● 唐紅の記憶  ●



独特の潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
ザン、という波の音に耳を寄せ、空高く輝いている眩しい太陽にそっと目を細めた。蒼穹
よりもずっと濃い群青色の海辺が揺れ、静かな水平線に貿易船進むごとにが亀裂を入れる。
それから幾つもの泡になって消えてゆく様子を見送りながら、緩慢な動きで振り返った。
背後に映る、巨大な軍事国家を視界に入れながら。

ブオオン、と汽笛が空気を揺らす。到着するための合図に、ずれかけた長布を巻き直し踵
を返した。




第40話 『不死鳥のエンブレム』




積み荷を降ろす船員を横目に、ヒューガは目の前に立ちふさがる長身な壁に息を呑んでい
た。軍事力に長けた国家ならばそう相応の構造をしているのだろうと踏んでいたが、そん
な安易な予想は遥かに上回っていた。首が痛くなるほど空を仰げば、一体どこまでこの壁
は続いているのだろうか、もしや空にまで突き抜けているのではないのか、と懸念したく
なるほど、それは見事に高かった。

「にしたって、ここまでするか普通」

あんぐりと口を開いていたヒューガは、今度はつまらない様子で一つ溜息を吐いた。

「え、これって国を守ろうとしての構造なんだろう?」

ヒューガと同様、そびえ立つ壁に言葉を失っていたシリュウは何の疑いも持っていないの
か、当然と言いたげに首を傾げる。
シリュウの問いに曖昧に微笑したヒューガは、再び視線を防壁に移す。それからスッと弓
月のように目を細め、諦めたように瞼を閉じる。

「俺には、ただ神経質になって躍起になってるようにしか見えねーがな」

え、と戸惑うシリュウの前を通り過ぎ、一人荷物を抱えてヒューガは城門へと足を進めた。

「あ、コラ!勝手に行動するんじゃないよ」

二人の会話を聞いていなかったのか、憤ったシェンリィが叱咤しながら追いかける。呆れ
たような溜息と、どこか落ち着きのない気配の者たちが彼女に続き城門へと向かう。

「………神経質、か」

三人の背を眺めながら、シリュウは圧迫感さえ感じさせる黒い防壁を仰ぎ見る。
点々と赤黒いものや、ススのような焦げが見えるのは気のせいではないだろう。削られた
ような痕に、ひびの入った幾つもの線。
それでも少しも揺れた様子が伺えないのは、国家を守るこの防壁が強靭な造りになってい
るからなのだろう。

「―――シリュウ!」

呼ぶ声にハッと我に返り、荷物を抱え直し警備兵が両端に配置されている城門へと急ぐ。
鈍色の甲冑を身に纏い、槍を携える兵士のところには人だかりが出来ていた。近づいて覗
いてみれば、兵士の傍らで、恐らく下っ端であろう別の兵士二人が荷物の中身を確認をし
ていた。検問所の役割を担う出入り口で、不審人物を排除しようとするシステムなのだろ
う。

「次」

既に数え切れない点検をしているせいか、男の声色はどこか疲れきっていた。各々の荷物
を簡素な机に置き、バッと荷物の紐を解く。

「あんたら……旅行って柄じゃあないな。ギルドでペアでも組んだか?」
「ええ、そんなところです。ここには補給と休憩で立ち寄ったに過ぎませんよ」
「なるほどな。船旅ご苦労さん。途中で魔物に襲われなかったかい?」
「運良く遭遇しなかったよ。寧ろ快適だったさ」

カインが品の良い笑みを浮かべ、シェンリィが妖艶に微笑む。まるで絵になるような二人
に目を奪われていた兵士が、門に控えていた兵士に小突かれた。ギロリと睨まれ、ぎくり
と肩を震わせた年若い兵士が平謝りし、ようやく人数分の荷物の確認を終え通行許可を下
そうとしたとき、一人の兵士が長布を巻く少年を見とめ首をひねった。

「あんた、悪いけどそれ取って顔見せてくれ」

指名されたシリュウは一瞬躊躇い、固唾を飲んでゆっくりと白い布に指を絡める。まだ隠
れている影の下で、苦虫を噛み潰したような顔をしていることを、誰が知ろうものか。

黒い髪が外気に触れた瞬間、ざわ、と周囲が音を立てる。
後ろの誰かが息を呑んだような気がした。その隣にいるであろう人物の気配も、怯えを纏
い始める。門番の一人が槍を持つ手に力を込めたのが見えた。先ほど素顔を見せろと言っ
た兵士が、ギョッと薄茶色の瞳を見開いている。―――ああ、これが、『普通』の色なんだ
ろう。そう思うと、痛みよりも言いようのない虚無感が襲うのだ。

「―――黒髪に赤い、目……!?」
「おい、あれは魔物の証じゃないのか?」
「何という恐ろしい光景だ。まさか生きているうちにこのような厄に見舞われるとはっ」

小声が徐々に罵声へと変わってゆく。それと同時に、手先が冷え始めた。喉が異様に渇き、
唾を呑みこもうとするが、胃がそれを拒絶する。吐き気を覚えた。
傍に仲間がいるはずなのに、手を伸ばせばすぐに掴むことが出来るはずなのに。
ハーティス港で老婆に投げつけられた小石の感触が、額に蘇る。咄嗟に右手で覆い、今は
もう綺麗に消えている場所へと冷たい指を滑らせる。
それから、すぐにひょうきんな男の姿を思い浮かべた。彼はいつだって、自分に自信を持
っていたではないかとひたすら言い聞かせて。
ぬるりとした生温かい血はない。かわりに指についたのは、いつの間にか吹き出た脂汗だ
った。

「ぐだぐだうるせぇな。テメェらにこいつの何が分かんだよ。あぁ!?」

ガン、と鈍い音が響く。ビクリと身を震わせた者たちが、目を剥いて殺気立っている男を
凝視する。
検査するための簡素な机が蹴飛ばされた瞬間、ヒィとみっともない声がどこからか上がっ
た。傍にいる兵士にギロリと焦点を見定めた男、ヒューガは目を据わらせたまま兵士の胸
ぐらを掴む。

「最強の軍事国家と謳われているのはただの出まかせか?テメェらはその国の兵士じゃね
えのかよ。…………つまんねー噂ごときでビビってんじゃねぇよ、腰抜けどもが」

細められた目の奥が、凍えるほど冷たい。
胸ぐらを掴まれ、宙ぶらりんになっているまだ入隊して間もない年若い兵士は、ヒューガ
の青々とした瞳に固唾を呑みこむ。何という、冷たい目なのだろうか。人間が、人間を射
抜き殺せるような、凄まじい殺気に息を呑まずにはいられない。

「ちょ、ヒューガっ!」

呆然とこれまでの流れを見つめていたシリュウが、ようやくハッと我に返りヒューガの腕
へと飛び付く。
まだ入場許可さえ下りていないというのに、これ以上事を荒立てては下手をすれば町の中
に入れてもらえなくなってしまうかもしれない。それだけではない、自分だけならまだし
も、ヒューガやエリーナ達にまで害が及んでしまう。

一度だけこちらを一瞥したヒューガが、ふいと兵士に視線を戻し、更に眼光を鋭くさせた。
何をやってるんだ逆効果だ馬鹿野郎、と怒鳴りたくなる気持ちをギリギリのところで呑み
こみ、シリュウはどうにかこの場を穏便に治めようと懸命に頭を回転させる。だが、この
男の頑固さは生半可な言葉では動かないということを、嫌というほど知っているため最善
の策が全く浮かばない。

途方に暮れたシリュウが、ついに頼みの綱であるシェンリィに視線を送る。
何故こんな暴挙になっても何も言わないのだ、と冷静なようで実はかなりパニックになっ
ているシリュウは気付いていない。
バチリ、と視線が絡み合った途端、それまで腕組みをして静観していたシェンリィがにぃ、
と妖艶でありながらもどこか気味の悪い嫌な笑みを浮かべる。それは何かの合図なのだろ
うかと思ったが、シリュウを無視して再びヒューガの方へと向き直るのだから、最初から
止める気などないのだ。
ならばカインはどうだ、と勢いよく振り向けば、興味深そうにヒューガと兵士とのやり取
りを見ているだけで、こちらも手を出す様子は微塵も伺えない。傍らに佇むエリーナでさ
えも、機嫌を損ねているのかムッとした表情で周囲を見回している。

「誓ってやろーじゃねえか。こいつが町ん中でおかしなことやったら、俺が責任もって
 たたっ斬る。それで文句ねーだろうが!」

万事休すか、と顔色を蒼褪めたシリュウが肩を落とした瞬間、再び怒声が飛び交う。弾か
れたように振り向けば、ようやく兵士を離したヒューガが腰に下げていた剣を引き抜いて
いた。

「だ、だがなぁ!何かあってからでは遅いんだぞ!」
「何か起こる前にこっちがどうにかするっつってんだよ」
「き、君が負けたらどうするつもりなんだ!?」
「はぁ!?テメェの腰に下げてる剣は飾りなのか?ちげぇだろーが、民を守るもんだろ!
 俺が負けるようなことがあるならテメェらで何とかしやがれ。それでも兵士か!!」

ざわ、と周囲が騒ぎだす。シリュウの件よりも、兵士が弱腰になっている点に不信感を抱
いている者が増え始める。
大丈夫なのか。おい俺ここに引っ越してきたんだぞ。最近治安が悪いって聞くわ。
雑音の中から聞こえる不穏な声が、兵士たちを追い詰める。ザッと音をたてて顔色を悪く
させた兵士が、慌てた様子でどうにかこの場を鎮めようとするが、一度不安要素を掻き混
ぜられた人の心はそう簡単に動くものではない。

「……なあ、どうするんだこれ」
「俺は正論を言ったまでだ。虚勢でも張ってりゃこうならずに済んだものを」
「って!そう仕掛けたのはどこの誰だよ!」
「そりゃ俺だ」
「平然と返すなーっ!」

どこかスッキリした様子のヒューガが、腰に手を当てシリュウの非難めいた声を無視する。
ついには片方の耳に指を入れ耳栓をするものだから、ひくりと頬が引き攣るのは当然のこ
とだろう。
反省の色がないヒューガに怒りも呆れも通り越したシリュウは、大袈裟なほど盛大な溜息
を吐いた。一気に酸素を外に放出したせいで、正直少々肺が痛かった。

「大丈夫だよシリュウ!私に任せて」

今日は野宿か、と哀愁さえ漂わせ始めたシリュウの肩を叩いたのは、にっこりとこの場に
そぐわない満面の笑みを浮かべたエリーナだった。
一瞬、彼女が何を言ったのか理解出来なかったシリュウは、ぱちくりと目を見開き、きょ
とんとした様子で小首を傾げた。

「任せるって、何か策でもあるの?」
「うん!さ、カインあれ、よろしくね」
「……かしこまりましたお嬢様」

催促され、軽く頭を下げたカインが懐の中から小さな、けれど豪奢なエンブレムを一つ丁
寧に取りだす。
あれとは、この金色に輝くエンブレムのことなのだろうか。
縁取りは眩いほどの金。その表面に色とりどりの色彩が、六角形を描くように散りばめら
れていた。その中央に描かれているものは、これまた豪奢な鳥だ。
何食わぬ顔で顔面蒼白になっている兵士にそれを差し出せば、一瞬困惑した顔が見る見る
うちに真っ赤に染まってゆく。

「こ、こ、これは!?」
「お、おいこれって不死鳥のエンブレムじゃないのか!?」
「お初にお目にかかります。私はファイナンス家直属の従者、カイン・アルベリアと申し
ます。こちらはファイナンス家直系のご令嬢、エリーナ・ファイナンス様にございます」
「ふぁ、ファイナンス!?それは本当なのか!」
「もちろん。エンブレムがその証ですよ」

色めき立つ兵士をよそに、シリュウはぽかんとした様子でシェンリィに耳打ちをした。

「あの、エリーナの家ってそんなに有名なんですか?」
「さあ?私はカインの噂しか興味なかったからねえ。まあどっちにしても、どこかの国の
姻戚関係か、それに相応する上位貴族ってことはこれで判明したね」
「え、どこかの国って、アルエリータじゃないんですか?」

てっきりアルエリータがシェンリィの故郷だと思い込んでいたシリュウは、驚いたように
目を見開いた。するとシェンリィがぺしん、と音をたててシリュウの額を叩く。

「ばっかだねぇ。不死鳥のエンブレムの意味も分かってないのかい?」
「……ま、全く」

はあ、とわざとらしいほど盛大な溜息を吐いたシェンリィがこめかみに指を当て気難しげ
に目を閉じる。
剣術や生きる術ばかりを教え込んだせいで、一般常識が脆弱になっていることをこの旅で
知ったシェンリィは、育て方を間違えてしまっただろうかと一瞬後悔した。

「不死鳥のエンブレムってのは、国と国の友好関係を表すための証だ」

葛藤していたシェンリィが口を開く前に、妙に静かな声がシリュウを振り向かせる。そこ
には、さきほどまで饒舌に兵士相手に喧嘩を売っていたヒューガがいた。
けれど、纏う空気がどこかおかしい。そのことにいち早く気づいたシリュウは、無意識に
胸元を押さえつける。

「大国であるアルエリータと均衡関係を保とうと弱小の国家がへりくだる。こちらに敵意
はないと意思表示をし、認められた国にアルエリータが友好国としてあのエンブレムを
弱小国の国王、それからそれの姻戚関係や上位貴族に送りつけるんだ」

ジッと一点を見据えているものは、シリュウでもなければシェンリィでもない。カインの
手にある、金色のエンブレムであった。
ゾクリ、と背中が粟立つ。突然の寒気に襲われたシリュウは、むき出しの腕を擦る。海風
が肌をなぞるだけで、季節もまだ冬ではないというのに、奇妙な悪寒を感じるのは何故な
のか。

感情が、ない。

エンブレムを睨みつけるように見つめるヒューガの目には、何も宿っていなかった。
これまでは、嫌いなものは嫌いだと全身で表現し、好きなものは不器用ながらも好きだと
表現していたあのヒューガが。

(なんだ、これは)

気付いた瞬間全身を疾走したものは、電撃にも似た、けれどもっと違う衝動。
そう、まるで恐怖のような。

「ヒューガ?」

何となく、止めなければならない気がした。放っておけば、手遅れになるような気さえし
て、男の裾を控え目に掴む。
それに瞠目して振り向いたヒューガが、それから安心したようにゆっくりと目元を和らげ、
細く、どこか頼りなさげに息を吐いた。

「ま、つまりあれは友好国の間なら行き来自由のフリーパスってことだ。ったく、お前は
こんな常識も知らねえのかよ。相も変わらず幸先不安な奴だな」

くつくつと喉で笑い小突いてきたヒューガが、くしゃりとシリュウの頭を撫ぜた。それは
まるで、気づいた違和感を拭おうと必死に取り繕っているようにも見えた。
いつもと変わらない表情を見せたことに安堵しながらも、どこか釈然としないシリュウは
隠れて下唇を軽く噛む。多分、ヒューガは気付いていない。

「ほら、もう布被っとけ」

乱暴に布を巻き始めたヒューガに、シリュウは慌ててそれを止める。視界まで塞がれてし
まい、結局全部解き巻き直し始める。呆れた視線をヒューガに送れば、そこにはもう先ほ
ど見た違和感は欠片一つさえ残っていなかった。

―――今見せている表情も、所詮偽りだ。

ぼんやりとヒューガを見つめていれば、ふいに聞こえた心の中に潜む自分の声。
思わず口元を覆ったシリュウは、俯きながら荒くなる呼吸を鎮める。
何を考えている。何故、疑うような目でヒューガを見るのだ。

「……おい、どうした」
「気分でも悪いのかい?」

ぎくりと身を震わせれば、いつの間にか目前にまで近づいていた二人の影。心配そうな声
に返すことも出来ず、シリュウはただ首を横に振るしかなかった。
けれど、それで納得するはずのない二人は互いに目を合わせ、再び不審げにこちらを向く。
余計な心配をさせてはいけない。けれど、今この顔を見せたくはなかった。

「―――シリュウーっ!早く行きましょうよ!」

どちらか分からない一つの手が、こちらに伸ばされそうになった刹那。
時を見計らったように、エリーナの声が鼓膜を震わせる。?い潜るようにその手から逃げ
れば、何事もなかったような笑顔を浮かべて訝しんでいる二人を見上げた。

「大丈夫。……さ、エリーナとカインが待ってるよ」

兵士から荷物を受け取り、何食わぬ顔でエリーナとカインの傍に行く。この話が聞こえて
いなかったのか、二人は穏やかな笑みで歓迎してくれた。
背中に刺さるような視線に気づかない振りをして、それから、当然のように振り返る。

「師匠、ヒューガ!行こう!」

きっと疲れているだけだ。
そう自分に言い聞かせて、楽しそうに話すエリーナに相槌を打つ。


結局、誰も信じていないくせに。

腹の底に巣食う声を、何度も無視し続けながら。





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