● 唐紅の記憶  ●




 業火に焙られる城内に一人佇んだフードに身を包んだ影は、非常口から外へ脱出を試みている三つの気配が徐々に薄れているのを、目蓋を閉じて感じ取っていた。前後に迫り来る炎に怯えるどころか、一つ軽く空を切り不自然に火の手を退かす。両端に燃え盛る炎の壁の間を静かに進み、影は閉ざされた扉の前でぴたりと足をとめた。
 ごうごうと背後で火の波が唸る。顔全体を覆いそうなほど深く被るフードの下、骨まで焼き尽くしてしまいそうなほどの煉獄の中、その唇が空気を震わせた。

「――殺してやる」

 憎悪の塊とも聞こえる低い声色に、影を取り巻く炎が応えるように渦巻いた。まるで生き物のように蠢く火の柱は、影が動くたびに勢いを増し、殺気立つにつれ灼熱の色が赤々と染まる。
 既に目の前の倉庫以外燃え尽きていた。全ては灰と化し、意図的に残された扉の奥が、最後の仕上げとなる。恍惚とした笑みを浮かべ、扉に手を当てる。少々歪んでいる扉は、周囲の熱に耐えきれなくなっているのかいつ崩れてもおかしくない状況だ。恐らく倉庫内にも火の手が回っているに違いない。白い手のひらが触れる瞬間、蛇のように全体を覆っていた火の蔓が瞬時に消え失せた。浅く焦げた扉はまだ生きている。しかし室内は既に酸欠状態となり、蒸し風呂以上の温度が人体を蝕んでいるのだろう。
 そうだ、中にいるあれは、今まさに苦しんでいるのだ。何と甘美だろう。何て素晴らしいのだろう。うっとりとした様子で緩く口元を歪ませた影は、指先で煤の付いた扉をなぞる。
 その手のひらが、爪を立てついに文字を書き始める。凡人な人間ならば読み取ることすらできない古代文字が、がりがりと嫌な音を立て刻まれてゆく。じわりじわりと、まるで中にいる者をいたぶるように。

「さようなら、エリーナ・ファイナンス」

 がり、と最後の一文字を書き終えた瞬間だった。早口に詠唱を唱えると、血のようにどす黒い赤の布陣が、足元と扉に浮かび上がる。仕上げは、「応」と呟くだけだった。

「―――っ!?」

 完成間近のところで影は弾かれたように大きく振り返る。謁見の間から続いた細道は炎で閉ざされ、侵入者が襲ってくると仮定していた王の側近たちはこちらへ来る素振りを見せない。何故ならば、燃え広がっている場所は城内全域ではなく、どんよりとした空気を放つこの脱出口と謁見の間へ続く城内の回廊だけなのだから。
 だからここが襲われているなど、彼らは夢にも思っていないはずだ。襲撃される場所は謁見の間だと思い込んでいるはずなのだ。どれだけ時間が経とうと誰も襲いもしないあの場所で、ただ突っ立っているだけ。そのはずだった。
 不意に香る魔力の気配に、影はぎり、と唇を噛んだ。何者かがこの事態に気付いたのだ。

「…………」

 しばし逡巡した影は、待機したままの布陣を一掃させる。その間にも複数の気配がこちらへ忍び寄る。それでも慌てふためく様子を見せず、静かにこちらへ来る人影を待つ。それから、揺らめきの中で見えた唇が、少し戦慄いた。

「――――……ナっ!――――エリーナ!!」

 ひゅっと息を呑む音とともに、離れた先にある扉が壊れんばかりにこじ開けられる。轟音に掻き消され霞んでいた年若い少年の声が、確かにここまで届いた。僅かに射す光は、けれど緋色に染まる炎の中では何の意味も持たない。向こうから見えるこちら側は、火の海だけであろう。

「…………シリュウ…………シリュウ・アンデリオ?」

 絶望のような、歓喜のような震えた声が炎のざわめきの中で掻き消える。一瞬呆然と立ち尽くした影は、徐々に強くなる魔力にハッと顔を上げ、燃え盛る炎をそのまま捨て置き、フードを深く被り直し急ぎ足でその場を後にした。



第44話 『声を聞かせて』



 熱い。苦しい。辛うじて残っている酸素が肺に到達しても、その熱さで噎せ返りそうになる。視界は既に霞み始め、両足で立つこともできなかった。背中を擦る手が幾らか強張っていたような気がするが、最早眼を開けることもできず、無意識に涙を流しながら咳き込む。渇ききった喉が悲鳴を上げ、唾さえ口内には残っていないおかげでまるで裂傷でも負っているかのような痛みが伴う。膝を付いたままのろのろと目蓋を持ち上げれば、視界の端に見える従者の気配にホッと安堵するも、倉庫内に充満している煙に再び視界を閉ざす羽目になる。
 陛下は無事だろうか。二つの気配を弱々しく定めると、どうやら崩れ落ちたのは自分だけであったらしい。鍛え方がそもそも違うのか、既に機能を停止しようとしている聴覚が、何やら険しい声色の会話が拾い上げる。けれど、その内容どころか、単語一つさえ満足に届いてこない。
 もう、終わりなのだろうか。薄れゆく意識の中に身を委ねれば、幾らか気分がマシになったような気がした。そのまま耳を閉ざし、呼吸を止め、倒れこめば。楽になる方へと意識が流れる中、不意に過ぎった黒い影。脳裏に浮かんだ影は、いつもどこか寂しそうに、赤い瞳を隠すように伏せて微笑む少年の姿だった。

(……助けて)

 ぼろり、と目蓋を閉ざしても隙間から流れる涙がやけに熱く感じた。煙にやられたわけではない。嗚咽さえ込み上げなかった。けれど、胸の奥が寂しいと悲鳴を上げていた。
 彼は、この事態に気付いているのだろうか。何か良からぬ者に襲われてはしないだろうか。陛下の側近さえこちらにやってこない。行く手を阻まれているのか、刺客が現れたのか。拙い想像力で描けども、この状況が変わることはなかった。そうだ、何かがあるから誰も迎えに来ないのだ。

(ここで死ぬの?嫌だよ、まだ死にたくない。やり残したことだってたくさんある)

 綺麗な服を着て、お洒落をして、大好きな甘いお菓子を食べて、ふかふかのベッドで眠りについて……。それから屋敷で心配している父親に、ただいまと言わなくては。あの屋敷で箱庭のような生活に戻るのは億劫だが、これまで散々連れ回して来た従者にも休暇を与えなくては。馴染みのあるメイドに旅の土産話を朝から晩まで聞かせて。当然のように眠りについて、当然のように朝起きるのだ。自分を慕う人たちの声によって。

(……違う。違わなくないけど、違う。あの人がいてくれればいいの。名前を呼んでくれればいいの。本当は一番に思ってほしいけど今はいいの。名前を呼んでほしいの)

 今日も何度も呼ばれた。それが当然だった。けれど何故だろう、おぼろげになる意識に引きずり込まれるせいか、大好きなあの人の声が聞こえない。姿かたちははっきり目蓋の内側に映るのに、どうしてなのか声だけが鮮明に思い出せない。離れてたった数時間だというのに、唯一の存在だと思っていたはずのそれを否定されたような気がして、言いようのない恐怖が襲いかかる。そんなはずはないと言い聞かせても、黒髪の少年は記憶の中で名前を呼んではくれなかった。

(やだよ、もう一度聞かせてよ)

 本物の彼はいつだって自分を気にかけてくれていた。戦闘が続いて疲弊していても、必ず声をかけてくれた。獣道を歩く時は必ず前に出て、草木を潰しながら歩いて道を作ってくれていた。足場が悪いところでは手を引いて、足を滑らせた時は受け止めてくれた。休憩の際に一番に水を与えてくれて、皆に分配し終えた後でようやく彼は身を休ませていた。どんなに我が儘を言って困らせても、彼は最後には苦笑して、しかたないなぁと頷いてくれた。

――ほら、エリーナ

 そう言って、当たり前のように手を差し伸べていた。それを掴むのも当然。これからもずっとずっと、変わらないものだと信じていた。

 ぐらり、と体が傾く。刹那誰かに抱きとめられ軽く頬を叩かれた。必死な様子で何かを呼び掛けているが、まるで鼓膜に幾重にも膜が張られたような感覚でぼんやりとしか聞こえない。喉はからからで、水分という水分が抜け切ってしまっているため、汗などとうに出しきっていた。ただ、それでも熱の暑さと締め付けられるような頭の痛みだけは残っていた。聴覚や視覚だけでなく、触覚や痛感も消えてしまえば良いのにと、掻き消える意識の中で他人事のように呟きながら。

(会いたい、会いたいよシリュウ)

 ついには涙さえ出すこともできなくなった体は、静かに最後の一滴を押し出す。それがやけに熱いような気さえした。

「――――さま、お嬢様!?」

 腕の中でぐったりとする体を支え、カインは発熱しているように熱い額に手を当てる。汗を掻いていたはずのそれはすっかりと消え失せ、代わりに汗を吸った前髪が少し硬くなっていた。意識が朦朧としていても、先ほどまで何らかの応答を繰り返していた少女が、声を張り上げてもぴくりとも動かないのだ。
 まさか、と最悪の事態を想像したカインは、さっと血の気の失せた顔で少女の首筋に手を当てる。そこには微弱ながらも生き物の音が確かに脈打っていた。死んでいない、と安堵したカインは、隣で苦しそうにしながらも気丈さを忘れない男、バリモントを見やる。鍛えているとはいえ、互いに呼吸は荒かった。体力を温存しているのか、それとも気力が失せたのか、今は喋る気配さえ見せない。平静を保っていられるのも残りほんの数分だ。見た目は平然としているが、カインも限界が見え始めていた。

「お嬢様、お嬢様、どうか眼を開けてください、お嬢様」

 少女の手に指を絡め、懇願するように握りしめる。望んでいた反応は、少しでもいいから握り返してくれることだった。けれど、それを嘲笑うかのように少女は身動き一つしない。腕の中にある小さな存在に、ずしりと重みが加わった感覚さえ覚える。同時に襲うのは、発狂しそうになる絶望感。冷たい手で心臓を鷲掴みされたような恐怖に、一度身が震えた。恐る恐る、再度呼吸を確認する。良かった、まだ生きている。

「……お嬢様、エリーナ様……」

 強靭な肉体を持ってしても、全身から水分が抜けていくことに変わりはない。普段よりずっと掠れた声で主を呼ぶたびに、喉に痛みが走る。けれど、この倍以上の痛みを一般人と変わりない体力の少女は受けていたのだ。
 迫り来る炎を見据え、カインは眉を潜めた。どこで何が間違ったのだろうと。どうすればこの危機を回避できたのだろうと、過ぎたことを無駄だと思いつつも悔やまずにはいられなかった。今この時も、どうすれば脱出できるか模索し続けていた。だが、どこまで火の手が回っているかも分からない今、迂闊に火の海に飛び込めば無様に焼死するだけだろう。いやしかし、ここに留まるだけでも死への入り口は刻々と迫っていることに変わりはない。
 ごほ、と一つ咳き込んだ。肺に送り込んだ酸素に、煙が混じっていたらしい。すると発作のように連続的に咳が続いた。思わず口元に手を当て何とか押し留めようとする。ぴり、と刺すような痛みとともに吐き出された液体と独特の臭いに、カインは唇を噛んだ。乱暴に口を拭い、腕の中の少女を掻き抱く。少しでも、煙を吸わないようにと身を低くさせて。

(生きてください。命に代えても必ず、必ず守ってみせます。だからどうか)

――――……ナ
――――エ……ナ

 不意に聞こえた音に、何の反応も示さなかった少女の手が、僅かに震えた。

「――――エリーナっ!!」

 ドン、という衝撃音が一度倉庫内を揺らす。砕け散った扉が四方へと飛び、押し潰されん勢いで入り込んできた膨大な水が、内部に溜まっていた熱を抑え、煙さえもじわじわと浄化させていく。水の流れと同時に侵入してきた小柄な影が、崩れ落ちている三つの影を捉え走り出す。手に持っていたポンプを投げ出し、従者に抱きすくめられていた少女を目の前にした途端、糸が切れたかのように膝をついた。

「え、りーな?…………エリーナっ、エリーナ!!」

 従者から少女を奪い取るように抱きしめる。相当疲弊しているためか、従者は言葉すら放たず目の前の光景をぼんやりと見つめていた。

「エリーナ、しっかりっ……、なあエリーナ、眼を開けてよお願いだから」

 水に呑まれずぶ濡れになっている少女の前髪を掻き上げる。それからするりと指を滑らせ、柔らかな頬に何度か触れてみるが目指す気配を見せない。それでも根気よく、シリュウは少女の名を呼び続けた。壊れた人形のように何度も何度も。その姿さえ滑稽で哀れに映ってしまうほど、酷く狼狽した様子で少女を呼び続けた。けれど反応はない。寧ろどんどん顔色が悪くなるだけだった。
 悲愴に満ちた表情がくしゃりと歪み、声が震えだす。ついには言葉を出すことさえ辛くなったのか、何度も口を開閉しては失敗を繰り返す。

「いや、だ」

 赤い瞳が強く揺れる。額から零れ落ちる水の滴が頬を伝うが、そのほんの一瞬前に、瞳に溜まっていたものが抱き寄せているエリーナの顔に落ちた。俯いている少年の顔は、誰にも見えなかった。


 声が聞こえた。欲しくて欲しくて仕方なかった優しい声。当然のようにかけられていたものはあんなに遠くに行ってしまったというのに、こんなにも都合良く聞けるなんて何て幸せなんだろう。じんわりと伝わる温もりさえも、まるで本物のように温かい。先ほどまで暑い暑いと言っていたのに、何もかもから守ってくれるような温度にかつてない安堵感を覚える。もう少しこの余韻に浸っていたい。この幸せを噛みしめていたい。
 ああでも、あんなに渇望して止まなかった声が震えだした。どうしたのだろう、何がそんなに怖いのだろう。あの人はいつだって安心させるような言葉をくれたのに、何を見て恐れているのだろう。何が彼をそこまで追いつめているのだろう。
 守らなくては。いつも守ってくれていた彼を、私が守らなくては。剣を握る力もなければ、満足に魔術さえ扱うことだってできない。人を殺すどころか、魔物を倒すことさえ躊躇って目を背けてしまう臆病者だけれど、一人虚勢を張って前を進む貴方を抱きしめたい。その手を包み込んで、馬鹿みたいに笑ってあげたい。そうすればあの人は、どこかホッとした様子で肩の力を抜くことを知っているのだから。


「……また俺を……置いて、いかないで」


 置いてなんていかないよ。ずっと貴方の傍にいるよ。貴方の隣だけで笑っているよ。ねえ、だから。

「なか、ないで」

 痛いほど握られていた手を、弱々しく握り返す。自分で発した声が酷く掠れていて、おまけにいつもよりずっと低くて少し恥ずかしかった。それでも、緩く開いた目蓋の先に見える鮮やかな赤色と濡れて艶を増した黒髪を見つけ、あちこちがくたびれているはずなのに笑顔が込み上げてきた。
 聞こえたよ、聞こえたよ、貴方の声。やっと届いたよ。

「えりー、な……?」
「え、へへ……やっぱりシリュウは、私の、白馬の王子様、だね」

 身動き一つ取ることさえも億劫なのか、少女はシリュウの手を握るだけで変わらずぐったりとしたままだった。聞こえた声は随分とやつれていたが、それでもシン、と静まり返っていた室内にようやく音が混じった。緊迫した空気が和らぎ、この光景を見守っていた者たちが息を付く。

「……違う、違うよ。俺は結局君をこんな危ない目に遭わせてしまったんだ」

 悲しみを堪えグッと寄せた眉が痛々しく映る。自分にはそんな風に言われる人間でないと震える声で答えたシリュウは静かに瞳を隠した。

「私……ずーっと、シリュウを待ってたの。そしたらね、来てくれたんだよ。凄く嬉しいの」

 緩んだ頬で笑う少女があまりにも無邪気にそう答えたものだから、一度瞠目したシリュウは再び眼の奥が熱くなるのを静かに感じていた。声を出せば、みっともなく掠れて震えるだろう。油断すれば滲む視界をグッと堪え、強張った筋肉を総動員させ、不格好な笑みを浮かべて見せた。
 それを見たエリーナがホッと息を付く。安心したように目許を下げると、少女は何も語ることなく静かに目蓋を下し暗闇に呑まれた。



 何者かによって被害を受けたアルエリータ王城は、シリュウたちの活躍により機能を取り戻し、現在は厳重な警備体制の中、侵入者の痕跡を調査していた。また、倉庫に閉じ込められた三人は医療班に連れて行かれたが、重症であったのは体力が劣っている少女一人だけで、あとは軽症という診断が下された。それでも一国の王の身を案じ床に就かせようとしたが、彼は頑なに首を縦に振ることなく、自らが指揮を取り指示を飛ばしていた。
 同日深夜。鳶色とくすんだ金を主体とした大部屋で、手探りで拾い集めた資料を前にし、バリモントは深く息を吐いた。その両端に控える側近たちは、疲労の色が濃く見える王を前にし、不安げにその背を支えた。

「結局、集まったものといえばこれくらいか」

 今回の救援活動とエリーナの知人ということで不法侵入のことはお咎めなしとなったヒューガとシェンリィは、机に広げられている欠片を前にして厳しい表情を浮かべる。

「これは……閉じ込められていた扉の欠片だね。突入する時に水の圧力で壊れてしまったから組み立てるとなると相当根気がいるよ」

 煤で汚れている一部を拾い上げ、四方から観察していたシェンリィが、訝しげに顔を歪めながら不自然に彫られている個所を繋ぎ合わせる。全ての作業をこなすにはかなりの労力が必要だが、一つ二つ分をパズルのように合わせることはそう難しくはなかった。

「これは、布陣か?」
「……炎を召喚する陣系さ。断定はできないけど、これは相当上級者向けだね。城にいる魔術師だって一握りしか扱えないような代物だよ」
「それは誠か」

 首を傾げて傍観に徹していたヒューガの言葉にシェンリィが付け加える。それに大きく反応したバリモントは、信じられないとその眼が語っていた。

「ええ。魔術といっても流派によって大きく異なってくるのですが……申し訳ありませんが、私の記憶の中にこのような独特の布陣は見たことがありません」
「うむ……ならばこの城きっての魔術師や学者に解析を頼むほかないな」

 目配せをすると、控えていた側近は一つ頷きその場を急ぎ足で部屋から出て行った。緊張した空気の中、唯一支配権を握る男、バリモントはやはり疲労からくる溜息を吐かずにはいられなかった。

「お身体に障ります。今日のところはお休みになられては」
「いや、大事ない。エリーナの友人に気を遣わせてしまって申し訳ないな。……ところで、あの黒髪の少年はどうした」

 普段あまり使い慣れていないはずの敬語をすらすらと述べる様子に、ヒューガは妙なものを見る目でシェンリィを見つめていた。口調を変えるだけでここまで印象が変わるのかと思わずにはいられない。

「シリュウ、ですか。あの子はエリーナの看病につきっきりですよ。カインも控えていると思いますが」
「ああ、シリュウといったか。……そうか、良い友人を持ったのだなエリーナは」

 鎮火の時を思い浮かべているのか、バリモントの口端がフッと解れる。まるで我が子を慈しむような優しい眼差しは、紛れもなくエリーナに向けられたものだろう。ここにいない少女はそんな風に思われているなど露も知らぬわけだが、どんなに口でからかわれても、彼にとってエリーナは可愛い娘のように映るのだ。
 そんな人らしい反応を見せるバリモントに安堵したシェンリィだったが、唇を真一文字に結び、先ほどの台詞の違和感に目を細める。自分よりも長く、それも壮大な経歴を持つ男の腹の内は、幾らシェンリィとはいえ暴くことは容易くない。

「お言葉ですが陛下、シリュウを見て貴方が何も思わないはずがありませんが」

 黒髪と赤い瞳。どこに行っても畏怖の念で罵られる色を持つ姿を、この王が知らないはずがない。ましてや一国の王ともなれば、排他的な思考を持っていたとしても何らおかしくはないのだ。現に、彼はエリーナをそれなりに溺愛していて、信頼という名の愛情を注いでいる。世間知らずな少女が、この世で恐れられる色を全て持つ者の傍にいるとなれば黙っていないはずだ。それに、今の段階で放火の犯人が見えない以上、全ての負をあの少年に押し付けたとしても一般論から見ても問題ない。誰もが少年を糾弾し、自滅に追い込むまで拷問を繰り返すだろう。だというのに、良い友人と一言で片付けた意向が読めなかった。

「腑に落ちんか。……ならば聞こう、あれは何者だ」

 穏やかな風貌が瞬時に強張り、眼を細めてシェンリィを射抜く。弱肉強食の頂点に立つような、獣のような鋭い眼光に思わず息を止める。偽りを述べようものなら斬り殺さん勢いに、ごくりと喉が鳴った。

「あいつはシリュウ・アンデリオ。超がつくほどお人好しで、わざとボケてんのか素でボケてんのか分かんねえどっか抜けた奴。地図は読めるし剣の腕は確かだし他人に気を配れるし、何より飯がウマい。けど餓鬼のくせに汚れ事に自分で突っ込んで俺たちを頼ろうとしない……つまりは手のかかる大馬鹿者だってことだ」

 バリモントの気迫に押し黙っていたシェンリィが口を開けようとした刹那。横から入った横暴かつぶっきら棒な物言いが、どこか苛立ったヒューガの様子を上手く具現化していた。褒めているのか貶しているのか分からない内容に、シェンリィはぽかんと口を開けヒューガを見やるが、その途中クツクツと押し殺すような笑い声にハッと我に返る。

「くっくっ……なるほど、それは困った子供だな」

 一通り笑い終えたバリモントは、未だ緩んだ頬で困惑しているシェンリィを見やった。

「いや、すまないな。少し試させてもらっただけだ。それに、彼の言い分だと世間で騒がれている噂も信用ならんものだと実感する。その血を飲めば不老不死の力を得ることができる、なんてお伽噺のような馬鹿げた話さえ出ているくらいなのだからな」

 そんな有りもしない噂が蔓延る世界に失笑しながらも、バリモントは必死の形相でエリーナを、言葉通り身を投げ出して助けに来た少年の姿を思い返す。視界に映る原色の黒と宝石よりも遥かに透き通っていた赤色を前にし、くだらない噂を信じていなくても一度息を呑まずにはいられなかった。初めて目にする色を前にして感じたものは、不思議なことに恐怖ではなく身の毛がよだつような畏れであった。もし仮に、あの少年がエリーナや自分を殺す主犯格で、その身に鮮血でも浴びていれば戦慄が走ったことに間違いない。けれど、呆然とする中繰り広げられる光景は、何とも人間らしい、玉座に居座る自分よりもずっと人間臭い場面ばかりであった。

「私は王という地位に昇るまで、己の目で見たものしか信用しなかった。つまり、そういうことだ」

 両掌を交差させ、机に肘をついてにやりと笑う。その子供じみたような企みを湛えた笑みに、シェンリィはわざとらしく肩を竦めると、挑発に乗るように一笑して見せた。その後、腹の底から笑うバリモントの声量により、緊張で張り巡らされていた糸があっと言う間に解けたのは言うまでもない。




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