● 唐紅の記憶  ●




力が足りない。人一人を守れないこの身は、なんと非力であろうか。

「ごめんなさい、ごめんなさいシリュウっ」

はらはらと零れ落ちる涙が俺の手に落ちる。冷たくもなければ温かくもない。
悲痛に満ちた顔を安心させたくて、血の気が失せてるであろう己の顔の筋肉を総動員し、
出来る限り精一杯笑顔を浮かべる。ああでも、それは逆効果に終わってしまった。

「痛いよね、ごめんね…」

不器用な手付きで必死に手当てをする姿はきっと健気に映るだろう。泣き腫らした目は
既に赤く腫れており、見ているだけで痛々しい。本来ならば多少世間知らずでも、
無邪気な笑顔を見せているのであろうそれは、谷底に突き落とされたような絶望の色が
浮かんでいる。

「右手首を怪我してるって気付かなくて、ごめんなさいっ」

……バレてしまったのだ。つい先ほど魔物を二体ほど倒した後、エリーナに手を引かれた
瞬間。そう、彼女はその前に負傷した左腕のことを気遣って右手を取ったのだろうが、
それが裏目に出た。強い力でなくとも患部を直接握られた右手首に、何の心の準備も
していなかったシリュウは、偶発的とはいえ思わず痛みに短い悲鳴を上げてしまったので
あった。








第8話 『近づいた距離』









「こんのアホがっ!!」


広い間取りであるとはいえ、石造りでひんやりとした遺跡の奥では、男の声は壁に直撃し、
見事に反響してあちこちに響き渡る。目の前で叫ばれたシリュウはというと、煩いと思う
反面、何も言い返すことの出来ないことは事実であるので申し訳なさそうに少しだけ笑み
を浮かべている。それとは対照的に、隣で縮こまってビクビクしているエリーナは、
眦に涙を溜めて、それを零さないよう何とか踏ん張っているが時間の問題であるのは確実
だ。

「ごめん、ヒューガ」
「ごめん、ヒューガ。じゃねーっての!!一体何なんだこの有様は!!」
「うん、ちょっとヘマした。これじゃ一人前なんて到底言えないよなぁ。
 あ、そうだ。今度一緒に鍛錬してくれない?あんた、剣の腕は凄いんだからさ」
「……お、お前な………」

ヒューガとカインが隠し通路を見つけ出したのと、シリュウとエリーナがその隠し通路
から出てきた瞬間はほぼ同時だった。二人の無事に二人は勿論喜んだのだが、先を歩いて
いた者のあまりのみすぼらしさに、思わずヒューガとカインは絶句した。
衣服は所々裂け、その箇所からは血が滲んでいる。左腕に巻かれたお世辞にも綺麗とは
言えない包帯からは、患部からの出血が完全に抑えられていなかったせいか、
円を描くようにじわりと滲んでおり、少しは血が凝固したのか赤褐色に変化している。
では右腕は無事なのか、と見てみると、裂傷の痕は勿論のこと、手首には包帯が
申し訳なさそうな程度に巻かれている。勿論ヒューガもカインも何度も経験したことの
ある怪我なので、それが捻挫であることは簡単に推測することが出来たのだ。
それでもまだマシに見えるのは、シリュウの衣服が黒を基調としているからだろう。
兎にも角にも、ボロ雑巾に近い状態で帰還した少年の姿と、少し汚れてはいるものの
目立った外傷のない少女はあまりにも対照的だったのだ。

「シ、シリュウ君」

最初の方こそ、目立った外傷はなくとも掠り傷を負っているエリーナを見て
ちゃんと守りきれていなかったシリュウを罵倒しようとしていたカインだったが、
あまりに悲惨な光景に用意していたはずの言葉が詰まり、喉から出てこない。
ようやく出てきた言葉と言えば、無謀と言うか、無茶と言うか、そんな行いをしたで
あろう彼への、呆れとも心配しているようにも聞こえる弱い声色。

「あ、あのね、ずっとシリュウが守ってくれてたんだよ。
 手首は穴に落ちた時に捻っちゃったみたいで、それを隠して私を守ってくれたの」

後ろでヒューガがギャーギャーとシリュウに喚きながら説教をしているが、
当の本人はと言うと、申し訳なさそうに苦笑するだけで一向に反省の色を見せていない。
それがヒューガの苛立ちを更に募らせているのだが、シリュウは全く気付く気配がない。
エリーナが施した手当てを乱暴に取り外し、今度こそちゃんとした手当てをしようと、
色々文句を言いながらも、自分の鞄の中から消毒液だの、軟膏だのを取り出す。
しかしヒューガ自身もそこまで得意ではないのか、エリーナほどではないものの
四苦八苦していた。

「シリュウね、痛いのを我慢してずっと私に笑いかけてくれてたの。血で汚れた手を
絶対に私に向けなかったわ。……私が血が怖いってこと、分かってたみたいだった」

シリュウを怒らないで、と視線で訴えてくる主にカインは一つ溜息を漏らした。
ちらりとエリーナの状態を見れば、右手に滲む程度の傷が一線。
スカートの裾が大分黒ずんではいるが、その他に目立った怪我は見受けられない。
最大のポイントである顔には、泣き腫らした痕はあっても傷は存在していなかった。

「健気さと意地と努力は…まあ、合格でしょう」

もう一つ、今度は長い溜息を吐いてカインはエリーナの傍から離れ、手当て中の二人の
もとへゆっくり歩みだした。それにいち早く気付いたシリュウは不思議そうに首を傾げ、
手当てをしているヒューガと近づいてくるカインを交互に見やった。作業に没頭している
ヒューガはどうやら気付いていない様子だ。

「何ですか、その中途半端に緩んだ巻き方は。下手です」
「ぁあ!?んだとコラ!!」
「もう一度言いましょうか?下手で最悪で人として最低なんですよ、それ」

頭上で繰り広げられる攻防戦にシリュウは思わず身を引いた。ただでさえ不仲である
というのに、カインが火に油を注ぐようなことを連呼するので正直恐怖を感じている。
カインの言葉に食い下がろうとしたヒューガだったが、どかりと見た目に反して
男らしく座ったカインに咄嗟に目を瞬かせた。どうやら流血沙汰という最悪な展開には
ならないようだと安堵する。だが包帯や消毒液を断りもなしにヒューガから奪った
カインは、文句を言おうとしているヒューガをギロリと一瞥し黙らせ、固まって呆然と
しているシリュウの手を患部に触れないようそっと取り、だが逃がしはしないと
言わんばかりにがっちりと固定し、有無を言わせぬ雰囲気を漂わせて手当てをし始める。

「包帯の巻き方くらいちゃんと覚えなさい。……シリュウ君、きついですか?」
「え、あ、もう少しくらい締めていいよ」
「分かりました。では固定しますよ」

あれだけエリーナもヒューガも苦戦していたのが嘘のように、いとも簡単に手当てをする
カインにシリュウは僅かに瞠目した。心なしか前より声色も穏やかなのは自分の血の気が
失っていて感覚が鈍っているのだろうか、と思わず耳を疑う。

「今度は手首にしましょうか。ヒューガ、湿布」
「お、おう…」
「即効性のあるものですからかなり冷えますよ。我慢してください」

刺々しい声で命令したカインにいつもならば一言二言は反論するヒューガも、
カインのペースに呑まれてしまった。ついでに言えばヒューガとシリュウへの態度が
明らかに変わったことは誰が見ても聞いても明確であった。

「あの、カイン」
「はい」
「えーっと、どうかしたの?」
「いいえ別に?」

脇目も振らずに黙々と作業をし続けているため、二人の視線が合うことがない。
出会った当初ならばこの会話も緊迫した、警戒心のある様子に見えただろうが、
今はそれを微塵も感じさせないほどの穏やかな雰囲気がふわりと漂っている。
数時間前とのギャップに追いついていないシリュウは混乱するばかりで未だに謎が
解けていない。腑に落ちないと言った表情で首を傾げるものの、やはり答えは見出すこと
は出来なかった。手当てをする手を中断することなく、ふとカインは困ったオーラを
出し続けているシリュウが可笑しくなってふふっ、と頬を緩ませ小さく笑う。

「カイン?」
「いえ、百歩譲って認めてあげましょう、と思っているだけです」
「百歩?…認める?」

はて、と更に小首を傾げたシリュウは何度も目を瞬かせながら空いている手で、患部に
響かないことを意識しながら思わず自分の頬を数回掻いた。

「満点ではないですけど、お嬢様に大きな怪我をさせなかったこと。
 何より大切なお顔に一つも傷を与えてない。……私の代わりによく守ってくれましたね」

笑みの含んだ声にハッと顔を上げたシリュウは、いつの間にか片方の手当てを終え、
真っ直ぐ見据えてくるカインの瞳を見て瞠目した。満足のいったカインの表情は優しく、
本来の気質であろう穏やかな笑みが、今は敵意ではなく、信頼の意味を含めた視線で
シリュウを見つめている。

「…代わりとかそんなの考えてないよ。それに約束しただろ、守るって」
「ええ、そうでしたね。これからもよろしくお願いします、シリュウ君」

軽く会釈をしたカインに驚いたシリュウも釣られて頭を下げる。
相変わらず躾の行き届いた子供だと、会釈をした格好のままカインは感心していた。


「それで琥珀石は…」
「予想通り、既に荒らされた跡だったぜ。あらかた調べたがそれらしいものはない」
「そう。カーマインがここに来たっていう噂を辿ったけど、一体どれくらい前なんだか」

しっかりと固定され、傷口を湿布や包帯で覆っているおかげか少しは痛みが楽になった。
カインの手に支えられながら立ち上がったシリュウは、中央の座に足を運ぶ。
ふらふらとその場所を登ると、先ほどヒューガが確認した場所と同じ位置から
遺跡の最深部であるこの場所をぐるりと見渡した。遅れてシリュウに引っ付いてきた
エリーナもひょっこりと顔を覗かせ、きょろきょろと視線を泳がせる。

「とにかく一旦外に出ましょう。目的のものはなかったことですし、
 こんな所にいつまでもお嬢様を留まらせることは実に不愉快です」
「ん、そうだね。そうしよう」
「村か町、最悪川でもいいからとっとと探すぞ。んでお前はすぐにそれ、洗い落とせ」

祭壇から降りたシリュウの服の裾を持ち上げたヒューガはきつく眉をひそめている。
大半は返り血であるが自分の血も染み込んでいる服やら鞄はおどろおどろしい。
黒地の服はともかく、鞄はそれに相反する色合いのものなので、血の色が直に分かる。
厳しいヒューガの声にビクリと震えたのは、隠れるように隣に寄り添っているエリーナだ。
怯えの気配を感じ取ったシリュウは縮こまっているエリーナを安心させるべく、
人の良い笑みをさり気なく見せた。








カァカァと夕焼けの空に浮かぶ黒い鳥をぼんやりと眺める。沈みきらない夕日は西の空に
浮かんでいた。あと一時間も経たないうちに夕焼けから夜空へと空は変貌するだろう。
昼間は快晴に近い天気だったので今晩は月が美しいはずだ。

「シリュウ?」

背後に近づいてくる気配に気付けなかったシリュウは咄嗟に腰に掲げていた剣に手を当て
瞠目して強張った表情のまま後ろを振り返った。しかし視界に入った人物を凝視して、
失敗してしまった、と心の中で己を叱責する。

「ご、ごめんエリーナ」

敵意、いや殺気を向けられたエリーナは見事に石のように固まっていた。
普段から殺気というものに慣れていない人間ならば、この気配に晒されでもすれば
彼女のように硬直したり、悲鳴を上げたとしても何らおかしくはない。

「う、ううん!急に声かけちゃってごめんね!!」

鋭い目つきが穏やかなものになるとようやく緊張が解けたのか、いつもの様子で
にぱっと笑ったエリーナは、シリュウに許可を取ることなく隣に腰掛ける。

「それにしても遺跡から町がそこまで遠くなくて良かったね」

夕焼けを見てはしゃぎながら、エリーナは数時間前のことを思い出していた。
結局アーク遺跡から外へ出るのはそこまで時間はかからなかったものの、肝心の町探しで
時間をとられた。おまけに満身創痍なシリュウは通常の健康状態ではないことは明らかな
ので、歩くペースも自然と遅くなる。カインがいたから良かったが、方向音痴なヒューガ
では、例え旅の知識や剣の腕前が一流であろうとも目的地に辿り着けないのでは全く持っ
て役に立たない。エリーナは地図を読めるか否かという以前に現在地を見つけ出すことは
おろか、自分が立っている位置の東西南北を調べることも出来ないので論外だ。

「おかげで風呂にも入れたし、手当ても医者に診せることが出来たよ」

辿り着いた町、ローランドは田畑も多く自然に恵まれている。日が落ちかけた時刻に
到着したので昼間の風景は分からないが、夕焼けでこんなにも美しく照らされているのだ、
きっと昼間の陽射しを燦々と浴びた木々や田畑の緑は一層美しいのであろう。

「怪我、痛い?」

ふと声のトーンが落ちた少女を不思議に思いながら、夕焼けに向けていた視線をエリーナ
の方へ移す。ふわふわした髪が心なしか下向き加減で、華奢な肩はいたたまれないほど
小さくなっている。すっかりしょげてしまったのか、俯いているせいで顔色を伺うことは
出来ないが、きっと今にも泣きそうな顔をしているのだろう。

「カインの応急処置の出来栄え、先生が誉めてたよ。
 ちゃんと固定して止血が出来てたから傷口もそこまで広がってないって」
「……や、やっぱり私のやり方は駄目なんだよね」
「え。あ、いや、そうじゃなくて」

墓穴を掘ってしまった、と思わず笑顔のまま顔を引き攣らせたシリュウは途方に暮れる。
相手がヒューガやカインであれば、きっと彼らは冗談で傷ついたふりでもするのであろう。
しかし今目の前にいるのは、世間知らずで旅に出て本当に間もない普通の女の子。
けれど純粋だからこそ素直なのだ。冗談を冗談と受け止める事が出来ず、そのまま本気に
取ってしまう。それを考慮すれば、あんなことを言えば彼女が傷つくのは目に見えていた
はずなのに。と、肩を落としたエリーナを見てシリュウは一人心の中で溜息をつく。
何も考えずに放ってしまった配慮のない自分の台詞が、今では憎らしい。

「今度は、絶対に出来るんだから!」

ここは素直に謝ろう、と口を開けた瞬間だった。いきなり立ち上がったエリーナは
両手の握り拳を高々と天に上げ、意を決したかのような爛々とした双方の瞳は
口を開けたままぽかんと間抜け面をしているシリュウへと向いている。

「…出来る?」
「カインに徹底的に教えてもらうわ!それで今度からシリュウの手当ては私がする!」

俺だけにしても意味がないんじゃ、と言いかけた口を寸でのところで塞ぐ。
言っていることは微妙にちぐはぐしているが、要は手当てが出来るように努力する、
ということだろう。最後の言葉に多少引っかかりを感じるものの、達成したい目標に
前向きなことは実に良いことだ。確かにエリーナは世間知らずなお嬢様だが、
今の彼女を見るとどうやら努力家であることが見受けられる。それが実る実らないかは
別として、シリュウは一途に頑張る人の姿を見るのが好きだった。

「じゃあ、お願いするよ」

暫くカインが練習台にされるんだろうな、と思うと堪らず吹き出した。

オレンジ色に染まっていた空がいつの間にか星が見えるほど暗くなっていた。
いい加減に宿に戻らないとあの二人が煩い。帰ろうか、とエリーナの手を取ろうとした
瞬間だった。


「きゃぁぁあああ!!」


日も暮れ、木々に身を寄せいていた鳥たちが布を引き裂くような悲鳴に驚いて
夜空へと再び飛び交う。冷たい風が頬を過ぎた。嫌な汗が背中を伝い、混乱している
エリーナの手を引っ張って駆け出す。嫌な感じだ。胸騒ぎがする。

「誰かっ、誰か!」
「うるせぇ!大人しくしてろ!!」
「わぁぁああん、おかあさん、おとうさーん!」

悲痛な女性の声、泣き叫ぶ幼い子供。町の入り口付近で目にしたものは、とてもこの
町人の格好ではない薄汚れた衣服を身に纏った複数の男たち。手に持っている鋭利な
ものは、剣であったりダガーであったりと統一感はないが、女子供を荷馬車に詰め込み、
その夫や老人といった男たちを近づけさせないよう威嚇している。勇敢にも立ち向かった
者もいたが、多勢に無勢。何より武器らしい武器を持っていない町人では、盗賊のような
悪名高い人間に適うはずがなかった。

「おいおい、一体何の騒ぎだよ」

面倒くさそうな声に町人の男たちは一斉に振り向いた。武器をちらつかせていた盗賊も
ピタリと動きを止め、訝しげに声の主を睨みつける。

「手前、ここの人間じゃねーな。旅人か」
「ああそうだ。さっき着いたばっかでこっちは疲れてんだよ」
「だったら口出さねぇでさっさと宿屋で寝とけや。こっちは忙しいんだよ」

コキ、と首を鳴らし、紺色の頭をガシガシと掻きながら歩み寄ってくる男に盗賊は一瞬
怯むが、武器を持っていないことを確認するとニタリと品の悪い笑みを浮かべる。
パッと見た印象で金目の物など所持していないと判断すると、出てくる言葉は詰まらなさ
そうな声。おまけに無気力な、町人と協力しても役に立たなさそうな雰囲気に盗賊は
先ほど見せた緊張の糸を緩ませる。

「た、助けてくれ!うちの妻が、子供がっ」
「ぁあ?ったく、面倒なもんに巻き込まれたぜ…」
「あんた剣は!?町に来たときは持ってただろ!!」
「んなもん、宿屋に置いてるに決まってるだろーが」

緊迫した空気の中に飄々とした声が嫌に響く。明らかにやる気のない声に町人が絶望の
色を見せた。


「ちょっとヒューガ!あなた最低よ!!」


町中の女子供の大半は盗賊の荷馬車に詰め込まれていたせいか、ここで響き渡った女の
声に一同が唖然とする。ヒステリックの混じった叫び声に胡乱気に首を動かしたヒューガ
は、露骨に嫌そうな顔でこの場に躍り出た女を見据えた。

「エ、エリーナ、前に出ちゃだめだって!」
「だってシリュウ、あいつ何もしないのよ!?」
「そうじゃなくてっ―――」
「へぇ、こんな上玉が残ってたのか。こりゃ失敗。俺たち盗賊の名が廃るぜ」

後先考えずに前に出たエリーナを懸命に宥めるシリュウの姿を見てピクリとヒューガの
目つきが変わる。嫌そうな顔は相変わらずだが、どちらかと言うと何か別のことを難しく
考えているようにも見えなくはない。

「……とにかく前に出ないで」
「え、あ、あれ?」

エリーナを背中に庇いながら鞘から剣を抜いたシリュウが盗賊と対峙する。とは言え、
アーク遺跡で負った傷がこんな数時間で完治するわけがなく、使い物にならない右手を
考慮し、我慢すれば何とかなる左手で剣を構える。勿論我慢をすれば、という前提である
ので、筋肉に力を入れたせいか包帯で巻かれた部分が再びじわりと熱を持ち始めた。

「小僧、傷だらけじゃねーか。無理しないで子供は後ろに引っ込んでな」
「そうそう、そっちのお譲ちゃんを素直に渡してくれたら痛い目なんか見なくてすむぜ?」

げらげらと笑う男を前にして、シリュウは一度目を細めた。

「悪いけどエリーナは渡さない。町の人も返してもらうよ」

姿勢を伸ばし、我流と指導された型を併せた構えを見せると一人の盗賊がシリュウの気配
に息を呑んだ。他の仲間と言えば子供が相手のせいか余裕を見せ、構えるどころか
ふらふらとした足取りでシリュウに近づいていた。ようやく自分が馬鹿なことを仕出かした
のだと気付いたエリーナは、情けなくも無力なため、言われたとおりシリュウの後ろに
下がり、とばっちりを受けないよう自主非難している。

「…おい、こいつ目が赤いぜ?」
「へぇー、珍しいじゃねぇか。闇市で売ればそれなりの金になるだろ」

夜、と言ってもまだ薄暗い程度だったせいか、黒髪に赤目は映えた。適当に子供の相手を
する予定だった盗賊たちだったが、換金できる対象としてシリュウににじり寄り始める。
エリーナが何か叫んでいたが、それでもシリュウは少しも動かない。一人シリュウの気配
に気付いていた一人の盗賊がついに叫ぶ。

「おいやめ――――」
「悪いですけど、彼を金に換えてもらっては困ります」

ゴッ、と鈍い音が不自然に起こる。何事だ、とシリュウに歩み寄っていた盗賊たちが
振り返ると、青い髪の男の他に先ほどまでいなかった金髪の男が一人の盗賊の頭を、
剣の柄部分で容赦なく殴っている姿が視界に入った。金髪の男は終始笑顔であるものの
言いようのないオーラを背後に漂わせている。

「それと、エリーナ様に向けた卑しい目も気に入りませんね。
いっそのこと潰しましょうか。ああいえ、抉り出した方が良いかもしれません。」

脳天に一発、白目を剥いた男の頭を片手で掴んでいた金髪の男、もといカインは
目にも留まらぬ速さで男を地面に叩きつける。追い討ちをかけるように、這いつくばった
男の頭に片足を乗せ、人の良い笑みを浮かべたままシリュウに近づいていた男に
視線を送る。

「て、手前!」

その足をどけやがれ、と叫ぼうとした瞬間だった。


「ヒューガ!!」


狙いをつけていた少年の声が響く。一体何なんだ、とシリュウの方へ視線を移そうとした
矢先。ゴッと、カインが柄の部分で殴った音とはまた違う音が響く。ヒィ、と情けない
悲鳴を上げる者もいた。

「あーあー、なっさけねぇ面だな」

右手の握り拳をひらひらさせたヒューガは地に伏せた男のみすぼらしい姿に溜息を吐いた。
左頬は妙な形にへこんでおり、切れた唇からは血が滲んでいる。痙攣するかのように小刻
みに動いているものの、暫くは起き上がれないことは確かだ。唖然とする中、指をポキポ
キと音を鳴らせ、言いようのない笑みを浮かべたままヒューガは残りの盗賊に歩み寄る。
息を呑む音が聞こえたような気がした。どうやらカインに倒された者がリーダーだった
ようで、強者を失った下っ端の彼らはとにかく今は危険なのだ、と察知すると、先ほど
まで威勢の良かった姿は何処へやら、四方八方へ逃げ惑う。中には腰を抜かす者もいた。

「ヒッ―――!」
「あの女の方はどうでもいいが…俺の相棒を金に換えようたぁ良い度胸じゃねぇか」

絶対零度の視線に石のように固まった男の頭を掴む。口元は笑っているが目元は微塵も
動いていない。冷え切った双方の瞳が、薄暗い夕闇の中不気味に光っている。頭を掴んで
いる指の圧力は半端なものではなかった。みしみしと骨が少しずつ砕けるような感覚に
陥る。いとも簡単に同じ背丈の男を片手で持ち上げられ、宙に浮いた盗賊の男は
恐怖と痛みのあまりに悲鳴にならない声で叫ぶものの、誰も助けてなどくれやしない。
仲間の一人がヒューガに捕まえられていても誰も見向きもしない。ヒューガの殺気に
身震いした者たちは途中でこけそうになっても、形振り構わず逃げ出した。

「逃がしはしねぇ。地の果てまで追ってやるぜ」

いつの間にか泡を吹いて失神していた男の頭を地面に叩きつけると、近くで腰を抜かして
地面に座り込んでいた男の顔面を殴り飛ばす。男の口の中が切れたのか一度だけ大きく
血を吐いた。戦意喪失の男を見つつも、まだ意識があることを確認するともう一発殴ろう
と構えた瞬間にクン、と振り下ろそうとした腕を誰かに取られた。

「いい加減にしろよヒューガ。幾らなんでもやりすぎだ」

窘めるような声に先ほどまで漂わせていた殺気は、ぽかんとした呆気に取られたヒューガ
の顔で総崩れする。数回深呼吸して辺りを見回すと、いつの間にか残党はカインが始末
したらしく、町人が持ってきた縄で全員締め上げられていた。盗みを失敗したことを
悔しんでいるのかと思いきや、伏せている顔色は全員が顔面蒼白で、巨体の男どもが
情けなく肩を震わせている。荷馬車から女子供を助け出したカインといつの間にか
移動していたエリーナは、抵抗して傷を負った人たちの手当てに追われていた。

「……そうか」
「そうだよ。あんなに殺気立って…加勢は助かったけどちょっと惨いよ」
「あ?こいつらの標的になったお前が何ぬかしてやがる。
これくらいの制裁で済んだことを寧ろありがたく思ってもらわなくちゃ俺が困る」
「制裁、ねぇ」

ヒューガとカインのおかげで剣を振るう必要はなかった。ネチネチとしたカインの毒に
怯える盗賊たちを見るのは可哀想な気もした。よほど恐ろしかったのであろう。
むさ苦しいことこの上ない図体のでかい男たちが身を寄せて震え上がっている。
カインの攻撃は精神的に来るものであるが、ヒューガは少し違う。人間を人間と
見ていない冷めた目付きに、向けられていなくとも背筋が凍りついた。抑揚の欠けた
地を這うような低い声が耳朶に響き、最後の審判で死刑を下されたような窮地に追い詰め
られる感覚だ。何が彼をそこまで駆り出たせたのか。それは不明だ。勿論シリュウのこと
も理由に入るのであろうが、だからと言ってあのような小物の連中に、たとえ負傷してい
てもシリュウに適わないということはヒューガも分かっていたはずだ。

(あの視線が俺に向けられてなくて、良かった)

「傷口とか広がってないんだろうな」

暫くぼんやりと感極まった町人を見ていたが、突然シリュウのほうへ向き直る。
少し前に見せていた恐ろしい笑みなどまるで嘘のように、今は子供っぽくむくれていた。
何が気に入らないのか、しきりにシリュウの包帯の巻かれている部分を見ては時々心配
そうに眉をひそめる。

「ああ。ヒューガとカインのおかげだよ」

大丈夫、と笑うとようやく緊張の糸を解いたのか、フッと力の抜けたような笑みを見せた。

とりあえずヒューガが倒した二人も縄で拘束しようと、エリーナから余った縄を拝借して
まずは気を失っていない方から縛り始める。しっかり固定して、きつく縄を締めれば完成。
勿論、意気揚々とお縄にかけようとしたシリュウを呆れた様子でヒューガが止めたが。

「……ん?」

次に気を失っている男をヒューガが縛っている時にふと男のしているバンダナに目が行く。
そろそろと腕を伸ばし、申し訳ないと思いつつも、その紺色のバンダナを解いた。

「どうかしたのか?」

不自然なシリュウの行動に目を瞬かせたヒューガはまじまじとバンダナを観察している
シリュウのもとへ寄った。そして同じく紺色のそれを覗き込むと、あっと声を上げた
ヒューガが不思議そうに首を傾げた。

「こりゃ、”フィライン”のシンボルじゃ…あ、いや待てよ、縫い目がおかしいから偽物か」
「てことはこの人たち盗賊フィラインを装っての犯行だったんだ」

紺色の布地に白い猫の形に似た絵柄が縫い付けられていた。フィラインと言えば
名の通った盗賊で、足取りを掴めた者は誰一人としていないという。盗賊の中でも
一、	二を争うほどの強力な集団で、その筆頭は厳つい大男だとか、惜しみなく筋肉を
晒しだしたく鋼の男だとか、古今東西ありとあらゆる噂が浮いている。が、未だ信憑性
の薄い情報ばかりで決定的な情報がない。フィラインのような大盗賊に憧れて普通の生活
から外れてわざわざ盗賊に職業を変える物好きもいる。勿論、今倒した連中のように
名前を偽って悪事を働くものも少なくはない。

「ま、これで一つ潰れたんだ。早々フィラインを名乗る連中なんて出てこないだろ」

これでこの町も暫くは安全だな、と笑いかけるヒューガにシリュウは何も返せなかった。
フィラインのシンボルに似た、紺色のバンダナをジッと見つめたまま暫くその場に
立ち尽くす。

(何か、嫌な予感)

不自然に汗が流れる。











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