● 唐紅の記憶  ●



そびえ立つ、レンガ造りの高台。
鐘を鳴らすための頂上に、幾人も配置されている兵士は、ゆったりと、だが神経を尖らせ
て辺りを見回していた。時折仲間と情報を交換し合いながら、各々の配置へと戻る。
その刺々しい雰囲気を知ってか知らずか、城下町で賑わう人間は客を引きこもうと声を上
げて客寄せをしていた。透き通ったようなハリのある声、既に喉が潰れているのか、濁音
の混じっただみ声も飛び交う。

年季を感じさせる茶褐色の一角の、一件古ぼけていながらも小綺麗なテラスに腰掛け紅茶
を啜っていたシリュウが、青々とした空を仰ぎ見る。流れる雲は千切れ千切れにあるだけ
で、太陽を覆う厚い雲は存在していない。絶好の洗濯日和のおかげか、住宅街のあちこち
には糸に吊るされた洗濯物が、乾いた風に揺れていた。白い布と、赤茶色や茶褐色、すす
けたような黒の建物ばかりの世界に目を細めていると、目の前を数人の子供が玩具を片手
に駆けて行く。

なんて、ここは平和なんだろう。

くぁ、と欠伸を噛み殺し、ぬるくなった琥珀色の紅茶にそっと目を細めた。




第41話 『王都アルエリータ』




「王様に、謁見?」

宿屋の手配が整い、各自自由行動になろうとした途端、にこにことしたエリーナと、何や
ら色々複雑そうな顔をしたカインがシリュウの前に現れた。

「先ほど申し上げましたように、お譲様は高貴な方ですので。
 ……立ち寄った手前、挨拶なしでここを立ち去るわけにはいかないんです」
「へ、へえ。何だか俺にはさっぱりだけど、大変なんだ」
「ええ。本来ならエンブレムを出す予定はなかったのですが、見せてしまいましたからね。
 恐らく下っ端の兵士から陛下へと情報は伝わっていると思います」

言い回しはまるで誰かを非難しているようにも聞こえるが、カイン自身は普段と変わらぬ
穏やかさを保っていた。いくらか腹に抱えているものがある顔をしているが、それは仲間
に向けているものではない。
寧ろそれは、これから謁見する王に対するものなのか。

「夕飯前には帰ってくるねシリュウ!」
「え、でもエリーナくらい凄い家柄なら今日はお城に泊めてもらった方が……」
「駄目!絶対に帰ってくるんだから!ね?」
「……う、うん、分かった」

ギュ、と両手を握られたシリュウは、エリーナの満面の笑顔に圧されながらも何とか微笑
み返す。有無を言わせぬ笑顔の重圧であることに気付いていないシリュウは、知らず冷や
汗を一つ流した。

「なら、迎えに行くよ。カインがいるから大丈夫だろうけど……やっぱり心配だ」

以前エリーナが攫われ、危うく殺されそうになった日を思い返す。
他人の血にまみれ、軽傷を負った少女の姿。現実を受け入れることが出来ず、半狂乱にな
りながら身を震わせた華奢な身体。
守られる立場でありながら、外界へ出たことを責めるべきなのか。
彼女を守り切ることが出来なかったことがカインの失態だとしても、屋敷という鳥の籠か
ら出て行ったエリーナの非であったとしても。
それを、誰かの責任であると捉えることは、シリュウにはどうにも理解出来なかった。

「シリュウ……っ!!」
「うわっ」

ふわりと微笑したシリュウの台詞に感極まったエリーナが、堪らず握り込んでいた手を離
しシリュウに抱きつく。突然の衝撃に、声を上げて驚いたシリュウがたたらを踏み、ぎり
ぎりのところで転倒を避けた。

「大好き!やっぱりシリュウは私の王子様だわ!!」

きらきらと目を輝かせ、期待や希望、尊敬といった様々な感情が混じった眼差しにたじろ
いだシリュウが、困ったように眉を下げる。
それから、あまりに率直で飾り気のない好意の言葉に、どう返答すれば良いか分からず曖
昧に笑うことしか出来なかった。
その傍らで、クスクスと笑っているシェンリィは、明らかに困惑しているシリュウと目が
合うと、今度はニヤリと形容したくなるような含みのある笑みを一つ浮かべてみせる。彼
女が何を伝えたいのかさっぱり分からないシリュウは、抱きついたまま興奮冷めやらぬ様
子でシリュウを褒めちぎるエリーナに視線を落とす。
彼女の言葉に嫌悪感は湧かなくて、何故か胸の辺りがくすぐったく感じ、思わず身じろぎ
したくなった。

それから。

「いってくるね、シリュウ!」

やっぱりエリーナは笑顔の方がずっと良い。
そう感じた瞬間、自然と笑顔が浮かんだ。



果てしなく続く回廊に、同じく等間隔で配置された石像が、道行くものを見定めるかのよ
うに静かに見下ろす。白を基調とした、高級石の支柱に模られた騎士や天使の石像。一足
踏み込めば、それが柔らかであることを十分主張させる真っ赤な絨毯。埃一つさえ見当た
らないのは、城内に勤めるメイドたちが毎日時間をかけて掃除を行っているためだろう。
凡人ならば圧倒される荘厳な造りの廊下に、二人の男女が背筋を伸ばし、慣れた雰囲気で
歩く姿があった。

「陛下に謁見されるのは随分と久しいですね」

少女の斜め後ろを歩く青年、カインが一つ笑みを浮かべながら前を歩くエリーナに話しか
ける。いくら貴族の出とはいえ、こういった格式張った雰囲気がお世辞にも得意とは言え
ないエリーナの緊張を、いくらか解きほぐすための気遣いであることを、先ほどから黙り
込んでいたエリーナは微塵も気付いていないだろう。

「最後に陛下にお目通しが許されたのって、ずーっと小さい頃だったような気がするわ」
「ええ。お嬢様が七歳の誕生日を迎えられてまだ日も浅い頃でしたよ」
「え!?じゃあ十年も前ってことになるわ!……陛下、覚えてくださっているかなぁ」

シリュウたちと別れた後より消沈してしまったエリーナに、カインは苦笑する。激励の言
葉をかけたつもりが、どうやらそれが仇となったようだ。
しかし、毎年彼女の誕生日に豪奢な贈り物が届いていることは確かである。
アルエリータ王家の血筋でもなければ、濃い間柄というわけでもないが、俗にいう大人の
事情で繋がりを持っているファイナンス家は、アルエリータとの関係もそれなりに強い。
果たして十年も前の、それも他国の貴族の令嬢を覚えているかどうかは定かではないが、
アルエリータの陛下は聡明で寛容、しかし裏切りに対しては、徹底した報復を与える惨さ
を備えていると噂に聞く。属国になり下がっていると比喩しても過言ではない相手国の、
それも政治と直接関係のある貴族の名と顔を忘れることは恐らくないだろうとカインは踏
んでいる。

味方に回せば強大な防御となり、敵に回せば阿修羅のごとく迫り来る脅威。

国と国との綱渡りであることを、幼い少女は気付いてすらいないだろう。だからこそ、こ
んなにも無邪気に他国の王に謁見しようと出来るのだ。

(いや、けれどそれ故に無駄な詮索は回避出来るかもしれない)

同じく十年前にエリーナとともに入城したカインは、当時の光景を思い返していた。威厳
に満ち、畏怖の念さえ抱く男の鈍ったような銀の双眸に値踏みされたあの頃を。
ゾッと背筋が凍るような、敗戦確実の戦場に駆り出される時よりももっとおぞましい瞬間
であったと、今も鮮明に記憶している。

「―――カイン?」

幾らかの間を置き、胡乱げなエリーナの声にハッと顔を上げる。いつの間にか謁見の間へ
続く門に辿り着いたらしく、先ほどから一言も喋ろうとしないカインを不審に感じたのか、
エリーナが首を傾げてこちらを伺っていた。

「どうしたの?ボーっとしていたようだったけれど」
「……いえ、私も陛下の御前に拝謁するのが久方なので」
「ああ!なーんだ、やっぱりカインも緊張してるのね」
「ええ、どうやらそのようです」
「大丈夫!カインが途中で噛んじゃっても私がフォローするわ」

つい数分前まで落ち込んでいたのが嘘のようにパッと明るくなったエリーナに、カインは
そうですね、と微笑み返した。
どうせ、後戻り出来ぬのだ。ここで今更躊躇っていてもどうしようもない。
腹を括ったカインは、門の左右に控えている兵士に軽く会釈し、懐の中から友好の証であ
るエンブレムを取り出した。

「こちらはファイナンス家直系の令嬢、エリーナ・ファイナンス様でございます。私はフ
ァイナンス家に仕える直属の騎士、カイン・アルベリア。陛下への謁見をお許し願いた
い」
「……確かに、これは我らアルエリータとの繁栄を願うエンブレム。お話は既に伺ってお
ります。御二方どうぞ、お通りくださいませ。陛下が広間にてお待ちでございます」

敬礼をして見せた兵士が、金色の取っ手に手をかける。荘厳な造りの扉が、ゴゴ、と音を
たて開いた。それに怯んだエリーナがヒュッ、と息を呑むが、通行出来る隙間になった途
端、顎を引き背筋を伸ばす。

「行きましょう、カイン」

そっと手に触れる体温に、カインは目を見開く。視線を落とせば、白魚のように美しい細
い指が、カインの指を緩く握っていた。
けれど、それも一瞬。
小さな掛け声とともに、少女は一歩前に出る。そして離れた指。
垣間見えた笑顔は、硬くなった頬の筋肉を不器用に使った偽物であるけれど、それを隠す
ように颯爽と歩く姿に、カインは目を細める。最前線にいながらも恐れを知らぬように戦
場に駆け出す、まるで屈強の戦士のような頼もしさが彼女の背中に見えた。

「―――……どこまでも、貴女とともに」

数歩遅れてエリーナの後に続いたカインが、か細い声で呟く。前を歩く少女が、小さく頷
いた気配がした。





「師匠、頼まれていたもの買ってきましたよ」

夕飯前の買い物でごった返す市場を?い潜りながら、長布を頭に巻いた少年がどこか嬉し
げな様子で一人建物の陰に凭れていたシェンリィに近づく。

「お帰りシリュウ。どうしたんだい、そんなに生き生きとして」

何人もの男に軟派され続けながらも無表情に徹していたシェンリィが、小柄な影に目を向
けると、くっと口元を上げてみせる。それでも行き交う人々の視線は彼女に集まり、シェ
ンリィがいかに人を惹きつける容姿であるかをより一層明確にさせる。
しかしそんなことにこれっぽっちも気付いていないのか、シリュウは珍しくにこにことし
ながら、ずいと腕に抱えていたものをシェンリィに突き出した。

「まとめ買いしたら八百屋のおばさんがたくさんおまけしてくれたんです!」
「へぇ、良かったじゃないか。偉いね」

値引きもしてくれたんですよ、と興奮した様子でシェンリィに語りかけるシリュウが年相
応か、もしくはそれ以下に見えて思わず布越しからくしゃりと頭を撫でる。感情を豊かに
させる場面が買物の値切りであることに些か疑問を抱くが、稀に見る嬉しそうな顔に顔が
綻ばずにはいられない。
何だかんだ言いつつも、一回り以上離れている教え子はやはり可愛かった。

「おい、こら、ちょっと待てって、言ってるだろうが!」

それからいくらか遅れて、息の上がったような声が人混みから聞こえた。聞き慣れた声に
振り返れば、シリュウよりも倍ほどの荷物を抱えている男がげっそりとしながら、流れる
人々の間を縫って出てきた。

「あ、ヒューガ」
「あ、ヒューガ。じゃねえ!待てっつってんだろーが!」
「あ、ごめん」

たった今思い出しました、という何とも気の抜けるような謝罪に、揉みくちゃにされなが
らここまでようやく到達したヒューガは、がくりと項垂れる。この様子だと、十中八九シ
リュウは本気でヒューガの存在を忘れていたのだろう。

「それじゃあそれ宿屋に置いてこようか」
「そうですね。もうすぐ日も暮れますし、その後エリーナを迎えに行きますね」
「っておい、俺のことは放置か」
「馬鹿弟子。私も付いて行ってあげるんだから一人で行くんじゃないよ」
「は、はい!」
「…………人の話聞け、お前ら」

シェンリィがシリュウの額を小突いた瞬間、諦めたようにヒューガは盛大に溜息を吐いた。
この二人は、意図して無視しているのか。いや、一人は明らかにこちらをおちょくるつも
りで無視しているが、もう片方は非常に分かりづらい。正直、確信犯でないことを望んで
いる。
そんな切なる願いを知ってか知らずか、急に振り返ったシリュウが小首を傾げていた。

「で、ヒューガはどうする?」
「は?」
「だから、エリーナ達を迎えに行くかどうかなんだけど……。
……いや、さっき俺が先走ったせいで疲れてるだろうし、宿屋で先に休んでてよ」

ごめんね、と眉をハの字にしたシリュウがシェンリィとともに宿屋に向かおうとする。そ
の背中を見ながら、ああ良かったあの女のように真っ黒に染まってなかった、と安堵しつ
つも何だか一人だけ省かれたような状態に、釈然としない思いが募る。このまま宿屋で先
に休みたいし、何故あの二人組を迎えに行かねばならないのか、というのが本音だが、意
地になったヒューガはついシリュウの提案を蹴ってしまう。

「別に、これしきで疲れなんざ感じちゃいねぇよ。……ついでだ、俺も行ってやる」
「へえー。あんたにしては珍しいじゃないか」
「うっせぇ」
「ま、まあまあ二人とも。きっとエリーナ達も喜んでくれるって」
「……あの子が喜ぶのはあんただけだと思うけどね」

同感だ、と言いたげに一つ頷いたヒューガと同様、エリーナのあからさまな好意に気付い
ていないであろうシリュウに、シェンリィは憐れんだような目を向ける。嫌われてはいな
いという認識はあるようだが、どうも恋愛沙汰はとんと疎いようで、頬の一つや二つ、赤
らめやしない。

「そんなことないですよ。二人が来てくれればエリーナだって喜んでくれます」

二人の心配を他所に、シリュウは穏やかな顔つきでそびえ立つ城を見上げる。
夕陽を背景に、壮大な造りの城が徐々に薄暗さを見せた。どこからか鐘がゴーン、と鳴り
響き、下町の人々が次々に家路へと急ぐ。
一定の時間に鐘を鳴らしているようで、夕餉の時間が近いことを知らせていた。途端に町
の露店も慌ただしくなり、昼間の頃に展開していた、ゆったりとしていた風景は一変し、
ごみごみとした内装へと変貌する。橙色に輝くランプが夜道を照らし、行き交う人々の中
に小さな子供はほとんど見当たらなくなった。

「この女ならまだしも……俺は歓迎されねぇだろ」

城を見つめていたシリュウに投げかけた台詞が、雑踏に紛れる。しかし一拍置いて振り向
いたシリュウは、変わらぬ柔和な顔でうっすらと微笑した。

「まさか」

そう一言を残したシリュウは、踵を返して宿屋へと向かう。それにシェンリィが続き、呆
気に取られているヒューガがいぶかしんで眉をひそめ、納得がいかない様子でシリュウの
隣に並んだ。近付いてきた青い影に気付いたシリュウは、ぶすっとしたままの男に一度吹
き出し、それから苦笑を洩らした。

「ヒューガはエリーナのことあんまり気に入ってないようだけどさ」
「気に入ってないんじゃねぇ、いけ好かねぇだけだ」

それはつまり、同じなのではないだろうかというシリュウの心の声など知る由もなく。
仏頂面の男は、苦虫を噛み潰したかのような微妙な顔を見せる。後にも先にも、ヒューガ
がこんなにも分かりやすい感情表現をするのは、恐らくエリーナや、もしくは単にウマが
合わないカインだけだろう。

「でもさ。エリーナは苦手意識はあってもお前のことを嫌ってないよ」
「はぁ?」

グッと眉間の皺を濃くしたヒューガの厳つい顔に怯むこともなく、シリュウはその青い瞳
を見据える。
咄嗟の反応とはいえ、威嚇するような状態であるというのに何故こちらが押し黙らねばな
らぬのか。息を詰まらせたヒューガは、目を泳がせ途端にそっぽを向く。
この赤い瞳に真っ直ぐ捉えられるのは、何度経験しても慣れるものではない。己が持つ青
と相反する色であるからなのか、寧ろ苦手であった。

「何だかんだ言っても、やっぱりヒューガは優しいから」

ぴたりと立ち止まったシリュウにつられ、ヒューガも足を止める。それから見上げられた
瞳の奥に宿るものは、信頼なのか信用なのか。それすら分からないけれど、確実に言える
のは、そこに悪意が見当たらないこと。
長布に隠れている部分から見える、赤色の穢れのなさにヒュッと息を呑む。
身を蝕むのは、寒気なのか、恐怖なのか。それとも相反するものなのか。

「そんなお前だから、エリーナは理解したんだと思うよ」

それから、何かが、崩れるような音。

「……俺、は」

からからに渇いた喉のせいで、上手く言葉が出てこない。いや、言葉が浮かんでこない。
そうではないと突っぱねれば良いのに。それが本心であることは確かだというのに。
固唾を呑み込み、肺の中にある酸素が空になるまで息を吐く。そして、逸らしていた目を
シリュウに向ける。ただそれだけだというのに、一瞬躊躇ったのは何故なのか。

受けた衝撃は、多分―――。

意を決し、口を開いた刹那。

「―――っ!?」

ドォン、という轟音。しかし、その距離は遠い。

「な、なんだ……?」

ほんの僅かに揺れたのは、地震のせいではない。寧ろ、相当の重量が地面に叩きつけられ
たような、物質的な振動だ。
瞬時の出来事に騒然と化した町は、皆が顔を見合せ不安げな様子を見せる。異常事態であ
ることを示すように、巡回していた兵士たちが列をなして城へと駆けこんで行った。
それを不審に感じたシリュウが目を細めた瞬間。

「火事だ!城が、城内が炎上しているっ!!」

切羽詰まった、怒声にも似た叫び声にシリュウは目を剥く。
それから、ふいに頭の中で横切った一人の少女。

「―――エリーナっ!!」
「おいっ!待てシリュウっ!!」

ヒューガの制止の声さえ振り解き、慌てふためく人混みの中へと身を投じる。
背中にかけられていたいくつもの声など、何一つ聞こえはしなかった。






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