闇の世界から光を見つけ出すことは、案外簡単だった 手探りでそれを見つけ、追いかけ、掴もうとして だけどあと僅かで空を掻いた掌を恨めしそうに眺め ゆっくりと、追いつけるくらいの速さで動く光にもう一度手を伸ばす 繰り返して繰り返して 一体どれくらい追いかけ、掴もうとしたのかさえ覚えていない それでも光が欲しかった たった一つの、「希望」と言う名の小さな光を ■天と地の狭間の英雄■ 【手のひらから零れ落ちる】 「ミカエルっ!!」 赤色が目の前に広がるのに時間はかからない。 まばらに拡散したそれは、少年の白い頬に、額に、ぴしゃりとこびりつく。 何度も口を開閉し、化け物を見たような恐ろしい形相で前を見据えていた。 がたがたと震えだした足。それでも己の武器は握り続けている。 目の前には金色の影が二つ。 一つは背中を見せ、一つは冷笑を浮かべて何かをじっと見つめている。 自分ではないことは分かっていた。けれど、敬愛するあの方と同じ色だと信じたくなかった。 「ミ、カ・・・エル、さま・・・。」 絞り出すような声はだらしがないほど震えていた。 一つ一つの音がはっきりと出ない。 もどかしさ以上に恐怖でざっと全身から血の気が引く。 大切な人の名前を声に出したことで、更にイスカの心に不安が過ぎる。 いや、不安なんて簡単なものではない。心臓が凍りそうなほど、目の前の光景を恐れている。 叫び駆け寄ったアレストがイスカを後ろへ隠し、警戒心を強めルシフェルを睨み付ける。 ミカエルを手当てしようにも、彼はあまりにもルシフェルに近づきすぎていた。 「お前は上に立つ者として相応しくないな。」 淡々と述べる言葉には微かな棘さえあった。 実の弟であるミカエルの左肩を貫通したルシフェルの剣は、ぐぐっと下にずらされる。 徐々に肉を、神経を破壊していく音にイスカは耳を押さえたくなる衝動に駆られる。 同時に聞こえたのは必死に、激痛に耐えるミカエルの苦しそうな呻き声。 既に言葉ではなかった。絶叫すればいいものを、彼はそうしようとはしない。 だがそれも長く持たない。 かくんと糸が切れたかのように膝をついたミカエルは苦しそうに肩で息をしはじめた。 瞠目し、肩から腕へ、あるいは下腹部に流れる血をざっと見て、未だ刺さったままの剣を凝視する。 膝をついた時点でルシフェルは己の剣から手を離していた。 つまらなさそうに、小さくなった弟を眺めている。 何度も息を整え、ぐっと唇を噛む。 そして震えが止まらない右手で、敵の剣の柄を掴んだ。 肉に挟まれたものが抜けた鈍い音にアレストは短く悲鳴を上げる。 庇われていたイスカも、その光景を見て大きく目を見開く。 抜いた瞬間飛び散った血は、刺さった時よりも激しく脈打ちながら外へ流れ出る。 患部を手で押さえ、乾いた咳をすれば今度は眩暈が襲ってくる。 何度も荒い息をしていれば喉が痛む。 けれど、鋭利な刃物で貫かれた肩は熱くて痛くて堪らなかった。 「ぁ・・・。」 「強き者は時に弱者を捨てねばならない。頭の中では理解しているはずだ、ミカエル。」 「・・・っ!そ、れでも・・・」 「自らの命を危険に晒してどうする。それがお前の正義か。」 「ち、がいますっ!正義、なんて綺麗なもの、は・・・私は、持ち合わせていません!!」 「・・・綺麗なもの、か。それでもお前は綺麗すぎた。穢れを知らなさすぎた。」 それでも、それで良かったと思う自分もいる。 彼まで天界から追放される必要性はどこにもない。何より誰も望んでいない。 すっと目を細めたかと思えば、今度は先ほどよりも随分と冷えた目でミカエルを見下ろす。 彼の変わりようを目の当たりにしてもミカエルは少しも驚かない。 ただ一瞬見せたのは悲しみの色。 それが気に障ったのか、白く細い指が同じ金の髪を掴む。 強く上に持ち上げられれば、顔も自然と上を向く。 慈愛に満ちた表情はない。ただ敵である者を睨み、威嚇する。 綺麗な顔が歪む。それを見て満足したのか、にたりとルシフェルは笑った。 「そうだ、その顔だ。」 憎しみに満ちれば良い。綺麗な視線なんていらない、反吐が出る。 慈しみの眼差しは毒だ。そんな感情は捨てた、受け入れる資格さえない。 好むのは怒りや憎しみ。負の感情こそが己を満たす。 光を追いかけても、照らされる分際ではない。それは重々承知している。 けれどそれでも欲しいと思うから、身を削ってでも手に入れようとする。 欲しいものはすぐ目の前にある。ただ、届かないだけ。 あと少し、あと少し。何度手を伸ばし、何度空を掻いたか。 「ミカエルっ!!」 金切り声に近い叫び声にゆらりとルシフェルは振り向く。 艶のある長い髪を掴んだまま、血濡れになった弟を離さぬまま。 「お前の大切なものを殺せば、お前はどうなるんだろうな。」 絶望に染まるか、憎悪に染まるか。 もしかしたら綺麗で美しい彼は、ただ悲しみの目を自分に向けるだけかもしれない。 それはそれで面白い。 生憎そんな趣味は持ち合わせていない。じっくりいたぶっても気分が悪いだけだ。 殺すのなら確実に、苦しまないように。 ああ、けれどそんなことを知らない彼は、驚愕して大きく目を見開いた。 彼が堕ちたのは残念ながら絶望だ。怒りよりもその色の方が強い。 「例えばお前が守った天使の首を撥ねて、そこにいる女の心臓をひと衝きすれば・・・」 どうなるだろう。 そう言って笑う。残酷なまでに美しい笑顔で。 人間達が称するような「天使の笑顔」で、ただ無垢に。 昔の面影はない。変わり果てた兄の姿を見て、ミカエルは愕然とした。 だけどふつふつと湧き起こる怒りは止めようがない。 確かに、彼の言う通り時には部下を見捨てなければならない時もある。 それでも今はその時期ではない。犠牲は抑えるものだ。 神が言うように天使の代理が幾らいようとも、その存在は確かに心に焼き付いている。 刻まれた記憶が悲鳴をあげ血と涙を流す。 人間達と比べれば天使は淡白なのだろうが、それでも怒りを感じることもあれば悲しみを感じることもある。 殺してやりたいという衝動に駆られる時だってある。 シギが死んだと知った時も、どれだけ憎悪に苛まれたことか。 綺麗なんかじゃない。 この手は十分すぎるほど穢れている。 罪の証が手にこびりついている色は赤だ。 何度拭っても、洗い流しても、時を重ねても、罪の重みが軽くなることはない。 綺麗なんかじゃ、ないんだ。 俯けば己の流れ出た血が小さな水溜りを作っていた。 それを見止め、患部に手を当てている右手をぐっと強く握る。 意識を集中させればあとは気力だ。 やはり人間と構造が違う天使はこれしきのことで倒れはしない。 それよりもミカエルを突き起こしたのは、怒りなのか悲しみなのか呆れなのか分からない混ざった感情。 貫かれた左肩を庇いながらも、ゆっくり身体を起こす。 落としてしまった剣を拾い、今度こそは離さないと言わんばかりに力を入れる。 傾きそうになる身体に鞭打って立ち上がれば、 無理をしたせいか患部から溢れる血は、止まることを知らないのか面白いほど流れ続ける。 血を流し過ぎることは得策ではない。 先ほど軽い眩暈に襲われたのだから、これ以上長引けば立ち上がることもままならないだろう。 「ミカエル、さま・・・。」 震える声の先に視線を送れば、ふっと笑顔が浮かぶ。 困らせたいわけじゃない。悲しませたいわけじゃない。 望むのは平穏な日常。 何に縛られることもない、自由に羽ばたくことの出来る世界。 同じであり同じでない願いは亀裂が入り、今まさに激戦と化している。 「綺麗なんかじゃ、ありませんよ。」 必死に絞り出した声はどこか自嘲的だった。 「私はこんなにも―――――貴方を殺したくてたまらないんですから。」 その言葉に偽りはない。 取り返しが付かないほど亀裂は溝を深めている。 (嘘吐き、かもしれない) けれど言っていることとは裏腹に、ミカエルは自分の言ったことを後悔する。 嘘吐きだ、大嘘吐きだ。 本当に私は、大天使として、最高峰の天使として、失格だ。 本当は殺したくないくせに、立場上、殺さなくてはならなくて。 けれどそれに歯向かう術も知らず、歯向かうべきか否か、迷っている。 自分の意思を確認しても分からずじまいだ。これでは埒があかない。 納得のいかない戦だ。それ以上にルシフェルの行いを許せるわけではない。 塗り重ね、これ以上塗りきれないほど塗り重ねた罪は二度と消えず、癒えることはないだろう。 本来ならばこの青空の下、太陽の昇る世界に存在してはならない。 だからかつて神は彼を追放したと言うのに、今はその彼に追い込まれている。 とんだお笑い話だ。あまりに傑作すぎて、笑いを通り越して感嘆する。 さぁ、と風が吹けばうっすら伸びている雲が風の方向へ動く。 雲の影がゆっくり動く。動くことによって太陽の光も溢れだす。 光がミカエルを照らす。 ああ、太陽は言っているのだ「立て」と。「前へ進め」と。 じんわりと温かな日差しがミカエルを温める。 あまりに心地よすぎるそれに、思わず泣きそうな衝動に駆られた。 兄を取るか、世界を取るか 私は、彼女が愛した世界を取る 力強く地を蹴ればその反動で大きく前に出る。 風向きはこちらに有利だ。 急に立ち上がったことにより一瞬目の前が真っ暗になる。しかしそれはすぐに治った。 血の気が失せた白い顔とは裏腹に、患部を押さえていた右手は皮膚から肉に浸透しそうなほど真っ赤に染まっている。 ぬるりとした感触で剣の柄を握り、払いではなく突きの構えを取る。 翼を羽ばたかせる余力はまだある。右肩をもうひと突きされれば分からないが、 多少の障害があっても戦えないわけではない。相手の剣を受け止めることだって可能だ。 血を吸ってしまって邪魔になった布を引きちぎる。 見た目戦闘に不向きな長布を取り払えば、まるで甲冑を脱いだような軽やかな感覚を覚える。 繊維と繊維が切れる音がすれば、それをルシフェルに投げつける。 それに多少驚いたルシフェルはそれでも一閃で軽い布を裂く。 白と赤の混じった長布が2枚に分裂する。その隙間に、ミカエルがいるはずだった。 「なに?」 消えたと思われる金色の姿を急いで探せば、頬に落ちる一粒の雨。 いや違う、この独特の生温かさは雨ではなくて、血だ。 そこまえ考えつくのに時間はかからなかった。 反射的に上へかざした武器は上から下へ、計り知れない力で沈められていく。 鈍い音が響けば今度は自分の足が地上へ着く。 人間業ではないため勿論力だってどれくらい入っているか分からない。 けれどミカエルは決して手加減をしているわけではない。 持てる限り、全ての力を一撃に込めている。 足元が陥没し、流石に分が悪い感じたルシフェルは押さえていた剣を横払いする。 真っ直ぐ上から下に落ちそうになる身体を回転させながら ミカエルは空で舞うかのようにゆっくり体勢を整える。 その間にルシフェルは一歩、また一歩下がった。 頬以外にも肩に、腕に付いた血を軽く拭き、にやりと笑う。 「やっと本気を出してきたか。」 「私はいつもと至って変わりません。 たとえ貴方が兄でも、貴方の目指す先に確かな光があったとしても 私は彼女を裏切ることは出来ません。彼女だから光を導くことが出来ると信じています。」 「確かに、あれはそのために存在するものなのだからな。」 きっとあの辺りでゼウス神と交戦しているのだろう、微かに聞こえる慌しい音のする方向を見る。 これから散るつもりであろう命を存分に使い、だが必死で生きている。 だからこそ余計に儚く脆く見える。 だからこそどうしてあんなに強く生きろうとするのかと疑問に思う。 彼女が太陽だとすれば、自分は何なのだろう。何のために存在しているのだろう。 望まれ生まれてきた彼女とは違い、ただ神々の意思だけで創られたこの身は本物だといえるであろうか。 全てが神の意のまま、神のご意思。 違う、そんな世界は世界と言えない。 だからアブソリュートが現れ、反逆者が現れた。 それが神の仕掛けた罠であるにしてもないにしても、この好機を逃すわけにはいかない。 一度あることは二度あるというが、特殊ともいえるこの戦は二度と起こらない。 神が勝てば力で捻じ伏せ、二度と反逆が起こらないように目を光らせるだろう。 人間や天使が勝てば改革でも起こるだろう。いや、革命と言うべきか。 「あ、あんたは・・・どこまでアホなんや!!」 余裕に満ちたルシフェルの顔が僅かに歪む。 アレストの悲鳴とも言える叫び声に鬱陶しそうに振り向き、不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。 それでもアレストは流されずにルシフェルを睨みつける。 「存在するために意味なんてあらへんっ! うちもリュオイルも皆、フェイルが好きで好きやから一生懸命になれるんや!! それをそんなくだらへん言葉一つで片付けるなんて、仲間のうちが許さへんで!!」 悲痛にも似た声にルシフェルは更に顔を歪ませる。 露骨に不機嫌さを表し、禍々しい力を知らず知らず放っている。 黒く粘液のように纏わりついた気配に思わず息を呑む。 視線を逸らせば負けだ。だから真っ直ぐルシフェルの瞳を射抜く。 人間ごときが、と吐き捨てたかった。 けれど何故声に出ない。喉まで出ていると言うのに、どうして音が出ない。 何もかもを見透かしているような目つきが気に食わない。 何も知らないくせに知ったような口をきくのが気に食わない。 神の手駒にされた気持ちも知らないくせに、何も知らないくせに。 たかだか人間ごときがどうしてそこまで、たった一人の神に固執する。 「・・・これから奴は死ぬと言うのに、呑気な女だ。」 「し、ぬ?誰が・・・?」 予期せぬ言葉に思考が停止する。 先ほどまでの威勢は消え、後ろにいるイスカの方にゆっくりと首だけ動かす。 けれど彼も驚愕し、ただ静かに頭を振るだけだ。 治療を続けているアスティアも、その腕が止まっている。 何を、誰を、この目に映して良いのか分からなくて目が泳ぐ。 誰か否定してくれと心の中で叫ぶ。 今の流れを聞いていたのなら、誰が死ぬかなんて分かるはずだ。 その中で最も冷静だったミカエルに視線が集中するのはおかしくない。 大天使だからこそ、最高峰の天使だからこそ、否定して欲しかった。 違うと、たった一言でいい。 「フェイルさんです。」 何かを押し殺したように吐き捨てられた言葉はあまりにも無情で、あっけない。 今まで積み重ねてきたものが崩れる感覚がした。 それも、二度と復元出来ないような。 もう一度重ねようとしても、それは消えてしまう。灰になって、風に乗っていってしまう。 「う、そや。」 「神を殺すには同じ神の命が必要となります。」 「嘘、や。嘘や嘘や嘘や嘘やっ!!!」 「魂は輪廻の門に導かれ、潜れば早急に消滅します。二度とその神は誕生することはありません。」 「嘘やっ!ミカエル、違う、そんなん嘘や!!」 頭を押さえ、何度も横に頭を振る。 聞きたくないのか耳元さえも押さえはじめ、立ったまま俯いた。 一瞬我を失ったイスカがそれを見てしまい、後悔する。 泣いてはいなかった。 けれど、泣いていたほうがましだったと思う。 「アレ、スト。」 そっと、壊れないように彼女の肩に手を置く。 だって彼女は大切なものを失ったばかりだから。 失ってはいけないものを奪われてしまった。 だから泣いて欲しかったのに、泣き叫んで欲しかったのに。 「嘘やって、言ってぇな・・・。」 垣間見えた表情は、再び絶望に落とされる恐怖の色。 震えはじめた肩にイスカはぎゅっと唇を噛む。 予測出来なかったわけではない。ミカエルが言っていた禁忌は天界にいるものならば誰もが知っている。 けれど歴史上、そんな神は一人もいなかった。これからもいるはずがないと過信していた。 予測出来なかったのは"フェイル"の感情と行動だ。 ゼウス神を知るものならば決して反逆などと言う愚かな行為は働かない。 何故なら彼は天界と地上を支配する最高神であるからだ。 数々の天使が、神が追放され、次は誰に来るのかと皆怯えて生きている。 反逆者にはそれ相応の罰を 罰と言えるほど簡単なものだろうかと、疑念することはある。 でも逆らうことは出来なかった。怖かったんだと、改めて古い記憶を思い起こせば簡単に回答が出てくる。 当たり前と化している考えをぶち壊したのがフェイルだ。 だから弱き天使たちは彼女に惹かれた。 神々も彼女に興味を持ちはじめた。 結果がこうなるなんて、よく考えればすぐに算出出来たはずなのに。 フェイルと言う無垢な存在に浮かれ過ぎて現実を振り返ることを忘れていた。 絶句するアレストにミカエルは何も返さなかった。 「分かったろう?アブソリュートとは世の中の人間や天使、生きとし生けるものが望んだ賜物。 あれはゼウス神という狂神を倒すことで存在意義が成り立つ哀れな神だ。それ以上それ以下でもない。」 無論、勝利を譲るつもりはない。 ゼウス神を倒し、統一するのはこの私だ。 ついに反論しなくなったアレストに気を良くしたのか、うっすら微笑を浮かべる。 人を語る者は好きではない。 知ったような口ぶりをする者の言葉は虫唾が走る。 最も情が深い人間は好きではない。 神であるアブソリュートさえも、フェイルの感情がある彼女を好きになれない。 今も、これからも、ずっと永遠に。 「――――アレストっ!!」 考えに耽った瞬間耳に過ぎった声。 何かを止めるようなイスカの声が木霊する。 目を開ければ空を掻いたイスカの手が微かに見える。 それを避けるかのように自分に突進してくる姿は、紛れもない人間。アレストとか言う女だ。 右腕が上がる。大きく後ろに引かれる。 それを前に突きだして、ルシフェルの左頬に目掛けて振り下ろされる。 バキ、と決して軽くない音がすれば跳んで浮かんでいたアレストの足が地面につく。 そして一歩、もう一歩後ろに退いたルシフェルが殴られた左頬に手を添える。 口内で広がる鉄の味に違和感と不快な気分を味わう。 少し油断をしていたせいか、倒れることなく受身も取れたが、その分痛みは凄まじい。 恐らく本気で殴ったのだろう、きっと頬は真っ赤に腫れている。 呆然と眺めていたミカエルが何度も瞬きをしてゆらりと動くアレストを見つめる。 けれど彼女は殴った右手を見て、項垂れている。 「何度言わせれば気が済むねん、ほんまにあんたはアホや。」 覇気のない声色でもしっかりと音は聞き取れた。 おかしな言葉遣いがいつも気になっていたけれど、逆にその言葉が堪える。 「フェイルがそうだったとしても、うちらにとったらフェイルはフェイルなんや。」 勢いよく頭を起こし、ギッとルシフェルを睨みつける。 少し赤くなった右手を左手で押さえ、今にも掴みかかりそうな形相で。 口の中に広がる違和感を吐き捨て、口元を拭う。 一度ならず二度までも馬鹿にしたことは許せない。 人間は嫌いだ。感情的になりやすく、情に脆く、非力だから。 「フェイル以外にフェイルはおれへんし、フェイル以外必要なものはあれへん! 代わりなんてこの世にあらへん。唯一無二の、たった一つの大きくて大事な存在や。―――それがフェイルや!!」 笑顔でいた時も、泣いていた時も。怒っていた時も。 その一瞬一瞬全てが彼女のものであったことに違いない。 決して操られていない本物の表情。 それさえも否定されたような言葉だった。 存在するために意味なんて必要なのか? 誰であれ必要とされている、必要されない者なんていない。 あの子がいなくなってしまったら自分たちはどうすればいい。 納得出来ないまま、帰れと? 誰よりも少女を思い続けていたリュオイルとシリウスはどうなる。 シギを失った自分のように、喪失感を味わうことは確実だ。 息を切らして言い切ったアレストの胸倉を急に強い力が掴む。 呼吸が困難になり、詰まった声が漏れ、足元がふらついた。 「浅はかな人間が・・・っ!!」 「――――っぐ!!」 「我々の領域と同じように考えるなど、無粋にもほどがある!」 軽々と片手で持ち上げた瞬間地面に叩き付けられる。 勢いよく、アスティアと同じように左肩から落ちたが武道を専門とするだけあって何とか受身を取った。 しかしその拍子に打ちつけた背中が悲鳴を上げていた。 剥き出しになった肌には裂傷が走り、じわりと痛みを広げる。 悲鳴を上げることなく、痛みに耐えて強く瞼を閉じる。 傷口に手を当てた時の自覚はなかった。 倒れこんだアレストの姿を一瞥し、ルシフェルは細く長い剣を払う。 そして真っ直ぐ歩き出す。アレストのもとへ。 大した距離はない。だからすぐに追いついた。 「人は天使や神とは違う。」 上半身だけ起こしたアレストの喉元に突きつけられた剣先。 鋭く光る冷たい刃に思わず固唾を呑む。 つ、と重力に順応して血が流れる。 大した傷ではない。だが下手に動けば喉から首へ、こんなちっぽけなもの簡単に裂かれてしまうだろう。 アレストの名をイスカが叫ぶ。 尋常じゃない空気に深手を負ったミカエルさえも驚愕しその場を動けないでいた。 助けに行きたいのに、足が動かない。 何度も心の中で叱咤するが、あと一歩のところで到達しない。 「分かるだろう、人と天使では力も年の取り方も考え方も、何もかも違う。」 神と天使と人間。 この中で最も非力であるが最も自由なのは、人間だ。 神の管轄下から遠く離れた彼らは、ある意味神から見放された存在なのかもしれない。 けれど時として妬ましく思うこともある。 羨望の眼差しで見る事はあっても、彼らの領域に侵入することは出来ないし許されていない。 だからこそこんなに恐ろしく忌み嫌ったものはない。 武力以外の力を持つ彼らが真の化け物ではないかと考える。 ある意味神よりもおぞましく、そして同時に愚かなイキモノ。 真っ直ぐな茶色の瞳と己の瞳とが交差する。 怯えた様子は見せない。命乞いもしない。 つまらない、面白くない、気持ちが悪い。 ああ神も、思い通りにならない時はこのような感情に駆られていたのだろうか。 「それでも天使だって痛いと思うし悲しいと思うやろ。」 伝説の種族として崇められていた神族。 けれど逢って見れば、何と言うことだろう。人間とそれほど変わらないではないか。 「力がなくても、不老のような寿命がなくても・・・」 ミカエルもイスカも、笑うのだ。本当に幸せそうに。 彼らだけではなく、皆表情を見せるのだ。 農作物が豊作の時の農民の笑顔だって、誰かを慈しむ天使たちの笑顔だって 種類は違えど心から見せる本当の姿だ。 決して神が操ったものではない。彼らだけの感情。 シギが死んだときのイスカの顔。 実の兄との対決に覚悟を見せたミカエルの顔。 「その時その時の感情に、嘘はなかったはずや。」 ならば一緒だ。人間も天使も一緒だ。 確かに肉体の構成は違うし、力も歴然の差がある。 考え方も違えば食べ物の嗜好もまた異なっているだろう。 だからといっていけないことなんてない。なにもないんだ。 ぴたりと固まっていたルシフェルの瞳が揺らぐ。 何度も口を開き、閉じるを繰り返す。 気分が悪い 気持ちが悪い 何なんだ 「・・・・ま、れ・・・」 (―――――大丈夫。) なにが・・・? (―――――大丈夫だよ。) どうして・・・? (―――――1人じゃ、ないからね。) だれが・・・ (―――――ずっと、傍にいるよ。) だれ、と? 「だまれえぇぇぇぇえええええっ!!!」 ふわりと包む 自分に足りないもの 認めたくなくても いつも手を伸ばしていた光は、容赦なく光を与える