●● 唐紅の記憶 ●●
「火事だ!城が、城内が炎上しているっ!!」
血の気が失せる音とともに、弾かれたように駆けだすのに時間は必要ない。
待て、と後ろから聞こえる声など耳も傾けず、少年は走る。野次馬が集まっている人混みの壁を無理やり壊せば、何事だと驚いて振り返る人々の視線には目もくれず、隙間を掻い潜る。
記憶に焼きついた色は、真っ赤な世界。それは紅のように真っ赤だっただろうか。それとも橙色にも似た業火の色だっただろうか。
あの時呼んだ少女ではない名を叫びながら、少年は走る。脳裏に浮かぶのは、一輪の花のように静かに微笑む朱色の少女とは似ても似つかない、けれど屈託なく笑う太陽さえも霞む眩しい笑顔であった。
第43話 『誓う言葉』
ざわめき立つ城内めがけ、少年は疾走する。司令塔からの伝達が届いていないのか、持ち場で待機していた兵士たちは混乱の空気に呑まれ、普段の毅然とした態度が崩れていた。それでも騎士としての構えを根っこから持っている者は、自らの判断で貯水池へ駆け込み、バケツを用意しろと慌てふためいているメイドに指示を飛ばす。
混乱に乗じているおかげか、城内に入り込んだ侵入者の影など、誰も咎める者はいない。四方から飛び交う怒声にも似た声を頼りに向かう先は、恐らくこの城内にある溜め池場だ。何の根拠もなしに、それでも縦横無尽に駆け抜ける。それも全て、仲間を助けるためだけという動機だった。
「待てっ!待てこらシリュウっ!!」
手を伸ばして先を走る少年の肩を掴もうとするが、何度も空を切るという間抜けな姿を晒し続けている男ヒューガは、並々ならぬ焦燥を見せる少年の姿に舌打ちをせずにはいられなかった。
火事だ、という叫び声がしたほんの数秒後。あの時は声のする方向に意識を取られていたが、駆けだした少年の横顔が酷く怯えているように見えたのだ。
その一瞬、反応が遅れてからようやく追いかけ始めた。すぐにその手を取ることができなかった己の失態にぎり、と奥歯を噛む。何度も制止をかけるが、聞こえていないのか振り向きすらしない。足の長さだって走る速度だってこちらが有利なはずなのに追いつけないのはなぜか。
「シリュウ右よっ、右手に噴水があるわ!」
正門を潜り抜け、豪奢な庭園を通り過ぎ回廊を飛び出す。シェンリィの鋭い声とともにようやく見えたものは、一面に敷き詰められた芝生と、中央に位置する巨大な噴水であった。城の正面にあった庭にあるものよりも背は高い。いくつもの女神像の彫刻が、この惨事を鎮静化しようとまるで空に祈っているようだった。
そこではた、と冷静さを取り戻したシリュウは、呆然と辺りを見渡す。水場に辿り着いたは良いものの、己の手で掬う水の量などたかが知れていて、バケツや放水用の道具など都合よく持っているはずもなかった。
ぜいぜいと肩で息を繰り返しながら額に溜まっていた汗を拭うと、突如後頭部をがつんと殴られギョッとして振り返る。
「何暴走してんだお前は!ちったあ状況を見ろ!」
「ご、ごめん……」
同じく全力疾走であったヒューガが、項垂れるように膝に手をつき呼吸を整える。その隣で涼しげにしているシェンリィが、まるで化け物のように見えたのは心の中にしまっておく。
「兵士たちがバケツリレーをしている様子からすると、あっちが火元のようだね」
ふむ、と周囲を一瞥したシェンリィはがみがみと叱られている弟子を放っておき、軽やかに、けれど急ぎ足で散策をし始める。この水を有効利用するには、水を汲み上げるポンプが必要だが、城内の詳細部のことなど知る由もない。かと言って手当たり次第そこらの倉庫の中を物色出来るほど時間があるわけでもないのも事実だ。
何か代用になるものはないか、と辺りを見回していたシェンリィは、女神像に隠れていた比較的小さな噴水を見つけた。それから軽く目を瞠り、その中で何やら悪戦苦闘する人物に近寄る。
「……ちょっとあんた、そんなところで何をしてるんだい」
鎧を身につけている様からすると、ここの兵士だということは分かるが、その男が水浸しになりながらも噴水の中にあるパルプを回しているのだから、不審に映っても仕方のないことだ。
一瞬声をかけるか躊躇ったのは、ここに不法侵入者がいることをわざわざ教えてしまうからである。けれど、一生懸命になって回そうとする姿があまりにも不憫で、まるでシリュウに声をかけるかのような声色で様子を窺う。
すると、懇願にも似た色を瞳に宿し、男はバッと勢いよく振り返った。思わず一歩引いてしまったシェンリィに気付くことなく、露骨に目を輝かせると、膝下まで浸かっている噴水の中を歩きだし、困惑の色を浮かべているシェンリィの腕を掴んだのだ。
「よ、良かった!手伝ってください、あのパルプ硬くてなかなか動かないんですよ!」
「は?ちょ、なにあんた、こら待ちなさいよ」
「早く早くっ!」
「待てと言ってるだろうが!!」
引き摺ろうとする男の脳天に拳骨を一発ぶち込ませば、蛙の鳴き声のような悲鳴が庭中に響く。ようやく騒動に気がついたシリュウとヒューガが何事だと駆け寄って来れば、殴られても尚手を離すことのなかった男と、うんざりとした様子で肩を竦めているシェンリィが映り込む。
「なんだなんだ?」
「どうしたんですか師匠」
重苦しい溜息を吐いたシェンリィは、はらはらと落ち着きのない少年と訝しげに眉をひそめる男に経緯を話し始める。拳骨の余韻があるのか、シェンリィの話を聞きながらも、未だ身悶える兵士にシリュウは同情の眼差しを向けた。彼女の拳骨は目の前に一瞬スパークが走り、殴られた部分からじわじわと痛みが増すことを見に持って体験したことがあるからだ。
「…師匠から拳骨を食らうなんて、気の毒に」
「おや無駄口を叩くのはこの口かい?」
うっかり心の台詞が漏れてしまいハッと口元を押さえるが既に遅かった。にこり、とやけに輝かしい笑顔を覗かせたシェンリィが、片方の手で容赦なしにシリュウの頬を横に伸ばす。心なしか口元が引き攣っている彼女に青褪めたヒューガは、痛いと非難の声を上げるシリュウを助けるわけでもなく、そっと視線を泳がせた。下手に庇いでもすれば、矛先がこちらに向くからである。
許せシリュウ、俺は我が身が可愛い。そう腹の中で呟き、早くこの場が納まらないかと腕を組み沈黙に徹した。
「あいたたた、……酷いなあんた。去年亡くなった祖父さんが一瞬見えたじゃないか」
「ほーう。そのまま突っ込んでお祖父さんの隣に行っても私は構いやしないけどね」
どうにか現実世界へ戻ってこられた兵士は、痛む頭部を擦りながらシェンリィを見上げる。握られ続けていた手を軽く振り払ったシェンリィは、棘のある言葉とは裏腹に落ち着いた様子で座り込んでいる男の手を取り立ち上がらせた。突然の出来事で驚きに満ちた男の顔が、それから忙しなく蒼白に変化した。
「あの、パルプがどうかしたんですか?」
一人慌てている男に話しかけたシリュウが一歩近寄る。すると、身構える隙さえ与えぬ速さに手を取られた。
「あああ!!こうしちゃいられない。君、ほら早く手伝ってくれ!」
「は、はい!!」
あまりの形相に思わず肯定してしまったシリュウは、先ほど男が一人で格闘していた噴水に連行される。引き摺られているため一緒にその中に入る。途端、ひやりとした水の冷たさに思わず背筋が凍る。先陣を突っ切る男より幾分身長が低い分、腰近くまでずぶ濡れになってしまうが、彼のあまりの必死さにそんなことはすっかりと頭から抜けてしまっていた。
天へ突き抜けるように吹き上げる噴水の飛沫を全身で浴びているせいで、あっという間にズボンだけではなく上半身も水気を吸った。ずっしりと重みが加わった分動きづらさを感じさせるが、そんな暇さえも与えぬ男の必死さに、シリュウは困惑の表情のままパルプの前まで辿り着いた。
「ぬぐぅっ!これ、を回せ、ば!」
「…回らないですね」
「君もほら手伝う!この中に火災用のポンプが入ってるんだよ!!」
「っ!分かりました俺が代わります!」
一人で相当な時間頑張っていたのか、男の顔には疲労が浮かんでいた。肩で息を繰り返す男と交代したシリュウが、錆色のパルプに手をかけグッと力を入れる。しかし、ピクリトも動かない。
「うぐぐっ、……あれ、おかしいな。錆びてるのかな?」
「まさか!……ん?いや待てよ。そういえばここの水はどんな炎でも沈静化させる魔力が宿ったものだから術師がいないとパルプが回らないって、どこかで聞いたような」
「おいおい、ならお前らがどんなに頑張っても回るはずないだろうが」
呆れた物言いでザブザブと噴水の中に入ってきたヒューガは、全身が濡れることなど気にも留めずシリュウが握っているパルプに触れた。ふいに感じる不可思議な力に、知らぬ内に眉間に皺が寄る。
「……なるほど、確かに妙な気配を感じるな」
「分かるのか?」
「気配だけならな。生憎俺は術を使える体質じゃないもんで使役は不可能だが」
「なら俺はすぐに術師を連れてきます!」
目の色を変えて飛び出した男を見送った三人は、ザアと延々と続く噴水の音を背景に目を合わせる。
「あいつ、本当に術者連れてこれんのか?」
「うっかりしている部分があるから心配だね」
「赤の他人なんて期待するもんじゃないよ」
噴水の端で事の経過を眺めていたシェンリィが、胡乱気にパルプを見つめる。それから幾ばくか時間を置いた後、ヒューガと同じようにこちらに乗り込んできた姿にシリュウはギョッと目を剥いた。
「師匠、濡れますよ!」
「あの兵士に捕まった時点で濡れてたよ。さて、私に扱えるものなら良いんだけどねぇ」
興味深そうにあちこちを観察し始めたシェンリィだったが、ふと纏わりつく水の冷たさと、ジワリと滲む魔術の濃さに弓月のように目を細めた。その矛先は、動かないと分かっていながらも動かそうとするシリュウの持つパルプだ。
流派が違うのか、それとも何重にも術を施錠しているのか。ここを去った兵士の言った通り、この水が特殊であることは事実だった。しかしパルプを固定している術が抜け目のないほど頑丈に固定されていては、隙を突いてこじ開けようとしても無理な話だ。一時間、二時間とじっくり時間をかけることが出来るのならば解除のしようもあるが、今は一刻を争う。ここはあの兵士の言葉を信じて無事に術師を連れてくるよう祈るしかない。
どうするか、と頭を抱えたくなった時であった。物々しさを察したヒューガが、懸命に動かそうとするシリュウの肩に手を置く。
「無駄だ諦めろ。それに、俺たちが出なくてもここの術師が魔術でも何でも使ってすぐに火を消すだろうよ。俺たちの出る幕じゃねえって」
「でもっ!結構時間が経っているのにちっとも騒ぎは治まらないじゃないか」
「だとしてもだ。あいつらが被害に遭ってる確証なんてねえだろ」
「被害に遭っていない確証だってないっ!!」
パン、と肩に乗った手を叩き落とせば、怯んだようなヒューガの青い目と交差する。少年の瞳に宿るものは、業火に煽られる怒りにも似た深い悲しみだった。咄嗟のことで呆気に取られたヒューガは、無駄だと分かっていながらパルプを動かそうとするシリュウに再度噛み付く。拒絶にも似た少年の反応が気に食わなかった。
「馬鹿言ってんじゃねえよ!大体なぁ、魔術が宿った水に長時間浸かっていればすぐに体壊すだろうがっ!どんな炎でも沈静化させるってことはな、その分人体に影響を及ぼす可能性だってあるんだぞ!」
捲し立てるように非難する声を真っ直ぐに受けたシリュウが、雷でも打たれたかのように一度身を竦める。しかしグッと下唇を噛みしめると、毅然とした態度でヒューガを見据えた。
胸元がジリと焦がれる。それは、ヒューガの怒鳴り声に驚き心臓が一度跳ねたせいだろうか。自らの瞳と同じ色を持つペンダントごと自分の胸を抑えつける。一層、熱が籠った気がしたがそんな小さなことを気にしている暇はない。
救わなければならない、今度こそ。
「体力が奪われるなら後で休めばいい。だけど死んだらいくら休んだって絶対に戻ってこないじゃないかっ!」
段々冷えて指先までかじかんでいるのは、水を浴び続けているからではない。ヒューガの言う通り、体力を根こそぎ奪われているのだ。
ピシリ、と胸が痛む。叫んだ瞬間に走った、針で刺されたような小さな痛み。それを訳の分からぬ熱のせいにして、シリュウは叫び続ける。失う恐ろしさを、もう二度と味わいたくないと代弁するかのように。
「誓ったんだ。今度こそ大切なものを失わない。そのための犠牲は厭わないって」
焼けるように熱い。これも、水の魔力が影響しているのだろうか。そう思った矢先、くらりと世界が闇色に染まる。それから、言いようのない浮遊感。だがそれも一瞬のこと。ザブン、と重いものが水の中に沈殿する音を聞きながら、同時に強烈な寒気に襲われる。それでもこの手に握りしめていたものは離さなかった。それだけが、救いだった。
ヒュッ、と息を呑む音が水音に混じって聞こえる。ほんの数秒掻き消えた意識から這い上がれば、瞠目したまま動かない青色が映った。
「シリュウ!あんた大丈夫かい?」
労わるように体を支えられ起き上がる。ああそうか、倒れかけたのだ自分は。
まるで他人事のように状況を汲み取ったシリュウは、心配そうにするシェンリィに一つ礼をすると、言葉を失っている男を一瞥することなく、冷たいパルプを睨みつけた。
早く、早く。エリーナのもとへ急がなければならないのに。
意味のないことだと分かっていながら、渾身の力を込め、シリュウはパルプを左に回した。
「…あ、あれ?回った?……ま、回りました師匠っ!!」
勢いよく回した瞬間、左に大きく体が傾く。うっかりパルプから手を離しそうになったシリュウは慌てて掴み直し、ギィギィと狭苦しそうに音を立て回り続けるパルプに歓喜の声を上げる。
「え……」
「凄いや師匠!いつの間に魔術を使ったんですか?」
「いや、私は…」
驚きで声を失ったシェンリィは、目の前の少年と噴水を交互に見やる。何の手出しもしていないはずだった。それなのに何故、術は解けたのか。辿り着かない答えに苛立ちを覚えたシェンリィは、手を休めることなく動くシリュウに目を向ける。その眼差しは、疑心にも似た戸惑いが籠っていた。
シェンリィのうろたえる様子に気付く暇もなく、シリュウはぐるぐると頑丈に閉められていたパルプを回す。それを幾重か繰り返したのち、ようやくガコンと重い音が腹に響き、重厚な扉を開ける。中には先ほど兵士が言っていた通りの道具が整理整頓され陳列していた。そのひとつであるポンプを手にすると、水を吸い上げる機械を器用に操作し、赤い窪みに手をかざし起動させる。
触れた瞬間、グッと胸が詰まった。同時にずっと熱を持っていた痛みが更に増す。思わず噎せ返りそうになるのを堪え、十分に吸い込んでいるポンプを肩に担ぐと、驚愕で立ち竦む男女の間を掻い潜り、火元へと駆け出した。すぐさま後ろから追いかける気配を捉え、シリュウは混雑する回廊を抜ける。
開けた先に見えたものは、僧侶のような長い衣服を身にまとった集団が懸命に魔術を繰り出し、蠢き立つように燃え広がる炎を抑えようとしているところだった。しかし、被害が拡大しないだけで一向に勢いが衰えない様子に疑問を抱く。辺りを見渡せば噴水で出会った兵士が必死に術者に何かを伝えようとしているようだが、緊急時に取り合ってもらえないのか門前払いされていた。
ならば、この時間炎は治まることなく、延々と内部を焦がし続けているのだろうか。
「エリーナ……っ!」
不意に過ぎる太陽に劣らぬ笑顔。重なった先に見えた者は朱色を宿すものであったけれど、今は亜麻色のふわりと揺れる少女が覆い被さり、以前のように朱色の少女が微笑みかけることはなく影を落とした。
――シリュウはきっと白馬の王子様なのよ!
出会い頭にきらきらとした眼差しで見つめられた、純粋な好意を思い出し泣きそうになる衝動を堪える。
忌み嫌われる色を前にしても動揺するどころか、物珍しそうに近づく無邪気さに覚えたのは、言いようのないむず痒さと受け入れたくないという拒否感だった。冷たくする勇気がなくて中途半端な距離を開いたままでも臆することなく、彼女はどんな時も隣を歩こうとした。その必死さに、それまでの警戒が馬鹿バカしかったと思うようになったのはいつからだっただろうか。
「どいてくれ」
幾分低い声が騒々しい空間にぴしゃりと入り込む。ただ事ではない雰囲気に、周囲で消火活動を行っていた者たちが一斉に手を止め、シリュウを凝視した。だが手に持っているポンプに気付くと、幾人かが道を開け、狭い通路を作る。静かにその間を縫って歩いたシリュウは、肩に担いでいたポンプを下し、発射するための装置に手を置いた。
ゴウ、と発射口辺りに赤い魔方陣が浮かぶ。その瞬間、消えかけていた熱が再びシリュウを襲い、反射的に胸元を押さえつけるが、ポンプを持ち直し発射準備に備えた。
馬なんて乗れないし、ましてや王子だなんて柄でもない。取り巻く環境も複雑で、逃げようとしたって逃れることの出来ない畏怖の色を宿す体は、死ぬまで纏わりつく。死して尚も続くかもしれない恐怖の連鎖に雁字搦めになっている俺と、それでも一緒にいたいだなんて。
(可笑しな子、変わった子……ああ違う、どうして素直になれない。本当は嬉しかったのに)
一拍置き、揺れるポンプに身を構える。勢いよく放たれた水が正面を溶かした瞬間、弾かれたように駆け出す。最初の一撃だけで円を描くように沈静化する炎を見ることなく、ただ一心で渦巻いている炎の海に飛び込んだ。
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