しになっていた。だか
ら痛みも寒さも、ほとんど感じていない。

「何それ、意味分かんない。偽善なんて……私は、正しいことを言ってるだけじゃない」

逸らすことの出来ない青い瞳を真っ直ぐに見つめ、エリーナは絞り出すように震えた声を
ゆっくり吐いた。
すると、男の眉間に数本の皺が寄り、舌打ちが耳に届く。先ほどよりも数割機嫌が急降下
した男は、一度目を伏せ、再び瞼を持ち上げる。

「大概にしろ」

覚悟、いやこれは決意か。どちらにせよ、好意的とは全く縁のない感情を込めた瞳が、エ
リーナを射抜く。
冷や汗が額から、頬へ、それから顎に伝い落ちる。ああ、殺意だ。
失神してしまいそうなほど凄んだ男の顔は険しく、ごくりと固唾を呑み込む。心なしか深
くなった青い双眸の奥に潜む激情を、逃げる術もなく真っ向から浴びせられる。全ての臓
器が委縮してしまっているのではないかと思わせるようなその気配に、エリーナは呼吸が
震えているのに気付いた。

「道徳?道理?それとも正義でも掲げてるつもりか?
守られていることすら知ろうとしないで、己の範囲だけしか見ようとしないお前が?」

ギリ、と胸倉を掴む力が強くなる。突然加えられた圧迫感に、意識が混濁していたエリー
ナも苦しげに顔面を歪めた。咄嗟にヒューガの右腕を掴み、爪を立てる。じわりと浮かん
だ幾つもの赤い線が出来ても、虫に刺された程度にしか感じていないのか、男は少しも痛
がる様子を見せない。

「あいつを擁護するつもりは毛頭ない。互いに互いを陥れてる連中なんざ興味ねぇ」
「う、ぐっ…っ!」
「だがな。テメェのちっぽけな世界に俺らを、ましてやシリュウを引きずり込むのはやめ
ろ。くだらねえ自己満足の価値観を押し付けんな」
「なん、でそこに…シリュウ、が?」

息も絶え絶えに、けれど困惑した瞳がのろのろとヒューガを見つめる。
息苦しさのせいで浮かんだ生理的な涙を前にしても、その力を緩める原動力にはならない。
寧ろ、それが益々私は何も知らない、と訴えているように見えて、このまま握り潰してや
りたいという衝動に駆られた。

いやもういっそのこと、このまま息の根を止めてしまえば。

「――――!」

不味い方向へと意識が飛ぶ中、ひやりとしたものがヒューガの左腕を捕らえた。ハッとし
て見下ろすと、座り込んだまま縋るように左腕を掴む、黒髪の少年が沈黙したままゆるり
と頭を横に振る。

「駄目だ、ヒューガ」

静かであるが反論させる気のない強い意志を込めた、自分とは正反対の赤い瞳。少年は、
何をしようとしていたのか感じ取ったのだろう。それまでこちらの気配に圧倒されていた
はずの姿勢は消え、少女の命が握られている右腕を睨みつけている。

少女を、エリーナを、助けようとしているのか。

「……お前まで、堕ちたのか」

落胆か、消沈か。言いようのない虚無感が胸を襲う。まるで裏切られたような気分はあま
りにも身勝手で、馬鹿馬鹿しいほど子供臭い。
けれど彼ならば、とどこか期待していた眼差しで見つめていたのは事実だ。世俗に呑まれ
ない、混じろうとしない羨むほどの芯の強さと意志の固さに、一種の憧れを抱いていたの
だ。
その行く末は決して平たんな道のりではない。寧ろ険しいだけで、報われるかどうかも定
かではない。
だが、それを承知で痛む体に鞭打ちひたむきに進む小さなその背を、見守りたいと思った
のだ。出来得る限りのことを、彼の負担にならないよう、せめて傍にいる間だけでもと。

しかし、彼は違うのか。この少年もまた、流れに身を任せる者の一人だったのか。
掴まれた腕を胡乱に見つめる。振り払おうと思えば振り払えるのに、何故かそれが出来な
かった。

「―――俺は、お前が必要以上に傷つく姿を見たくない。それだけだよ」

フッと力の抜けたような、緩んだ顔。黒髪の前髪が少々鬱陶しげだったが、そこから覗く
引き込まれそうなほど美しい赤は、確かにこちらを見て笑っていた。
言葉を失い、瞠目する。それ以外に感情を表す手段を、今は持っていなかった。

「エリーナを離そう、ヒューガ」

諭すような、けれどどこか労わりを含ませたような穏やかな声色。
これは何なのだ。背筋に走る、悪寒に似た痺れ。歓喜に震えるような高揚感。
まだ十代そこそこの餓鬼同然の少年が、何もかもを見透かしたような真っ直ぐな、芯が太
くて意志の強い瞳を向けている。濁ってしまったのではないかと、こちらが勝手に思い込
んでしまった沈んだ心を浮上させた、無意識。

(そうか)

まだ、染まってない。

ドサリ、と音を立ててエリーナが床に落ちる。正気に戻った少女は、眦に涙を浮かべ何度
も咳き込みながら胸元を押さえていた。
その苦しげな様子を見て、呆然と突っ立っていたカインが駆け寄ろうとする。だが手を伸
ばそうとしたところでハッと我に返ったように硬直し、眉間に皺を寄せながら静かに手を
下ろす。悔しげに下唇を噛み、俯く。前に流れた金色の髪が、男の表情を隠した。

「エリーナ」
「――――っ!」

ビクリと上下に大きく揺れた肩に、そっと手を乗せた。乱れた息を落ち着かせようとして
いた少女の呼吸は一瞬止まるが、顔を上げようとはしない。
怯えたように身を縮ませているエリーナを前にしても、シリュウは穏やかな顔つきのまま、
ほんの少し目尻を下げて苦笑を洩らすだけだった。
数秒前の緊迫した雰囲気など砂塵たりとも感じさせないような空気に、黙りこんだままの
エリーナは更に居心地が悪そうにする。涙はとうに止まっているのに、今はこの居た堪れ
なさに再度涙がでないかと望むほどであった。

忘れていた傷の痛みが、じわりじわりと復活している。我を失っていた時は怪我どころで
はない状況であったが、正気に戻った瞬間、日頃からこんな大怪我をしないエリーナには
耐えがたい痛みが、鈍痛から激痛へと変わり始める。擦り傷は既にかさぶたになっている
が、それでも刺すような痛みは紛れることはない。

「痛いだろう?」

心配そうに潜んだ声には、すぐ傍から聞こえた。

「化膿すると厄介だから、治そう」

バッと勢いよく顔を上げると、覗き込むような姿勢で緩く微笑んでいるシリュウが目の前
に広がった。

「仲間が怪我をしている姿を見るのは辛いんだ。
だからさ、……どうか俺のために治療してくれないかな」

後半、少し言葉を詰まらせたシリュウは意を決したかのように、けれど少し照れた顔を浮
かべてエリーナを柔らかく見つめる。

そこには、怒りも悲しみも呆れもない。
突き放してしまった。だというのに。

「―――ごめんなさいっ」

ふわりと女性特有の甘い香りの他に混じった、鉄臭さ。多分それはシリュウの服にも移っ
ただろうが、何を気にするわけでもなく、飛び込んできた小さな体の背に手を回す。

「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
「……うん」
「あんなこと言うつもりじゃなかったの!でも、でもね!」
「うん」
「こ、怖くって、血がいっぱいで、頭の中真っ白になって、
い、今まで信じてきたものが全部分かんなくなっちゃって……っ!」

シリュウの服を皺が残りそうなほどギュッと握っているエリーナは、止まったとはずの涙
が再び流れていることにも気付かず、次々と言葉を出す。けれど嗚咽を漏らしながらの弁
解は難しく、途端に息苦しさが襲う。そんな少女の必死さに、シリュウはエリーナの背中
を何度も摩り続けた。急かさなくても良いんだ、と伝えるために。

「ごめん、なさい。傷つけて、ごめんなさい」

我を失って口走ったものは、決して言ってはならないものだった。あんな暴言、もし自分
が言われでもすれば。憤慨する余裕などあるはずもない。物理的な痛みよりも、性質の悪
い精神的な痛みの方がずっと辛いということは、火を見るより明らかだ。
けれど、咄嗟のこととはいえ出てしまった。外に投げ出して表現してしまったものは、戻
すことが出来ない。

(テメェの偽善ぶった正論が、―――――――)

ああ、そうなのだ。非力な自分は絶対に人を傷つけることなんてないと思っていたばかり
に、最悪な形で人を殺そうとしていたのだ。

「うん。でも、俺よりももっと傷ついた人がいるだろう?」

泣きじゃくるエリーナの頭を一度撫でたシリュウは、細い肩を掴んでゆっくり引き離す。
驚いたように目を丸くしたエリーナが、緩慢な動きで首を動かすと、俯いている青年でぴ
たりと止まる。それからくしゃりと顔を歪ませ、大きく頷いた。

「うん…っ、うん!」
「心の整理がついたら、俺がいなくてもちゃんと言えるよね」
「うんっ。あ、りがとう……ありがとう、シリュウ」
「…どういたしまして」

ぐすぐすと鼻を鳴らすエリーナにこっそり胸を撫で下ろしたシリュウは、これまでの経緯
を静観していたシェンリィへと首を回す。シリュウの視線に気づいたシェンリィは、何度
か瞬きを繰り返した後、組んでいた腕を解き軽やかな足取りでこちらに近づく。

「師匠、お願いします」
「全く、世話が焼けるねぇ」
「大人なんですから、子供の世話くらい焼いてくださいよ」
「あんたが世話を焼かすような子供になってくれれば考えなくもないよ」

喉で笑い始めたシェンリィがエリーナの前に膝をつき、患部に手をかざした。
淡く白い光を放った球体が、傷口を徐々に塞ぎ始める。余程神経をすり減らす作業なのか、
シリュウと会話していた時よりもその表情は硬い。幸いなことに致命傷はなく、出血の量
に対して傷は大したことがないため、力んだような顔はすぐになくなる。
これまで滅多に治癒術を受けることがなかったエリーナは、目を見開いたままその光景に
見入っていた。眠くなるような心地良い温かさに頬を緩ませ、ホッと息を吐く。

「はいおしまい」
「あ、ありがとう」
「いいや。…子供にしちゃあ良く頑張ったさ」

痛かったろう、と労わる声と同時に、細い指がぐしゃぐしゃと豪快にエリーナの頭を掻き
回す。左右に揺らされながら、エリーナは涙腺を更に弱めた。母親のような優しさと懐の
広さを持つシェンリィの声があまりにも穏やかなものだから、勢いよく温もりに飛び込む。
驚いたように目を見開いたシェンリィだったが、フッと頬を緩めぐちゃぐちゃになった髪
を愛おしそうに撫ぜる。甘やかされていることを知りながらも、どうしてもこの空間から
離れたくなくて、エリーナは本格的に泣き出した。声を殺さず、喚くようにみっともなく。

「たくさん泣いてたくさん反省して、明日にはしゃんと立つんだよ。いいね?」

エリーナがありがとう、と言おうとするが、嗚咽まみれの声は言葉になりきらない。だか
ら何度も、何度も。シェンリィに対してなのか、シリュウに対してなのか、繰り返し頷き
続けた。

良かった、と小さく呟いたシリュウの声は誰にも届くことなく、薄暗い廊下に消える。そ
の背後で、まるで見知らぬ相手を見ているようにぼんやりと佇む男が、そっと瞼を閉じる。

貴女の笑顔は、特別だ。
それは、今もこれからも、多分一生変わらない。
順位など決めたことはない。大多数の中にある笑顔の中で、貴女の笑顔は他とは違うよう
に輝いて見えた。それだけのことだ。
もしかすると、彼女と似たような者もいたかもしれない。これから現れるのかもしれない。
けれど、掠れた心であった時、あの時あのタイミングで出逢った衝撃は、二度と味わうこ
とはないだろう。

過去、出逢った人物が貴女ではなかったら。
貴方と同じことを、あの時、別の誰かが行動に起こしていたら。

多分、きっと、高確率で。そう、その人物に惹かれてしまっていただろう。
忠誠?尊重?そんなもの馬鹿げている、と誰もが言い放ちそうなほど腐っているのだ。
誰でも良かった。たまたま、彼女が私の前に現れたのだ。たまたま、彼女が私を無意識に
救ったのだ。たまたま、彼女は私を好いてくれたのだ。
偶然が何もかもを繋げた。立て続けに起こった偶然が、何もかもを縛った。

(私は貴女の意志を、尊重しますよ)

それは一体どこからくるもので、誰に捧げるものなのか。


結局は……誰でも、良かったのだ。




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