遠い未来を夢見ていた





叶わないと知りながらも、手を、伸ばし続けた





だけどもう、だめなんだ





吐き捨てる言葉に、悔いはない

















■天と地の狭間の英雄■
       【それは血の味を噛み締めるような】


















神は決して万能ではない。絶対ではない。全てを統一する事は出来ない。
主帝は、変わる。
それが誰になるのかは分からない。
だけど1つだけ確信が持てる。


次なる主帝は、ゼウス神でもなければアブソリュート神でもない。


彼女がそう言いたいのだと、すぐに頭の中でゼウス神は理解する。
だからと言ってそれを納得する事は出来ない。
ただでさえ今は状況が不利。
憎きルシフェルを倒す絶好のチャンスを、まさか彼女に邪魔立てされるとは。
それも、ミカエルやイスカを味方に付けて。

ふっと、嘲笑する。
馬鹿馬鹿しかった。全てが、何もかもが。




「ふ・・・ふふふふ、ふはははははっ!!!」




音になった声は空高く響き渡る。
風が吹く。それも、優しいものではない。狂風と称した方が正しいのかもしれない。

ああ、狂っている。思い通りにならないことが、こんなに苛立つことだとは・・・。
いつからだろう、彼女が配下につかなくなったのは。
生まれて間もない頃の彼女は、確かに完全なる神だった。
しかし事故により頂上界に落ち、そこで人間として成長を遂げる。

そうだ、そこからなのだ。全てが狂ってしまったのは。




「やはり、野放しにするべきではなかったか。」




はたり、と笑い声が止む。
金色の髪を掻き揚げ、鬱陶しそうに目を細めた。
そこから見える瞳はまさに剣。射殺してしまいそうなほど剣呑なそれは、慈悲も温情もない。
これが神なのだろうか。あの、ゼウス神?


「流石だ、アブソリュート。貴様はやはり私の思わく通り、厄介な存在だ。」

「何だと・・・。」


挑発にのったのはフェイルではない、リュオイルだ。
シリウスこそ何も言ってはいないが渋面だ。眉をひそめぎろりと見据える。
彼等を無視して、氷をまとうアブソリュートに冷ややかな笑みを向けたゼウス神は、
1つ、溜息を吐いた。重苦しい雰囲気が流れる。

分かっている。彼が何を考えているか。

アブソリュートの中にいるフェイルも、今の情景は全て見えていた。
音も臭いも、全てがアブソリュートと一体化している。
融合が早まっていた。あまり長い時間アブソリュートを表に出すと、フェイルの精神は跡形もなく消えるだろう。




「人間化していたとは言え、貴様は神だ。この聖域で長時間、よく人間の形を維持できたな。
 ・・・しかし所詮貴様は生身の人間ではない。神の器を持つ、正真正銘の神「アブソリュート」だ。」




聖域は、彼女を本来の姿に戻そうとしている。
地上界の時間とは比べ物にならないほど、進行は早い。

ゼウス神の言葉に息を呑んだのは、2人の人間だ。
フェイルを守ろうと立ち上がった、非力な人間達だ。



「フェイ、ル・・・?」

「どういうことだ、フェイルっ。」



双方が色を失ったように吐き捨てる。
心がちぎれそうなほど苦しい。そう思った瞬間、フェイルは涙が出そうになった。
ふっと、アブソリュートの瞳が穏やかになる。彼女たちが入れ替わったのだ。






「嘘吐いて、ごめんね。」






心臓に針が刺さったような痛みが走る。
何故だろうと考える前に、少女の小柄な姿が舞う。
あの子はリュオイルとシリウスの答えなんて聞かない。元に戻れない領域まで来ている。
なかったことにしよう。・・・それは、無理なんだと突きつけられる。
痛い。痛い。
この痛みは、なに?
嘘を吐かれた、という感覚がない。
裏切られた、という感覚もない。
何が、痛い?





「―――フェイル―――」





呼べばいつも答えてくれる笑顔はそこにない。




少女は舞った。
神族の言葉が空気に触れ、音となる。
彼女の回りに漂っていた氷が動き出す。
ゆらりと一巡した後、群れを成してゼウス神に襲い掛かった。
目に見えぬ速さで彼を襲う。線を描くように、細く鋭い氷はゼウス神の皮膚を裂いた。
剣を片手に構えても、ゼウス神の結界を容易く破る。
これがアブソリュートの力なのか。



「私は、生まれるべきではなかったっ。」



神が誕生することは稀なこと。
先代の神の生まれ変わりならまだしも、彼女は、新たな神。
多くの者に望まれ誕生した。
だがそれがいけなかった。生まれるべきでは、なかった。

力が強すぎた。混乱を招いた。
本来、主帝を超える神など存在しない。存在してはいけないはずだった。
それが何故、アブソリュート神がこの世に誕生したのか。

全ては願いだ。想いだ。
生きとし生けるもの全ての望みを受けた神、それがアブソリュート。
生きるものは既にゼウス神を必要としていない。
アブソリュート神が誕生したことで、それは表明化された。
しかしそれで彼が引き下がるものか。
だから彼女は強い。彼と対抗するための、大きな力を持っている。

全ては運命だった、と片付ければ、それでおしまいだ。
だからと言って全てを運命と称して終わらせるわけにはいかない。
彼女が生まれたことによって、人々が彼女を望んだことによって、全ては歪みはじめていた。
強すぎる力が2つも揃えば、世界は混沌の渦に巻き込まれる。
それを食い止めるのが、力を持つ者の定めであり、意義である。



「もう一度選定する。新たな、主をっ!!」

「そして私を殺し、お前も道連れに死ぬと?・・・愚かしいな。誰から聞いた?神を殺す禁忌の術を。」

「禁忌・・・?」



震える声でフェイルを凝視しているのはリュオイルだ。
仲間の内で交わされたことのない言葉だ。
初めて耳にする。だから、心臓が飛び跳ねる。




「――――神を殺すには神の命が必要になる。
 ・・・心臓を突き刺したとしても、魔族は別として、何の力のない人間では神は殺せない。」

「フェイ、ル・・・!?」




今度こそ、驚愕の声を上げた。








一緒に、帰ろうね。







どこに?だれと?

帰ろうって言ったじゃないか。約束、したじゃないか。

傍にいてもいいかって、聞いたじゃないか。

君自身が、フェイルが。




「なんで・・・フェイル・・・。」




裏切られたような気持ちだった。
だけど心の奥底で、そうじゃないんだと気付く。
では何故?あの時交わした約束は、決して嘘ではないと、どうして信じられる。

信じていたい。嘘だったなんて、言われたくない。

本能がそれを拒絶する。
彼女がいなくなること、酷く拒む。




「―――っ!約束、しただろ!?帰るって、一緒に帰るって!!」




思わず叫んだ言葉は非難だ。
傍にいると言っても、彼女は既に宙を浮いている。
目線の合わない彼女が酷く苛立たしくて、声を荒げてしまう。



「・・・今は、奴を倒す。それだけだ。」

「こんな時だけ、アブソリュートに変わるなっ!
 僕は、フェイルの言葉が聞きたいんだ!!お前じゃない、フェイルだっ!!」



逃げている。フェイルは、僕から、皆から。


リュオイルの叫びにフェイルの肩が揺れる。
ほんの僅かであったが、確かに震えていた。







「リュオ君、帰ろう。」






その声はフェイルのものだ。
大好きで愛しい、フェイルのものだ。
微かに震えている。声が、肩が。








「覚えてるのは辛いよ。・・・だから忘れて、私のことを。」







帰ろう。
そう約束した時に、僕から交わした約束。








「帰ろう、リュオ君。皆を連れて、帰ろう。」







ああ、彼女の言った「帰る」は「還る」
君は僕達を生かして、君は・・・・





還るんだ

ここで散って

全て消滅して

還るんだ

消えて、彼女の思い出だけが、残る




「・・・嘘吐きっ。」




こんな言葉を言いたいんじゃない。
こんな酷い言葉をいいたいんじゃない。
ただ、痛いんだ。君に頼られなかったことが。
裏切られた、と言っても過言ではないかもしれない。

それでも、彼女を憎み切れない。
憎むことなんて、出来ないんだ。

届くようで届かない。
愛しくて、愛しすぎて、抱きしめたいのに。
忘れられるものか。こんなに強い思いがあるというのに、彼女を、今までの思い出を忘れることなんて、出来ない。



「・・・うん。」

「頼ってって言ってるのに、どうして君は・・・っ。」

「・・・だから嫌いになって、私のこと。」

「フェイ・・っ」

「嫌いだよ、リュオ君なんて・・・みんな、嫌いだからっ!!」



―――どうか私を嫌いになって。



突き放された言葉に息を呑む。
予想外の台詞に、呼吸さえも忘れてしまった。

嫌いだなんて、言われるなんて思わなかった。
彼女と共に歩んだ時間は、僕が一番長い。
いつも笑顔で、一生懸命で、無垢で。守りたかったんだ。
嫌いだなんて一度も聞いた事がなかった。

突き放されたはずなのに、違和感だけが残る。
このわだかまりが苛立ちを募らせる。
分かっている。彼女が本気でそんなことを言っているわけがないことぐらい、分かっている。
それでも、傷ついた。一瞬でも絶望を味わった。
大好きな人から「嫌い」だなんて、言われて嬉しいわけがない。




「―――――っなんで、僕達から離れようとするんだよっ!」




1つ、涙が零れた。
抑えきれなくなった熱いものが、頬を伝う。
でもそれっきりだ。それ以上、流しはしない。

リュオイルの言葉に、フェイルは何も答えなかった。
変わりに、ゼウス神に斬りかかる。
懐から淡く輝いた剣を持ったフェイルは、勇ましくそれを振り下ろす。
ゼウス神がそれを撥ね退き、間合いを詰めてフェイルの腹部を狙う。
突きの攻撃を横にずれたことでかわしたフェイルは、大きく跳躍した。
早々と唱えた神の言葉が回りの大気を集め、風圧となってゼウス神を襲う。
しかしそれさえも弾き飛ばす。今度は、彼の番だ。



「フェイルっ!!」



飛び出しそうになるリュオイルの肩を掴む者がいた。
その力強さに顔を歪めたリュオイルは、たまらず後ろを振り返る。
剣呑な表情のシリウスは、真っ直ぐに彼を見据えた。強い瞳に思わず息を呑む。
だけど、ここでじっとなんかしていられない。
彼女に危険が降りかかっているというのに、黙って見ている事なんて出来なかった。


「離せシリウス!!」


力任せに彼の腕をどけようとする。
だが、どこから出てくるのであろう彼の腕力は、ぴくりとも動かなかった。



「シ・・」

「中途半端な気持ちなら、出るな。ここで見ていろ。」



こうしている間にも、向こうからは激しい交戦の音が聞こえる。
途絶えない戦を前にして、苛立ちが募る。



「中途半端・・・?わけが、分からない。」



小さく頭を振ったリュオイルは軽くシリウスを睨んだ。
まだ完全に回復しきっていない彼の顔色は決して良くはない。
寧ろ彼が休んでいるべきだ。
それなのに、彼はおかしなことを言う。



「あいつがどうれほどの覚悟を持っているのか、分かるだろう?
 俺たちの目的は、ルシフェルを倒すこと。同時に、ゼウス神を主帝から引きずり下ろすことだ。」



神を殺すには生贄が必要だ。犠牲となるものも、神となる。
人間では手が出せない領域だ。これはもう、自分たちには関わることの出来ない域にきている。
一歩足を踏み入れれば、二度と戻る事は出来ない。

フェイルは、その境界線を超えてしまった。自ら因果の渦に落ちてしまった。
取り返しはつかない。白黒はっきりするまで、終わらない。
彼女はそれを理解していたはずだ。
何の策略もなしに、無謀に出てくるほど愚かではない。決して浅はかな人間ではない。
ただし、彼女の出した答えは最終手段だった。切り札だったのだ。
その手段も随分と荒々しい。自己犠牲の塊だ。

残されたもののことを考えていないわけではないと信じたい。
だって、彼女は優しいから。
優しすぎて、折れそうなほど細い。
だが弱音を吐かない。こちらが追求するまで、決して吐こうとしない。

それでも何度か話を聞けば、折れていた。
結果がどうであれ、長い付き合いの仲間達を、頼ってきていた。
辛くなれば、涙を流して泣きついてきた。
寂しくなれば、誰かの温もりを探そうとしていた。
けれど彼女は気付いたんだ。自分が異種であるのだと。人間ではないのだと。




「あいつを倒すには、フェイルの力が必要だ。同等となる力を持つ、アブソリュートのフェイルが。」




冷たい。凍えそうなほど冷たい。
それは、僕自身の指だった。
かじかんだように動かない指は、手袋越しから伝わるような気がする。
槍をちゃんと持てているのかどうかさえ、分からない。

それでもリュオイルの心を突き動かすには十分だった。
良い意味ではない、悪い意味で。




「わかって、る。分かってるさ。フェイルの力がなくちゃ、どうしようもないことぐらい。」




分かっているからこそ辛い。
分かっているからこそ歯痒い。

だから涙が出そうになる。やめてくれと、叫びそうになる。




「それでも大切なんだっ。嫌われたって・・・失いたくないんだっ!!!」




リュオイルの叫びにシリウスの顔つきが変わる。
引き攣ったように強張った頬は、瞳は、剣呑さを増す。




「俺だって失いたくない!嫌われたくなんかないっ!!
 あいつが犠牲になるくらいなら、俺が犠牲になるほうがよっぽどマシだ!!
 ・・・それでも、あいつが決めたんだよ。あいつが選んだんだよっ!!」




禁忌について誰に教わったか・・・。何となく、察しはつく。
おそらくミカエルだ。イスカはそれほど度胸がない。
イスカは止める。神として敬愛しているフェイルを相手に、そんな畏れ多いことは出来ないだろう。



「あいつがどれだけ苦しんでいるかお前なら分かるだろう!?
 だったら見届けてやれよ。フェイルが大切なら、最後まで見届けてやれ!!」



離れようとしているなら追いかけろ。
彼女はまだ手の届く範囲にいる。







「・・・もう一度言う。中途半端な気持ちならここにいろ。」







俺は、最後まであいつについて行く

消えたくないと涙した言葉は、今でも深く俺の記憶に刻み込まれている

あの言葉はフェイルの本心だ

消えたくない、死にたくない





「一人に、させはしない。」





この手がお前の心に届かなくても、傍にいる

お前が安心できるように、ずっと

ずっと・・・手を、繋いでいよう






















「懐かしいな、ミカエル。」




凛とした声は風に流れる。
美しき双方の金の糸は、同じ方向に漂った。
互いに似た造りの剣を持ち、片方は涼しそうな顔で、片方は複雑そうな顔で。
見合わせていた顔は瓜二つ。
遥か遠い記憶の中にいた。彼は、もっと穏やかで優しい表情だった。

それを変えたのは、天界だ。彼の宿命だ。そして、ゼウス神の意思。

何度も考えたことがある。もし、彼が自分の地位にいたら。
追放されることなく、平和に生きられたら。
何度、戦を回避する事が出来ただろう。
こんな愚かしく悲しい、多大な犠牲を出した戦争は、かの六英雄が活躍した、忘れられた時代。

・・・いや、もう考えてはいけない。
既に戻れるような領域にはいない。はみ出しすぎたんだ、彼も、自分も、彼女も。
唯一の人間達がどんなに手を伸ばしても、届かない。掴めない。・・・掴もうとしない。



「ルシフェル。」



真っ直ぐ見据える先には、唯一無二の兄がいる。
同じ顔の、双子と言うルシフェルが。
最高峰の天使だなんて、なんて重い言葉なんだろうと思ったことがある。
それは彼の罪。それは自分自身の罪でもある。



「貴方をゼウス神の元へ、フェイルさんの元へは行かせません。」

「ほぅ・・・。暫くのうちに、良い目をするようになったな。」

「・・・・。」



敵になってから、彼が苦手になった。
敵視すれば良い。宣言したはずなのに、完全に敵意を向けていない。




「私は本気です。」

「そうか、私もだ。」

「・・・ルシフェルっ!!!」



ルシフェルが目を伏せたその時。先手を打ったのはミカエルだった。
大きく跳躍し、どちらかと言えば質素といえる剣を振りかざす。
それでも剣には聖なる力が秘められていた。
名もなき剣。ミカエルのためだけに与えられた、神聖なる武器。

しかし問題が1つ。
聖剣とも称されるであろう彼の剣は、いまルシフェルに向けられている。
ルシフェルは確かに魔族にまわった裏切り者だ。
それと同時に、元大天使だ。天使の中でも最高峰であった強力な存在だ。
そんな彼に、こんなちっぽけな剣が通用するのであろうか。そう考えると埒があかない。

全てが同じと思われる2つの影が交差する。
その度に剣と剣が交わる高い音が響いた。
控えているアスティアとイスカは、いつ前に出るべきか狙っている。
出ようと思えば出れるのにそうしないのは、この戦いがミカエルの覚悟の証だからだ。



「はあぁぁぁああっ!!」

「くっ!・・・まだだ、甘いぞミカエル!!」



振り上げられた剣を軽く弾く。
その一瞬の隙を突いて、ルシフェルがミカエルの懐に入ろうとする。







「――――不知火!!」






2つの影の間に入り込んだのは疾風の如く現れた炎の矢。
燃え盛るそれは、ルシフェルの袖を軽く焦がし、地面に刺さった。
流れるような装束を身にまとっている2人は、下手をすれば躓いてしまうのではないかと不安になる。
魔族に寝返ったルシフェルの衣装はまさに白。純白だ。
魔族が好む闇や濃い目の色をまとうかと思いきや、彼の姿は大天使の頃となんら変わらない。
ミカエルは、大天使の衣装を身にまとっている。
彼もまた純白だ。
だからなのだろうか、2人が戦う姿が可笑しくも不自然に思えるのは。
まるで誰かに操られたような、道化話のような。




「・・・お前も、良い仲間を持った。」

「ギルス、ロマイラ、ソピアは倒しました。アルフィスは既に降参しています。」

「降参か。それは懸命だな。」




ふと彼を思い出す。
寡黙であったが、一番の過保護はあれだ。
ラクトとソピアに何故か気に入られていて、ふと気付けば頼りがいのある兄になっていた。
彼から冷徹な部分が抜け落ちてしまったのは、あの子供たちのおかげ、と言うべきか。
それ以降、彼は見違えるほど人間らしさを取り戻していった。
人間という立場を捨て、魂を売って魔族になったと言うのにおかしな話だ。

それでも彼は懸命だ。
決して命を無駄にはしない。

ああ、自分にいつも尽くしてくれている彼女は、無事だろうか。
真紅の軍服は人間の頃のものだったもの。
それと対照的に美しく煌びやかな金の髪は、整えればもっと綺麗だろうに、彼女はざんばらにしたままだった。
何においても完璧さを求め、綺麗さを求めていた人間。いや、魔族か。
彼女が自分に好意を抱いているのは知っている。
敬愛を超えた、愛情。
けれど、彼女を、ジャスティをそういった目で見ることは出来なかった。
彼女は自分の右腕だ。それ以上でもそれ以下でもない。




「・・・ソピアは、何か言っていたか?」



気になるのは、あの少女だ。
鍵として、器として代用した純粋な魔族の子供。
彼女が散ったことは既に知っている。独特の気配が消滅した。
浄化された、と言ったほうが正しいのかもしれない。何せ倒した相手はアブソリュートなのだ。



「ラクトに、ありがとうと。」

「ありがとう、か。」



思わず自嘲したくなる。
恨めばいいものを、あれは最後まで子供ながらの純粋な心が穢れることはなかった。

ありがとうなんて、縁のない言葉だ。
もう二度と聞くことはないであろう、今となっては毒のように思い言葉。
それが向けられた途端、自分自身の罪深さを呪うだろう。



「ルシフェル、あんたは罪を犯しすぎよ。
 でもそれは、魔族に寝返ったことじゃない。ラクトやソピア達を犠牲にしたからよ。」

「ほう?」



剣を握ったまま黙り込んだルシフェルに、剣呑に目を細めたアスティアは
矢をルシフェルに向けたまま、冷たく言い放った。
魔族の長とも言える彼を目の前にしても、彼女は動じるどころか冷静さを保てる。
そんな彼女をイスカは純粋にすごいと感じた。
情けなくも、自分の足は微かに震えている。
2つの大天使のぶつかり合いは、想像を超えるほどの力が衝突しているのと一緒だ。
ただ剣を構えているだけで、額からじわりと汗が滲む。
それを拭き取る余裕さえ、残っていなかった。


「それともう1つ。――――フェイルを傷つけたことは、許せないわ。」


ぶっちゃけて言うと、他がどうでもいいわけではないのだが、最大の理由はこれだ。


「だろうな。」


返ってきた言葉は随分としれっとしていた。
予想通りの言葉にアスティアはゆっくり口の両端を上げる。



「感謝はしているが、謝罪する気はない。」



ああ、やはり。
傲慢な態度に怒りは感じなかった。
もしここで彼が謝罪でもしたならば、構えている矢は一直線にルシフェルに飛んだだろう。

謝るくらいなら、こんな馬鹿馬鹿しい戦争を起こすな。

彼がもし謝れば、こう言うつもりであった。
だがその必要はない。彼は聡明な堕天使だ。

(本当、性質の悪い奴が敵になったものね)

苦虫を噛み潰したような顔つきのアスティアは不機嫌さを露にする。
それを見てクツクツと笑い出したルシフェルに、更に腹が立った。




「そ、れでも。」




まだ幼さの抜け切らない、震えた声が耳朶を叩いた。
振り返らなくても、それは傍らにいる。
剣を握り、その剣先を紛れもない、敵であるルシフェルに向けている。

寒さがイスカを襲う。
凍えるような、真冬の銀世界に裸で放り出されたような。
がたがたと震えている手足。
しっかり音を発しているのかどうかさえ分からない己の声。

逃げてしまいたいという気持ちは十分にあった。
逃げられるものなら、逃げてしまえと。
だけどそれは、ミカエル様の信頼を裏切ることでもある。
彼は優しいから、逃げたからといって非難はしないだろう。
だからこそ、それが罪なのだと、突きつけられる。

逃げたい。逃げない。逃げたくない。逃げてはいけない。




「優しいあの人達ををずたずたにしたことに、変わりはない。」




フェイルも、シギも、アレストも、シリウスも。
敵であったソピアも、ラクトも、アルフィスも。
傷つかずに済んだんだと思うと、情けなくて仕方がない。
ここで足掻いたからといって、過去は塗りつぶすことは出来ない。過去は過去のまま描かれる。
それがまたもどかしい。なんと、非力なことであろうか。




「俺は貴方を・・・お前を、許せない!!」




言葉は重い。
それまでびくびくと震えていた手足に、力が入る。






シリウスよりも濃い紫苑の瞳に、覚悟が映った。