● 唐紅の記憶  ●



ふわり、ふわり。
ぬるま湯に浸かった様な、柔らかな感覚に瞼を持ち上げる。何ものからも守ろうとする、
堅固の真綿に包まれたような、優しい庇護だ。

(ここは、どこだ?)

 うっすらと開いた世界は、乳白色で静かだった。立ち上がることも出来ず、仰向けに寝
転んだまま、朝とも夜とも判別つかない空間を見つめる。

(俺は、何でこんなところにいるんだ?)

 今まで何をしていたのだろう。何故こんなところにいるのだろう。どうして誰の顔も思
い出せないのだろう。そう、誰かと一緒にいたはずなのに、大事なものがごっそりと記憶
から抜け落ちてしまっている。忘れてはいけない、大切な人たちだったはずなのに。記憶
を巡っても、今ここに広がる乳白色が記憶の一部をその色に塗り替えてしまう。人の顔に、
そのままその色が塗りたぐられた。自分がシリュウという名を持つ以外、何も思い出せな
い。いいや、思い出す必要はないと思えるほど、安堵に満たされている。

(ああ、なんて安心できる場所なんだろう)

 目を細め、息を吸う。吐き出した息から溢れるものは、緊張も疑念もない。気を張る必
要のない優しい世界が、凝り固まったシリュウの四肢を緩やかにさせた。
 それから、ひどい眠気がシリュウを襲った。頭が重くて、何も考えたくない。目の奥も
ずしりと重く、気を抜けば再び深い眠りに誘われそうだった。

(いやだめだ、まだ、起きていなくちゃ)

 ここに、大切なものを置いてきてしまったような喪失感があった。これを逃してしまえ
ば、もう二度とここには来ることができない。自分自身を構築する何かを、失ってしまう
気さえしたのだ。
 だから眠れない。その、大切なものを見るまでは。

――シリュウ。

 不意に、誰かに頭を撫でられた。一瞬身体が軽くなり、後頭部に柔らかな感触が当たる。
閉じてしまいそうになっていた瞼を懸命に持ち上げ、顔にかかっている影を見上げた。

――だめよ、シリュウ。ここに来てはだめ。

 灰色に近い影に浮かぶ、柔らかな曲線。丸みのある頬が、優しげに持ち上がる。耳に届
いた声は、明らかに女性のもので。けれど、彼女の顔は見えない。言葉を紡ぐ時だけ、僅
かに見える口元が動いた。それ以外は、目の色も、肌の色も、髪の色も、何も見えない。
それでも、まるで全てから包み込もうとする優しげな雰囲気が、シリュウを落ち着かせる。
この人は自分の敵ではない。直感がそう告げていた。

――早く帰りなさい。ここではない、貴方が生きるべき世界へ。

 壊れ物を扱うように撫でられていた手が止まり、首元に何かをかけられる。その途端、
ずしりと胸元に落ちた重みに、視線を落とした。
 血のように赤く、けれど夕焼けのように透き通った紅のペンダント。妙な懐かしさを覚
える。何故こんなものを彼女が持っていたのか不思議だったが、吸い込まれるような美し
い赤が、シリュウを魅了した。二度と手放したくないような、依存を思わせる紅だ。

――……貴方に、私たちの加護がありますように。

 ふわりと微笑んだ気配が、シリュウの顔に落ちる。額に触れたものに気付く前に、酷い
眠気がシリュウを襲い、そのまま目を閉じた。まどろみの中聞こえる、静かで心地の良い
子守唄を聞きながら。




第48話 『君が歩き続けるのなら』




 額に残る熱に、そっと意識が戻る。じんわりと覚醒する世界に、瞼をのろのろと持ち上
げた。しばらくぼやけていた視界が、瞬きを繰り返すことで、徐々に正確に映し出される。
ぎくり、と身を強張らせる気配がした。それまであった重みがパッとなくなり、ひんやり
とした空気が流れてきた。何だかそれが名残惜しくて、無意識に手のひらを自分の額に当
てた。何かが、足りないのだ。

「し、シリュウ?」

 上擦ったような声が、シリュウの耳朶を叩く。人の気配はしていたが、それが誰なのか
認識できていなかったシリュウは、首を捻ってベッドの横に立ち尽くす男を見上げた。馴
染んだ低い声は、ヒューガだ。何をそんなに驚いているのか、と尋ねようとしたが、身体
が異様に重く、声帯がギュッと締まったように息苦しさを覚える。思わず、不快感を顔に
出せば、ギョッと目を見開いたヒューガが、すぐ傍にある水をコップに淹れ始めた。

「無理するな。お前、丸一日目を覚まさなかったんだぞ」

 無色透明の水を手渡され、素直に一口飲み込む。勢いが良すぎたのか、それとも喉が異
常を来たしているためか、一瞬喉の奥に鈍い痛みが刺す。苦しげに咳を繰り返せば、ヒュ
ーガにしては珍しく、オロオロとした様子でシリュウの背中を撫でた。そんな慌て様が可
笑しかったが、同時に違和感を覚えずにはいられなかった。ふ、と顔を上げて男の表情を
窺えば、大袈裟に例えてしまうが、まるで泣きそうだったのだ。

「ゴホッ……だ、大丈夫。ちょっと噎せただけだって」

 そう言って取り繕ったように笑えば、ホッと安堵の表情が浮かんで見えた。肩肘を張っ
ていたのか、へにょり、と力が抜け、傍にあった椅子に座り込んだ。実は、まだ倦怠感や
節々に感じる痛みが残っているのだが、本日何度も懸念しているように、どうも様子が可
笑しい目の前の男は、こちらの虚勢に気付いていないようだった。

「全く、一時はどうなるかと思ったぞ」

 ぐしゃり、と前髪を掻き揚げて項垂れたヒューガは、長い長い溜息を一つ吐いた。心底
心配した、と身体全体で訴える姿に、シリュウは一度訳が分からず首を傾げた。

(……ああ、海に落ちたんだっけ?) 

 船酔いはしないのに、海の神様に嫌われているのか、ここ最近海上を渡ればお約束のよ
うに巻き込まれている。俺が何をしたんだよ、と愚痴りたくもなるが、最後は最後で無事
に帰還する。その反面、幸運ではなく悪運の持ち主かもしれない、と一人納得した。海に
落ちる、ということだけでも滅多に起こらないだろうに、二度も海の生物に捕まったのだ。
これはもう、驚きを通り越して呆れかえるとしか言いようがない。
 しかし、これはあくまで自分が被害者であるからここまで冷静になれるわけであって。
興味のない人間にはぞんざいな扱いは勿論のこと、冷ややかな態度を取りがちであるヒュ
ーガが眉を顰めていることは、彼にとって自分が信用に値する人間だと言うことだ。ある
いは、シリュウという個人の何かが、彼にとって好ましいものだったのかもしれない。
 そんなことは今更だ。要は、気の置けない相手が海に落ちたり、時には海賊風情に拉致
されたりすれば、そりゃあ誰でも心配をするだろう。もし立場が逆であったならば、いく
らか程度は違えど、平常心を保てるか正直微妙なところである。

「今回は、もしかしなくてもタコ?」
「お前なぁ……。当事者なんだからもっと危機感持て」
「いや、だって」

 うろたえようにも、目の前にいるあんたが平静を失っているのだから。
 誰かが驚いたり慌てたりすれば、それを見て冷静さを取り戻すのが人間の性だ。伝染し
て収拾がつかなくなる場合も無きにしもあらず。だが、残念ながら自分の性は前者である。
それに、普段取り乱さない者が取り乱す様子は、寝起きのシリュウにとってそれはもう、
興味津々というか、不可思議なものであった。

「そういえばお前、病気持ち、なわけないよな」
「え、俺が?何でそんな話が急に出てくるんだよ」 

 ふと眉を顰めたヒューガは、怪訝そうな顔をしてシリュウをジッと見つめた。倒れたこ
とは身をもって知っているが、疾患持ちと思われるような仕草に覚えはない。そもそも、
健康優良児なのだから、覚えどころかそんな疑惑が浮いたことにすら驚きを隠さずにはい
られない。

「……いや、俺の勘違いだったのかもしれねえ」
「勘違いって、そんなこと思われるようなことをしたってことだろ?」
「いんにゃ。悪い悪い、聞き流してくれ」

 尻切れトンボな話に目を白黒させていたシリュウは、いつの間にか流されてしまってい
ることに気付きながらも、眉を八の字にして苦笑いするヒューガを見て口を噤んだ。もし
や、自分が何も知らないだけで、何かしら馬鹿なことを仕出かしたのかもしれない。あま
り突っ込まれたくないのか、曖昧な返事しかしないヒューガを一瞥し、視線を下げた。

(途中で意識を失っちゃったしなあ)

 困ったことに、大事なところを覚えていないのだ。船の上から海の中へと引き摺り込ま
れた感触は覚えているが、その後どうやって引き上げられたのか全く記憶に残っていない。
以前、セイレーンとイルカに襲われた時は、同じ黒髪を持つ、山海賊の頭領シークエンド
に助けられたが、今回は勝手が違う。海のことを熟知して、尚且つ体力のある者と言えば、
シリュウにはこの船の乗組員以外知らない。けれど、上からの指示を待っていられるほど、
シリュウの仲間は気が長くはない。

(確率的に師匠だけど、いや、いくらあの人でも海の中で俺を抱えるなんて難しそうだし。
うーん、そうなるとカインかな?ああでもカインなら乗組員に任せるだろうなぁ)

 はて、一体誰が地上へと引き揚げてくれたのか。やはり、仲間の気の短さを疑ったこと
が悪かったのだろうか、と結論が出ぬまま時間だけが過ぎる。とりあえず、ヒューガに聞
けば確実だろう、と伏せていた目元を上げた。丁度目が合い、互いに瞬きを繰り返し軽く
首を傾げたが、ふとシリュウは妙な違和感に戸惑った。

「……?」
「ん、なんだ?」

 ジッと凝視されたヒューガは、一瞬たじろぎながらも、すぐに苦笑して困った雰囲気を
一掃させた。人懐っこいような、無邪気にも似た顔がそこにあるのだが、ヒューガを見て、
何かが足りないような、とシリュウは眉を寄せた。眉間には縦皺が寄ってしまっているが、
それほど注視しなければ見落としてしまいそうな、小さくて、けれど彼にしては大きな変
化だ。

「剣は、どうしたんだ?」

 パズルのピースが、かちりと合う。胸に残るしこりが取れたことですっきりはしたが、
今度シリュウに巣食ったのは怪訝だ。まさか、いやでも、と次々に浮かんでくる可能性
を振り払う。彼に限ってそんなことは、と否定できないもどかしさに息を詰める。
 けれど、そこまでしてシリュウが違う、と思い込みたかったのは、彼はそんな人間じゃ
ない、と冗談交じりで言いたかったわけではない。彼なら、やりかねないと思ったからだ。
自分の大切なものと引き換えにしてでも、彼ならばそれを厭わないと。

「あんた、まさか剣を捨てたとか言わないだろうな。剣なんていくらでも代わりがあるな
んて言うなよ?あんたが言わなくても、大切にしていたことくらい知ってるんだぞ!?」

 戸惑いの次に、否定したくても振り切れない確信がぴとりとくっつく。どう足掻いても
覆すことのできない事実に、沸々と腹の底で溜まっていたものが爆発した。上手く感情を
コントロールできないのは、普段こんな苛立ちを感じないせいだ。

「そうだな。俺の半身みたいなもんだからな」
「だったら…っ!何をそんな暢気に」
「でもなぁ」

 掴みかからん勢いで噛み付いた途端、一瞬虚を突かれたように目を丸くしていたヒュー
ガが、口元を薄く緩め、目を細めた。まるで、小さな子供に言い聞かせるように。男はシ
リュウの言葉を遮る。何の圧力もないはずなのに、黙って聞かなければならない気が起こ
ったのは、シリュウの思惑とは裏腹に、男が穏やかな表情を浮かべていたからなのかもし
れない。

「手放してみてびっくり。自分が思っていたほど、未練なんてなかったんだぜ?」
「嘘吐くな。あんたはむやみやたらに敵を作るような愚かなことはしない。けどその分味
方を作ることだって慎重だ。そんなあんたが、あの剣を手放すだなんておかしいだろ」
「あー……そりゃあ、あれは俺にとって半身みたいなもので、相当惚れ込んでいた代物に
変わりはない。けどな、現に俺は剣よりもお前の命を選んだ。この意味分かるか?」
「意味?」

 本当に何とも思っていないのか、あっけらかんと返すヒューガに眉を下げたシリュウは、
自信なさげに言葉をオウム返しする。人の命は尊く、儚いものであることは周知の事実で、
客観的に見てみれば、ヒューガが選んだ選択は間違っていない。
 けれど、それはあくまで自分がその当事者に当たらず、また、自分が客観的に判断でき
る状況にあるかどうかだ。ヒューガがシリュウという個人を買ってくれていることは、重々
承知している。気恥ずかしくもあり、誇らしくもある。だが、それが時に重圧に感じるこ
ともある。彼ならば、もっと気配りのできるような人材がふさわしいはずだ。何をするに
も不器用で、人生経験すら足りない自分が、彼にとって重要な位置になってはいけない。
実際に彼は、腰に下げていた剣を簡単に手放してしまったのだ。これ以上、彼が固執する
ものを失わせてはいけない。

「そんな難しい顔すんなって」

 そう言って、ヒューガはニッと白い歯を見せた。寝起きで気付かなかったが、どこか疲
れた様子が見えるのは、気のせいではないだろう。海から引き揚げたとなれば、相当重労
働であっただろうに、それを無視して看病もしていたのなら、顔色も悪くなるのも当然だ。

「形あるものはいずれ壊れる。俺はお前に生きてほしかった。ひびが入れば割れるだけの
剣じゃなくて、ボロボロになっても前を歩き続けるお前に、生きてほしかったんだよ」

 ただそれだけだと、彼は言う。その言葉に、虚を突かれたズシリと胸の奥が重苦しく感
じた。

「前を、歩く」
「そう。お前はこんなところで立ち止まるわけにはいかねえだろ?」

 カーマインを探すこと。途切れた記憶を辿ること。全て彼は覚えていて、尚且つ背を押
してくれるのか。途方もない、終わりの見えない旅だというのに。
 いつの日か、彼に「信頼している」と告げた。信用ではなく、信頼と言ったのは、ヒュ
ーガと同じで、必要以上に味方となる弱点を作りたくなかったからだ。

(俺は何をやっていたんだ。どうしてヒューガと向き合わなかったんだ)

 人付き合いが苦手なのは、失った恐ろしさを繰り返したくなかったから。今も胸にぽっ
かりと空洞があるのは、その人たちがシリュウにとって予想以上に影響を与えていたから
だ。
 だから、一線を超えられない。いつこの手から取りこぼしてしまうか分からない。あの
日よりも強くなっていても、守り抜くことができるかなんて、実際に危険な目に遭ってみ
ないと分からない。ならば、大切なものは作らないほうが良い。それは自己防衛にもなる。
 だというのに。逃げて、逃げて、逃げ続ける。そんな自分を、これまでヒューガはひた
すら追い続けては手を取ろうとしていたのだろうか。弱さを見せたくないという、子供同
然の我侭に、彼は今まで笑って見守っていたというのか。

「お前の背中は俺が押してやる。だから……立ち止まんな、シリュウ」

 目の前に差し出された手のひらに、一度瞠目する。これまで一つ一つ重ねていたヒュー
ガへの疑心が少しずつ溶け始めたものの、それでも躊躇ってしまう。この手を握り返すと
いうことは、彼を仲間として、友人として、そして相棒として信頼し信用することだ。
 けれど、シリュウはヒューガの顔と差し出された手を交互に見て強く頷いた。自分とは
全く程度の違う、剣ダコのできた手のひらを握り返す。

(ヒューガが俺を信じてくれた日々を埋めるくらい、俺もあんたを信じる)

 臆病だった自分が、一歩進めることができる。いつまでも同じ場所に立ち尽くしていて
も、何も変わらないだろう。ならば、手を取るのならば。

「じゃあ俺はあんたが無茶しないように、ちゃんとこの手を握っているよ」
「――俺はお前の背中を。お前は俺の手を、ってな」

 握っていた手を離し、互いにそれを掲げると、パン、と手のひらを交わし乾いた軽い音
を立てた。まるで誓いを立てたような光景は、この部屋にいる二人しか見ていない。
 胸元で鈍く輝いていた紅のペンダントが、窓際から射す陽光でキラキラと瞬いた。意味
深な夢の違和感も、いつの間にか払拭されていた。



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