《 アレスト 》 声が、聞こえたような気がした 差し込む朝日が眩しくて だけどそれよりも、この重みを失うことの方がずっと嫌で 《 俺、大丈夫だから 》 ふと聞こえた無邪気な声が 響く ■天と地の狭間の英雄■ 【神の領域に触れることが出来ない者たち】 どちらかと言えば少し小柄な2つの影が動く。 朝日で照らされた麗しき金の糸は、艶を失うことなく光り続ける。 それでも育った環境が少し違うせいか、片方のしなやかな身体はもう1つの影を押していた。 するとどこからか矢の群生がそれを襲い、仕方なしに後ろへ下がる。 微か掠めた金の糸がはらりと地面に落ちた。 影を追う。衣装は違っても、同じ顔の、自分と同じそれを。 「ミカエル様っ!!」 ふと目の前に現れた敵に、ミカエルは一瞬息を呑んだ。 致命傷を負う可能性は低かった。避けきれる自信はある。 しかし、多少なりとも怪我を負うことに変わりはない。 先に動いたのは、剣を振り下ろそうとしていたルシフェルではない、ミカエルの部下のイスカだ。 青みを帯びた黒髪が揺れる。 ミカエルの持つ剣と比べて、イスカのはやや幅のある大剣だ。 ミカエルと比べてまだ小柄で、見た目のたくましさは伺えない。 だが彼は強い。そのことを一番理解しているのは、右腕として傍らに置いているミカエル本人だ。 キィン 高い音が鳴り、双方睨みあいが続く。 ルシフェルがじりじりと迫られる。その証拠に、靴は地面を軽く掘った。 「なるほど、良い剣筋だ。」 力ではイスカの方が上だ。 元は天使の最高峰と言われていた彼も、本来は魔法の方が長けている。 やはり前線を任される彼と自分では分が悪いか。 そう思うと苦笑が漏れる。 思わず出た言葉は、相手を賞賛するものだ。勿論後悔はない。良いものを良いといって、何が悪い。 それを許さなかったのがゼウス神だ。 感情を押し殺す。それが、生まれてきた天使の定め。 反吐が出そうだ。馬鹿馬鹿しい。全く持って、愚かしい。 自由が欲しい。 何ものにも縛られない、本当の自由が。 「だが、こちらは留守のようだな。」 相手を見る事で精一杯のイスカの足を勢いよく蹴る。 僅かに反応に遅れたイスカは、進行方向へ転びそうになる。 だが地べたに手を付けることはなかった。そうすれば、敵に背中を見せる事になる。 ぐん、と羽が動く。 逃がすまいとルシフェルが剣先をイスカに向け斬ろうとするが、またしても矢の群生にそれを防がれる。 一瞬の隙を突いて、イスカは体勢を整えようとした。 それを合図と見計らったようにミカエルが動く。 今度は剣を顔の前に構えた状態を維持し、口早に詠唱を唱えた。 ミカエルの状態に気付いたルシフェルもまた。同じ詠唱を唱える。 2人の回りに集まってきた光に、アスティアは思わず息を呑んだ。 まるで透けてしまいそうなほど白く輝く双方は、まさに同一。 人間でも、エルフでも感じ取れる強大な力。同等の力。 風が吹く。1つ、突風が。 思わず目を瞑ったアスティアは矢を構えたまま呆然と立っていた。 まるで皮膚を切り裂くかのような、刺々しい風が辺りを襲う。 「アスティアっ!」 しまった、動けない。 大天使2人の迫力に圧されたアスティアは呆然と立ちすくんでいた。 これは、回避しなければならない。危険だと本能が教えている。 目の前の光景に圧倒されて動けない彼女の手を引いたのは自分とさほど身長の変わらないイスカだ。 力強く引かれた腕は痛かった。だけど、抗議なんてしない。 口を開けた瞬間、イスカが短く詠唱を唱え、障壁を生み出したからだ。 「・・・すごい。」 零れた声はアスティアのものではない、イスカのものだ。 彼の背に守られるように立っていたアスティアは、微かに眉をひそめた。 漏れた言葉は、自然に出たのだろう、彼自身も気付いていない。 何かを言うべきか迷っていたが、突如地が抉れる。 強大な衝撃に耐えかねた地面は、いとも簡単に崩れていく。 障壁を発している部分以外を風が、炎が、爆発する。 「ぐ・・・ぅ。」 ゴウゴウと鳴る外の音に耳を塞ぎたくなる。だが、苦しそうなイスカの声にハッとした。 「あんた、無理してるんじゃ・・・。」 「だ、いじょうぶ!ミカエル様の魔法の名残を防ぎきれないようじゃ、俺はあの方の傍になんていられないっ!!」 「・・・脂汗出てるくせに、強がるんじゃないわよ。」 剣を持ったまま、イスカは地に足を縛り付けていた。 そこから動こうとしない。否、動けない。 ミカエルの魔法だけなら、何とかなる。防ぐ事は十分に可能だ。 だが今回は別だ。何せ、もう1つ厄介な魔法がくっついているのだから。 ミカエルと同じ魔力。ミカエルと同じ魔法。 要はいつもの2倍の力を防ぎきれなければ、命はないかもしれないということ。 「でも、無理してちょうだい。私はまだ死にたくないもの。」 「ははっ、相変わらずアスティアらしいや。・・・大丈夫、任せて。」 こんな時でもいつもと変わらないアスティアの態度に、思わず吹き出す。 尖ったような物言いだが、何故か勇気が湧いてくる。 守る自信がついてくる。 俺はミカエル様の役に立たないかもしれない。 俺では、ルシフェルを倒すことは出来ない。 それはアスティアも一緒だ。2人がかりでも、到底不可能だ。 だけど、援護することは出来る。 だから守るんだ。ミカエル様を、アスティアを。 背中から来る言葉に背を押され、聖気を高める。 本当はこういうことは苦手だけれど、今は悠長なことを言っている暇はなかった。 最後に、地面を大きく揺らす。 思わず転びそうになるイスカを支えたのは後ろにいたアスティアだ。 倒れそうになったところを後ろから抱きかかえられ、唖然とした。 今の所障壁は壊れていない。イスカが倒れる前にアスティアが受け止めたおかげで、維持することが出来たようだ。 「・・・やん、だ?」 狂風は穏やかな風に戻り、空を渦巻いていた暗雲は去り、暖かな日差しが雲の隙間から差し込んだ。 魔法の気配はこれ以上感じない。 ホッと安堵したイスカはその場に崩れた。 が、アスティアが支えていたのだから、それは何とか持ちこたえる。 重みが増したそれに顔をしかめ、だがゆっくり下ろす。 肩で息はしていないものの、一つ一つの呼吸が深い。 よほど魔力を消耗したのだろう、随分とやつれていた。 「これが大天使の力ってわけ。」 「俺も、ミカエル様の本気なんてほとんど見た事なかったから・・・。」 半端ではないその力に圧倒され、同時に背筋が凍った。 下手をすれば死んでいた。跡形もなく、全てが無に消える。 それほど2つの力は計り知れないほど強い。神に及ばなくても、人間とただの天使には明らかに毒だ。 イスカの額に手当て、熱がないか確認する。 体力や魔力を消耗し過ぎると、それを挽回しようと身体が熱を持つ。 自分自身で治癒しようとするのはいいのだが、それは普段の生活でのこと。 今は、目の前の光景に少しでも気を緩めてはいけない。 もし熱が出てくるのであれば、速やかに彼を安全な場所へ誘導しなければならない。 「熱は、ないようね。」 軽く溜息を吐いたアスティアは、未だへたりこんでいるイスカに小首を傾げた。 「―――戦える?」 たった一言。 その言葉は、戦線離脱でも構わないという念が込められている。 一瞬真っ白になったイスカは、ぽかんとそれを眺めたまま、頭を回転させる。 まだ大丈夫。まだ俺は、戦える。 何のために、誰のために。 分かっている。これは俺自身の戦いでもある。 守りたいものがある。傷つけたくないものがいる。 「休むには、まだ早いさ。」 覇気のある声は十分アスティアの耳に届いた。 満足そうに頷いたアスティアは、白く細い手をイスカの前に差し出す。 それを掴もうかどうしようかと迷っていると、またいつものような不機嫌そうな顔をした彼女が少々強引に手を引っ張る。 驚いて瞠目すれば、いつの間にか自分の頭はアスティアの肩辺りにあった。 暫し呆然としていると、彼女の指がイスカの額にデコピンをかました。 見かけによらず力のあるそれに、みっともなく小さな悲鳴を上げると、徐々に鈍い痛みが広がる。 「ア、アスティアっ。」 「呑気にぼけっとしてんじゃないわよ。ほら、行くわよ・・・あんたの上司を援護しに、ね。」 悪戯を思いついたような笑みでそう言われて、ハッと気付く。 右手で掴んである剣を見下ろし、ゆっくりそれを持ち上げた。 「ああ。」 その声を聞く前に、アスティアが走り出す。 ―――キィン 押す力と押す力がぶつかり合う。 耳を塞ぎたくなるような音は、何度も続いた。 片方がバランスを崩せば、その一瞬の隙を突いて剣を払い、懐へ目指す。 そうはさせない。衣服が切れたり皮膚が裂けても、間一髪でそれを交わし、致命傷を負うことはなかった。 これでは本当に埒があかない。 それに双子と言えども、アブソリュートの魂の欠片が完全に戻っても、あの力を奪った相手だ。侮ることは出来ない。 だが、壊滅的に負けるとは言えないこの戦い。 若干有利なのはやはり味方を2名もつけているミカエルの方か。 いやしかし、天使の中でも絶対的な力を持つ双子の兄も十分手強い。 先に隙を見せたほうが負けとなる。長期戦は避けられない。 キン。また剣が重なる。音がなる。 遠くで矢が射られ、炎をまとったそれがルシフェルを襲う。 氷を宿した剣がルシフェルの剣を受け止め、ミカエルを援護する。 一つ一つ丁寧に避けながら、ルシフェルはにやりと笑みを浮かべた。 詠唱に入る。 そう直感で感じ取ったミカエルは、一気に翼を羽ばたかせ加速した。 大気が揺れ、それが穏やかな風を起こす。 その風に乗るように、美しい声が響いた。これは紛れもない、炎を司る言葉だ。 「母なる海よ、地に降られし恵みの水よ・・・。」 炎に対抗できるのは水だ。氷では、灼熱の炎を凝固する時間がかかって仕方がない。 風を起こせば焼け爛れるような熱を持つそれに巻き込まれてしまう者もいる。 時間はない、敵の詠唱は、既に半分を超えている。 2人の足元に、対極的な魔方陣が描かれる。 1つは煉獄の炎を象徴とした色。1つは全てを包み込む清純なそれ。 熱気が広まると同時に、ミカエルの掲げた手からこんこんと水が溢れだす。 しかしそれは決して彼の衣服を濡らすことはない。 まるで何か球体に閉じ込められている水は、意味もなく同じ場所をぐるぐると回り続ける。 詠唱は止まらない。まだ、完成しきっていない。 その間にイスカとアスティアがルシフェルに攻撃を仕掛けるが、何か結界で守られているのかびくともしない。 連続でアスティアが矢を射っても、跳ね返る始末。 「間に合わないっ!?」 「伏せてっ!!!」 ぐらりと炎が揺れる。 パン、と小さく弾けるような音がした瞬間、大蛇のようにうねってきた炎がミカエル達を襲う。 間一髪のところでイスカがアスティアを押し倒す。 背中から地面に激突した瞬間鈍く重い痛みがきたが、悲鳴はあげなかった。 いや、あげる暇さえなかったと言うべきか。 頭上を通り過ぎた炎は、咆哮をたてながら未だ詠唱が完了しないミカエルを襲う。 「ミカエルーーーーーーーっ!!!!」 炎に、呑まれる。 ミカエルにぶつかった炎は、上に、後ろに、真横に拡散する。 まるで蝕むかのようにミカエルがいた場所を覆い尽くす。 イスカの悲鳴が聞こえた。何を言っているかは、分からない。 立ち上がり、炎の軍勢を目の当たりにする。 愕然とするしか言い様がなかった。 《 清められし慈母の恩恵 》 イスカが近寄ろうとした瞬間、微かにだが聞き慣れた声が聞こえた。 ハッとしたのも束の間、隣にいたアスティアの手を引っ張って後退する。 異議を唱えようとしたアスティアだったが、突如吹いた風に思わず目を瞑る。 爆風だ。皮膚が焼けてしまいそうなほど熱い風が吹く。 「さすがに今のは焦りましたよ、ルシフェル。」 やっと風が止むと、安堵したような声が聞こえた。 状況が状況なだけに、呑気そうな声が場に合わない。 もう少しで死ぬところでした、なんて気もないくせに言っている。 「これくらい対処できないようでは、私の相手は務まらん。」 「ええ、分かっていますよ。」 2人の会話は至って冷静で穏やかだった。 殺気に溢れていた一騎打ちを思い出せば、目の前の光景に呆れてしまうほど。 戦場に似つかわしくない空気が流れる。 さっき、確かにミカエルを殺そうとしていたのに、当の本人は大して気にもしていないのか 焦げ付いた衣服を軽く払うと、すっと静かな笑みを見せた。 唖然とするのは相変わらずイスカとアスティアだ。 ぽかんと口を開け、交互に双方を凝視している。 思わず問いただしたい、頭は大丈夫かと。 「私が眠っている間ずっと、女の声が聞こえていた。」 「・・・女性、ですか。」 「そう、女だ。"大丈夫"だと"一人ではない"と、ずっと語りかけていた。・・・この私にだぞ?」 愚痴るように呟きだしたルシフェルに、一瞬きょとんとする。 そんな話は初耳だ。聞いたことがない。 ましてや、一体誰が彼にそんな言葉を囁いていたのだろう。 考えれば考えるほど難しく億劫で、詳細は明らかにならない。 いや、情報が不十分すぎて曖昧な答えしか見出すことが出来ない。 「封印されていた時だけ、だ。封印が解けると、あの声はなくなってしまった。」 追い続けていた。 誰なのかと、何故ずっと傍にいたのかと。 眠っていたせいで記憶は曖昧だが、世界は真っ白だった。暖かだった。 今の現状のような悲惨な風景などなかった。 ただ無垢で、純粋な世界。 少なからず惹かれていた。その真っ白な世界に、手を伸ばしたかった。 だが違う。理想的ではあるが、その世界に行くことは許されない。 因縁の鎖を解き放たなければならない。 「・・・案外、近い所にいるのかもしれませんよ。」 その時のミカエルの表情は、穏やかだった。 しかし、それも一瞬のこと。 「ですが・・・その方と出逢う前に、私が倒します。」 剣呑な目つきに変わると同時に、ルシフェルもにたりと笑う。 それでこそ、私の片割れだ。 そう吐き捨てると、再度剣を構え直す。 楽しんでいる。アスティアの目にはそう映った。 実際、特にルシフェルは楽しんでいるのであろう、久方の弟との真剣勝負を。 負ける気など更々ない、と顔に書いてある。 しかしそれはミカエルも同じことだ。表向きは冷静を装っているが、内面は闘志と複雑さが葛藤している。 「――――終わらせよう。全てを、もう一度・・・私が再生させる。」 ルシフェルの相貌が変わる。 ぴしり、と肌に何か刺々しいものが突き刺さる感覚がした。 眼力だけでこれほどの力があるとなると、思わず根を上げてしまいそうになる。 もとから、ミカエルは眼力が苦手だ。 常日頃から穏やかな表情をする癖があるので、戦いになってもそれが崩れることはない。 それに対して兄は切り換えが上手かった。 親しいものと一緒にいれば微笑を浮かべ、宿敵を目の前にすれば残酷に笑う。 2つの天使の違いは、そこから始まっていたのかもしれない。 戦闘に向いているのは明らかにルシフェルだ。 ごくりと喉を鳴らして詠唱を始めた。 今度は互いに真似をしない。ミカエルが詠唱し始めたと同時にルシフェルが斬りかかる。 その速さに目を奪われたイスカだったが、僅かな反応のぶれに自分自身を叱咤した。 目を閉じたままミカエルは立っている場所から動こうとしない。 宙に向かって何か紋様を描き出す。 人差し指と中指で描いたそれは、全て淡い白で統一されていた。 文字だ。あれは、天界の・・・? しかしそれを解読することは出来ない。文字を教えてもらっても、人間はすぐに忘れてしまう。 くだらない、と一人呟いたアスティアは剣と剣が重なった音に耳を寄せ、 背中に装備してある矢を数本抜いた。 何度も風を切り、それに合わせて炎の矢がミカエルを襲う。 炎をまとった矢を一振りで切り裂く。 音もなくそれは2つに分かれ、地面に転がり落ちた。 僅かに懐が隙だらけになったのをイスカは見逃さない。 声に出さず、唇だけを動かして氷の呪文を剣に込めた。 鋼の剣は、見る見るうちに白銀に変わり、冷気をまといはじめる。 それを察知したルシフェルが微かに眉をひそめる。 腹部を貫かれる直前で、何とかそれを防ぐが、準備出来ていなかった衝撃に後方へ吹き飛ばされる。 振り上げた白銀の冷気は風に乗り、ルシフェルに狙いを定める。 足をついて頭上から襲ってくる氷柱を確認したルシフェルは、瞬時に炎の力を発動させた。 先ほどの炎の大蛇ほどではないが、それでも魔力は桁違いに高い。 イスカのちっぽけな氷など、あっという間に溶かされてしまった。 「くっ・・・。」 「力天使に相応しいが、その程度の魔力では私に掠り傷1つ負わせれないぞ。」 「そんなこと、分かっているっ!!」 図星を突かれて頬に朱が走る。 自分自身でもそれに気付きたくなくて、紛らわせようと声を荒げた。 まだまだ幼い彼にルシフェルは隠れて笑う。 元気があっていい、と小さく呟いたと同時に疾風の如くイスカの目の前に現れた。 「だが、私の邪魔をするのなら容赦はしない。」 いきなり現れた敵にイスカも愕然とする。 脳は既に停止していると同じだった。 顔の前に出された彼の手を呆然と見詰めて、それが黒くねっとりとした邪気を発したと同時に我に返る。 「イスカっ!!」 空を裂きそうなほどの大声が耳朶に響く。 意を決して地を蹴ったアスティアは、矢に込めた力を飛んだままルシフェルに撃とうとした。 しかし、跳躍したあとで後悔する。 いつの間にか、ルシフェルの標的が変わっていた。 イスカの目の前にいた彼は、翼を羽ばたかせアスティアの後ろに存在していた。 「しまっ―――――!!」 「飛び道具は、邪魔だ。」 後ろから聞こえる声に首だけ振り返ったアスティアは瞠目する。 彼の手から放たれている邪気は、真っ直ぐ、彼女の背中を狙った。 ドン、と身体を通して鈍い音が響く。 それは、当事者のアスティアだけではない。皮肉にもイスカとミカエルにも、十分聞こえていた。 誰かの絶叫が木霊する。名前を呼ばれた気がした。 1秒も経たないうちに、アスティアは勢いよく地面に叩き潰される。 そこからひび割れ、陥没していくのが分かった。 「――――っ!ア、アスティア・・・。」 震える声がするのはイスカだ。 何かに怯えた彼は、のろのろと身動き1つしないアスティアに近寄った。 そっと手を伸ばすが、ふと鼻をつく濃い臭いに顔を歪ませる。 「アスティア!!!」 血だ。赤い鮮血が水溜りを作っている。 咄嗟に庇ったのか頭部はそこまで酷くない。しかし、どくどくと流れ出しているのは紛れもない、彼女の血液だ。 右腕が投げ出され、所々裂傷した皮膚が痛々しい。 左側を強打したのか、腕や足はただれるように深手を負っている。 幸いなのは大事な腕がどちらも折れていないことだ。 アスティアに目を奪われていたイスカは、後ろから迫ってくる敵に気付けなかった。 その間にミカエルの魔法が完成する。 流れるような龍を模った炎の線が幾つもほとばしる。 僅かな隙間さえ許さないのか、細くても威力の強いそれは避けるルシフェルを追い続ける。 その光景に暫し呆然としたイスカはハッとしたようにアスティアに目を向ける。 根気よく名前を呼び続けていると、ぴくりと手が動く。 のろのろと持ち上げた瞼の奥の瞳はあからさまに不機嫌であった。 「る・・・さい・・・。」 「ご、ごめん・・・。」 何故謝ったのかは分からない。条件反射だ。 いつもより数倍不機嫌さを物語らせているアスティアは、左腕を庇うように右腕だけで身体を起こそうとする。 しかし無理がたたったのか、数センチ浮かんだ所で力尽きる。 再び冷たい地面とくっついたアスティアは頬を引き攣らせて微かに笑った。 微笑じゃない。冷笑だ。 それを見て、イスカの背中から冷たい何かが滑り落ちる。 冷や汗と気付くまでそう時間はかからなかったが、明らかに彼女の空気に流されている。 びくびくとしながら、だが決して相手を害さないように、 そっと彼女の背中に手を当て、ゆっくりとアスティアを抱き起こした。 角度を上げるたびに彼女の凛とした顔が苦痛に歪む。 見ている側でさえ眉をひそめてしまいそうなほど、彼女は深手を負っていた。 弓をつがえることは出来ないわけではない。だが本調子の時と比べれば威力は確実に落ちる。 動く右腕がエルフの村の村長、ルディアスから頂いた大切な弓を探す。 首を巡らすが、それは見当たらなかった。 僅かに不安そうな表情を見せたイスカが、自分の背中にあるものを見つける。 死角になっていたのだ。だから、見つけ出すことが出来なかった。 そっと弓を差し出すと、思いのほか力強く握り返す。 「あ・・・りがとう、感謝、するわ。」 にやり、と意地の悪い笑みで返す。無理はしているが、まだ少し頑張れる。 何度か吐血した後、乱暴に口元を拭った。 しかし何かを企んでいるような笑みは消えない。寧ろ色が濃くなるだけだ。 イスカの肩を借り、何とか立ち上がる。 左手足は無残にもただれ、じくじくとする痛みが確かにアスティアの体力を削る。 女性が持つにしては重かった弓を持ち上げ、震えている左手で固定する。 弦を引く右腕は大丈夫。あとは、軸がちゃんとしなくちゃ、矢を射るをことが出来ない。 彼女の行動を見ていたイスカは愕然とした。 血塗れ同然となったアスティアは立っているだけでも困難だと言うのに 更に滴り落ちる左腕を犠牲にして弓を構えていた。 狙うはただ1つ、ルシフェルに。 「無茶だアスティア!それ以上弓を射れば、左腕が使いものにならなくなるっ!!」 「――――それが、どうしたっていうのよ!!」 必死に止める言葉とは裏腹に、返ってきた言葉は罵倒にも似た叫び声だった。 彼女が感情的になるなんて珍しい。いつも静かな声色は、少し震えていた。 「左腕が使えなくなったからってなんだっていうのよ! 私なんかの痛みよりずっと苦しんでいるのは、訳の分からない宿命を背負わされているあの子よ!! 私たちの大切なフェイルの方が、痛くて苦しくて、ずっと泣いているわっ!!!」 消えたくない。 リュオイルに言っていた言葉に焦りを感じていた。 予感は的中する。ただの勘だ。それでも、絶対に外れない。 切に願うそれは、自然の摂理が許してくれない。 人間が、天使がそれを許しても、禁忌を犯す者に与えられるような施しはなかった。 死にたくなければ理を犯さなければいい。 たとえ皆がそう言っても、あの子は決して首を縦に振ろうとしない。 頑なに拒み続け、一人で泣いて、死んでいく。 たった一人で全てを背負って、魂もろとも消滅していく。 まるで彼女は存在していなかったのように。 まるで「フェイル」という名などありはしなかったかのように。 「一番苦しんでいるあの子に何も出来なくて、何が仲間よ。 結局最後まであの子に甘えて、私達は、何も出来ないんじゃないっ!」 あまりにちっぽけな自分に反吐が出る。 人間だからといって、天使だからといって、神だからといって、結局弱いのだ。 涙に濡れた頬を撫でることは出来ても、奥に潜んだ影を解きほぐすことは出来ない。 大切な仲間1人さえ、守る事が出来ない。 シギが死んだ。それが、フェイルの意思を更に強めた。 何としてでもこの戦いを終わらせなければならない。 暴君と化している主帝を新たに選定し直し、平穏な世界を築き上げなければならない。 人々の期待から生み出されたのがアブソリュートだとしたら、 人々の不穏の空気を取り払うのもやはりアブソリュートの役目だ。 どの道、彼女はいずれこうなるのだと、分かっていたのかもしれない。 覚醒して魂の記憶が共同した瞬間、フェイルは何もかもを悟ったのかもしれない。 アブソリュートは、唯一ゼウス神と対抗出来る数少ない闘神。 彼女が願えば、もしかしたら世界はひっくり返るのかもしれない。 彼女が望めば、彼女が主帝になることも可能だったのかもしれない。 しかしアブソリュートは、いやフェイルは、恐ろしいほどにまで無欲で、弱い。 力が弱いのではない。心が弱い。 神としては人間染みて、人間としてはあまりにも神々しすぎる。 まさに「天と地に生まれし存在」 魂の居所は天界でも、肉体の居所は地上だという、滑稽な話だ。 それ故異端でもあり、聖人でもある。 だからフェイルは戸惑う。人間であるのか神であるのか、自分自身のことなのに迷ってしまう。 でも、そんな彼女が好きなのだと改めて実感する あの子の笑顔は本物だった あの子の優しさは真実だった よく笑って、よく泣いて たくさんの人に希望を与えて、それを喜んでいた それが、「フェイル」の本当の姿なのではないのか 無限の力を司る「アブソリュート」なんて恐ろしい名前ではなく、ただの「フェイル」 リュオイルと一緒にいることが大好きで アレストとふざけあうことが大好きで シリウスと背中合わせに座ることが大好きで アスティアと静かに過ごすことが大好きで シギと笑いあうことが大好きで・・・ 大好きだからこそ、フェイルは決して笑顔を絶やさなかったのに 「あの子の笑顔を奪ったのは、私たちよ。絶対に奪ってはいけなかったの、あの子の光は。」 結果的に奪ってしまった。 曇った光は、それでも懸命に輝いている。 光が闇を照らせば明るくなる。 でもそれは、決して彼女自身を照らすことはない。