● 唐紅の記憶  ●



 薄く膜の張った細い雲に、茜色の色彩が混じる。夕方から黄昏に入る時刻は、朝焼けよ
りも神秘的で、これから来る闇夜の世界を柔らかく誘った。昼間自由に飛び交っていた鳥
たちが、身を休めるために近くの木々に身を寄せている。長閑と表現するに相応しい風景
を背に、無表情のまま手のひらで輝く宝石を転がしていた男が、ジッと空の移り変わりを
見つめていた。
 カァ、とカラスの一鳴きが柔らかな静寂を裂く。何をするでもなく、ただひたすら色の
違う宝石を弄んでいた男は、ふと視線を泳がせた。窓の外を横断する漆黒の翼を持つそれ
が視界に入った瞬間、それまで宝石に抱いていた関心は失せ、ガラガラと音を立てて机の
上に放り投げた。ゆったりとした足取りで窓辺に近づくと、鍵を開け閉ざしていた窓を解
放した。鬱蒼とした室内の空気に、一気に冷気が入り込む。頬を撫でる風に目を細めた男
は、近くの木の枝に止まったカラスを見つけ、そこで初めて表情を変えた。
 うっそりと、悦の入った薄笑いが、男の表情を僅かに、穏やかにさせる。けれど、それ
とは正反対に、瞳の奥は禍々しいほどぎらついており、男の中に潜む本性を隠し切れてい
ない。微笑みさえも、常人ならば後ずさりしそうなほど、どこか病んでいるようにも見え
る。

「もうすぐだ。あと少しで、手駒が揃う」

 クツクツと喉で笑う音が低く響いた。何かに憑かれたような物言いは正常ではない。け
れど、男はひたすら彼方を見つめ、懐かしげに一度目を細めた。

「待っていろフィルオーネ。お前をこの腕に抱くのは、もうすぐだ」

 赤と紺の混じる空に散りばめられた星を掴もうと、男はゆるりと手を伸ばした。そして、
何かを探るように緩く動いた五本の指が、見えぬ何かを掻き集め、手のひらを強く握りし
めた。





第49話 『漆黒の再来』





「ほ、本当にこっちの道で大丈夫なの?」

 時刻は昼を少し過ぎた頃。太陽が一番輝く時間帯だ。空を見上げれば、疎らに青空が広
がっている。しかし、その肝心の太陽は、そびえ立つ木々の影に隠れて姿を見せることは
ない。時折、間抜けな鳥の声が頭上を飛び交うが、その度に言葉にならないほどの倦怠感
が込み上げる。
 それもこれも、右も左も、前も後ろも木で埋め尽くされている現状に嫌気が差している
からだろう。かれこれ数時間ほど、変わらぬ景色が視界に入り続けている。最後に見た太
陽の眩しさが思い出せぬほど、今現在、地に足をつけている場所は普通とは言い難い。
 うんざりしたようなエリーナの声に、黙々と前方を歩いていた面子が振り返る。誰もが
少なからず疲れた顔を浮かべていた。もし彼女が一声上げなければ、彼らは意地を張るよ
うに、延々と歩を進めていただろう。

「私もお嬢さまの意見に賛同です。森に入って二時間以上は経っていますが、遺跡の影も
形も見当たりません。……本当にその地図を信用して良いのでしょうか」

 エリーナの背後で眉をひそめたカインが、一度間を空け、先頭を歩くシェンリィの持つ
地図に指をさした。そうすると、皆がシェンリィと地図を凝視する。一度に四人分の視線
を集めたシェンリィはというと、怯む様子は見せなかったものの、珍しく自信がないのか
目を泳がせて目を伏せた。それから、困ったように嘆息する。

「大丈夫のはず、なんだけどねぇ」
「おいおい、随分と弱気だなあ」
「仕方がないだろう、頼りの地図が、子供の落書きのような手書きの地図なんだからさ」
「手書きってこと自体が胡散臭いだろうが。それになあ、俺たちをこの森ん中に迷わせる
算段だったらどうする気なんだよ」

 苛立ちを含んだヒューガの尖った声がシェンリィを責める。言葉の応酬を重ねているも
のの、やはりシェンリィは気を害した様子もなく、ふむ、と口元に手を当て何かを考え込
んでいる。ヒューガの嫌味にも似た文句は右から左へと聞き流しているのか、手元にある
手書きの、それも大分簡素化された地図を見つめ続けている。そこにあるのは、お世辞に
も綺麗とは言い難い、歪んだ線で描かれた地図もどきだ。
 一行が港町にたどり着いたのは、空気が澄んだ早朝だった。それから賑わう町で聞き込
みをしていたところ、遺跡のことを嗅ぎ回っている不審な連中と遭遇したと情報が入った。
それがカーマインなのか断定は出来ないが、十分可能性があると踏み、その遺跡への地図
を求めたのだが……。
 そもそも、遺跡自体が人の寄り付かない鬱蒼とした森の中にあるため、商品として地図
が作られることはなかった。つまり、正確な位置を示したものがないことだった。
 肩を落とし、焦燥に苛まれる中に、朗報が転がり込む。先に森に入った者たちも、どう
しても遺跡に行きたいのだと頼みこまれ、うろ覚えである人の記憶に頼った地図をその者
たちに書き渡したと、情報が入りこんだ。そして、昨夜の内に遺跡に向かったと聞かされ
た。町の者は、夜が明けてから森に向ったほうが良いと止めたが、その者たちは町人の心
配を他所に、随分と軽装で町を出て行ったという。
 それを、緊急を要するが故の行動だと判断した一行は、自分たちにもその地図を描いて
ほしいと懇願した。町の者が訝しげな顔を見せたものの、シリュウの必死の形相に慌てた
様子で承諾し、結果、遺跡への地図を手に入れることが出来たのだった。

 そう、それが数時間前。町から森まではさほど時間はかからなかったものの、歩けども
変わらぬ風景が延々と続いている。本当にこの地図が正しいものなのか、今や判断がつか
なくなっていた。
 しかも、この一帯は熱帯で満ちており、湿った空気と高い気温が容赦なく体力を奪った。
少しずつ、だが確実に皆を疲労へと追い込む。一番体力のないエリーナは、ここまで弱音
を吐かなかった分、誰よりもぐったりとしていた。

「師匠、一度戻るのも手だと思いますよ。流石にこんなところで野宿は、骨が折れますし」

 不穏な気配の漂う中、一人一人を見渡したシリュウは、考え耽っているシェンリィに提
案した。魔物の気配がないことは不幸中の幸いだが、幹の太い木々が所狭しと並ぶ中では、
野営の準備も難しい。何より、こんなにも湿気が含んでいては、火を熾すことも容易では
ない。森に入ってほぼ真っ直ぐという単調な道筋だった分、今の段階ならば町に戻ること
も可能だ。

「ふむ」

 腕を組み、途方のくれたような顔を浮かべたシェンリィが、空を仰ぎ見る。木々の葉に
隠された、空から降る光りが、申し訳ない程度に地上に流れ込んでいた。恐らくあの辺り
に太陽があるのだろう、と推測は出来るものの、まるで木々の海に呑み込まれた閉鎖空間
の中では、正確な位置を捉えることも困難だ。
 
「それに、先に入った連中がまだ残っている可能性もありますし……」

 神妙な顔つきで周辺に気を張らせたシリュウが、一つ息をこぼす。魔物の気配がないこ
とも不気味であるが、先に遺跡へと向かった正体不明の連中と鉢合わせにならないことも、
こちらを警戒させるには十分な要素だった。
 何より、予想外だったのは高温多湿なこの空気。じっとりと浮かんだ汗を拭うが、不快
感は残ったままだ。鍛え方が違うのか、長身の男二人は何食わぬ顔をしているが、傍らで
忙しなく息を繰り返している少女は、背が丸くなり視線も落ちていた。
 こんな状態で、もし敵と、それもカーマインと遭遇でもしてしまえば。向こうが何人で
行動をしているのか分からないが、とても勝てる気がしない。それに、長物を扱う身とし
ては、こんな狭くて動きにくい場所で、上手く立ち回れる自信がなかった。

「……仕方ないね、少し休憩してから戻ろう――――?」

 大きく肩を上下させて溜息を吐いたシェンリィが、不意に険しく目を細めた。
それから彼女の行動は速かった。徐に得意のナイフを取り出すと、一本一本、真っ直ぐ
に前方へと投げつける。カン、と木の幹に貫通した音とは別の、鋼と鋼が交差する音が静
寂の中に響き渡る。
 驚いているシリュウの前にズイ、と出たヒューガが、抜き身の剣を構えた。一点を見つ
め殺気を飛ばす様子に、周囲の空気がピリ、と鋭くなる。額に滲む汗は、高温多湿のせい
だけではない。

「悪趣味だねえ、人の話をこそこそ影で聞き耳立てているなんてさあ」
「この状態で気配を潜めたままっていうのが気に食わねえな。さっさとツラ見せやがれ」

 挑発するように剣の切っ先を揺らしたヒューガが、同時に顔を歪める。ガサリ、と前方
の細い草木が揺れた。鳥の気配さえなくなった世界に響いた物音に、カインに守られてい
るエリーナがビクリと怯える。それを目敏く見つけたカインは、剣呑に空気を尖らせると、
腰に携えている柄に手を添えた。
 ゴウ、と空気を裂く音が走る。黒い影が、目にも留まらぬ速さでこちらへ駆けてきた。
息を詰めたシェンリィがすかさず右指に挟んでいたナイフを投げ飛ばす。しかし、それす
ら読んでいたのか、影は速度を保ったままそれを避けると、一気にシェンリィの間合いに
詰める。
 しまった、と思った瞬間だった。咄嗟に体術で応戦しようとしたシェンリィの手首を、
黒い影が拘束する。その速さに、隣で剣を構えていたヒューガも驚きで目を丸くしていた。
掴まれた手首に臆する時間さえないとばかりに、そのまま相手の鳩尾に蹴りを喰らわそう
とした、その時。

「会いたかったぞ、俺の妻よっ!お転婆なところも相変わら――ぐほっ!!」

 ガバリ、と形容したくなるほどの勢いで抱きつかれたシェンリィは、ヒクリと頬を引き
攣らせ、自らの足を襲撃者の爪先と鳩尾に一発ずつ喰らわせた。緊迫とした空気とは打っ
て変わったふざけた声色に、皆がハッと我に返る。けれど、シェンリィに撃退された襲撃
者の崩れる姿を見とめると、全員が微妙な顔つきをして武器を下げた。

「ぐ、ぅ……さ、流石シェンリィ、俺の妻になる女だけあって、容赦ねえな」
「だーれが、あんたの、妻だってぇ?」

 鳩尾に手を当て沈んでいる男の頭を踏みつけるシェンリィは、まさに鬼そのものだ。後
方で青褪めているエリーナは、ひぃ、と小さく悲鳴を上げてカインの背中にぴとりとくっ
ついている。教育上よろしくない、と判断したのか、すかさずカインはエリーナの耳を己
の手のひらで覆った。

「し、シークエンド?」

 自分の師匠のあまりの形相にドン引きしながらも、そろそろと近づいたシリュウが、困
ったように眉を下げ、地面に這い蹲っている男の名を自信なさげに呼んだ。褐色の肌に漆
黒のバンダナ。今は伏せているため見えないが、その双眸には新緑の瞳が埋まっているは
ずだ。

「よう、シリュウ!まーた誰かに苛められてないだろうなあ」
「久しぶり。心配してくれてありがとう、俺は大丈夫だよ」

 ようやく名前を呼んでもらえたことが嬉しかったのか、僅かな隙を突いて飛び起きたシ
ークエンドがシリュウの傍に寄り、クシャクシャとシリュウの髪を掻き撫でた。肩を組ま
れ、まるで犬猫を撫でくり回すような仕草は、自分よりも一回り以上年上とは思えない。
けれど、邪気のない人懐っこい笑顔を見ると、無下にあしらうことができなかった。
 シェンリィに向ける恋慕の眼差しとは違う、親愛の籠った暖かい視線は、まるで家族に
向けられるものだ。言うなれば、シェンリィと同じと言ってよい。シェンリィも過保護な
部分があるが、それを上回るような気の使い方や構い方は、所謂普通の境遇で生きること
ができなかった傷を慰めようとするものだろう。元来持ち合わせている朗らかな性格のせ
いで、シークエンド自身が計算して接しているかどうかは分からない。
 ちらりとシークエンドを見上げる。いつの間にか、シェンリィとヒューガと口論になっ
ていた。

「それで?航海をウロウロしているはずのあんたがここにいるんだい。他の連中は?」
「おいおい、俺たちゃ海山賊であって海賊ってわけじゃ……」
「どっちも似たようなもんだろうが」

 冷やかな集中攻撃を受けるシークエンドは、苦笑を浮かべ頬を掻いた。それでもシリュ
ウから手を離さないのは、手放してしまえば一気に攻撃が仕掛けられると判断したからだ
ろう。目敏くそれを察知していたシリュウは、不憫だな、という眼差しを隠し、般若のよ
うな形相で凄む二人に、溜息をついた。

「……誰もいないな」

不意に、シークエンドのまとう空気が変わる。周囲に気を配り、部外者がいないことを
確認すると、急に真面目腐ったような顔つきで声のトーンを落とした。

「ちょっと野暮用で、この奥にある遺跡に単身で挑んでいる」
「はぁ?……色々突っ込みたいけど、よくあんたの部下が許したね」
「うん?いやあ、あいつらを撒くのは大変だったなあ。流石俺の兄弟どもだ」
「うわー……」

 確か、サルジュという男だったろうか。初めて出会った際、シークエンドの隣で右腕と
して支えていた、気苦労の絶えない男の顔が思い浮かぶ。思わず同情の念を抱いてしまっ
たシリュウは、何でもないように振る舞う、暴君頭領を白い目で見た。

「なあに、あいつらにも仕事を与えておいたから、わざわざこんな辺鄙な所にまで追いか
けてこないさ」
「辺鄙って分かっていながら乗り込んでくる動機ってのは何だ」

 ニィ、と悪戯を企んだような顔を見せた瞬間、ヒューガの眉が不機嫌そうにピクリと動
いた。一触即発、とまではいかないものの、あからさまな敵意が込められた視線は、湿っ
た空気をより一層重くする。

「ははっ、おっかねえオニーサンだこと」
「お、落ち着けヒューガ、この人いっつもこんな感じだって!」
「そうそう、こんな短気な奴といると短気が移るぞシリュウ。シェンリィと一緒にさっさ
と海山賊に入っちまえって」
「火に油を注ぐようなことをっ!」

 一方的に注がれるピリピリとした空気は相変わらずだが、シリュウとシークエンドのや
り取りを見てエリーナが、クスクスと可笑しそうに笑っている。おちょくろうとするのが
標準装備なのか、慌てふためき顔色を悪くするシリュウには何のその、どんどんヒューガ
の機嫌を急降下させている。普段温厚なシリュウも、密着しているのを良いことに、シー
クエンドの足を踏みつけてやった。段々シェンリィに似てきたな、と言われてしまったが、
その顔がどこか嬉しそうにしていたのは気のせいだと頭の隅に追いやる。

「――話を戻すが、最近陸地でも海でもきな臭い話を耳にしてな」

 再度周囲を見渡したシークエンドは、まだ延々と続く獣道をジッと見やった。その視線
の先に何が見えているのかは分からないが、浮かべる表情は硬い。

「カーマインって集団がやたらと遺跡を荒らしている。それも全部、古代文明のものだ。
ただの遺跡荒らしかと高を括っていたが、最近は死者や怪我人も続出しているらしい」
「おかしいね。古代文明といえば自治体の管理下にはおかれていないはずだよ。警備隊が
配属されているわけじゃないのに死者が出るなんて……」
「今の所こっちに入った情報によると、死人は全部名もない旅人だそうだ。が、その死に
様が相当えげつないらしい。……そうだな、ちょうど俺の前にいる五人なんて、奴らにと
っちゃ良いカモなんじゃないのか?」

 顎でそれぞれを指したシークエンドは、口元だけを器用に吊り上げる。死者、という言
葉に敏感に反応したエリーナは、シークエンドと目が合った途端ビクリと肩を震わせた。
ここにいる面子がカーマインとってカモのような存在ならば、なんの力も持たない自分な
ど、赤子を捻るかのように造作もなく殺されてしまうのだろう。
 うっかり自分の死を想像してしまったエリーナの顔色がどんどん悪くなる。それを慣れ
た手つきで宥めるカインは、この場にそぐわぬ眩しい笑顔を見せていたが、時折シークエ
ンドを捉える眼光はひどく鋭いものだった。

「ふふふ、彼らにとってのカモは五人ではなく、六人の間違いじゃありませんか?」
「おっとこれは手厳しい。……まあ要するに、火の粉が飛んでくる前にこっちから情報収
集に回っているわけさ。それに、奴らの集めている宝石も気になるからな」

 今にも抜刀してきそうなカインの気迫に乾いた笑みを見せたシークエンドは、早々とシ
リュウの傍に退散する。先ほど踏まれたというのに懲りずに近寄るのは、この場にいるメ
ンバー誰一人、シークエンドを擁護する者がいないからだろう。中でも沸点が高いシリュ
ウの傍ならば、滅多な事をしない限り的にされることはない。

「そうは言っても一人じゃ危ないよ。なんで部下の一人や二人連れてこないかな」

 呆れたような物言いでシークエンドの前に仁王立ちしたシリュウは、しかめっ面のまま
シークエンドを見上げた。今まで生きてきた中で、たった一人しか見たことのない赤い瞳
が、怒ったような、悲しそうな色を秘めて真っ直ぐシークエンドを射抜く。

「あんたの矜持は感服に値すけど、それじゃああんたに命預けてるサルジュさんたちがか
わいそうだ」

 ふと、妙な違和感を覚えた。ぱちくりと目を見開いたシークエンドは、無意識にシリュ
ウの額に手を当て、熱を確かめた。突然の奇行に動きが停止したシリュウは、ポカンとし
た様子で首を傾げる。何かおかしなことを口にしただろうか、と先の言葉を頭の中で繰り
返すが、特に失言は見当たらない。

「ええっと、どうしたんだシークエンド?」

 対処に困ったシリュウが、苦し紛れに作り笑いを浮かべた。二人の隅で、シェンリィと
ヒューガ、それからカインが双眸を緩めているのを知る由もなく。

「いや、息子の成長を見守る父親の気持ちってこんなものなんだなと」
「兄弟の次は息子!?」
「ほら、前のお前なら、もっと頭領としての自覚云々を、だの繰り返してたなと」

 ますます困惑するシリュウを余所に、シークエンドは穏やかに目元を細めると、くしゃ
りと黒髪を撫ぜた。見た目に反して柔らかな髪がシークエンドの手に馴染む。旅の間に手
入れなど出来ないのだろうから、やはり所々傷んでいるが、それでも子供特有の髪質だ。
 過保護なまでに気にかけていた弟分は、いつの間にか人と心を通わせることを取り戻し
たらしい。それが自分でなくて残念だ、と思う一方、未だぱちくりと目を瞬かせるシリュ
ウを見下げると、堪らなく愛おしい存在に見える。
 ――ああ良かった、お前はもう孤独じゃないんだな。
 きっと、シェンリィも自分と似た思いを抱いているのだろう。気づかれぬように周囲に
気を配れば、剣呑だった空気が少し和らぎ、その全ての視線が、何も気付いていない少年
に注がれている。

(知っているか。本当はお前を攫うのは簡単なんだぜ)

 また誰かに泣かされているのなら、傷ついているのなら。今度こそ有無を言わさず海山
賊に連れていくつもりだった。シリュウの旅も、海山賊とともに果たす心構えだった。老
婆に石を投げられ悲愴な面持ちを見せた、崩れる寸前の姿を垣間見ることがあれば。仲間
と呼ぶシリュウの連れに剣を向けてでも、連れ去るつもりだった。
 お前らが付いていながら、どうして守れなかったのだ、と。そう吐き捨ててやるつもり
だったのだ。

「くすぐったいよ、シークエンド」

 いつまでも撫でられている羞恥心もあるのだろう。困ったように、けれどどこか嬉しそ
うな顔で笑うシリュウに、シークエンドの胸に残っていた僅かなしこりが、スッと消える。
以前纏っていた、死にかけているような空気はない。今シリュウにあるのは、確固とし
た自信と、仲間に身を預けられる強さだ。

「シリュウ、今なら俺の左腕としてのポジションをやるから海山賊に来いって」

 終始笑顔でそう言ってやれば、それを本気ではなく冗談と取ったシリュウが、毎度同じ
く困った顔で首を振る。もちろん、そんな反応は分かり切っていたことだ。
 残念だ、とわざとらしく大きく肩を竦めてみれば、彼を庇護する者たちの呆れたような
溜息が合唱する。彼らもまた、シークエンドの言動の八割ほどは冗談と取っているのだろ
う。

(でもつまり、二割は本気だってことを忘れちゃいけねえな)

 さて、どれが本気でどれが冗談なのか。きっと彼らはそれを吟味したことも、すること
もないだろう。
 欲しいものは自分の手で手に入れる。それが、弱肉強食の中で勝ち取ったシークエンド
のモットーだ。出来うるだけ対象を傷つけず、周囲に混乱を招かず、弱きものを排除せず。
攻略が難しい対象ならば、尚更じわりじわりと、ゆっくり時間をかけて。
 欲しいものを二つ前にした心中に誰も気付くことなく、シークエンドは一人ほくそ笑ん
だ。


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