第38話 『自嘲的エゴイスト』 「申し訳ありませんでした」 ザッ、と音がしそうなほど頭を下げた男の角度は、謝罪をする形として完璧であった。 まだ水を含んだ前髪が、はらりと流れる。湯冷めしないようにと夜着の上から何枚も重ね られたカーディガンは、先ほどシェンリィが宿の女将から借りてきたものであった。 温かいものを持ってくる、といって出て行ったいシェンリィが戻ってきたのだと、控え目 に鳴った扉を開く。 おかえりなさい。 そう言おうとして口を開いたエリーナは、自分よりもずっと長身で、けれど女性らしさを 全く感じられない金髪の男を呆然と見上げた。 そう、目の前にいる人物はシェンリィではない。何年も傍に仕えている見慣れた男が、真 摯な眼差しをエリーナに向けていたのだ。 「……カイン?」 そして、冒頭に戻る。 男はこちらが呆気に取られているのを構うことなく、部屋の前で腰を曲げたのだ。それも、 かなり深く。四十五度なんて生ぬるいものではない。きっとその態勢は辛いだろうに、そ んな謝罪の仕方は滅多にするものではないのに。 「や、やだ。何で謝るの?顔を上げてよカイン」 ハッと我に返ったエリーナは、急いでカインの肩に手を置く。普段は身長差があるため腕 に触れるだけで精一杯だったのだが、今はこんなにも近かった。 「申し訳ありませんでした」 変わらない硬い声が、再び同じ台詞を繰り返す。 いくら視界が遮られていても、困った様子で慌てだすエリーナに気付いていないわけがな い。分かっていながらも、男は頭を下げ続けた。 一方のエリーナは、おろおろとしたまま周囲を見渡した。夕飯の時間が過ぎ、中には既に 就寝している者もいるのだろうが、下の階から聞こえる騒がしい音は明らかにまだ宴会を しているようで。つまり、いつ人が通るのか分からない状況下にあったのだ。 (ど、どうしよう) カインがこんな時間帯に訪ねてきたことにも驚いたが、所構わず頭を下げた事実には目が 飛び出しそうなほど衝撃を受けた。 旅の間、男はエリーナの保身のために身分がばれないよう配慮してきた。呼びかける際は どうしても癖になっているのか、お嬢様と呼んでしまっていたが、それは本当に咄嗟の時 だけであって常にというわけではない。何よりはぐらかすことや誤魔化すことを得意とす る男は、ずっと目立たぬよう動いてきた。名前の呼び合いよりも、周囲の目につくことを 嫌う気があった男だったのだ。 今こうして誰の目に晒されるのか分からない状態であるのは、それでも構わない、それよ りも重要なことがあるということと解釈して良いのか。 ごくりと固唾を呑み込んだエリーナは、ぐっと手のひらを握りしめる。それからもう一度 だけ辺りを見回した。どこかの部屋から誰かが出てくる気配も、酒場の方から人が来る気 配もない。そして、席を外したシェンリィが階段を上ってくる様子もなかった。 「顔を、上げなさい」 幾分か低い声は、少し震えていた。 けれど、有無を言わせぬ音にピクリと反応したのをエリーナは見逃さなかった。 「二度も言わせないで。……顔を上げなさい、カイン」 命令に近いようなお願いではなく、はっきりとした命令を最後に告げたのはいつだったか。 記憶の中には、命令は言った覚えはない。けれど我が儘を通し、お願いという形で強制さ せていたのだ。従者である彼が、こちらの願いが相当無茶でない限り絶対に首を振らない と知っていたから。 ゆっくりと持ち上がった顔は、少し青かった。具合が悪いのだろうかと心配になったエリ ーナは、伸ばそうとした手を引っ込める。ここでいつもの調子に戻ってしまっては、何の ためにカインに顔を上げてもらったのか分からない。 「……話したいことがあるの。だから、部屋に入って」 あくまでこちらから誘うように。そうでなければ、目の前の男は首を縦に振らない可能性 があるからだ。 「………分かりました」 睨みあうかのようにジッと見つめ合っていた二人の間に、幾らかの沈黙が流れる。考え込 むように一瞬眉をひそめたカインが、ようやく諾と答えホッと胸を撫で下ろしたエリーナ は、扉を開け中に入るよう催促する。もう一度シェンリィが戻ってこないのを確認すると、 ゆっくりと扉を閉めた。そして振り返るが、やはり男はソファに座ることなく突っ立った ままであった。命令を下さぬ限り何を勧めても全ていいえ、と断ることは一目瞭然である。 だからお茶も入れなければ、座れとも言わない。 一つ息を吐いてベッドの端に座ったエリーナは、水が含んでいる髪が肌にまとわりついて いるのに気付く。それを不快であると思えぬほど、緊張しているのかもしれない。 「……髪、を」 戸惑ったような控え目な声が、視線を落としていたエリーナの耳に届く。大したことでも ないはずなのに驚いて顔を上げる。だが目が合った瞬間に男は露骨に目を逸らした。 (あ……) ちくりと胸が痛む。 昨日まで知っていた相手が、急に分からなくなった。 それを寂しいと感じるのはきっとおこがましいのだろう。今日突き放したのは、紛れもな く自分自身なのだから。 膝の上に拳を置いたまま項垂れるように顔を伏せたエリーナは、じわりと視界が歪むのを まるで他人事のように静かに感じ取っていた。 けれど、ここで泣いてしまえば男が困ってしまう。何もかも自分のせいだと、関係のない ことでさえ追い込んでしまうかもしれない。 カツ、と靴音がやけに大きく響き気配が少し遠のいた。驚くほどのことではないのに、ビ クリと肩が震える。こんな状態の主人に呆れてしまったのだろうかと、どうしようもない 不安に捉われた。 行かないで。 そう叫べばいつだって振り返ってくれるはずなのに、今はもうその自信はどこにもない。 先に拒絶したのは自分なのに、拒絶されるかもしれないという恐怖がエリーナを襲う。 「風邪を、引かれてしまいますよ」 ふわり、と白い布が視界に広がった後、遠慮がちに髪を拭かれる。硬直したエリーナは、 顔を上げるか否かで数拍の間迷い、恐る恐るといった様子で顔を上げた。先ほど顔を上げ ろと言ったのこちらだというのに、今でまるで形成が逆転していて、同時に怯えを抱いて いる事実に物悲しくなる。 けれど不思議なもので、触れられた瞬間花が綻びそうなほど安堵感に包まれた。針に刺さ れてしまったような痛みは、いつの間にか払拭されていた。 「……あ、の。あのね」 あからさまな反応を返したエリーナに怯んだカインは、それでも嫌がる素振りを見せない ことにホッと気付かれぬよう息を漏らす。とりあえず、触れることが許されたのはこれで 確認出来た。 柔らかな髪の一本一本を傷つけぬよう、細心の注意を払いながらゆっくりと濡れた髪を拭 く。乾いているとほんの少しくせがある髪質だが、湿気ていると思わず誰か確認してしま うほど真っ直ぐだ。 そんな姿を当然のように知っているのに、彼女に忠誠を誓ったあの日と同じように鼓動が 速くなる。恥じらいという感情は、年を重ねとうの昔に薄れていった。今感じているもの はそんな可愛らしいものではない。 多分これは、恐怖からくる緊張のものだ。今この一瞬もいつ拒絶されてしまうのか怖がっ ているような、みっともないほど弱虫な男なのだ。 優しげに細められた双眸の奥に垣間見えた、僅かな羨望を思い出す。 数年という年月を重ねているこちらの思惑や築いた絆を、目聡く見つけて介入する。だが、 それは土足で踏み荒らすような下種のするような行いではない。分からないように、気付 かれないようにソッと、一人きりで修正するのだ。それに驚いて追及すれば、少年は何事 もなかったかのように去って行く。自分の仕事はこれで終わりだと言いたげに。 ―――今この時もエリーナが好きなんだなあって、俺には見えるよ。 あの少年らしい、いちいち的を得た彼の率直な感想が知らずのうちにカインの背を押す。 「本当は、貴女のことをそれほど大切と思っていませんでした」 あらかた乾いたのを見とめたカインは、ゆっくりと手を離す。いくら丁寧に拭いていても、 完璧に乾き切っていない髪は所々跳ねていた。 カインの手を追いながら、エリーナは硬く唇を噛む。そんな様子をジッと見つめていたカ インは、今度は隠すことなく息を吐く。二人分の空間にその音はあまりに大きくて、耐え るように縮こまっているエリーナは些細なことでさえ敏感に反応する。それに気付かない ふりをして、カインは続けた。 「私を必要とする者が貴女でなく別の誰かであったのなら……。 私は貴女を選んでなどいなかったでしょう。特別に貴女を選ぶ必要なんてないのだから」 拳を握りしめるエリーナの手が真っ白になっていた。けれど、それを無視する。 「ただ私の精神が安定出来る存在が欲しかっただけなんです。その時、都合良く貴女が現 れてくれた。私の欲しいシナリオと設定を与えてくれるように私が―――」 「もういいよっ!分かった、分かったから……っ」 涙声が混じった叫びがカインの言葉を遮る。耳を塞ぎ、うずくまるような形で聞きたくな いのだと全身で主張する。 すすり泣くエリーナに、カインは膝をついた。幼い頃、エリーナに忠誠を誓ったあの時の ように。 「私の計画は順調に遂行されました。今日まで貴女は、私の理想を裏切らなかった」 「やめてっ!聞きたくない!!」 頭を振るエリーナの手を、許可もなく握る。ぎくりと身を硬くしたエリーナがそれを振り 払おうとするが、剣を扱う男の握力に敵うはずもない。 半ば無理やり耳から手を離されたエリーナは、涙を流しながらカインを凝視した。何故、 と問う真っ直ぐな茶色の瞳が、こぼれんばかりに見開いている。 クスリ、と控えめに笑う音がエリーナの耳朶に届く。 泣きそうな、困ったような、けれど愛おしそうに細められた美しい青色の瞳が射抜いてい た。 「なのに、私は私自身を裏切ってしまった。大切になんてしていなかったはずなのに、貴 女が血まみれになっていて、全てが壊れたような気がした。貴女が殺されるかもしれな い現実を、私は受け入れることが出来なかった。……貴女を失うことを、全身で恐れた」 抵抗していた力が弱まっている。それを嬉しく感じながら、カインは傷跡の残っていない 白い手を頬に寄せた。 「失いそうになって初めて、気付いたんです。貴女でなければ駄目なのだと」 するりと手を持ち上げる動きは洗練されていて、無駄がない。瞠目したまま言葉を失って いるエリーナに崩れたような笑みを浮かべたカインは、そのまま、手の甲に口付けを落と した。 幼い少女に交わした時と同じ、主従の儀式をもう一度。 「―――今度こそ貴女に。……貴女に偽りのない忠誠を捧げます」 飾り気のない陳腐な言葉に、エリーナの涙腺が崩壊する。 ボロボロと玉のような涙をこぼし始めたエリーナは、くしゃりと顔面を歪めた。それはお 世辞にも可愛いとは言い難い。けれどそんな姿さえも愛おしいと感じられるほど、カイン はエリーナを優しく見続けていた。 「ご、めんなさい」 しゃくりあげて嗚咽を漏らしながら、エリーナは引き攣ったような声で呼吸を繰り返し、 何度も何度も流れる涙を拭いた。目を擦っても次々に溢れてくる涙に行き場のない腹立た しさを感じずにはいられない。 「私、カインにひどいことばっかり言って、」 握られた手が、切なくなるほどひどく温かい。 「断れないって分かってるのに、全部カインに押し付けて、 それでカインが傷つくことなんてないんだって、馬鹿なこと思ってて…」 戸惑いながらも伸ばされた手が、エリーナの頭を緩く撫でる。小さい頃に眠れない時に愚 図っては、決まってカインは穏やかな笑みを浮かべながらこうしてエリーナを落ち着かせ ていた。 あの頃と変わらない優しさが、不安な気持ちを一枚、また一枚払拭する。 「最低なんて言ってごめんなさい。酷いこと言ってごめんなさいっ!」 ギシ、と簡素なベットが軋む音を立てる。勢いをつけてカインの胸に飛び込んだエリーナ が、わあわあと泣きながらカインにしがみついた。 仰け反りそうになったカインは、けれど簡単に態勢を整え首に手を回すエリーナの頭を優 しく撫で続ける。 「貴女の傍にいさせていただくことを、許していただけますか?」 躊躇うようなか細い声に、エリーナはグッと息を詰まらせる。それからすぐに息を吸い込 んで、離さないと言わんばかりの力でカインを抱きしめた。 「行っちゃやだぁっ!どこにも行かないでっ、傍にいてよぉ!」 「……はい、……はい。どこにも行きません。どうか貴女の傍にいさせてください」 抱きしめ返す少女の背は細い。これまで何度も守ってきたはずなのに、腕の中にある温も りも存在も、全てが真新しかった。昨日までと違うものが、気付くことが出来なかった本 当に欲しいものが、確かにこの手に今ある。 (今度こそ、今度こそ守ってみせる。この小さな存在を、私は……) 「―――やれやれ」 未だ興奮冷めやらぬ酒場に目を向けながら、シェンリィはとある部屋の前で壁に背を預け ていた。その手にあるお盆の上には、蜂蜜入りのホットミルク。 「ミルクの前に、まずは水だね」 くすりと微笑んだシェンリィは、気配と足音を消してソッとその場を去っていった。 ベッドの横にある安価な灯りが、時折点滅する。そろそろ切れてしまうのでないだろうか という不安もあったが、既に夜は更けている。あとは寝るだけなのだから、たとえ灯りが なくなってしまっても問題はなかった。 「まだ起きてんのか?」 目的もなく窓の外をぼんやりと見つめていたシリュウは、ぶっきらぼうな声に振り返る。 機嫌を悪くしているわけではないのだろうが、いつもよりどことなく雰囲気が硬いと感じ てしまうのは気のせいだろうか。 「夜更かしすんなよ。ただでさえお前は成長速度がおっせーからな」 「な…っ!」 「怒るな。事実だろう?」 にやり、と形容したくなるような人の悪い笑みにひくりと頬が引き攣る。 自分でも沸点は高い方だと自負しているが、コンプレックスを刺激されれば話は変わる。 しかもこの男、それを分かっていちいち突いてくるのだから相当性質が悪い。 「い、今に見てろよ、すぐにあんたなんか追い抜いて」 「あー無理無理、絶対無理。お前の年でこれっぽっちなら………ご愁傷様だな」 椅子から立ち上がったヒューガがシリュウの頭からつま先を見つめ、合掌する。いい加減 堪忍袋の緒が切れそうなシリュウの肩がわなわなと震えだした。からかうようにその頭を ぐしゃりと撫でると、頭一つ分小さい少年は珍しくムッと子供らしく眉をひそめ、不快だ と言わんばかりにそっぽを向く。 「わりぃわりぃ。その内伸びるって。ま、とりあえず俺よりもお前の師匠でも目指しとけ」 ぐさり、と音もなくシリュウのコンプレックスに見事に突き刺さる。けらけらと笑う男は、 一番気にしていることに気付いていないのか。もし知っていてこの話を吹っ掛けたのなら、 余程この男は暇なのだろう。 気疲れしたような溜息を一つ吐いたシリュウを見遣ったヒューガは、無言で夜空を仰ぎ見 る。点々と散っている星の間にある白い満月が、夜道を照らしていた。 「――――……本当は、ちょっと迷ってるんだ」 柔らかな緊張を解いたのは、どこか躊躇いを含んだ声。ゆるりとした動きで首を動かした ヒューガは、静かに隣に立つ少年を見下ろす。少年はこちらを向いておらず、一体どこを、 何を見ているのか、窓から広がる町を漠然と眺めているようだった。 愁いを帯びたような横顔に気付きながらも、それきり黙りこんでしまった少年に催促はし なかった。倣うように外へと視線を移したヒューガは、下の階から聞こえる酒場の騒がし さに耳を傾けた。 「…俺、このままエリーナと旅を続けても良いのかな」 長い沈黙の後、幾分か低い声がぽつりと落ちた。 表情一つ変えることなく、ヒューガは腕を組み背中を壁に預ける。その先に見えるものは、 仄明るさに包まれている質素な室内だ。 それから、大袈裟に肩で溜息を吐く。 「俺は、はなっから反対だって言ってただろーが」 呆れたような物言いは、こうなることを初めから分かっていたかのような口振りであった。 その中には嫌悪感や苛立ちが見え隠れしている。だがそれ以上のものがあるようにシリュ ウは感じた。けれど、それが何なのかは分からない。 「剣も握れねぇ、虫一匹殺せねぇ。……使い物にならないことは今に始まったことじゃね えが、こうやって誰かを巻き込むのは目に見えていた。今回が良い例だろ」 「でもそれはっ」 「あれが望んでいなくても害は勝手に寄ってくる。いくらあの護衛が守ろうとしたところ で、火の粉は俺たちに降りかかるぞ。このままの状態なら、この先もずっとな」 諭すような正論にグッと言葉を呑みこむ。悔しいが、それが一般的な判断であった。 「俺は守る気なんて欠片もない」 きっぱりと言い放った男の表情は、どこか硬い。台詞よりも男の纏う雰囲気に違和感を持 ったシリュウが、怪訝な顔つきでヒューガを覗く。問いかけようとするが、慌てて口を閉 じる。他のメンバーよりも比較的良好な関係を築いていると自負しているが、触れてはな らない気がしたのだ。 「……それは、分かってる」 固唾を呑みこみ、ゆっくり頷いた。 曲がったことが嫌いで、一度決めたことは決して首を縦に振らない頑固であることを重々 承知していたからだ。 それを気難しいと取るかは別として、そんなひたむきで真っ直ぐな意志を持つヒューガを シリュウは高く評価していた。声には出さないが、同時に羨ましいとさえ感じているのだ。 「今回のことで分かったんだ。エリーナにもしものことがあったら、カインはどうなるん だろうって。いいや、カインだけじゃなくて彼女の家族のことだってそうだ」 手のひらを握りしめ、唇を噛む。 「今は彼女の意志を尊重するけど、俺は…………彼女を家に帰すよ」 失ってからでは全ては遅すぎる。それを今回、特にカインは痛感したはずだ。 細められた双眸に映る少年の姿は、外見とは関係なくどこか頼りなかった。それは多分、 軽く俯いた影に見える口元が、ほんの僅かにだが寂しげに歪んでいたからだろう。 「あんなに優しくてあったかい子が、俺の傍になんかいちゃ駄目だ。 エリーナは太陽の下で笑っているのが…………うん。それが、一番似合う」 遠い目で見つめるその先に、何を映しているのか。 赤い瞳が、隠れる。 「アホ」 ごつ、と鈍い音がシリュウの頭上に落ちた。 「全部気負うな馬鹿が。俺がここにいて話を聞いてんだ。…なら共犯だ」 一瞬何を言われたのか理解出来なかったシリュウは、ぽかんとした間抜け面でヒューガを 見上げた。意地が悪そうに口端を持ち上げる男の表情には何の迷いもない。寧ろ自信満々 だと思わせるような空気に、シリュウはたじろいだ。 「で」 「でももくそもねえ。俺が決めたことに口出しする筋合いはないはずだぜ?」 反論しようとするシリュウの頭に、もう一発拳を落とす。痛い、と非難が混じった短い悲 鳴が上がったが無視を決め込んだ。 押し黙るシリュウに、ヒューガは一笑した。それは決して馬鹿にしたようなものではない。 例えるなら、そう、年の離れた弟に接するような、どことなくくすぐったさを感じさせる 柔らかなもの。 「少しは俺を頼っとけ。な、相棒?」 殴られた頭をさすっていたシリュウが、視線を泳がせる。それから意を決したように見上 げた。困ったように眉を下げたままの目元が、ふいに和らぐ。 「……ありがとう、ヒューガ」 すぐに伏せてしまった赤い瞳は、まだ影が残っていたけれど。 ホッとしたような、困惑しているような。それとも照れているのか。そのどれにも当ては まらない姿に、ヒューガはふいに目を逸らした。 これ以上近づいては、触れてはいけない。境界線を踏んではならない。ギリギリよりも一 歩手前で揺さぶる相手を、突き放すべきか否かを迷っている少年は、まだ子供だ。それが 付け入る隙になっていることを、きっとこの少年は気付いていないのだろう。 いや、親切心やお節介な部分は確かにあるが、この子供は赤の他人をそう簡単に受け入れ ようとしない。受け入れているように見せかけるのが、やたら上手いのだ。そう、勘違い してしまいそうになるくらいに。 ならば、少年が線引きしている辺りをうろついている自分自身はどうなのか。 (ったく、世話が焼けるガキだ) 少年の保護者からの警告が蘇る。普段飄々としているくせに、逆鱗に触れようものなら喉 元を掻っ切る勢いの、獰猛な眼差し。 ごくり、と固唾を呑み下す。恐怖が襲ってくるのではない。妙な高揚感が足元からじり じりと這ってくるのだ。 まるでゲームを楽しんでいるような感覚。信用を得られないと断言するあの女が正しいの か、それとも確固たるものを得られるのか。 (ああ、馬鹿馬鹿しい) 傍にいる少年に気付かれぬよう自嘲的な笑みを浮かべ、そっと息を吐く。別に駆け引きを しているつもりはないのに、気を抜けば本当に馬鹿げた考えに走るのだ。どうもここ最近、 調子が狂う。 多分それは。 何に対してもそこまで興味を持たなかったはずの人間が――――。 「ヒューガ?」 訝しげな声に、ハッとする。突然黙り込んだ男を不審に感じたシリュウは、首を傾げてぼ んやりとしているヒューガの目の前に手を振る。 「起きてる?俺よりもヒューガが寝た方が良いんじゃないか?」 苦笑しながら目を細めるシリュウを見下ろし、それから何事もなかったかのように音がし そうなほど口端を上げてみせた。これで、きっと気付かないだろうという思いを込めて。 追及するな。触れてくるな。……駆け引き?何と傲慢な。 追い詰めるだけ追い詰めて、結局一番近寄ってきてほしくないのは、本当は誰なのか。 分かっているくせに、と腹の底で心底馬鹿にしているように誰かが低く囁いた。 「おら、さっさと寝るぞ。明日は今日の分以上に歩くんだからな」 取り繕うように大きく伸びをして、簡素なベッドへと足を進める。その背中をシリュウは 見つめていたのだろう。だが、振り返るのが恐ろしくて少年がどんな顔をしているのかは 分からなかった。