● 唐紅の記憶  ●



第39話 『束の間の休息』


ガレオラ港を早朝に出発した一行は次なる目的地、アルエリータ軍事国家へと向かってい
た。
世界の軍事力を集結させていると言っても過言ではないアルエリータは、長き歴史から難
攻不落の要塞と謳われており、過去に攻め込まれた例がないことから、軍神が宿りし太古
の都、と久しく呼ばれている。
兵士だけではなく腕のある者ならば一度は憧れるアルエリータは、しかしながら大変不便
な場所に位置していた。今回はガレオラ港より西に位置する軍港、つまりは各大陸にある
指定軍港を経由しなければ、国家に決してたどり着けないという不便さがある。商業用の
船も厳しい検査を受けて入国するが、それを警戒心が強いと取るか、それとも策略的と取
るかは人それぞれだ。

かの一行もまた、ガレオラ港を早朝に出発し軍港を目指していた。東の港ガレオラに対し
て西の果てにある軍港は、馬車でならば半日、徒歩ならば軽く二、三日かかる。
当然金銭面に余裕があるとはいえない一行が選択できるものは徒歩に限られるわけなのだ
が、軍港までの道のりは、果てしなく続く平原である。背の高い草が生い茂っているだけ
の草原は、風に吹かれるとさわさわと音を立てて爽やかな気分を味あわせてくれるが、山
でない分食料など、いざという時に必要なものが揃っていない。根が太い樹木は当然ある
はずもなく、まだ若い枝の細い木々が、時折申し訳ない程度に並んでいるだけだった。

「遭難はないだろうけど、こりゃ気疲れしそうなほど平坦な道だねえ」

砂漠でないだけまだましか。
そうぼやいたシェンリィは、かれこれ三時間ほど歩き続けている面子を振り返る。ほぼ並
ぶような形でエリーナの傍に控えるカインと、時々つまづきそうになったところを従者に
助けられる少女。そんな二人を少し開いた距離から微笑ましそうに眺めているシリュウの
後、最後尾から気だるげに歩いてくるヒューガは、まるで一匹狼と言わんばかりに中途半
端に間を開けていた。
一定間隔に開けられた距離はわざとなのかそれとも偶然なのか。お決まりの光景に、シェ
ンリィはクッと笑いを抑え込む。

ぎくしゃくしていたエリーナとカインの様子はその後、心配していたのが損だったと思わ
せるほどの仲良しぶりで、寧ろ以前よりも絆が深まったというべきか、依存を超えるよう
な信頼が見え隠れしている。見ようによっては、特にカインが恋人同士のようにエリーナ
を溺愛している。本人にそのつもりがあるのか、またそれが事実なのかどうなのかはさて
おき、あの従者が纏う空気が柔らかくなったことに変わりはない。一時はどうなるものか
と冷や冷やしたものだが、無事に解決して良好な方向へ向かっているのだから、見届けて
いたシェンリィは、一人そっと安堵の息を漏らしたものだった。

今は、それよりも。

「あの木の下で休むよ。ほら、もう少しだから頑張んな」

指差した場所にあるものは、この平原にある木にしては太い、葉が多く密集しているもの
だった。ちょうど良い木蔭もあるため、小休憩にはもってこいの環境だ。

「や、やったぁ。ようやく休憩だよー」
「お疲れ様ですお嬢様。さあ、もうひと踏ん張りです」

微笑むカインに手を引かれながら、朝からずっと歩きっぱなしのエリーナはぐったりとし
た様子から一変、目を輝かせる。心なしか足早になり、いつの間にかカインを催促するほ
ど足取りは軽くなっていた。

先に二人を休ませたシェンリィは、後ろにいる二つの影をじっと見据える。一人はぴたり
と止まっていた。どうやら後ろからのろのろとやってくる影を待っているようだ。

エリーナやカインだけが緊張状態になっていたのではなかった。それ以前から、もっと前
から不穏な空気が漂っていたことを、シェンリィは肌で感じ取っている。不穏、といって
もそれはシェンリィ個人が感じたもので、恐らく対象になっている二人はそのように捉え
ていないだろう。察しが良ければ、片方は気付いているだろうが、恐らくもう片方は気付
いていない。

「師匠」

視線に気づいたシリュウが、口端を僅かに上げ、ゆっくり目元を緩ませてこちらへと近づ
く。その傍らには快晴の空と同化してしまいそうなほど美しい青を持った男が佇んでいる
が、当の本人といえば、こちらに視線を寄こした途端、あからさまに嫌そうな顔をしてみ
せた。それから、フイと目を逸らす。それでもしっかりとした足で向かってくるのは、シ
リュウが懸命に催促しているからだろう。

「軍港付近は分からないけど、どうやらこの辺には物騒な魔物はいなさそうだね」
「はい。それに良い天気で風もちょうど良いし、これなら順調に進めそうです」

先頭を切って歩いていたシェンリィは、ずば抜けたその眼と耳で魔物の姿や気配を感知し
ていた。平らに続いている平原には隠れる所も少ない。もしも襲われたとしても死角がな
い分有利ではあるが、だからといってこの平和に慣れてはいけない。昼間いないとしても、
これから日が沈めば魔物たちはどこからともなく現れるかもしれないのだ。

「はい!どうぞシリュウ」

さきに木蔭で休んでいたエリーナは、人数分の容器に水を入れ三人が到着するのを待って
いた。その隣で携帯食を袋から出していたカインが、同じくシリュウにそれを差し出す。
昼にはまだ遠いが、次にいつ休憩が出来るか分からない。休憩出来る時に多少の食べ物を
胃の中に収めておかなければ、戦闘が起こった時に空腹で敗戦しかねないからだ。

「ありがとう」

二人に礼を述べたシリュウは、エリーナ達とは反対方向の木蔭へと腰を下ろした。乾いた
パンを口に入れ、奥歯で咀嚼を繰り返し、すこし温くなっている水で流しこむ。
ザア、と心地よい風が前髪をかき上げた。若草色の雑草がお辞儀をするように倒れ、それ
から何事もなかったかのように立ち上がる。
ひんやりとした微風にホッと息を吐いたシリュウは、空を仰いだ。青々とした木の葉の間
から差し込む光に時折眩しそうに目を細め、ソッと耳を澄ませる。
反対側でエリーナとカイン、それからシェンリィが会話を繰り広げていたが、それさえ雑
音に感じない。何もかもが、シリュウにとって落ち着く音であった。

「なーにまったりくつろいでんだ、お前」

クツクツと頭上から抑え込んだような笑い声が降ってくる。ハッと瞼を持ち上げたシリュ
ウは、視界に広がる青色に何度か目を瞬かせて、ほんの少し眉を下げて笑い返した。

「お爺ちゃんみたいってことは俺が良く知ってるよ」
「いや、誰もそこまで言ってねえだろ」

こんな若いジジイがいてたまるか、と一笑したヒューガが、木の幹に背中を預けていたシ
リュウの隣に、断りもなしにドカッと座り込む。それを全く気に留めていないシリュウは、
当たり前のように水の入っている容器を、ヒューガが座り込んだ逆方向へと移動させた。
つまりは、この光景はよくあることなのである。

「良い天気だなあ」

突然ぽつりと、まるでひとり言のように落とされた声に、ヒューガは吹きだした。唯一の
救いは、その口の中に水やら固形物を入れていなかったことだろうか。

「お前、ほんっと緊張感ねぇな。ていうか、今にも老けたお前の姿が思い浮かぶっての」

呆れたような物言いは、次第に穏やかなものへと変化する。笑いが込み上げてくるのか腹
を押さえたまま震えていたが、男の雰囲気は変わらない。

「緊張感、か」

機嫌を損ねることもなくヒューガの様子を眺めていたシリュウは、ふと視線をずらして、
周囲を見渡す。

拍子抜けするほどの平穏、途切れない笑い声。燦々と降り注ぐ陽光に、安寧の時間ををさ
えずる小鳥。
ふわり、と頬を撫でる風に薄らと瞼を閉じる。そのまま寝入ってしまいそうになる生温か
さが、心の奥に凝り固まっているものを緩やかに解きほぐす。

「今ここには、俺にとって緊張するものなんて何一つないんだろうなぁ」

ひたすらしみじみと。そして淡々に。
誰かの答えを求めないシリュウの台詞に、それまで腹を抱えていたヒューガは、ちらりと
隣に座る少年を一瞥する。一体どこを見つめているのか、特徴的な赤い瞳は青々と茂って
いる草原を捉えていた。

「……そうか」

吐いた息の重さが、奥底に巣食っていた違和感を払拭する。それを誤魔化すように、先ほ
ど渡された硬いパンを口の中に放り入れた。携帯食などそれほど美味いわけもなく、本日
口内に入れた食事も、やはり不味かった。けれどその不味さに、不快感はない。

沈黙が、流れる。
けれどそれは、身を捩じらせるようなものではない。穏やか過ぎるほどの静けさに耳を澄
ませていたシリュウは、心地良い雰囲気をまどろんでいた。このまま寝入ってしまいそう
になる睡魔を押し退けるが、瞼の奥が重たく何度か目を擦る。眠気覚ましに残りの水をグ
イと飲み干し、一つ溜息を吐いた。

「あ……」

空になったカップを返しに行こうと立ち上がりかけたシリュウが、草の間でゆらゆらと謙
虚に揺れている白い花を見つけ、おもむろにそれに手を伸ばす。突然の行動に首を傾げた
ヒューガは、少年の手のひらにある花を見とめると、ああ、と一つ頷いた後珍しげに目を
細める。

「へぇ、こんなへんぴな場所にも咲いてんだな」

懐かしげに、それからどこか愛おしげに声色が緩んだのを聞くのは、二度目だった。
以前アリオル山岳で聞いた、ヒューガの思い出。質素で簡単に踏み潰されてしまいそうな
小さな花をゆるりと撫で、まるで誰かと重ねているような姿に、少なからず驚かされたこ
とを今でもはっきりと覚えている。

「そうだね。……いくらか摘んでいこうか。根っこのところは化膿止めになるし」
「ああ。葉っぱはすり潰せば止血に使えるな」

背の高い草を掻き分けると、予想以上に花は咲き誇っていた。せいぜい数本程度がこっそ
りと生えているのかと思っていたのだが、思わぬ収穫にシリュウは頬を緩ませずにはいら
れない。
薬として調合するまでの手間がある分、町で売られているこの花の薬は、何気に高値で取
引されているの。火の車と言うにはいくらか語弊があるが、大所帯で旅をしているため決
して余裕のない財布が少しでも潤えば、と台所事情を預かっているシリュウは頭の中で
算盤を弾き出す。

「母さんが……」

手のひらに収まるほどの量を集めたヒューガが、束になった花を見下ろしながらぽつりと
呟いた。風に掻き消されそうなほどの小さな声に手を止めたシリュウは、何度か瞬きを繰
り返してから視線を上げた。

「母さんが一番好きだった花なんだよ。
ちっせぇころは何でこんな地味なのが良いのか分かんなかったけどよ」

束の中の一本を摘み、空にかざす。花弁に遮断された日の光が、花の白さを一層際立たせ
た。

「今なら、分かる気がするな」

眩しそうに目を細めたのは、光の強さに目が眩んだからなのか。

「好きだった、って……」

戸惑ったようなシリュウの声に寂しげに一笑したヒューガは、手のひらにある花束に視線
を落とす。

「―――死んださ、あの人は」
「っ!ご、ごめん……」
「構わねぇよ。……それに、母さんっつっても俺にとっちゃ義理の母親だ」
「……義理?」

突然の告白に目を白黒させたシリュウは、食い入るようにヒューガを見る。まさかそんな
複雑な家族関係を持っているとは、正直これっぽっちも思っていなかったのだ。

「親父とお袋はずっと昔に離縁してな。んで俺は親父に連れてかれたってわけだ。
 それから親父と母さんが出会って……お互い幸せそうだった。俺も、幸せだった」

感慨深げな面持ちに影が差した瞬間、シリュウは息を呑む。ヒューガの表情が徐々に剣呑
なものへと変化し、人を寄せ付けない刺々しい空気を漂わせる。ギリ、と奥歯を噛みしめ
るような音が聞こえたのは、恐らく気のせいではないだろう。

「あの人は殺された。母さんの子供も、俺の目の前で」
「子供って……」

一瞬見えた危うさが、ふわりと綻ぶ。

「……血は繋がっちゃいねぇよ。けど、俺の弟だった」
「そ、うなんだ」

家族の話をするたびに目元が柔らかくなるのを、穏やかな気持ちでシリュウは静かに見つ
めていた。

失ってしまった。けれど。

(家族が、好きなんだ)

無愛想でぶっきら棒。それから、時折こちらを困らせるほどの人間関係の好き嫌いを見せ
るが、根本のところが優しい人間であるのだと、短い期間の中でシリュウは感じ取ってい
た。
それは、彼にとってシリュウという存在が無害で波長が合うから、という理由もあるのだ
ろう。だが、決して仲が良いとは言えない仲間たちを、何だかんだと言いつつ助けている
のをシリュウはこれまで幾度も見てきていた。

(ああでも、それでも)

懐かしそうに、それから寂しげに笑う姿はあまりに儚くて。
思わず伸ばそうとした手を、引っ込める。
その肩に触れ、何を言おうとしたのか。何を伝えても、男に届くことも響くこともないこ
とは明らかだというのに。気休めというものを嫌う男には、必要のないものだというのに。

「……なんか、ホッとした」

大丈夫、だとか。元気を出せ、とか。
そんなありきたりなものばかりが浮かんでは消え、いくらか沈黙が続いた後に出てきたの
言葉は、自分でも驚くほど、この場に応じていないものだった。
予想通り、ヒューガは困惑している。何も言わないが、怪訝そうに瞬きを繰り返し、花を
見つめてから始めてこちらに視線を寄こした。

「上手く言えないし、すごく無責任なんだけどさ」

暫く目を泳がせていたシリュウは、ようやく決心がついたのか真っ直ぐとヒューガの青い
瞳を見据える。
この目を前にして、嘘も方便も通じない。

「俺の中にあるヒューガって人物は、いつも独りってイメージがあるんだ」

こうして仲間と連れ立って旅をする中でも、ヒューガは浮いていた。相容れぬ、と解け合
おうとする様子を微塵も見せず、自ら姿を掻き消す。
思い出したように振り向けば、男はいつだってそこにいた。けれどその存在は、いつもど
こか薄い。
少なからずそれなりに心を開いてもらっている、と自負しているシリュウの前でも、それ
は変わらない。

「俺と一緒にいる時も、本当にごくたまにだけど、辛そうにしていることがあったから」

男が何を抱えているのかは分からない。それを尋ねる資格がない自分には、ただその姿を
見つめていることしか出来ないのだと、半ば諦めていた。
自分に出来ることは知らないふりをして、男の言葉に耳を傾ける。それで少しでも気が紛
れるのなら安いものだ、と。

だからなのか。それ故、尚のこと一層。

「ヒューガの幸せそうな顔を見れて、良かった」

ゆっくりと見開かれる、青い瞳。
その背景に同じ色の空が見えた。空に愛されていると錯覚しそうなほど、ああやっぱりこ
の男は綺麗なんだと、心の中で感嘆の息を漏らす。

「……ば……」

瞠目したまま硬直した男が、突然音を立てて前屈みになり片手で顔を隠す。

「バッカじゃねーの」

蚊の鳴くような小さな声とは裏腹に、隠しきれなかった耳は心なしか赤い。
ぱちぱちと瞬いたシリュウは、暴言と取るには曖昧なヒューガの台詞に困ったように小首
を傾げる。
いくらなんでも計画性のないことを無遠慮に喋りすぎたか、と謝ろうとするが延々とヒュ
ーガの独り言が続く。相槌は打つが、当の本人は聞いていないだろう。

「信じらんねー。ていうか、ほんと何なんだお前は」
「な、何なんだと言われても……」
「素面でんなこと言うか?言わねぇだろ普通は。どんだけお前には恥ってもんがねーんだ」
「はぁ……」
「慰められるかと思ったらいきなり突拍子もないこと言うし、マジ訳分かんねぇ」
「…………」

これは貶されているのだろうか、と微妙な顔を浮かべたシリュウが、こめかみ部分を押さ
えだす。
本来なら言い返してやりたいところだが、空気の読めない発言をした覚えがあるため真一
文字に閉じられた口が開くことはない。

「……でも」

考えあぐねいていたシリュウの思考を停止させたのは、先ほど好き勝手言い放っていたも
のとは思えないほど落ち着いたヒューガの声だった。
驚いて振り向けば、いつの間にか顔を覆っていた手は離れていた。流石にこちらを向いて
はくれなかったが、その横顔はどこか吹っ切れたような清々しさを感じさせる。

「礼は言っとく。……ありがとな」

伏せられた瞼の代わりに、クッと口端が上がる。
それから何事もなかったように静かに食事を続けるヒューガを見て、シリュウは再度手の
ひらにある白い花を眺めた。

「どういたしまして」

ゆるりと柔らかに微笑み、最後の一口であるパンを口の中へ放り込んだ。



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