「だまれえぇぇぇぇえええええっ!!!」














怖くて、怖くて









だれかがこの醜い心に入ってくることが、とても怖くて























■天と地の狭間の英雄■
       【そっと触れて、そっと抱きしめて】























求めているのは自由だ。
何をしてでも手に入れたいのは空を翔ることが出来る翼だ。
それ以外に何があると、誰もいない暗闇の中で叫ぶ。
誰もいないはずなのにどうしてそんな場所で、まるで見えない何かと対話しているかのように。

(違う、違う)

温かさなんて必要ない。捨てた、心と魂と一緒に。
天界から追放された時に、置いて行ってしまった。

ならば、胸の中を渦巻くこの感情はなんだ。
吐き気とも言えぬ不可解な痛みがじくじくを襲う。
望んでいたはずの光を目の前にして怯える自分が、酷く腹立たしい。
伸ばせば掴めるじゃないか。この腕に抱くことが出来るではないか。

不思議で、温かくて、溶けてしまいそうなほど柔らかで優しい光。
けれど、怖いと思うのは何故だろう。

(だいじょうぶ)

そう言われる度に情けなく肩は震え、威勢の良い言葉は喉元で消えてしまう。
燃え盛る炎に降り注いだ冷水のように、ざっと体温が失われる。
殺される、という恐怖ではない。けれど怖いのだ。"それ"が手に届きそうになればなるほど、怖い。









(一人じゃ、ないよ)









ああ、その言葉が、あまりにも・・・











咆哮を上げながら振り下ろされた剣にアレストは目を瞠った。
強く目を瞑り大声で叫べば良いものを、ルシフェルの豹変と突然の行為に硬直する。
ゆっくりと、コマを割ったように流れる動きに呆然としながら、
まるで他人事のように恐れることもなく、ただ動きに合わせて視線をずらす。
途中耳に届いた叫び声は3つ。男女のものだった。
けれど動けない、ああほら、剣先は、もう少し。

















「―――――――ルシフェル!!!!!」
















視界に走る金の糸。
絹糸のようにきめ細やかで艶やかな色。
視界に入った色は合計2色。どちらも同じだが、影になって僅かに黒ずんでいるのは、凶器を振り下ろしている方。
同じ色が交差する。所々赤が混じっている者が、後ろから陰に近づく。

ああ、また。またゆっくり、ゆっくりと世界が動く。
ズブリと肉を貫く鈍い音がした瞬間、陰のある胸元から、その者の色に染まった凶器が覗いた。
粘着力のある生温かいそれが顔に、胸元に、容赦なく飛び散る。
色は赤い。つんと鼻をつく鉄の臭いは判断力を鈍くさせた。
最近嗅いだ、嫌な臭い。胸焼けのする臭いだ。

この液体がなくなって、死んだ者がいた。
肉を奪われ消えた者がいた。
それまでの存在を掻き消すかのように、何も残さないで光となった。




「か・・・・は・・」




口腔から漏れる朱色の霧が空の青さを奪う。
相反する色はあまりにも対象的で、毒々しい。
それと同時に、あまりにも・・・美しい。

カランと、手から剣が滑り落ちる。
その剣はアレストを貫かなかったが、当の彼女は瞠目して前を見据えているだけ。
オイルを注し忘れたブリキのようにぎこちなく首を巡らせ右胸を覗く。
銀色と赤色が混じった剣が、己の身体を貫いている。
剣先から血が一滴、また一滴落ち始める。
恐る恐るそれに手を触れれば、自分の物ではないような気がする血の温かさにゾッとした。
背中に感じる痛み。だがそれ以上に感じるのは、誰かのぬくもり。

ああ、なんだ。

朦朧とする意識の中、ふっと頼りない笑みを浮かべる。
それは本当に僅かなもので、笑っているかどうか定かではないが、顔つきは穏やかだった。



「・・・ミ、カエ・・・ル・・・」



背中から直接伝わるのは震え。
間接的に伝わるのは恐れ、後悔。

ほら、お前はいつだって、優しすぎる。




「に・・・にい、さま・・・」




気丈に振舞っていた時の声と比べれば、何と弱々しいことだろう。
己が握る剣を凝視して、今にも泣きそうな震える声で立ちすくんでいる。
よろりと後退すれば、握ることさえも困難な手のひらからするりと剣の柄が離れる。
支えを失ったルシフェルの体が斜めに傾く。そのまま膝から崩れ、胸元から溢れる血が勢いを増す。
前方に沿って崩れ落ちたルシフェルの目の前にいたアレストは、ようやく理解を把握する。
泥や戦闘の裂傷でカサカサになった自分の頬を撫でれば、先ほどこびりついた血が固まりきらず手の甲に付着する。
それを見て、顔を上げれば、痛みに耐えているルシフェルの蒼白な顔が伺えた。

アレストを殺そうとしていたのはルシフェルだ。
ルシフェルを殺そうとしたのはミカエルだ。
ミカエルが、アレストを助けた。

敵を倒す。ただそれだけでいい。
それなのに、胸の奥に潜むわだかまりは一体何なんだ。
状況は明らかにこちらが有利。勝てないとさえ感じていた相手に、勝てそうな粋に来ているというのに。



「兄さ、ま・・・」



兄と呼ばず、ルシフェルと言う名を意識して呼んでいたというのに
自分自身に驚愕しているミカエルはいつの間にか慣れ親しんだ言葉を何度も紡ぐ。
「兄さま」と、短く、だが強く。

何度この状況が続いただろう。
誰も沈黙を破ることが出来ない。
この状況で喋ることが許されているのは、ミカエルとルシフェルだけだ。
けれどミカエルが発する言葉はどれも途切れ途切れで自信がなくて、あまりにも頼りない。
ここまで彼が取り乱しているのを見るのは初めてだ。
だからなのか、後ろで控えているイスカも驚きはしているものの、敢えて自ら喋ろうとはしない。
ゆっくり近づいて来て、アレストの横に佇み、彼女の頬や胸元に付いた血を拭く。
少々乱暴ではあったが気にはしなかった。目の前の光景に目を奪われてそれどころではない。

雲が流れ、影が生まれ、僅かな隙間から差し込む光に彼らの姿が眩しく照らされる。
既に血の海である地面は恐ろしいほど鮮明で、脳裏から離れることはないだろう。
太陽の光とは時に残酷で、映さなくて良い物までありのままの姿で映し出す。
一滴落ちれば、まるで朝方に見る露のような光を放つ。
決して透明ではなく、寧ろ赤黒く染まりきってはいるが、照らされれば照らされるほど美しさを増す。
さしずめ、生きた絵画と言うべきか。
それを言わせるほど、傷ついた堕天使は酷く美しい。

どれくらいの時間が経ったのかは分からない。
しばらくぼんやりとしていたルシフェルは段々冷えてくる己の身体に気付く。
それとは対象的に患部は燃えるように熱く、流れる血もまた温かい。
これが体温を奪っているのだから、イキモノとは本当に愚かで儚いものだと、今更ながらゾッと寒心する。
右胸から覗く剣先を躊躇うことなく掴む。
ぐっと力を入れれば、研ぎ澄まされたそれは柔らかな皮膚を簡単に傷つける。
指紋が分からなくなるくらい真っ赤になった手のひら。
おびただしい血の量は、剣を抜く力を入れるほど量を増やす。
手から腕へ、腕から腹部へ、足へ。
胸から溢れたものは真っ直ぐ落ち、靴の中に染みた感覚が気持ち悪い。
ズズ、と剣と肉が擦れる。
鋭利な剣は、少しでも離れたくないのか抜かれても尚、内部を破壊させる。
何度も呻き声を上げるが、これと言った悲鳴は一つもない。
目の前が霞むことがあったが、それを悟られまいと、一気に抜いた。

カラン・・・



「・・・・は・・・・」



笑いたいのに、その力さえ残っていないのか、掠れたような息が漏れるだけ。
くらりとする頭を押さえ、いや、それ以上に胸が痛む。
止め具を失った傷口からは、溢れんばかりに血液が流れ出す。
それを止めようにもぽっかりと開いた穴が、それは不可能だと物語っていた。
痛みよりも、熱さよりも、今度は寒さが勝ってくる。
人間たちは、それは死の世界へ誘われると称していた。
天使は人間ほど柔ではない。けれど不死ではないことは確かだ。
命を絶てば光を放ち、直ちに輪廻の門へ送還され、魂は浄化されもう一度生まれ変わる。



「にい、さま・・・にいさ、ま。」



それを察しているのだろう、聡明な弟は愕然として、意味もなくゆっくりと頭を振った。
立ち上がる力もない兄の元へ足を運ぶ。その足取りは重い。まるで鉛でもぶら下げているようだった。
一歩近づけば、足元で水が撥ねる音がする。
確認するまでもない、唯一無二の、彼のものだ。
生きる上で必要な物質。流れ落ちれば、決して戻ることはない。
どんなに天使が人間より優れていても、肉体の構造が違っていても、命を失う条件は同じだ。

汚れるのも構わず、膝をつく。
生温かかったはずの血は既に冷え切っており、氷水のように冷たかった。
恐る恐る手を伸ばす。自分と同じ顔をした、兄の方へ。




「にいさま」




覇気を失ったような瞳は虚ろで、何を映しているか分からない。
見据えるのはルシフェルの胸元。ミカエルが刺した箇所だ。
手先は冷え、みっともないほど震える指をまるで壊れ物を扱うかのように、そっと彼の頬に添える。
抵抗は、なかった。


「・・・・・・わ、たしの・・・・」


負け、か・・・

言い終える前に喉にむせ返る鉄の味。
発作のように何度も咳き込み、朱色の液体はどろりと彼の口元を汚す。
咳き込めば咳き込むほど患部に負担をかけ、出血し過ぎたせいで頭痛を引き起こす。
更に寒さが身体を襲う。極寒の地に裸で放り投げ出されたような気分だ。
冷たいはずの弟の手が、温かいと感じる。
深く息を吐き、大きく吸い込む。けれど、吸い込むと胸に負担がかかる。
どこを損傷してしまったんだろう。これは肺だろうか、それとも・・・。

世界が一瞬白に染まる。
反転して、変わりに見えたのは果てしない空の色。
丁度太陽を遮っていた厚い雲が、ゆっくり風に乗って流れ出した。
ちかちかする光は、まどろむような温かさは、太陽の恩恵。


ああ世界はこんなにも、壮大だったんだ




「――――――兄さまっ!!!」




気が付けばミカエルが泣きそうな顔で上から見下ろしていた。
頭部や背中に広がる温かさ。どうやらミカエルの腕の中にいるらしい。
全く、同じ顔なのだからもう少し毅然たる態度をとってもらわねば。
これからも最高峰の天使として、自分の代わりではなく"ミカエル"が努めてもらわなければならないのに。
けれど人前で決して弱音を吐かず、泣こうともしなかった彼の珍しい表情に思わず笑みがこぼれる。

私も傷ついて悲しんだ時、こんな顔をするんだろうか

ミカエルが必死に叫ぶ。
冷たくなった兄の手を握り締め、衣服を赤に染めても決して離さない。

勝敗は決まった。ルシフェルの、敗北だ。




「・・・こんな・・・」




やっとのことで声が出たアレストは、イスカに凭れ掛かる。
それを受け止めたイスカは、そのまま視線を双子の天使に移した。




「こんな、終わり方って・・・」




決めたのは自分達だ。
彼らは許すことの出来ない大罪を背負った。
首謀者である彼を倒すことは間違いではない。正しかったと言える。
しかし、第一の危険人物を倒したと言うのに、どうしてこんなにも胸が痛む。
自分達が決めたからこそ、現実が恐ろしくて見ていられない。
彼の生い立ちを知ってしまったから、情が移ってしまったのも勿論ある。
しかも彼を死に追い詰めたのは紛れもない双子の弟。
今の姿が、自分とシギの姿を思い出させる。
それが怖くて、アレストはまた一粒涙を零した。

ミカエルの変貌はイスカの心も揺るがせた。
いつも穏やかな笑みを浮かべていて、優しい相貌に包まれていた。
誰かが傷ついた時に見せた悲しみは、こちらまで悲しくさせた。
それ以外の表情をほとんど知らなかったと言っても過言ではない。
この世に生を受けてから今まで、ミカエルの泣きそうな顔は見たことがなかったのだ。
決して人前で不安がる様子を見せず、常に平静と情愛を備え持っていた。
当たり前と思っていた。だから間違っていた。

たとえ天使の最高峰でも、取り乱すこともあれば泣くことだってある。

そして、何と人らしい表情をしているのだろうと感嘆する。
あまりにも不謹慎な言葉は喉元にまで上ってくるが、ギリギリのところで呑みこむ。



「ミカエル様・・・・ルシフェル、さま。」



ぐったりとしているが、かつての大天使は皮肉にも今までで一番良い表情をしていた。












「も、うしわけありません、兄さま・・・私、が・・・・」



ついに零れる。
はらはらと、とめどなく。



「ごめんなさい、ごめんなさい――――」



嗚咽を上げることもなく、ただルシフェルの頬を水が濡らす。
謝罪は雨のように降り注ぎ、絶望と自らを追い詰める念がミカエルを支配していた。
ごめんなさい。
何度も何度も繰り返す。
壊れた玩具のように、ルシフェルの手を握ったまま、繰り返す。



「・・・ミカエル。」



黙り込んでいたルシフェルは、やっとのことで言葉を紡いだ。
無駄に体力を使うと血が溢れるが、自我を失いつつある弟を目の前にしてそんなことは言っていられない。
手を持ち上げて頭を撫でてやりたいが、それは無理だ。
だから全神経を、彼に握られている手に注ぐ。
弱々しく握り返せば、びくりとミカエルは震えた。
大きく目を見開いて見る先は、同じ顔。


「ぁ・・・」

「しっかり、しないか・・・お、まえは、私に、かっ、たの、に・・・」

「・・・・」

「アブソ、リュー、ト、に・・・ついてい、くんだ、ろう・・・?」

「・・・は、い。」


掠れた声は力強かった。
だらしなく流していた涙はピタリと止まり、背筋を伸ばす。
軽く目元を擦れば下から消え入りそうな苦笑が聞こえる。
まるで子供のようだと、笑っている。




「・・・兄さま。」




裏返りそうになる声を必死に抑えて、ミカエルは穏やかな笑みを浮かべてルシフェルを見つめた。






「ゼウス神に、栄光は渡しません。」






それは誓いのような一言。
道は違えども、求める先は違えども、主君に反抗することに変わりはない。
魔族を先導する彼が倒れたとなれば士気は落ち、たちまち崩壊するだろう。
彼らは負けた。強硬派でもいない限り、下手に仕掛けてはこない。
ルシフェルの腕として君臨していたソピア、ロマイラ、ギルスは既にこの世にいない。
だとすれば残るは下々の者たちばかり。
追い出すのもよし、向かってくるのなら討ち返すのもよし。

ミカエルは既に体温を失いつつあるルシフェルの手を力強く握った。
柔らかだったとされる手のひらは、剣だこが目立ちごつごつしている。
それは彼が天界にいた時には知らなかった姿。
けれど目の前の彼は本物で、敵対していたとはいえ彼らしいとさえ感じる。



「だから・・・だから・・・」



―――――安心してください


















(ほら、見て)

















声が、聞こえる

求めていた声が

耳朶をくすぐり、すぐ傍に、手が伸ばされる

















(一人なんかじゃ、ないんだよ)














眩い光が視界を襲う

金色の糸が視界を横切る

逆行となって顔は見えないが、差し伸ばされた手は・・・折れそうなほど細い


手を伸ばす

力の限り、残る力を全て使い果たして

指先が触れあう

細い指は、ふわりと自分の手を取った

一瞬躊躇いを見せれば、光の中にいるそれは微かに笑った

















(ここに・・・いるよ)

















力強く、だが優しく光の方へ引っ張られる

不思議と痛みはない

温かな光が冷めた身体を癒し、もう少しまどろみたいと感じた








『 貴方が本当に必要な人は、私ではありませんよ 』








・・・ヘラ神

貴女は、知っていたんですね















(おいで、ルシフェル)















貴女は、"彼女"の存在を最初から知っていたんですね



















(いっぱい頑張ったね)
















ああどうして、気付かなかったんだ

こんなにも、こんなにも・・・近くにいたというのに






















(一緒にいこう、ルシフェル)





















光が弱まる

目の前の人物の輪郭が露になる

金色の糸が揺れ、細い肩が頼りなさげだ

けれど誰のものよりも安心できる笑顔を見せられれば

何も怖いものなんてない

















(一緒に・・・・・・還ろう)

















優しい夢だ。
穢れのない、夢だ。
全てを包み込む優しさは、全てを赦してしまうような温かさだ。




「       」




目を細め、愛おしげに何かを呟く。
彼はミカエルを通り越して何を見ているのか。
呟いた言葉は音にならなかった。口元だけを動かし、懐かしそうに、泣きそうに紡ぐ。
微かに見せた微笑は、何の穢れもない、本物のルシフェルの姿。
慈悲深く、生きとし生けるものを愛する大天使。
天使の最高峰として努めていたころとは少し違う、穏やかな笑顔。

そしてゆっくり瞼が落ちる。
僅かにだが握り返していた力が、徐々になくなる。
胸元に広がっていたおびただしいほどの血はぴたりと止まり、変わりに体温の冷たさは増していく。
完全に閉ざされた瞳にミカエルは固まった。
もう一度手を握るが、少しも返ってこない。
くたりと投げ出されたように、人形のように、動かない。






「に、い・・・さま?」






瞬きすら忘れて兄の顔を凝視する。
穏やかな表情のまま、ぴくりとも動かないのだ。
声をかければ返事をしていてくれたのに、今の彼は何も言ってくれない。
ミカエルの衣服に染み込んだルシフェルの血は、これ以上侵入してこなくなった。

恐れがミカエルを襲う。
結果は見えていたはずなのに、現実を受け止められない身体はまたしても震えだす。
涙腺が弱まり、一粒ルシフェルの頬に落ちた。
いつもより青白い頬から首へ、伝い落ちる。
震える手でルシフェルの口元に手をやった。
先ほどまでの苦しそうな息遣いはない。穏やかな息さえも感じられない。
まるで最初から息をしていなかったかのように、風を感じることは出来なかった。
無惨にもそよ風が流れる。
それが兄の吐息ならば、どんなに良かっただろうか。

閉ざされた瞳は一向に開かない。

大声を上げて、泣き叫びたいと初めて感じた。
けれど自分は嗚咽も上げず、ただ機械的に眦から雫を落とすだけ。
頭では理解しているが本能がそれを拒絶している。
だから自分でも分からず止めどなく涙が零れる。
アレストとイスカ、アスティアが見ていようが気にしなかった。そんな余裕がなかった。



「――――――っ!!」



訳も分からず亡骸を抱きしめる。
彼の体の骨が折れそうなほど、強く強く。
ルシフェルの体が少し仰け反る。普通ならば痛がるのに無反応と言うことは、
彼は既に普通ではないと突きつけられているのと同じだ。
情けないほど震え、涙を流し、不恰好にルシフェルを掻き抱く。
あの頃と変わらない兄の匂いがした。

天界で過ごしていた日々と変わらない体躯があった。
美しく聡明で、自分よりも何倍も優れた自慢の兄。
誰よりも優しく、誰よりも厳しく、誰よりも温かで。




「に、いさま・・・・にいさま・・・っ!!」




誰よりも世界を愛していたというのに、誰がこんな結果を望んでいたのであろうか。
何故、敵対してしまったのだろうか。
どうして、止めることが出来なかったのだろうか。

ああ、ここでまた悔やめば、彼はまた困ったように笑うだろうか。
しっかりしろと、嗜めるだろうか。
自分はアブソリュートに付いていくと言ったのに、未練がましく泣き続けていればきっと彼は怒るだろう。
だって彼は笑ったのだ、心の底から。
懐かしいと思える穏やかな笑みで。何かに救われたような、安心した笑みで。

口にした言葉に思わず心臓を鷲掴みされたような気分に陥った。
その名前があまりにも以外で、そして吃驚するくらい納得出来て。



フワリ



光が溢れだす。散らばり始めた数々の黄色い光。
それは腕の中にいるルシフェルのものだった。
数多の光は小さな円形を模り、ふわふわと空に舞い上がる。
光が増えれば増えるほど、光が強くなれば強くなるほど、ルシフェルの身体は少しずつ薄れてゆく。

この先に待ち構えているのは"輪廻の門"
彼はそこを潜るのだ。今度生まれ変わるのは天使か、人間か、はたまた動植物か。
今度こそ幸せになれと切に願う。
もう二度とこんな苦しみを味わう必要なんてない。
太陽の下で笑って、誰かを愛し慈しみ、大切な者をつくって、幸せに人生を全うしてほしい。
ただそれだけだ。こんな最期なんてもう見たくはない。

爆発しそうなほどの量の光が何かに吸い込まれるように、ゆっくりとだが空に上がる。
ふわりふわりと、誘われるように。
ルシフェルの輪郭はぼやけ、半透明に透き通っていた。
少しずつ重みもなくなり、風に乗って光は空高く浮かび上がる。
太陽の光に照らされれば更に強く輝き、活き活きとしているようにも見える。
けれどそれがルシフェルだったのだと思うと、胸の奥が痛み切なくなるのだ。



「・・・・兄さま。」



消える。
ふわりと光の影は揺れ、ルシフェルの身体は完全に空を切った。
僅かに残る光の中で、彼は静かに笑っていた。
永遠の眠りついた彼は、安心しきった様子で微笑んでいる。
申し訳ない程度の光は少しでも風が吹けば全ての光を攫ってしまうだろう。
雲が動く。太陽の光が揺らめく。風が、吹く。







「―――――おやすみなさい。」






ザワ、と強い風が吹いた。一瞬だった。
思わず一つ瞬きをしてしまったら、腕の中で光り消えていた影は、なくなっていた。











(・・・・おやすみ)











どこかで彼が笑っている声がした