● 唐紅の記憶  ●




 たぷり、とグラスの中で揺れる赤い液体が静かに波打つ。絵画一つさえ飾られていない広い間取りの中は、黒い革のソファと脚の低い長机が向かい合うように並べられているだけで、ひどく閑散としていた。その一つのソファに腰掛けている一人の男は、手にしているワインの入ったグラスをつまらなさそうに見つめていた。しかし、暗い面持ちで部屋に入ってきた少女に目をとめた瞬間、半分伏せていた瞼が開き、獣のようなぎらついた目で一笑する。くつくつと薄暗い部屋に籠る声に、長髪の少女はギュッと眉を顰める。その顔に彩られている感情は、不快の一言に尽きていた。

「任務は失敗だったんだってなぁ?」

 射殺さんばかりに爛々としている男の眼を一瞥すると、少女は苛立たしげに向かいのソファに音を立てて座った。小馬鹿にするような笑い声は少女の神経を逆撫でするが、常に殺気立ちながら笑みを浮かべる男の感性を疑わずにはいられなかった。器用なことをすると、腹の底である意味感心せざるを得ない。

「次は必ず仕留めます。二度も同じ過ちはしません」
「炎を操るお前なら黒焦げにすることなんて造作もないだろう?何に気を取られたんだかなぁ」

 全てを見透かしているような台詞に、少女の顔が一度強張る。けれど落ち着いた素振りで机に置いてあるグラスとワインに手を付けると、男が持つ色と同じ葡萄色の液体を、多少の気泡と共にグラスの中に注いだ。こちらの動揺に気付かれぬよう、咄嗟に取った行動なのだが、普段酒など口にしないことを知っている男は、ますます笑みを濃くするだけだった。少女の必死の繕いなど、かわいい抵抗としかみなしていないのだろう。

「私は私のやり方を通すだけです。貴方には関係ないわ」

 ぐい、と一気に喉に流し込めば、慣れない渋さと苦さが下の奥に広がった。微かに甘みを感じられたような気はしたが、お世辞にも美味いとは言えなかった。思わず顔をしかめるが、親指で濡れた上唇を拭き取ると、丁寧な動作で空になったグラスを机に戻す。折角年代物のワインを飲んだというのに、今更水で口直しをしたいと思うのは、やはりまだ酒に慣れていないためだろうか。

「お前のやり方、ね。そんな甘っちょろいこと考えてっと敵は逃げるぜ?」
「…………馬鹿にしないで。私が、逃がすと思っているんですか」
「いいやぁ?清楚な顔してねちっこいお前なら地獄まででも追いかけるだろうなぁ」
「ええ。こう見えて私、執着心は人一倍ですから」

 毅然とした態度が気に入ったのか、男はそれまで浮かべていた嫌らしい笑みを引っ込める。代わりに表面に現れたのは、悪戯でも思いついたような、無邪気な子供のような顔だった。まるで同士を得たような笑いは、長年共にいても背筋が凍らずにはいられない。こんな男と一緒にされるなど御免だ、と言いたげに渋面を浮かべた少女は、軽く前髪を掻き上げると酷く疲れた様子で溜息を吐いた。
 この話は終わりだ、という意味を込めて立ち上がる。今日はもう休もうと、ドアノブに手が触れた瞬間、後ろから楽しそうな、狂気じみた声が少女の足を止めた。

「手伝ってやろうか?お前の復讐ってやつをよぉ」

 底冷えするような低い声に、ゆるりと振り返る。ああ、この男は血に飢えているのだと確信するのに、そう時間はかからない。肩に落ちた長い髪を耳にかけ、少女は嗤う。調子に乗るな、という意味合いを込めた冷やかな視線など、男には全く通用しないだろうけれど。

「そういうのを有難迷惑って言うんですよ、バジリアス」

 ぱたん、と扉が静かに閉まる。何事もなかったように歩を進めば、扉が壊れるのではないかと思わせるほどの笑い声が少女の背中に降りかかった。その下品な音に一度足を止め、顔をしかめたて振り返った少女は、どことなく疲れたような色を滲みだしていた。




第46話 『消失に手を伸ばす』




 紺碧の空に交わる、幾筋もの雲が遥か彼方でゆっくりと風に揺られていた。薄い雲に遮られていた太陽が、その存在の大きさを誇らんばかりに覗かせれば、影になっていた世界は瞬く間に白んでいく。時折空を飛び交う海鳥たちが果てしなく遠い地上へと影を落としていくが、素早い動きの中では、存在を露わにする太陽を見据えることなど、到底出来やしない。ザン、と水がぶつかる心地良い音が耳に届く。飛沫を立て幾粒もの泡を残した波はすぐに引き、水面の底へと消えていった。
 頬を撫でる穏やかな潮風に一息し、甲板を見渡す。数名の乗組員たちが巡回をしている他は、身なりの整った旅客が談笑しており、平和な航海が続いていた。久方の平穏に頬が緩むが、それも隣で座り込む男の顔色の悪さで、一蹴される。

「う、ぐ…………やべぇ、吐く」
「酔い止めを飲んでこれって……。違う意味であんたを称賛したくなるよ」

 顔面蒼白で急に口元を押さえこんだ男、ヒューガの船酔いの酷さを見たのは、これが初めてではない。慣れた手つきであれよあれよと介抱すれば、ピーク時よりも幾らかは落ち着いた様子を見せていた。それでも気分の悪さは健在なのか、忙しなく胸元を擦っては押さえ込んでいる。

「ああそうだ、エリーナにハーブティー淹れてもらおうか」

 名案だ、と言わんばかりに両手を合わせたシリュウだったが、俯いていた男が勢いよく顔を上げたため、思わずその場で停止してしまう。何故なら、この世の終わりだと言いたげな訴えを全身で表していたからだ。エリーナを避けるこの徹底っぷりは今に始まったことではないが、自身がここまで追い込まれてもそれを拒絶するなど、相当の筋金入りであることに間違いはない。

「お、お前……あいつに淹れ方、教わってねーのかよ」
「え?いやあだってここ最近忙しかったじゃないか。無理だよ無理」
「っく……!俺はここで朽ちるってわけか」
「朽ちるって、大袈裟だなあ」

 わざとらしく泣き真似をする大の男に、苦笑どころか多少引いた目を投げかけるが、気分の悪さも相まってか、ヒューガが気付いた様子はない。ふざけた具合を見せるものの、やはりいつもより滑舌も悪かった。相当無理をしていることは手に取るように分かるが、本人が弱さを見せることを嫌っている節があるため、下手に甲斐甲斐しくするわけにもいかない。出来ることと言えば、話し相手になるか、今のように背中を撫でてあげることくらいだ。

(困ったなあ)

 これ見よがしに甘えて我儘になってくれれば、幾らでも付き合うというのに。そんなことを口にすれば、目の前の男の沽券が傷つくのは間違いないので、座り込んだまま辛そうに呼吸を繰り返す姿に目を落とす。ああ、顔色がまたしても悪くなっている。これは相当体力を消耗しているな、と確信したシリュウは、リズム良くゆったりと撫でていた手を止め、すっくと立ち上がった。急に出来た影に驚いたのか、のろのろと緩慢な動きでこちらを見上げる瞳は、今日の空よりも少し濃い青だ。シリュウが憧れる、綺麗な空色だ。

「今からエリーナに淹れ方を教わってくる。俺の淹れたやつなら飲めるんだろ?」

 突然の言葉が上手く頭の中で整理出来ていないのか、一瞬ぽかんとした顔を見せたヒューガが、グッと眉間に皺を寄せる。それは明らかに嫌悪が含まれていた。予想外の反応に目を瞬かせたシリュウは、ここまできてまさか嫌なのか、と勘繰らずにはいられなかった。けれど、薄く開かれた口から零れ出た男の声は、表情とは裏腹に落ち着いている。寧ろ、不安げな音を匂わせ、必死に留めようとしている風にも聞こえた。

「いい。そんなもん、いらねーって。お前が、そんなことに労力削ぐ必要、ないだろ」
「労力ってまたそんな大層な……」
「違わねぇよ。あいつから教わるんだぞ。これほどの労力が、この世にあるかよ」
「いやいやいや、エリーナを何だと思ってるんだよ」

 この世、と最上級の台詞に、流石のシリュウも悪乗りすることが出来ず、エリーナの名誉のためにもきっぱりとそれを否定した。これも冗談だろうか、と困ったような顔で相手を探るが、先ほど浮かべていた不安げな顔はいつの間にか消え去っていた。代わりにそこにあるのは、時折見せる、どこか遠くを見る目だけだ。

「ヒューガ?」

 今彼は、何を見ているのだろう。何を通して、誰を見ているのだろう。言いようのない不安に襲われたシリュウは、語尾を弱らせて男の名を呼ぶ。シリュウの声が耳に届いたのか、弾かれたように顔を上げたヒューガは、ぎこちなく笑うと再び口元を押さえて背を丸くした。

「う、おえっ……あーくそっ、一週間も船での生活だなんて、やってられっか」

 ぶり返した吐き気に罵倒を繰り返しながら、ヒューガは込み上げるものをぎりぎりで抑え込む。このまま吐いてしまえば楽なのだが、如何せん船の生活で食事をまともに摂っていないため、胃の中は空っぽだった。その様子に慌ててしゃがみこんだシリュウは、再度背を撫で続ける。目の前を通る客が奇異の目を向けていたが、そんなものを気にしている余裕は二人にはない。

 航海三日目。相変わらず天候は穏やかで、旅客だけではなく、船員もどこか機嫌良さそうに仕事をこなしていた。一般人が乗れるような代物ではない豪華客船のため、食事は最高に美味い上に、船内の設備も申し分ない。船酔いなど皆無である面子は、各々がゆったりとくつろいでいたが、ただ一人その輪の中に溶け込めない哀れな男が一人。付け加えると、その介抱をしているシリュウも豪華客船を堪能出来ずにいたが、どうせ一日もすれば飽きると踏んでいたため、さほど気にした様子はなかった。

「悪いな、俺に付き添わなくても構わないんだぜ?」

 乗船してからまともに食事を取っていないのと、体質である船酔いのためか、ヒューガの顔色は日に日に悪くなっていった。初めこそからかいを含ませていたシリュウの言動も、今は不安げに語尾を弱らせている。人の感情に敏いヒューガは、すぐにその変化に気付いた。これまでも何度かエリーナたちがシリュウを誘っていたが、毎回丁寧にそれを断っては飽くことなくヒューガに付き添っている。喧しい面子から解放されるこの一時は穏やかであるが、シリュウの足を引っ張っている事実は否めない。
 きょとり、と不思議そうに首を傾げたシリュウは、それから何事もなかったように手にしていたハーブティーをヒューガに手渡した。琥珀色より薄い茶が、カップの中に揺れていた。鼻腔をくすぐる匂いは、胃の中がごった返しになっているヒューガを落ち着かせる。自然とホッと息を吐き、肩を撫で下ろす。

「良いんだ、俺が好きでこうしてるんだから。それに、独学でそれの淹れ方も勉強したんだ。もちろん飲んでくれるよな」

 独学、という言葉にピクリと反応する。つい二日前にほんの少し口論となったハーブティーの件を、彼は覚えていたのだ。それだけではない。エリーナのために労力を割くな、というこちらの言い分を、独学という形でひっくり返したのだ。
 それは、誰のためなのか。分からないほど子供でもなければ天然でもない。だから、手元で揺れる、ほんの少し薄そうなハーブティーがひどく勿体ない気がした。

「あ!まだ練習足りないから美味しくはないけど、多分不味くはないはずだから!」

 じっとカップの中を凝視していたヒューガの姿に、気恥かしそうに頬を掻いたシリュウは、あらぬ方向に目を泳がせながら必死に弁解を続けた。料理の面は百戦錬磨でも、初めてハーブティーを淹れるのには些か時間を取られた。皆が寝静まってから、読んで字のごとく、本を見ながら独学で挑戦したのだが、やはりエリーナが淹れたものとは月とすっぽんの差がある。ようやく形になったが、舌の肥えたものでなくとも、美味いとは感じられないだろう。

「……美味くはねえな」

 静かに、一口。喉が一度鳴った瞬間、ヒューガの落ち着いた声が耳に届く。同時に、やはりか、という落胆が両肩にのしかかった。どんなに練習しても、たかだか数時間の人間と、幼少の頃から続けているエリーナとでは雲泥の差がある。分かっていたはずなのに、いざ事実を突きつけられると、予想以上にへこむものだ。

「けど」

 苦笑を浮かべてヒューガに渡したカップを返してもらおうとした、刹那。

「けど、何だろうなぁ…………あったけえや」

 両手でカップを包み込み、ハーブティーに視線を落とす男の表情は、緩く微笑んでいた。何のしがらみも警戒もない自然な笑みは、無意識なのだろうか。普段、年齢以上に大人びながらも孤独に苛まれている男が無邪気に微笑む姿は、まるでここにはいない誰かを見ているようだった。思いがけないヒューガの言葉に沈んでいた感情が浮上したものの、小さな違和感がしこりとしてシリュウの胸に残る。その瞬間、ふと頭の中に過ぎったのは、以前話してくれた、亡き母親の思い出だった。

(家族、か)

 機嫌良さそうなヒューガに目許を和ませながら、シリュウは己の中にある記憶を手繰り寄せる。生まれから幼少になるまでの間、不自然に記憶が欠けている部分もあるが、恐らくそれなりに波乱万丈の人生を歩んでいると言っても良いだろう。
 思えば、ヒューガやエリーナたちと出会ってから変わったのかもしれない。フィラインに引き取られ、フィラインの仲間たちから勿体ないほどの愛情を注いでもらったが、それでも物事を客観的に見てしまうことは今も健在だ。フィライン、という特別の組織以外、不自然に介入してくる者など心中で嫌悪していたはずなのに、今はそれが全くない。見知らぬ者同士と肩を並べて共に過ごすだなんて、昔の自分ならば想像もしなかっただろう。

(これは俺のエゴにしか過ぎない。それは分かってる。だけど……突き放せない)

 夢の中で何度も対面する朱色の少女が、名前を呼ぶのだ。まるで忘れて欲しくないと言わんばかりに。何度も何度も、嬉しそうに、時折悲しそうに。

(忘れないよ。君は俺に光をくれた人。俺を見てくれた人。たとえもう会えなくても、君だけは忘れない)

 そう、この記憶だけは生涯褪せることのない確かな記憶。優しすぎて、だから壊れてしまった記憶。シリュウという人間の中にこの記憶があり続ける限り、決して人を好きにはならない。好きになってはいけないのだと、あの日決意したのだ。
 ペンダントごと、胸元に手を当てる。ほんの少し手のひらが熱い気がしたのは、知らず緊張していたからかもしれない。

 ハーブティーを飲み干したヒューガが一息ついた頃。うっすらとだが、雲行きが怪しくなってきた空を見上げ、室内へと戻っていく旅客が増え始めた。疎らになった人影は、最早船員とシリュウたちのみである。先ほどまで繰り広げられていたのんびりとした航海が一変、徐々に忙しなく動き始める彼らを眺めていると、ふと以前体験した海の思い出が頭を過ぎった。

「そういえば、イルカだのセイレーンだの、前の船旅は災難だったなぁ」

 大荒れに荒れた海に投げ出された記憶はまだ新しい。九死に一生とは、まさにこのことである。あの時は運良く生き永らえたが、もう二度と海に放り出されたくないのがシリュウの心情だ。当時を思い出しているのか、何ともいえぬ表情でこちらを見やるヒューガの視線には、明らかな同情が含まれている。

「お前って変なものに巻き込まれやすいからな……」
「ま、あんたと旅している時点で既に変なものに巻き込まれてるけどさ」
「おい、どさくさに紛れて何言ってんだよ!」

 ひくりと顔を引き攣らせたヒューガが、太陽光を浴びて熱くなっているシリュウの頭をパシリと叩く。運悪く少し荒れた波が船体を襲い、よろけた拍子に船の側面にある手すりにぶつかる。その反動で、服の下に隠れていたペンダントが外気に晒された。一瞬見えた深い海の色に、ザアと顔色から血の気が失せる。何とか体勢を整えたため無事ではあったが、後ろでけらけらと笑う男を睨みつけずにはいられない。

「あ、危なっ!」
「おいおい、頼むからまた落っこちるのはよしてくれよー?」
「そう思うなら下手に刺激するなよっ」

 いくらなんでもこれっぽっちの衝撃で落ちることはないが、先ほどの波がもう一段階荒れていれば、そのまま海の底へ吸い込まれてもおかしくはなかっただろう。からかい交じりに苦笑するヒューガを見据えれば、おかしそうに、けれどどこか申し訳なさそうに眉を下げていた。

「悪い悪い。ほら、いつまでもそんなとこにいないでこっちに……―――シリュウっ!」
「え?」

 溜息を吐きたくなる衝動に駆られる瞬間。目前の男の表情が酷く強張る。それから船酔いの時の具合の悪さはどこへ行ったのか、弾かれたように飛び出し、こちらに手を伸ばした。何が何だか分からず、咄嗟にその手を取らなければ、と本能が動く。しかし、懸命に伸ばされた手のひらを掴むことは出来なかった。不意に首と腹部に巻き付いた、冷たい感触によって。目を見開いた空色の瞳が色を失う。絶望にも似た深い痛みに染まってしまったことが何故かもどかしくて、男の名を叫ぼうとした。笑えよ、と一言言いたかった。
 しかし、それが声になる前にシリュウの世界は暗転する。襲い来る浮遊感と、そして全身に叩きつけられた身も凍る水の感触に、一度意識を失いかける。それから容赦なく口に塩辛さと大量の水が入り込んでくる。器官がそれ以上の侵入は許さないと栓をして、飲み込むのを停止させた。しかし、同時に襲うのは息苦しさだ。

(一体何が……!)

 頭上には海面。それに辿り着こうともがくが、首と腹部に絡まった何かが行く手を阻む。徐々に引きずり込まれているのが、遠のく海面の明るさで分かる。絡みついた冷たさが、以前見た夢と重なってしまい背筋が凍るが、妙な柔らかさを持つそれは、決して人間の手ではない。意を決して目線を下せば、紫とも赤とも取れぬ色の太い何かが、シリュウの身体を拘束していた。一瞬思考が停止するが、絡まれているそれを注意深く見て見ると、奇妙な吸盤が並んでいるではないか。

「っ!……!」

 思わず声にならない声で叫んでしまった途端、もとより少なかった酸素が気泡となって海面へと上ってゆく。それにしまった、と後悔するも、排出してしまった貴重な命綱は戻ってこない。
 早く、早く戻らなければ。ドジを踏んでしまったと、彼を安心させなければ。


――ねえシリュウ、お願い。
――止めろ、返せ、止めてくれ、お願いだから。


 白濁としていく意識の中、異なる二つの声が脳内を無遠慮に駆け巡る。まるで鐘を打ち鳴らした時のような余韻が、シリュウの内へと刻み込まれた。夢に見た少女が、置いていくなと寂しげに言っていた言葉がまさに具現化されたようだった。深い深い、嘆きの声だ。二つの声に共通しているものは、絶望よりも奥底へ引きずり込まれた、深い闇だ。
 助けなければ。どちらも手離し難い、庇護欲を彷彿させる声だ。どちらの手も取らなければならない。そんな裏付けのない使命感に背中を押され、霞んでいく意識の中、水圧を押しのけ、白んだ天井へと腕を持ち上げる。
 腕を、手のひらを、指を。「届け」と声にした瞬間、最後の気泡が口から洩れた。そうはさせまいと、巻き付いたものが更に縛り上げる。その圧迫感に、無意識に口が開く。喉の奥へと落ちて行った大量の水が、残り少ない体力を根こそぎ奪う。

(泣くな、泣かないでくれ。俺なんかのために泣く必要なんて)

 薄暗くなる海面に伸ばした手が、何かを掴もうとする。頭の中で嘆き続ける声が、今にも泣いてしまいそうだった。ここにいないと分かっていながらも、誰かの手を求めずにはいられなかった。しかし、もう、限界だ。
 確実に海底へ降下するのを感じ取りながら、シリュウが最後に見たものは、浮かび上がった赤色の宝石が不気味に輝いている光景だった。





 
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