●● 唐紅の記憶 ●●
なに、その赤い目。
気持ち悪ぃな、魔物みてえ。
近寄らないでくれる?汚らわしいわ。
触るなよ!お前が魔物を引き寄せたくせにっ!
ただ、呆然とするしかなかった。ショックだった。どうして忌み嫌うのだろうと。けれどどう足掻いても、弁解しても、皆は怖がった。引き攣った顔を見せ、近寄りたくないという負の念を腹の底に抱え、罵倒を繰り返した。それは男も女も関係ない。子供も大人も、彼らに飼われている家畜でさえ、俺を見下しているような気さえ起きた。
お前はこの村の人間じゃない。拾われた恩を忘れず、静かに陰で生きるんだ。
ああ、もう構わないと諦めていた。ここは俺がいて良い世界なんかじゃない。彼らの目は確かにそう訴えていた。形だけの世話をしてくれたあの人も、言葉ではそう言い聞かせても、その他大勢と変わらない、一歩引いたような話し方をしていた。
じゃあ、そろそろこの世から消えようかと一巡する。でも駄目だった。あの時は、死ぬ覚悟も勇気もなくて、誰にも認められないことが何よりも怖かった。そんな死に損ないの俺は、実はこの世界に生きていない亡霊なのではないか、と訳の分らぬ妄想までするようになった。そんな子供っぽい思考から引き上げてくれたのが、仕事を失敗した時にぶたれたあの痛みだなんて。あまりにも皮肉すぎるけれど。
吸い込まれそうなくらい綺麗です。とっても素敵な色だと思いますよ。
もっと自信持ちなって!……っと、これは僕たちの間でだけどさぁ。
炎に包まれる世界。全てを焼き尽くす灼熱の地獄。それは燃えたぎる炎の色なのか、それとも斬り殺されていた人の血の色だったのか。ただただ、紅かった。赤色の世界だった。けれど何故か居心地が良かった。この身に持つ色と同じだったからなのだろうか。足元から頭の天辺まで襲う震えとは反面、どうしようもなくこの色に安堵したのだ。
生きる意味もないこの世界。痛くて寂しい世界でも、傍にいてくれた人たちがいなくなった瞬間、全てが崩れ落ちたような錯覚が身を走る。
彼らの後を追えば、また、笑ってくれるだろうか。汚れた俺の手のひらを、迷わず掴んだ彼ら。もう二度と会えないと頭で理解してはいても、火の海の中からひょっこり出てくるのではないかという淡い期待を抱いた。もう一度、俺の名前を呼んでくれると、根拠のない自信を僅かに持って。
けれど、待てども、探せども、彼らは俺の前に現れなかった。地面に伏せている死骸と一緒で、永遠に会えないのだとようやく現実を受け止めた。それから、ぽっかりと胸の奥に穴が開いた。おかしいな、と首を傾げても、その違和感は拭えない。大事なものをコロコロと落としてしまった感覚だ。その大切なものを拾おうとしても、足元には何も転がっていない。もうとうの昔に、遥か彼方へと置いてきてしまったのだ。酷い焦燥感に苛まれ、進んできた道を戻ろうとする。しかし駄目なのだ。転がる死骸の中を探しても、もう誰一人息をしていないことは明白だった。緋色の炎に呑まれる中、たった一人、この世界とは何ら関係のない自分だけが、取り残されてしまったのだ。
……馬鹿な子。子供は子供らしく、誰かの胸で泣き叫べば良いのよ。
そこから引っ張り出したのは、今にも泣き出して今いそうなほどの優しい声。自信に満ち溢れた、勇ましい、逞しいような声色だった。全てを託したとしても、両腕抱え上げてくれる、頼ってしまいたくなる声。
死にたくなんてないくせに。一丁前に馬鹿な大人みたいなこと言ってるんじゃないわよ。
ああ、それが記憶に新しい、最初で最後に流した涙だ。不安げに揺れる瞳とは裏腹に、彼女の顔はまさに仏頂面だった。叱りたいのか、慰めたいのかさえ判別できない、複雑な表情を浮かべていた。
復讐?あんたにとってあの場所は価値のあるものだったって言えるの?
苛立ちを含ませた声色に、一度首を振るのを躊躇った。あの場所は、俺にとって優しくはなかった。酷かった。あの場所は辛かった。それでも、理解しようとしてくれる人がいたことは間違いなかった。受け入れてくれようとしてくれた人たちを、優しい人たちが何故殺されてしまったのか。
ああ、そうだ。好きだったのだ。彼らを失いたくなかったんだと、ようやく心が悲鳴を上げた。もう少し、あの場所で自分の場所を探してみたかった。共に生きていたかった。それが叶わぬことなのだと振り返れば、悔しくて、非力さに唇を噛んだ。そして、いつか必ずと、心に決めたのだ。
………止めはしないわ。でも、今のままのあんたじゃ死ぬわよ。
死にたくはない。でも心のどこかで、誰かが囁いている。あの時、一緒に死んでいれば良かったのに、と。そうすれば、辛い思いはせずに済んだのに、と。
それはそう、そこまで古くない、過去の記憶。
第6話 『闇の世界へと誘う』
「はっはーん、見るからに怪しげな雰囲気だな」
あれから一時間ほど歩き続け、ようやく目的地であるアーク遺跡に辿り着いた。シリュウを先頭にヒューガ、カイン、エリーナと続いてはいるものの、やはり女であるエリーナには体力が持たなかったのか少々へばり気味だ。大きく肩で息を繰り返しており、時折額から汗が零れ落ちては懸命にそれを拭っていた。
「大丈夫?」
さり気なくエリーナの背に手を当て、ゆっくり移動させているシリュウをカインは流れるような視線で追いかけていた。信頼に値するかどうかは別として、単に親切心でエリーナを気遣っていることはカインも承知だ。これがヒューガであったのなら敵意、いや殺気剥き出しで、しまいには剣を抜いて退散させるだろう。ヒューガに優しさを見せることはこの世の善意に反する、と言いたげなカインの態度は、周囲が呆れるほどあからさまだった。一触即発、犬猿の仲。ある意味これよりも性質の悪い二人であるせいか、終始ギスギスしている。その中で、何故かエリーナはカインの殺気には気付いない。長年連れ添えばこの際どい空気も麻痺するのかと首を捻らずにはいられないが、相変わらずシリュウにべったりくっついて意識を向けようと奮闘しているだけであった。
「平気よ。……わあ、ここがアーク遺跡なんだぁ」
平原の中にぽつんと、だが相当の広さを誇るそれに思わず感嘆する。白を基調とした石造りであるのだが、琥珀色に描かれた石絵があちこちに存在している。剥き出しの外では日焼けしてしまっていた。それが一体何の絵であるのか、いつの時代のものなのかは定かではない。考古学者ではない凡人には到底理解できる代物ではないことは明らかだった。しかしながら、売ればそれなりの値段になるのかもしれない、という何とも失敬な考えが浮かんだのは、身に付いた主夫力のせいかもしれないと、心の中でシリュウは涙する。
それから、辺りを物色しつつ遺跡の最深部へと足を進めた。でこぼこと突起している地面を慣れた様子で歩くが、歩きすぎで靴底が減っているせいか少々痛かった。
「お嬢様、足元にはお気をつけて」
「う、うん。ありがとう」
差し出されたカインの手を、エリーナも当然のように手を伸ばし軽く握る。二人がどれほどの主従関係を構築させているかは定かではないが、暗黙の了解とも言えそうな当然の行動に、シリュウは少しだけ目を瞠った。彼女たちの信頼関係はそう簡単に切れることがないことを、目の前で証明されたような気さえしたからである。
「うわ、やっぱどこの遺跡も中に入れば暗闇って言うのは変わらねえもんなんだな」
げんなりとした様子で溜息を吐いたヒューガは、入り口手前で一旦腰を下ろす。火薬とマッチを鞄から取り出し、松明の代わりになりそうなものをその辺りから探し出してきた。こういった一つ一つの行動に、シリュウは言葉こそ出さないが、旅をしている期間の長い者と短い者とでは、反応の仕方が違うと感嘆せずにはいられなかった。それを何故言わないかといえば、ヒューガのことだ、付け上がりそうで怖いからだ。折角好印象を与えられているというのに、理想像ががらりと崩されては個人的に困る。
「まあ精々気をつけろや。……中にごろごろいやがるぜ」
何が、と素直に反応したのはエリーナだけだった。他の者は言うまでもなく気付いている。古代遺跡の中には、基本的に神官も警備員も配置されていない。このアーク遺跡のようなものも例外ではないため、人の手が加えられることはまずないと考えて良い。そんな絶好のポイントを棲家にしない手はないと、魔物も行動に移すのだ。
(やけに新しい疵が、多いな)
方向音痴の気があるヒューガを先頭には出せない。消去法でシリュウが前を歩いていると、ふと松明を左右に動かし、薄暗い壁をそっと火の明かりで灯した。クロスピル遺跡と同様、まだ新しい疵もあればそう日にちが経っていない、黒々とした血痕が幾つも残っていた。それに群がる羽虫。床を見れば、白骨化しかけている魔物の屍がごろりと転がっている。ヒッ、とエリーナが息を呑む声がした。それをカインが宥めている。耳から入る情報を冷静に判断していたシリュウは、転がっている魔物を無感情に見つめると、軽い足取りでその場を離れていく。
しかし、魔物への警戒を強めていたせいで、気付くことができなかったものがある。
まだ幼い顔立ちであるにもかかわらず、大人顔負けの無感情な、悪く言えば冷徹な顔をしていたシリュウを、心配そうにジッと見ていた人物がいたことを。
「あ、れ…行き止まり?」
暫く無言が続いていた一行の静寂を破ったのは、少し間の抜けたシリュウの声だった。
「どうした」
「いや、もしかしたらさっきの道で間違えたんじゃないかって」
「あー、あそこ入り組んでたもんなぁ。そりゃ仕方がないだろ」
「ごめんヒューガ。二人も、ごめんね」
申し訳なさそうに眉を下げたシリュウの様子に、エリーナは首を左右に思い切り振った。一度眉を顰めたカインも、周囲を見渡した後に苦笑を浮かべ首を振った。ほんの一瞬シリュウを疑う視線を浮かべたカインだったが、入り組んだ遺跡であることは潜入する前に地図で確認してあるので、陥れるという線を否定した。何より、遺跡で道を間違えることなど、よくあることである。一度も迷わず最深部に辿り着くものなどそうそうお目にかかることは出来ない。視界良好な場所でなら兎も角、こう薄暗くて、下手をすれば右も左も分からない場所では道を間違えることなど、決して珍しいことではない。カインもこれまでの経験上、それを理解していた。
「よし、んじゃあさっさと戻って………!!」
「う、わっ」
ぐらりと急に揺れる視界。それが地震だと気付くのに時間は必要なかった。
「まずいっ!お前ら、離れるなよ!!」
ヒューガが叫んだと同時に揺れが一層酷くなった。石造りの巨大な遺跡といえども、これは”古代”のものなのだ。強い揺れが襲えば、維持不可能であることは一目瞭然。
「きゃっ!」
震動に悲鳴を上げながら、エリーナはバランスを崩しその場に座りこんだ。それを助けようとカインが咄嗟に手を伸ばすが、天井から崩れてくる石によって引き離される。あと少しで手が届いたと言うのに、と唇を噛む。酷い揺れにカインも思わずその場に膝をついた。「お嬢様」と叫ぶが、だからと言ってこの状況を打破出来るわけでもない。カインの必死な声は虚しく響いた。怪我はないかと安否を確かめようと試みるものの、立っていることもままならない状況ではそれは不可能に終わる。
「―――エリーナっ!!」
ピシリ、と亀裂が入った音が全員の鼓膜を響かせた。途端、叫び声が木霊する。カインの目の前を、まるで転がるように走り出したシリュウが、エリーナに手を伸ばす。座り込んだままだったエリーナが、オロオロとしながら杖を地面に立てる。何とか座った体勢を維持していたが、ふと不自然な揺れ気付き顔を上げる。その先にいたシリュウの手に、咄嗟に大きく腕を伸ばした。
「シリュウ!」
亀裂の音は止まらない。ようやくシリュウの手がエリーナの手を捉えたまさにその瞬間。一際大きな音を立ててエリーナの足元が崩れた。
「お嬢様っ!!」
届かないと頭の中で理解していても、手を伸ばさずにはいられなかった。しかしそれは当然のごとく、虚空を掻く。目の前でゆっくりと驚愕に満ちるエリーナの表情を、まるで傍観者のように眺めている自分自身に一瞬恐怖を覚える。カインの怒鳴り声にも似た叫び声に、エリーナは従者の名前を口に出そうとする。
しかし、間に合わない。一つ、また一つと崩れると同時にエリーナの姿勢も崩れ始める。
ついにはバランスを取っていたはずの杖も無意味になり、ガラリ、と音を立て、闇の底へ少女の体は吸い込まれるように落ちていった。
「エリーナ―――っ!!」
エリーナの腕が、髪が、服。寸で見えなくなった刹那。自ら闇の中へ身を投じた影が、少女の腕をギリギリの所で捉えると、宙のままその体を引き寄せた。全てから守るように身を丸くすると、少女と共に闇の底へ消えた。
「シリュウ!」
視界に乱入してきた少年の姿を見留め、ヒューガが声を上げた。その次にカインがエリーナの名を呼んだ気がしたが、今はそれどころではない。火事場の馬鹿力の如く、今も揺れ続けている遺跡の中を一直線に走り抜けた。ぽっかりと空いた石造りの地面手前で膝をつき、風の音が流れる闇の中を、危険を承知で覗き込んだ。勿論消えた二人の姿は松明如きでは確認出来ない。思った以上に深い底にヒューガは知らず知らずの内に舌打ちをした。
「くそっ!なんてタイミングで地震なんか……」
ようやく揺れが収まったのはそれからすぐ後だった。下唇を強く噛んだまま、悔しそうにやりきれない顔をしたヒューガは、もう一度抜け落ちた穴に松明をかざし、足元にあった手頃な小石を掴むと迷うことなく穴へ放り投げた。
――――――――――カラン、カラン
「……底なしってわけじゃ、ないようだな」
放り投げて暫く待つと聞こえてきた小石が転がる音。しかしそれは本当に小さな音で、下手をすれば風の音で掻き消えてしまうくらい微弱なものであった。音が近ければ二人を追いかけて飛び込もうかと一度考えたが、それは止めた方が良いと冷静な自分が頭の中で否定する。音が聞こえたのは大きな収穫ではあるが、地下と地上のある程度の高さを測れないのであれば飛び降りるということは自殺行為にしか繋がらない。もう一度盛大に舌打ちをしたヒューガは、苛立ちを隠せない様子で頭を強く掻いた。
「お嬢様!シリュウ君!!聞こえますか!?」
ヒューガが苛立っている間、カインは懸命に底の見えない穴に消えた二人の名を呼び続けた。呼び過ぎたせいで喉が悲鳴を上げているが、そんな努力は虚しく、一向に下からは何の反応も返ってこない。耳に過ぎるものは、ヒューガの舌打ちの音と風の音だけだ。基本的に温厚であるカインでさえも、この状況は冷静さを欠いた。大事な主を守れなかった後悔。そして、怪我をしていないか、まさか死んでいるのではないかという焦燥。天災とはいえ、自らの役目を果たせなかったことには変わりなかった。自分自身に憤りを感じ、手のひらの皮膚が裂けんばかりに強く握りしめる。しかし、ハッと我に返ると、力を込めていた両手を恐る恐る見やり、僅かに血が滲んでいるそれを見て溜息を吐く。思い出すのはエリーナと、主を守るようにして落ちていった少年の姿だ。
「……どうにかして二人と合流する手段を探しましょう。このままでは埒が明かない」
苦渋に満ちた顔で決断した表情は、酷く強張っていた。それでも前向きな態度に軽く目を瞠ったヒューガは、それに一度頷くと、再度風の唸る音が聞こえる穴に視線を移した。
「待ってろ、すぐに助けに行く。……だからくたばってんじゃねーぞ」
この、お人好しが。吐き捨てた言葉は風の音に掻き消えた。
あははっ、お前って案外とろいんだなー。
待って。
こっちです!足元に気をつけてくださいね。
待って。
しょうがないなぁ。手、握ってあげる。僕に感謝してよね。
待って。
抜け出したのは三人だけの秘密だかんな!誰にも喋るんじゃねーぞ!
懐かしい声に一度思考が停止する。誰の声だっただろうと、頭の中で響く優しい声に、一瞬首を傾げた。ああでも、これは……。終わったはずの記憶。唯一知っている、優しい記憶。掴み損ねてしまった、大切な人たち。
怒られるときは皆一緒です。さ、行きましょう。”シリュウ”
幸せの中に浸っても良いのだと、初めて掴んだ世界だったのに。
聞こえるのは誰かの悲鳴。金属と金属が重なる音。灼熱の炎が、肌を照らす。焦げ付いた、炭化した色。動物を焼く臭気。はびこった血痕。倒れている、人、人、人。炎の中で揺れ動いている、断末魔の叫びを上げながら地に伏せる男。それは、誰だったか。立ち尽くしていると足を掴んだ、老人の手。「助けて」と懇願する内臓の飛び出たそれ。悲鳴は、上がらなかった。涙も出てこなかった。怖かったかと聞かれれば、怖くなかったのかもしれない。赤い世界が、綺麗だと思えた。でもその片隅で、自分を認めてくれた人たちのことが心配になった。死んでしまったのではないかと考えた瞬間、そこで初めて、恐怖した。
シリュウ。
元気な男の子と、優しい女の子の声。年は、同じくらいだったか、それとも二人が年上だったのかもしれない。確認などしたことがなかったから、そんな情報は持ち合わせていなかった。ああいや、そんな簡単な情報さえ交わしていなかった自分が、あまりにも哀れだった。
シリュウ
絶望の世界で初めて見えた、優しい世界。育てられたあの場所がなくなってしまったことは、まるで他人事のようで悲しくはなかった。けれど、あの二人だけは別だ。彼らには、死んで欲しくなかったんだ
「――――シリュウ!!」
悲痛な泣き声と共に覚醒へと導いたのは、頬に落ちた冷たいもの。思うように瞼が上がらず、何度か瞬きをしてようやくぼやけた視界が鮮明に変わる頃に映し出されたのは、薄暗さの中でも十分見えるエリーナの泣きじゃくった姿。
「エ、リーナ……?」
「シリュウ!良かった、やっと目を覚ました」
「ここは?」
まだ頭の方は覚醒し切れていないのか、いつもよりもぼんやりとしている。眠いわけではないのだが、思うように体が動かない。道を間違え、地震に遭って、エリーナを助けるために一緒に穴に落ちて……。そこから記憶がない。仰向けに倒れたまま、シリュウはおもむろに、未だ不安そうな顔色を拭えないエリーナの様子をちらりと伺った。
(……良かった、怪我はないみたいだ)
わたわたと、どうしていいか分からずあっちへこっちへとウロウロしているエリーナをジッと観察して安堵の溜息が漏れた。無事に守りきれた、と妙な達成感をひしひし感じながらも、いい加減自分も起きなければ、と冷たい地面に手をつける。
「―――!?」
ズシリと来る重い痛みに思わず顔面をしかめる。思わず短い悲鳴が出そうになったが、それを寸での所で食いしばり、喉まで出てきた声を黙殺した。
(右の、手首か?まさか捻挫でもしたんじゃ……)
突然の事態に驚きを隠せないでいるシリュウは、思わずエリーナに視線を向ける。しかし、幸いなことに暗闇のおかげで顔色がバレることはなかった。けれど一度知ってしまった痛みはそう簡単に消えてはくれない。不幸中の幸いと言えば、シリュウは器用なことに両利きであるから、剣を持つのには困らないのだが、こちらには戦闘経験など皆無に等しいエリーナがいる。何よりも不安なことは、利き腕を負傷したことよりも、彼女を無傷で守り通せるかだった。
「エリーナ、怪我はない?」
「う、うん。シリュウが守ってくれたから。シリュウこそ大丈夫?」
「……ありがとう、俺は大丈夫だから」
精一杯笑顔を浮かべて、嘘を吐く。悪化している痛みに舌打ちをしそうになるが、熱を持った患部をひんやりとした壁に当てると、少しだけ楽になれたような気がした。こんなことになるのならば、遺跡に入る直前で地図を読む係りとして自分の持っていた鞄を、ヒューガに渡しておくべきではなかった。後の祭りであっても後悔せずにはいられなかった。
「ここだけ、ちょっと明るいね」
「落ちてきた所は向こうよ。こっちの方が明るかったから、気絶してるシリュウを引きずってここまで来たの。さっき確認したけど、登れそうにないよ」
「だろうね。この暗さじゃ下手によじ登らないほうが良いよ」
なるほど。二人とも暫く気を失っていたことは確かだが、どれほどの時間が経ったのかは皆目見当がつかないわけである。上にいるヒューガ達が下りてこないことを考慮すると、二人が”下りることが不可能”と推測した、と断定して間違いはないだろう。どうにかして合流したいものだが、如何せんここはどうやら地図には記されていない別ルートのようなので、シリュウが手にしている地図は全く役目を果たさない。何より、松明がないのだから地図を読み取ることすら不可能だ。
「あ、でもね、ここから先は一本道だよ。ちょっとだけ見てきたの」
不安な声色は健在だが、好奇心も相変わらずのようで、予想以上にエリーナは元気があった。勝手に一人で行動したことを咎めるべきか一瞬迷ったが、彼女なりに安全を確認したかったのだろうと、敢えて叱ることをやめた。
「魔物がいるから、俺から離れないでね」
念のために釘を打つと、先ほどまでの天真爛漫な表情がピシリと凍りつく。シリュウの一言で自分がいかに浅はかな行動を取っていたのか、理解したようだった。それを見て思わず苦笑したシリュウは、左手を上手く使って起き上がり、自分の剣が無事かどうか確認すると、今の所用なしとなった地図をポケットに入れて一つ息を吐く。広がる痛みは相変わらずだ。
(守れるだろうか、俺が、彼女を)
目を瞑って気配を手繰れば、近くに潜む魔物の吐息が耳を過ぎる。この場所から離れてはいるが、一本道しかないということは必ず魔物と対峙する。果たして、戦えない少女を一人庇いながら、無事に仲間たちと合流できるだろうか。もしかすると多少傷を負わせてしまうかもしれない。そんな弱気なことを考えていると、カインの殺気だった気配が蘇る。
思い出した瞬間に、ぶるりと身を震わせて思わず自分自身を掻き抱く。これは何としてでもエリーナを守らなければ、と込み上げてくる苦笑に今度は逆の意味で肩を震わせた。
他に外傷がないことを確認すると、勢い良く立ち上がった。それから神経を研ぎ澄ませ、細心の注意を払う。よく見れば、一本道の中にまばらな間隔で、ここと同じような光が射し込んでいる場所が見えた。お互いの顔色が伺えるほど光は強くない。だが、どこに誰がいるのかという、最低条件だけはクリアしている。これならば上手くエリーナを誘導できるだろうと、意を決してシリュウは一歩進みだす。出来ることならば彼女の手を引いてやりたいのだが、そんなことをすれば怪我をしていることがあっという間にバレてしまう。ただでさえカインと離れて心細いだろうに、これ以上彼女を不安にさせるわけにはいかなかった。
「行こうエリーナ」
うん、と小さな声が後ろから聞こえた。杖をギュッと握り締め、シリュウから離れないように、肩が擦れ違うくらいの距離をエリーナは歩いた。時折片方の手を、先へ進むシリュウと絡めようと伸ばしたが、いつも同じところで躊躇し、結局それが繋がれることはなかった。
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