●● 唐紅の記憶 ●●
あんたって両利きだけど、どっちかって言うと左なのよね。だから右がどうしても疎かになってることをちゃんと理解しておきなさい。でなくちゃ咄嗟のとき無駄な怪我するわよ。
拝啓、師匠。お元気ですか。耳にたこができるほど言われたことが、まさに今目の前で繰り広げられています。
第7話 『無自覚』
「シリュウ!!」
泣き声に近い叫び声に反応して上を仰げば、ギラリと光る魔物の爪。これで終わりだと言わんばかりに細められたその赤い瞳はまるで血のようにどす黒い。この色が自分の瞳と同じなんだと、ふとよく罵られていた台詞を思い出す。
「――――っ!!」
避けきったか、と右から来る攻撃を左へ交わすも、細長く、先端は少し弧を描いている爪の距離までは瞬時に計算出来なかった。二の腕の辺りにビリッと電流でも喰らったような痛みを感じた瞬間、そこから鮮血が溢れ出すのをちらりと確認する。ひっ、と隅のほうから聞こえる悲鳴を無視して、シリュウは咄嗟に患部を押さえステップを踏んで二、三歩後退した。直接圧迫で出血を抑えようとするが、手のひら越しから伝わるドクドクという脈と、右手袋に染み渡る血の量に一度眉を顰める。ところが、軽傷とはいえない傷を負った当の本人は、剣に自分の血がついたら切れ味が悪くなる、とあくまで敵を倒すことを優先しており、自身のことは二の次にしていた。痛みがないわけではない。ただ、悲鳴を上げたくなるほどではないと感じただけ。大丈夫、まだやれる。
「前に出ないで、エリーナ」
「で、でも腕がっ……!」
「後で手当てするよ。大丈夫、俺が守るから」
敵の数は一体。アーク遺跡を棲家としている魔物だ。よほど腹を空かせているのか、先ほどから魔物の口元からはだらりと唾液が滴り落ち、地面に点々と跡を残している。出来ればあの唾液にはお世話になりたくない。この魔物の名前も種類も何も知らないが、一つだけ確かなことは、あの唾液は消化能力が異様に高いということだ。
(……ああは、なりたくないなぁ)
また一つ、ぽたりと粘着質のある唾液が落ちた。その瞬間耳朶に伝わる、じゅわりという生々しい音。塩酸でも含んでいるのか、唾液が落ちたその場所だけが僅かに融けている。これは危険だと判断してエリーナを隅のほうへ隠したのだが、時間がかかると彼女の存在がバレてしまう危険性がある。先ほどの攻撃は爪であったから良いものの、あの消化液に少しでも触れてしまえば、柔な人間の皮膚など骨が見えるほどまで融けきってしまうに違いない。怪我とか、そういう問題では済まないだろう。
(さっさと片付けるしかないな)
幾ら痛みに強いとはいえ、いい加減怪我の手当てもしたい。ついでに言えば、捻挫した右手首も痛みを増していて少々危ういのだ。正直言って機嫌が良いとはいえないシリュウは、実は周りに悟られない程度の不機嫌さを漂わせていた。その気配を一体どんな術で隠しているのか、見守るだけのエリーナも、勿論目の前で対峙している魔物でさえ微塵も気付く気配はない。
ダンッと大きく跳躍した瞬間、剣を掲げるのではなく、しっかりと紐で結んで固定してある靴で魔物の後頭部を一撃で吹き飛ばす。が、誇れるほど脚力や筋肉があるわけではない。ましてやシリュウよりややでかい体格の魔物が、完全に地に伏せることはない。だが、それが目的だったシリュウは、ぐらりと僅かに傾いた魔物の姿を捉えると、一目散に駆け出し剣先を魔物に向ける。脚力に自信はなくとも、走る速度には引け目を取らない。案の定、この数秒の間で繰り出した動作の速さはシリュウのほうが上だったらしく、容赦なく首の根元に刃物を刺し込むと、渾身の力を込めて左へ引き裂いた。
「―――ひっ!!」
血脈の多い首元を狙った瞬間、裂いた一線から勢いよく血飛沫が舞う。一瞬だけ血の豪雨が襲った。ビシャ、と襲いかかるそれに、反射的に目を閉じたシリュウは、生温かく血生臭いそれに顔を顰める。特に胸元から顔面に付着した血の量は半端ではなかった。魔物が息途絶えたことを確認して、空いた腕で一度拭う。黒色の服であるのでそれほど目立ちはしないが、湿った箇所は臭いを放ち、生温かいと感じているとすぐに冷えてしまうので気分が良いとは言えない。剣を一振りして、付着した血液と脂を落とす。それでも後で布で拭かなければすぐに錆びてしまうだろう。
「怪我はない?エリーナ」
魔物に止めを刺した瞬間に上がった悲鳴は、届いていた。そこまで怯えるのならば見る必要はないのに、と思う反面、怯えさせてししまったことに申し訳なさを感じる。確かにヒューガが一刀両断するように足手まといではあるが、エリーナはれっきとした女の子である。男尊女卑をするつもりはないが、出来る限りこんな光景は見せたくないと思うのは察してほしい。座り込んだまま口元を押さえている少女に手を伸ばそうとしたが、右手首は負傷し、更に先ほどの戦闘で左腕まで痛手を負ったことを思い出す。これでは、エリーナの手を握ることなど出来ない。何より、今は血を浴び過ぎた。酷く醜い姿に映るだろう。
「……立てる?」
「う、うん」
「念のために魔物には近づかないでね。悪いんだけど、これ持ってくれる?」
負傷したままの左腕を庇うこともなく、荷物の割には軽い鞄をエリーナに差し出す。出来るだけ血がつかないように、細心の注意を払いながら。
大人しくそれを受け取ったエリーナにホッと安堵すると、壁にもたれかけ魔物の血と脂が付着した剣をいらない布で拭き取りはじめる。それにギョッと目を剥いたエリーナは渡された荷物を落とし、動揺したままシリュウの左腕を掴んだ。
「っ!!」
「手当てを先にしなくちゃ!……って、ああ!ごめんなさいシリュウっ!!」
患部を容赦なく掴んでしまっていたエリーナは、咄嗟のことで痛みに顔を歪ませるシリュウを見て慌て始める。幾ら薄暗くとも、引き攣るように詰まらせた声は伝わってしまったのだろう。
「い、いや大丈夫」
「あわわ、また血が出てきた!!」
「……エリーナ、はい深呼吸」
気が動転しているのか、いつもより数倍落ち着きのない姿に、被害者であるシリュウは苦笑するしかなかった。確かに電流のような痛みが走ったが、それもこれもエリーナが自分を心配してくれたからだ。そう思うと、心配されるのも悪くないと感じる。幸い患部に爪が立てられることはなかったので、出血しているといっても魔物に裂かれた時よりはずっとマシな程度だ。深呼吸を催促し、落ち着きを取り戻したエリーナを見て満足そうに微笑むのは、どちらと言うと父親ではなく母親に近い表情だ。
「ふぅ……よし、じゃあ傷を見せてもらうからね!」
「え?」
「え?じゃないよ!カインが言ってたんだから。”どんな傷でも放っておくと最悪な事態に
陥る恐れがあるからきちんと手当てをするように”って。化膿するかもしれないよ!?」
「そ、そうだね」
ノンブレスで捲し立てられたシリュウは、若干引き気味になりながら何とか一つ頷いた。それに満足したのか、エリーナは壁にもたれていたシリュウを更に追い込み、目の前に鎮座して自分の小さな鞄から包帯やら消毒液やらを取り出す。湿布は流石にないようだったので、やはり捻挫している右手首は放置するしかない、とシリュウは他人事のようにその光景を眺めていた。そんなことを言えばエリーナがまた不安そうにする顔が目に浮かんだからだ。
「―――いっ!」
「が、我慢してね。ちょーっと染みるけど、だ、大丈夫!……ってあれ?失敗しちゃった!」
「あはは……俺は平気だから落ち着いて続けてくれる?」
包帯を巻く過程で、何度も絡ませたり巻き方を間違えたり、しまいには包帯を落として地面に転ばせたりと、何かと忙しい手当てだった。ある意味器用だな、と妙に感心しながら、ようやく出来上がったそれに一つ笑みを零す。お世辞にも綺麗な仕上げとは言い切れないが、不器用ながらも懸命に努力した証があちこちにある。治療には完璧さが必要だが、シリュウはこの手当ての方がずっと好感が持てた。
「ありがとう、エリーナ」
遠慮気味に、ふわりと浮かべられた笑顔にエリーナは一瞬硬直する。それから暫く経ってから、「あ」だの「う」だの意味不明な言葉を繰り返し顔面を真っ赤に染めた。
それは、旅を始めてから初めて見たシリュウの笑顔だった。それまではどちらかと言えば苦笑の割合が多かったが、多分、本人も気付いていないのだろう。シリュウが笑う時は、どこか無理をしている節があることをエリーナは勘付いていた。それはシリュウに好かれたい、という一途な乙女心が生んだ力なのだが、まさかこんな所で素の笑顔を見せてくれるとは思わなかった。だから今エリーナの胸は酷く落ち着かない。
「ええっと、どういたしまして!」
まるで、花のように笑う。それは大輪の中に咲くと言うよりも、ひっそりと咲く一輪の花のようで、表情が乏しい分、一気に少年の気配を色濃く引き立たせていた。
そんなエリーナに微塵も気付いていないシリュウは、血を吸って重くなった手袋を外した。この状態で剣を振るうと肉刺が出来る上に潰れてしまうかもしれないが、事が事なだけに仕方があるまいと嘆息する。剣を鞘に入れ、まだまだ続いている一本道を少し疲れた様子で眺める。進んでいくうちに、光が強くなっていた。この場所ならば相手の顔色もよく伺える。視界良好とまでは言わないが、最低限度の視界は確保されていた。
「道も大分広くなってきたし、もしかしたらもとの道に戻れるかもね」
ひんやりとした空気が先ほどの戦闘で火照った体を冷ます。ついでに頭も冷えるので居心地が悪いわけではないのだが、一生住むかと聞かれれば勿論、否と答える。永住するのならば日の光が燦々と降り注ぐ場所のほうが良い。こんなことを口にしてしまえば、間違いなく自称相棒と名乗っている男は呆れ顔でこう言うだろう。そういう問題ではないと。
だが、暗闇の中を真っ直ぐ歩き続けて一体どれだけの時間が経ったのか定かではないことは確かだ。日の傾きが垣間見ることが出来たのなら、少しばかりは時間を計れただろうに、生憎、線の光程度しか存在しないこの場所では、到底判断がつかない。
「く、暗くても魔物ってたくさんいるんだね」
びくびくとしながら寄り添うようにシリュウの隣を歩いているエリーナも、流石に疲労感や不安を隠すことが出来ないのか声はか細く、心なしか震えている。絶対的信頼に値するカインと離れてしまった挙句、先の分からない道のりを、手傷を負ったシリュウが一人で戦闘に応じているのだ。心細いことは勿論、先行きが不安で仕方がないのだろう。
「魔物は昼間よりも夜のほうが活発的だよ。あいつらは夜目がきくんだ」
「そうなんだ。そう言えば、野宿するときもカインがいつも火の番をしてた」
「魔物に襲われないように警戒してたんだね」
「そ、そっか……。何だか私、カインに悪いことしちゃってるのかな。徹夜だなんて、肌荒れの原因になっちゃう。私だったら耐えられないよ」
「その言葉はカインに直接言ってみたら?エリーナがそう言えばきっと彼は喜ぶよ。それに、俺たちもいるから毎回徹夜をする心配はないよ。安心して」
本当に旅のことを知らないのだな、と面食らう一方、肌荒れ云々と女の子らしい理由に思わずほくそ笑む。だが裏を返せばそれだけ愛され、庇護されてきたことが容易に推測される。身分を明かしてはいないが、ずっとずっと高貴なのだろう。時々、いや、日々の言動に若干お転婆な様子は見受けられるが、かと言ってがさつなのではなく、優雅な立ち振る舞いをする様は、凡人とはやはり違う。ヒューガに何だかんだ罵られてはいるが、実際その通りで、本当に箱入りの中の箱入りなのだ。
(白馬の王子様とか見当違いなこと言ってたけど……)
正直あの台詞は人生の中で最も衝撃的な一言だった。恐らく忘れたくとも一生忘れないだろう。陳腐な言葉ながらに強烈なインパクトがある。多分、エリーナがマシンガントークをかましたせいなのであろうが。
「エリーナはどうしてカインと一緒に旅をしていたんだ?」
カインやヒューガがいると、話がややこしくなりそうなで聞けなかったことをシリュウはついに口に出す。一瞬きょとん、としたエリーナだったが、すぐに難しそうな顔をして唸り始める。不躾だっただろうかと頭の中を一巡するが、どうやらそうではないらしい。
「お父様とお見合いの話で喧嘩になっちゃって。でも私、会ったこともない人のところになんか嫁入りしたくないもの。立場上は分かってはいるけど」
「お見合い……それで、家出?」
「そりゃあ私だってたくさんのお見合いの数を断ってきたことは申し訳ないと思っているわ。でもだからって勝手に相手を決めて勝手に話を進めているなんて酷いと思わない!?」
父親に報告された状況を思い出しているのだろう。ヒステリックに叫びながらシリュウの肩を揺らすエリーナの顔はまさに必死の一言に尽きる。女の力と言っても侮れない。ぐらぐらと揺らされ続けるシリュウは嫌そうな顔こそしないものの、どうすればエリーナの機嫌が良くなるかと、揺れている中で良い案を模索中だった。しかし、結婚だのお見合いだの、正直自分とはあまりに縁遠い内容に、どう突っ込めば良いのかも分からない。
「私ね、小さい頃から結婚するなら絶対に白馬の王子様って決めてたの。ピンチな場面を颯爽と現れて助けてくれる王子様って存在に!」
「へ、へぇ。そりゃあ、一国の王子に求婚するのは大変そうだね」
「ちがーうっ!本当の王子様じゃなくて、王子様みたいな人よ!」
「そ、そっかぁ……」
随分な夢物語な世界だね。喉まで出てきた言葉をぎりぎりで止める。
「でもね、ついに見つけちゃったの!白馬の王子様!!」
シリュウの肩から手を離したエリーナは、嬉々として両手を合わせ、満面の笑みでシリュウを見上げる。見上げられた方はといえば、何とも言えず複雑そうな顔つきだ。否定したいが、目の前の少女はそれを否定してはくれないだろう。そんな雰囲気を漂わせている。
「それは、俺ってこと?」
「そう」
「うーん、どうして?」
「え?」
心底困り果てた声色で尋ねるシリュウにエリーナは思わず足を止める。それに合わせて、周辺に魔物の気配があるか否かを警戒しながらも、シリュウはエリーナと面と向かう。決して機嫌が悪いわけではないが、困惑の中に疑心を含んだ視線に、エリーナは思わず言葉を詰まらせる。彼のこの顔は、昨日と今日の中で最もよく見る表情だ。元来穏やかそうな作りをした顔なので、恐怖は感じない。しかし、奇妙に大人びたそれに慣れてしまいそうで、一瞬恐怖する。笑うとあんなにも綺麗なのに、何と勿体ないことか。
「確かに酒場でエリーナを助けたのは俺だけど、それは偶々に過ぎない。あの時俺がいなくても、多分君は助けられていたよ。それに俺は、特別君を助けたいと思っていたわけじゃない」
特別なことなど何もしていない。たとえどちらにも非があったとしても、大の男が未成年の少女に手を上げるという行為が気に入らなかった。暴力で解決するなどと馬鹿げた行いに嫌気が差しただけのこと。そして助けた相手が、偶々エリーナであったこと。周りから見れば、男に襲われそうになっていたところを勇敢にも助けた少年、と映るのだろ。だがそれは大きな間違いだ。そんな浮ついた感情で助けたわけではない。エリーナを助けたい、と思ったわけではない。全ては自分自身のわだかまりを解決したに過ぎないのだ。
「エリーナは、誤解してる」
不意に細められたシリュウの瞳に、愁いが帯びる。、
「俺は君が思っているほど出来た人間じゃないよ」
周囲を二の次にしなければ、その分の負の部分はこちらが請け負わなければならない。それが嫌で、助けたのだ。いや、結果的に助けた、という表現の方が正しいのかもしれない。例えそれが周囲には好感に繋がるようなことでも、内心は自分の価値観を守ることが出来て安堵している。そう、誰かが助かってよかったなんて、その後にしか感じられない。
「シリュウのことは、まだ仲間になって間もないから全部は分かんないけど」
逸らされた視線を追うように、エリーナはたどたどしく言葉を紡ぐ。一瞬見せたシリュウの悲しげな表情に息が詰まる。無理をして言葉を吐いているようにしか、見えなかった顔だ。折角打ち解けてきたというのに、今にも離れてしまいそうな気配に、込み上げてくる涙をグッと堪える。
「私にとってシリュウは優しい人だよ。信頼しているし、一緒にいたいと思える人だよ」
彼に恋をした。けれど、あの出来事があったから好きになり続けたのではない。人として好きなのだと、懸命に伝える。シリュウという一個人を真っ直ぐに見据えているのだと、どうにか気付いてほしくて、懇願するような声で訴える。
「……エリーナ、それは……。いや、人を簡単に信じるのは危ないよ。君が傷つく」
ハッとしたように顔を上げたシリュウは、何度か逡巡して一度口を閉ざした。その際に浮かべた悲痛な顔は、エリーナには見えていない。取り繕ったように苦笑を浮かべて注意していると、彼女を守る役目の男の姿が脳裏を過ぎった。ここまで世間知らずに育て上げたのは称賛の域に達するが、よくここまで守り切ってきたものだと、感嘆せずにはいられない。
「―――ほら!シリュウのそういうところ、凄く好き!!」
「え?」
「価値観とか全然分かんないけど、心配してくれてそう言ってくれてるでしょ?」
「いや、だからこれは…」
「シリュウはね、無意識に優しいのよ。自分の為にやってるって言ってもね、それは誰かの為にも繋がってるんだよ」
自信満々に言い切ったエリーナを呆気に取られながらも不思議そうに首を傾げていたシリュウは、フッと視線を落とし、ぼんやりと地面を見つめた。自分自身を信じて突き進んだ行いが、果たして誰かの役目にたっているなど、一度も考えたことがなかったからだ。
「そう、なのかな」
平和なことは良いことだ。多くの不安は罪のない人間の命も簡単に奪う。だからといってシリュウは博愛主義なわけではない。必要な時がくれば、非情になることだって出来る。優先順位を付け、その内で助けられるのならば助ける。助けられないのならば、切り捨てることも必要だ。そうやって一つに括ることが出来るからこそ、優しいのなどと言われることはないと己の中で確定してきていた。それをこの少女は、無意識なのだと断言してみせた。他意もなく然も当然と言わんばかりの、迷いのない純粋な笑顔で。
「そうだよ。ヒューガなんかより、ずっとずっとシリュウのほうが優しいもん!」
途端に浮かんだ不機嫌丸出しのヒューガの顔に、思わず噴出する。クスクスと口元を押さえ笑い出す。確かに、ヒューガはエリーナに対して優しいとは到底言い難い。何故なのかは本人が口を割らないので定かではないが、生理的に合わないのだろう。けれど優しくないわけなんかじゃない。彼の方こそ、自分よりずっと繊細で慈悲がある。ヒューガを思い出して憤慨しているエリーナを見て、シリュウはこっそり心の中で呟いた。
「ありがとう、エリーナ」
優しくなりたいとか、そういった願望があるわけではない。寧ろ縁のないものだとばかり思っていた。今もまた、それが必要だとは感じない。
けれど、君は優しいのだ、と言われてみると、罪悪感よりも気恥ずかしさの方が際立つ。悪い気分じゃない。屈託のない純粋なエリーナの笑顔を見ていると、それまであった緊張感が少しだけ解れたような気がした。
カツカツ、と小刻みに鳴る足音と松明の火に揺れる影が二つ。図体も然程変わらないそれらは沈黙を守ったまま急ぎ足で前に進んでいた。敵は数分前に片付けた。そのため、この周囲に敵の殺気など全く感じられない。それなのに、居心地の悪くなるような雰囲気が重苦しく漂っていることを、ストッパーのいない中、この男どもは果たして気がついているのだろうか。
「…………」
「…………」
双方視線も合わせない。言葉も交わさない。ただひたすら、目的の場所まで歩くだけ。もしここに場を丸く収めることが出来る者がいれば、少しは他愛もない会話が飛び交っていただろうに。例えばシリュウとか、シリュウとか、シリュウとか。エリーナの場合は話がこじれる可能性が高いので、場を収拾する役目としては適任ではない。
金髪の優しげな端整な顔立ちの男は、守るべき者が不在のせいか些か仏頂面だ。おまけに自他共に認める犬猿、いや強烈なほどウマが合わない相手と行動しているせいか、顔に似合わず殺気を放出している。
その後ろからついてくる青い髪の男は、こちらも終始ムスッとした表情で、不服そうに眉を顰めてはいるものの、金髪の男とは対照的に殺気立っていることはない。そのおかげか、一触即発という最悪の事態は何とか免れているようだ。
「着きました。お嬢様とシリュウ君は……どうやらまだのようですね」
魔物もおっかなびっくりの殺気を放っていたカインは、ふと広間に出た瞬間、何度も地図と現在位置を照らし合わせる。ついにはそれまで使っていた古い地図を綺麗に折り畳み、ポケットの中に収納した。
「俺たちの方が距離的に近かったか、それともあいつらに何かあったか……」
「ここに魔物の気配はありません。手分けして抜け道でも探しましょう」
ヒューガの返事を待つことなく独断行動に出たカインに、やれやれと肩を竦める。しかし反論する必要性が感じられず、仕方なしに頷くと、カインとは逆の方向を歩きだした。勿論抜け道を探すのを大前提としているのだが、ここに来た目的も忘れてはいけない。
(琥珀石もなし、と)
豪華な祭壇の上にあるはずの、アーク遺跡の象徴『琥珀石』は存在していなかった。この世に存在していなかったというわけではない。単に盗まれたのだ、盗賊カーマインに。それがいつの頃なのかは分からないが、荒れ放題の内部を見れば奴らが粗暴であることは勿論、無駄な証拠を残さない辺りはそこらにいる盗賊なんかよりも数倍足が掴めない相手
だということが推測出来る。シリュウもそんな面倒な輩を追っているのだというのだから、先行きが思いやられるものだ。
「ヒューガ」
祭壇の頂上でぼんやりと辺りを見回していたヒューガは、ふと下の方からかかった声に驚く。何故なら、彼が自分の名を呼ぶとは思っていなかったからだ。胡乱気に目を細め、決して相容れない存在を見下ろす。薄暗さの中でも、金髪はよく映えた。
「単刀直入に言う。お嬢様に近づくな」
ああやはり。予想通りの展開にうんざりと肩を落としたヒューガは、面倒くさそうに頭を掻く。ただでさえ見下ろされている状態からでも反吐が出そうだというのに、その態度が気に入らないのか、カインの眉間には何本か皺が寄っていた。エリーナがいないのをいいことに殺気を全開で放つ様子は、柔和な性格であろう彼の姿からは考えられない。
「お前からは血の臭いに混じって凄まじいほどの死臭が漂っている」
「いい鼻してんじゃねえか。けどなぁ、それはお前に言えた口か?」
互いが牽制し合い、目に見えない火花が散る。優勢であるのは、指摘されたことを否定するのでもなく、勿論肯定もしていない、動揺など微塵も感じさせない態度の男だ。その証拠に、指摘を指摘で返されたカインはというと僅かにだがピクリと反応し、次第に眉を顰め不機嫌さを露わにし出した。
「……」
「まあいい。それに、近づかねぇよ。あんなくだらねー女のところになんてな。精々俺に気を張って、真っ白で馬鹿なあの女の意思とやらを守ってやったらどうだ?」
貶し足りないのか、エリーナのことを頭の片隅にでさえ思い出したくないのか、苦虫を噛み潰したような顔で、嘲笑すれ姿はまさに非道。エリーナがここにいれば、「人間の敵」とでも罵りそうだ。
「守るに決まっている。あの方の為ならば、何を代えても」
怖気づいた様子もなく、寧ろ挑戦的な笑みさえ見せたカインはそのまま踵を返し、何事もなかったかのように再度抜け道を探し始める。薄暗さで正確には判断できなかったカインの金色の目をヒューガは思い起こした。
「物好きな奴」
掠れた声で吐き出された言葉はカインに届くことはなかった。
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