● 唐紅の記憶  ●



「ヒューガ」

呼び止められる声に振り返る。
やけに大人びたような、それでいて静かなそれに、ヒューガは眉をひそめた。

「―――時には偽善も、必要だよ」

まるで何もかも悟ったような台詞に何故か、むせ返るような、どうしようもない怒りが込
み上げる。

けれどそれは。

多分、寂しげに微笑む少年に向けたものではない。





第37話 『従者と少年と』





すう、と。心地良いと感じられる冷えた空気を吸い込む。無意識に空を仰げば、茜色から
濃紺へと変わろうとしている頭上を一羽の鳥がスイと通過していった。茂みの方から騒が
しく奏でる虫の声に耳を澄ませ、そっと目を閉じる。

(何を、しているのだろうか)

誘拐事件から数刻。
逃げ出してしまった賊の足取りは掴めぬまま、一旦町に戻った一同は再び宿に世話になる
ことにした。ほんの少し前に別れたはずの客が再び現れ、挙句みすぼらしい姿になってい
たのだから、宿屋の女将は大層驚いた様子で目を丸くしていた。それでも快く受け入れ、
風呂や食事などを催促してくれた辺りは相当肝が据わっているのか、それとも今回のよう
な出来事はしょっちゅうあって慣れているのか。
何にせよ、追及せずにこりと微笑んでくれた顔に全員が安堵の息を吐いたものだった。

いち早にボロ雑巾のような姿になっているエリーナを風呂に連れて行ったシェンリィは、
そのまま戻ってくる様子はない。少女の怪我の具合を心配してついているのだろう。
宿泊の手続きを終え早めの夕食を終えたヒューガは、相変わらずの仏頂面で部屋に行って
しまった。その際に何かを探しているような素振りを見せていたが、それが事実かどうか
は、正直あまり周囲を見渡していなかったので確実ではない。
だが、彼は相部屋の人物を探していたのだろう。今夜は珍しく三人一部屋ではなく、二人
一部屋が二つ。一人部屋が一つであるのだから。
それが誰を気遣ってのことなのか、考えずとも容易に分かってしまうけれど。

そういえば、彼はどこにいるのか。

ヒューガに便乗するように、というわけではないが、自らしきりに辺りを見回し小柄な影
を探す。けれど夕暮れ時の今、闇の色に一番溶け込みやすい少年を見つけ出すのは至難の
業だ。もし目の前を通り過ぎたとしても、気配を殺していればそう簡単に見つからないか
もしれない。

そこで、はたと硬直する。
何故、彼を探そうとしているのだ。そんな必要はどこにもないはずなのに。

「―――あれ、カイン?」

それからどれほどの間突っ立っていたのかは分からない。記憶の中にある色彩はまだ茜色
がうっすら残っていたのだが、後ろからかけられた声にビクリと震えた瞬間、視界に広が
ったのは星が瞬く夜の景色であった。

「あ、ああ。シリュウ君ですか」

慌てた様子で振り向いたカインは、動揺を隠すかのように笑顔を貼り付ける。鈍感とは言
い難いシリュウは気付いているだろう。しかし僅かに微笑むだけで何一つ追及する様子は
なかった。

「まだベランダにいたんだ」

苦笑を浮かべながら近寄るシリュウの手にあるものに目が留まったカインは、見覚えのあ
る色合いに首を傾げた。

「それは?」
「ああ、エリーナの服だよ。さっき師匠が投げつけてきたんだ」
「投げ……」
「はは、今夜は裁縫で眠れないかもね。……というよりも、女の子の服を男の俺に押し付
けるっておかしいと思わないか?……まああの人に悪気は全くないんだろうけどさ」

不貞腐れる、という表現よりも遠い目をしているシリュウはどこか疲れているようだった。
不平不満を言わない辺り、彼女との上下関係は随分とかっちりしているのだろうが、どう
してこう、この少年は家事という家事が板についているのか。同性であるはずなのに、下
手をすれば自分がおかしいのではないかという妙な錯覚に捉われる。

「…すみません、それは私が」

シリュウが抱えている服に付着している似つかわない赤い色を見つけた瞬間、胸の奥がざ
わめいた。
無意識にそれを捕まえようと伸ばした手は、やんわりと自分よりも幾分か小さい手によっ
て阻まれる。驚いて顔を上げれば、緩く首を振る少年が神妙な眼差しを向けていた。
けれど、それはほんの一瞬のことで。一つ瞬きをした後には、困った時にはよく浮かべて
いる薄い微笑みを見せていた。

「カインは、裁縫得意じゃないだろ?」

その言葉が建前であると、カインは瞬時に察した。
勘の鋭い少年を凝視して、諦めたように伸ばした手を下ろす。疲弊して力が抜けたような
頼りなさに、思わず目を細めた。

何に対しても、自信が持てない。そんな風に考えたことなど、一度もなかったというのに。
それを人は臆病と言うのかもしれない。過敏に反応し、言い様のない現象から逃げようと
もがいている。それが、現状だった。

(これが、恐怖。不安とは違う別物の足枷)

冷静な自分が、邪魔なものだと排除しようとするもの。
確かに邪魔だ。必要のない余計な感情。それも負荷をかけるだけの。
厄介なのは、戦の時に感じるものとは全く異なるものだからだ。

ほんの数年前は、全て自然とすり抜けていたはずなのに。

「……どうすれば、良いのでしょうか」

喉の奥につっかえていたものが、するりと出てくる。一番驚いたのは自分自身であった。
けれど一度こぼれてしまったものは拾うことは出来ない。寧ろ堰き止めていた分、溢れる
勢いは凄まじかった。

「何を伝えれば、自分が何をしたいのか。何もかもが空白で味気なくて意味を持たない。
けれどこのままじゃいけないことも、頭の中では分かっているのです」

分かっていながらも動くことが出来ないのは、結果を恐れてのことなのか。

醜態を晒しても、隣に立つ少年はこちらを見上げることなくジッと聞き手に徹していた。
その手にエリーナの服を抱いたまま、どこか遠くを見つめている。

何故この少年に己の弱さをぶちまけているのか。伝える相手を間違えていることは重々承
知していた。こんなことを訴えても彼が困るだけなのに。一度崩れた防波堤は直らない。
それもこれも。そうだ、間の悪い彼が不用意に近付いた挙句、介入しようとするから。
全て、この少年が悪いのだ。

「それで良いと思うよ、俺は」

沈黙は長く続かなかった。
重苦しい雰囲気とは思えないあっけらかんとした声に半ば呆然と振り向いたカインは、や
はりこちらを向いていないシリュウを品定めするように静かに見つめる。

「人って、さ」

一つ息を吐いたシリュウは、少し目を細めて視線を落とす。淡い桃色の上に重なった血の
色は、この薄暗さの中でもはっきりと映し出されていた。

「人が思っているよりも不器用で、失敗ばかり繰り返すものだよ」

ぼんやりとした表情で、ほつれた部分や破れてしまっている場所を確認しだしたシリュウ
は、ふとその手を止め軽く首を傾げた。
それは疑問を抱いたというのではなく、何か別のものに想いを馳せているような、儚さを
醸し出す仕草だった。

「完璧な人なんていないし、それを装ってもいつかは誰かに気付かれる」

まるで、全て悟っているような。仮定でも架空の話でもない、真実を目の当たりにしたこ
とのあるような口振りに息を呑む。
本当に彼は子供なのだろうかと錯覚してしまいそうなほど、纏う空気は落ち着いている。

「人間関係を築いても所詮は他人だ。崩そうと思えばいつだって崩せる位置にいる。
だから、その人に知られてしまうことを恐れる。自分にとって大切な人なら尚のこと」

軽く俯き、少年の前髪が闇の中でも映える赤を隠した。その小さな体が一層小さく見える
のは、少年が一瞬寂しげに顔を歪めたからだろうか。

「カインもエリーナも、同じだよ」

ハッと目を見開いたカインは、信じられないと言いたげにシリュウを見下ろした。

「違います。私のこの腐敗した思考が、彼女と同じであるはずがありません」

口早に強い口調で否定すれば、ようやく赤い瞳がこちらを向く。

「そうかな?」
「そうです。彼女は穢れていない。無垢で純真で、」
「カインの理想?」
「―――っ!………そう、です」

誰にも知られていないはずの、カインだけの中にある身勝手な思い。
悟られるようなことはしていない。だというのに、不気味なほど赤色は、奥底に隠してい
たものをいつ見抜いたのか。

息を詰まらせ語尾を弱らせたカインは、気まずそうに視線を逸らす。
こんなことを誰かに打ち明ける予定も、気付かれる予定もなかった。
だから恐怖を抱く。エリーナの望むような従者で通していたということが、ばれてしまっ
たことが。弱い人間であることを知られてしまったことが。
己の欠点を次々に、しかも無意識に引き出している子供が、恐ろしかった。

「別に」

スッと細くなる双眸が、悩ましげに眉をひそめるカインを静かに見据える。

「カインの理想も考え方も否定しない。笑わないし軽蔑もしない」

慰めとは違う淡々とした声色に、そろりと視線を戻す。魅入ってしまいそうになる赤色を
探るが、何も掴むことが出来なかった。

「―――だってそれが、カインだろう?」

ふわり。
そんな音がしているかのように、ゆっくりと少年の目元が、口元が緩む。

何故笑っているのだろう。
いやそれよりも、目の前の子どもはこんな風にも笑うのかと、どうでも良い感想が心の中
で漏れる。
それから先ほどまで感じていた子供に対する恐怖が、瞬時に払拭される。代わりに湧き上
がるものはそれとは全く逆の、泣きたくなるほど穏やかで優しいもの。

(カイン、カイン)
(あのね。―――おかえりなさい)

こんなにも温かいものは、久しく触れていなかった。

「二人が出会ったからの過程は俺は知らないけど」

慈しむように笑う目が、カインを捉えた。

「今この時もエリーナが好きなんだなあって、俺には見えるよ」

ちょっと羨ましいな。そう照れたように頬を掻く少年は年相応で、今まで胸の奥で渦巻い
ていた違和感が消えてゆく。

(いや、それでもまだしこりは残っている)

半ば無理やり、それでも数分前よりはずっと自然に笑みを深くしたカインは、一つ大袈裟
に溜息を吐いた。こめかみ部分に指を押し付け、疲れた顔つきでシリュウに視線をずらす。
キョトンとした様子の子供の姿からは、先ほどの威厳など欠片も見当たりはしない。

「君は本当に馬鹿ですね」
「ば…」
「知っていますか?そういうのを世間一般ではお節介と言うんですよ」

呆れたような口調で出てくるカインの容赦ない攻撃に、ひくりとシリュウの頬が引き攣る。
だが思い当たる節があるのか、ばつが悪そうに顔を逸らすだけで、これもまた子供らしく
なく反発する様子はない。

「それは、まあその、……俺が一番分かって……」
「そう言い切れますか?本当は自覚がないんじゃありませんか?」
「う、……い、いやそんなことは」

図星を指摘されたのか、語尾は小さくなり徐々に口ごもる。ここまでシリュウを追い詰め
ることが出来たのは彼の師匠であるシェンリィだけであった。
予想外の収穫にほくそ笑んだカインは、けれど今度は神妙な眼差しを向けた。

「そういう役回りは程々になさい。……でないと、その内に痛い目を見ますよ」

この子供は賢い。大の大人と対等に歩くことが出来る上、それに見合うような実力を備え
ている。剣術は勿論、判断能力も申し分ない。傭兵として雇われれば、一目置かれる存在
になることは間違いないだろう。
だが、プラス面を全て潰してしまいかねない欠点もある。
それが、恐らく無意識に焼いている世話だ。

赤色の瞳が困惑したように揺れる。それから何度も視線を泳がせ、ついにはカインを見る
ことなく俯いた。
触れてほしくなかった話なのか、それとも今まさにこの少年が欠点に気付いて悩んでいる
のか。

気まずい空気が流れ、カインは固唾を呑む。無意識にとはいえ散々こちらの深層を暴いて
きた少年の心境を見抜くことは、思えばこれまで出来た試しがなかった。
不公平だと捲し立てるつもりは毛頭ないが、自分たちはあまりにもこの少年のことを知ら
なさすぎではなかろうか。
忌み嫌われた色彩を持つこと以外は、本当に普通の少年と変わらない。けれど元フィライ
ンである以外、何も知らないのだ。

(一番空恐ろしいのは、この子供か)

人の良い笑顔を浮かべるのも、決して偽りではない。
けれど、根本では拒絶している。だから掴むことが出来ない。掴ませようとはしない。

「……ともかく」

ゴホン、とわざとらしい咳を一つしてみせたカインは、目元を緩ませ身を硬くしているシ
リュウの頭をくしゃりと撫でた。

「いつか君が危機に陥った時、気が向いたら助けてさしあげますよ」

弾かれたように顔を上げたシリュウは、目を見開いてカインを見上げる。
ああなんだ、こんな顔もするではないかと、心の奥底で安堵の息を漏らした。

「君に励まされたということはいくらか癪ですが……感謝はしてます」

ありがとう。
夜風に乗った言葉に合わせて、再度優しく撫でられた。

どこか吹っ切れた様子のカインはベランダを後にし、残されたシリュウは茫然と宿屋の灯
りを見つめていた。橙色にも似た柔らかな灯りは眩しくなんてないはずなのに、妙な後ろ
めたさがその色を拒絶する。
逃げるように背を向けたシリュウは、下唇を噛み眉をひそめる。

「…………違うんだ、カイン」

ここにはいない心優しい青年の姿を思い浮かべ、シリュウはぽつりと零す。腕に抱えてい
るエリーナの服は、皺が色濃く寄っていた。

「俺は、本当は……」

ゆらり、とカーテンが揺らめく。
その頭上の階にいた青色の影は、そっと闇の中へと消えていった。




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