この両手が届くのなら 涙で濡れる貴方の頬へ届け この声が届くのなら 貴方が押さえている耳元へ届け 愛しき人々よ、どうか恐れないで ――――ーここにいる 決して、その場所から離れたりはしない ―――――ここにいるから 日の光は何時だって、照らしてくれる 月夜の光りは何時だって、照らしてくれる 明けない夜はない 沈まない太陽はない 時は巡る ゆっくりと、ゆっくりと、確実に だから大丈夫、恐れないで、悲しまないで 悲しみもいつかきっと、薄れてゆく この記憶も、出会いも、全て・・・・・・愛しているよ ■天と地の狭間の英雄■ 【いとしい、いとしい、ものたちへ】 いつから、神は絶対的なものになったのだろうか。 世界を創り出したのは神だとしても、いつから人々は彼らの配下につくようになったのだろうか。 時は巡り、人々から神の信仰は薄れ、自立心が芽生えるようになったのは、そう遠くない過去だ。 そして、いつから「世界樹」と言われる自分は生まれたのだろうか。 何千年も生きてきた中で、多くの人間たちの死を見てきた中で、何かが変わっただろうか。 (なあ、フェイル) お前はこの現実をどう見た。 お前は俺が全てを知っていたにもかかわらず、何も教えなかった俺を憎んでいるだろうか。 ユグドラシル。 それは世界の源。 それは地上界に降りたアブソリュート神を守り続けた、大樹。 彼女を自分の妹と勝手に称し、自分のことも兄と呼べと、勝手に話しを進めた。 人間の姿を模れば、いかに軽そうな顔つきなのかうかがえる。 けれど決して彼女を見放すことはなく、今もまた違う形で、彼女のことを見ている。 結果も、彼には視えていた。 (俺はユグドラシルとしての役目を、果たすだけ) たとえ大災厄が起こったとしても、この星自体が滅ばぬ限りユグドラシルは存在し続ける。 この世界が生まれたと同時に、神と等しく誕生した世界樹。 けれど、人間たちのように気の向くまま歩みだすことも出来なければ、 老いることも出来ず、ただひたすら時が流れるのを待つだけ。 大樹は常に孤独であった。 燦々と照る太陽の光りを浴びながらも、人は決して大樹に近寄ろうともせず、 大樹の恩恵を忘れ、そして大樹の存在が薄れていってしまった。 (・・・役目って、なんだよ) 自問自答しても、何も答えは返ってこない。 昨日のことのように思える、小さい頃のフェイルの笑顔が浮かびあがってきた。 あの子に聞けば、分かるだろうか? 彼女が目の前にいて、突然そんな質問したならば、彼女はきょとんとするだろう。 そして首を傾げて、まるで自分のことのように考えてくれるだろう。 フェイルが何と言って返すかは分からない。 あの子は本当に何を考えているのか分からないのだ。 悪い意味ではない。世間知らずな部分や少々天然な部分があるのに、時々鋭い答えを返す。 理想論であり、事実の答えを。 『 おにいちゃん 』 微かに聞こえた幼い声 それはもう、遥か彼方に散るようにさえ思えて 失くしたものは元には戻らない。 彼がしたことも元には戻らない。 例えば荒野と化したと言っても過言でない、麗しかったはずの天界。 地上界とは異なる自然。けれどそれは美しい絵画を見るような感嘆が漏れた。 生み出すのは難しい。それを成長させるのはもっと困難だ。 けれど、皮肉にも壊すことはどうしてこんなにも簡単なのだろうと、時々思う。 美しいものほど壊すことを時に喜びと感じ、いつの間にか己の心が朽ち果ててゆく。 純粋さなど、年を重ねれば薄れ、代わりに生まれるものは妬みや疑惑。 薄汚い心は日に日に増し、次第に爆発する。 それは地上界で暮らす人間も、魔界に住まう魔族も、どれだけ美しい世界にいる神族も変わらない。 「フェ、イル―――――!!」 少年の絶叫が木霊した。 傍らにいる大剣を担ぐ青年は、叫びはしなかったものの目の前の光景に息を呑んでいる。 ゼウス神の不敵な笑みと一緒に垣間見えたのは、少女の愕然とした表情。 あとは流れに逆らうかのような映像ばかりだった。 何故こうなったかさえ分からぬほど、あっという間のこと。 血が、舞ったのだ。 ゼウス神ではない。彼の剣は、フェイルを貫いていた。 カラン、とフェイルの手から剣が落ちる。 未だ状況を理解しきれていないフェイルは、ゆっくりと首を巡らす。 何度か言葉を紡ごうとするが出るのは掠れた声だけで音にはならない。 新緑の瞳が大きく見開かれ、鈍い動作でゼウス神を見据えた。 先ほどまで有利とされていたのは目に見て分かる。 彼は満身創痍の体だった。生命を脅かすようなものではないが、数時間前に見た壮健さはどこにもない。 けれど彼は今笑っている。不敵に、不気味に。フェイルを見て笑っていた。 「ぁ・・・」 やっと出た声は酷く掠れていた。 まるで酷い風邪をこじらせたように、思うように声を出す事が出来ない。 抵抗しようとすれば、代わりにくるのは焼けるような痛み。 熱を持った患部からは、僅かな隙間から外へ外へと、体内にある血液が流れ出ようとしていた。 幸い致命傷ではない、彼が衝き刺したのは左わき腹だった。 それでも、以前のように軽やかに動き回ることは出来ないだろう。 この聖域にいるせいで神化しているせいか、人間よりは身体能力も格段に上がっている。 けれど神であっても人間であったとしても、負傷すれば誰だって動きが鈍くなる。 「能力はアブソリュートでも、肉体は人間・・・いや、人と神との間を彷徨う不完全な器か」 嘲笑うかのようにゼウス神はねっとりとした笑みを浮かべていた。 視界が真っ暗に染まる。そして真っ白になり、また暗転。 ぼんやりしていた瞬間、ゼウス神の剣が勢いよく引き抜かれた。 今度こそ世界が闇色に染まる。 僅かに残っていた五感の一部が悲鳴を上げる。 貫かれた場所からは何故かひやりとした空気が流れ、じわりと痛みが身体中を蝕む。 膝から崩れ落ちたフェイルは何とか体勢を整えるが彼女の白い手は赤色に染まっていた。 患部に触れた手先から溢れるように血が零れ、止まる術を知らないそれは壊れたように流れる。 それでも正気は保つことが出来た。 万が一、ここで"フェイル"が崩れたとしても、彼女の中で覚醒しているアブソリュートが代わりに出てくる。 (だめ、だ!それじゃあ彼の思惑に・・・っ) 霞む世界に朦朧としながらも思考は嫌に冷静だった。 ゼウス神が望むのはフェイルではない。自分の中にいるアブソリュートの人格と力。 つまるところ、今の彼女に用はないということだ。 苛立ちよりも情けなさがフェイルを襲う。 どんなに足掻いたところで、頂点を極めることが出来ない。 同じ肉体、同じ能力なはずなのに、フェイルとアブソリュートでは明らかに差があるのだ。 それは決して悪い意味では取られないだろう。 けれど望まれているのは元始であるアブソリュートのみ。 しかしそれは、存在を否定されていることに変わりはない。 天界なのか、地上界なのか。 神さえも予測が出来なかった、判断が出来なかった。 どちらに属しているとも言え、どちらに属していないとも言える存在、それが"フェイル" ふわりと身体が軽くなるのが感じられる。 これは合図だ、彼女と自分が入れ替わる、最も分かりやすくて曖昧な変化。 このまま流れるように身を任せれば、次に目を覚ますときには全てが終わっているだろう。 だが決して太陽の光りを見ることはない。ただ孤独の世界、闇の世界にいるか、 はたまた真っ白な世界に送り込まれるか、そのまま何も残らず全てが消えるか。 どちらにせよ、二度とリュオイル達と逢うことはないだろう。 何も言い残せず、消えてしまうことを眠りの中で待つ。 ――――そんなの、いやだ 足掻くように、駄々をこねるかのように必死に意識を掻き戻す。 それは初めて見せた意地と言う名の抵抗だったのかもしれない。 世界のことを考えるのならば、自分よりもアブソリュートに任せるほうが断然良い。 未熟な精神と体力では、能力は等しくともギリギリのところで彼には近づけない。 それでも、それでも・・・ 「・・・まだ立ち上がるか、フェイル」 見下したようにぽつりと零れた言葉はそのままフェイルに投げかけられた。 いい加減呆れとも取れる溜息に、思わずフェイル自身が可笑しそうに笑い出す。 けれどその苦笑も咳き込んで終わってしまう。むせ返った瞬間、手の平に朱色が広がる。 「お前の役目は終わった、アブソリュートを出せ」 「・・・い、やだ」 「なに・・・?」 頑なに頭を振るフェイルにゼウス神は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。 よく見れば、先ほどまで意識を失いかけていたと言うのに、 いつからそこまで元気になったのか、虚ろなフェイルの瞳はどこか活き活きとしていた。 逆に言えば気味が悪い。ここまで傷つきながら、何故立ち上がるのか。 「お前には荷が重すぎた、神と人間の間に生まれた余計な魂は、じきに消滅する」 「それじゃあ、困るっ!」 精一杯喉に、肺に力を入れる。 少しでも大声を上げれば患部に響くが、今のフェイルはそれさえも感じていないのか驚くほど気丈だった。 新緑の瞳はゼウス神を睨み上げ、ゆっくりと目を細めた。 「私が私でなくなる前に終わらせなくちゃ、意味がない」 最終目的はゼウス神を倒すことだ。 しかし私的なことも含めれば、それで終わるにはあまりにも空虚すぎる。 ここでフェイル達が負けたとしても、いずれまた彼を討とうとする者が現れるだろう。 この戦いは決して終わらない。どんなに時をかけてでも、また起こりうる可能性のあるものだ。 それならば、最後まで足掻くことは無駄とは言えないだろう。 確かにここで時の流れに身を委ねれば苦しみも孤独も忘れて全てから解放されるだろう。 だがそれは今までの自分自身を否定することとなる。 "フェイル=アーテイト"としての自分自身を捨てたと同じことだ。 大切な仲間達と離れることはこの上なく辛い。 それでも、存在を否定し忘れられるほうが、何倍も苦しいのだ。 もう一つは、これ以上皆が苦しむ姿が見たくない。 犠牲はあまりにも大きすぎて、失ってから彼らの存在がいかに壮大だったのか目の当たりにした。 終わった事を悔いても仕方がない。・・・分かっていても、負の感情は溢れ続けている。 これ以上犠牲は必要ないはずだ。それも、身勝手な神の意思で。 「だから私が、貴方を討つ」 その言葉を言い終える前に少女の身体が目の前から忽然と消えた。 突然の事態に一瞬ゼウス神の思考が停止するが、背後に現れた殺気に僅かに遅れて振り返る。 フェイルがいた場所に、彼女が落とした剣はなかった。 と言うことは、消えた瞬間、その僅かの間に彼女が拾い上げたということになる。 ゆっくりと彼女の剣が振り下ろされている。 実際はそんな呑気な映像ではない、もっと速く、油断をすれば首が刎ねられそうなほど。 時が遅く感じられた時間はそう長くない。 己の剣と彼女の剣が交わった瞬間、全ては現実の時間へ戻される。 剣から手の平に伝わる震動は、とても相手が女性とは思えないほど強い。 「――――っく!」 「リュオ君シリウス君、援護をっ!!」 患部からの痛みを必死に堪え叫ぶ。 彼女の声にいち早く反応したのは、リュオイルだった。 神と神との壮絶な戦いの空気を切り裂くように、朱色の影がが走り出す。 一歩遅れて透き通るような銀色が駆け出した。 お互い何も話さない。ただフェイルの声に頷いて、足を動かしただけだ。 それぞれの手の内にある武器を握り締め、先にある二つの影に急ぐ。 彼らが近づくまでフェイルは一度体勢を整え直すため一歩下がる。 しかし彼は執拗なまでに追いかけてくる。退けば迫り、また退けば迫る。この繰り返し。 互いに目を逸らすことなくじっと見据える。 先に呑み込まれたほうが負けだ。殺気を放つ相手に、一度でも呼吸を忘れればそれが命取りへと繋がる。 なかなか先手を取らないフェイルに焦れたのか、先に折れたのはゼウス神だった。 少し足に力を入れ軽く地面を踏めばあっという間にフェイルとの距離は縮まる。 懐に入ってきた敵に驚きを隠せないフェイルは反射的に受身の形を取る。 「――――どけっ!」 が、その必要はなかった。 聞き馴染んだ低めの声が耳朶を響かせ、フェイルの前に大きな背中が現れる。 シリウスがフェイルの前に現れた同時にゼウス神は何者かの手によって後退させられていた。 剣と槍。少しでも知識があるものならば簡単に分かる、有利な武器は獲物の長さがある槍。 フェイルを相手にしていたせいかゼウス神の注意力は欠けていた。 その一瞬の隙を突いて、小柄なリュオイルが一撃を食らわす。 不覚にも痛手を負ったゼウス神は一瞬だけ悔しさに溢れるが、軽く舌打ちをした後、後退した。 その動きに敏感に反応したのはフェイルだ。 折角庇ってくれたシリウスに申し訳ないと思いつつも、彼の手を制して前に出る。 そして唱える。ゼウス神が繰り出そうとしているのは煉獄の炎の力だ。 それに対抗するには凍りか水しかない。 「時間を稼ぐぞ」 「分かってるっ!!」 フェイルの回りに冷たい冷気が集まりだす。 それとは対象的に、ゼウス神の足元には赤い紋様が浮かび上がっていた。 先に完成させはしない。 シリウスとリュオイルは駆け出す。ゼウス神の元へ。 迫り来る人間にゼウス神は詠唱を唱えながらも僅かに眉間にしわを寄せる。 先に攻撃を仕掛けたのはシリウスだ。 大剣を軽々と持ち上げ、まるで棒を振り回すかのごとく軽やかに獲物を操る。 その剣先が敵の皮膚を軽く裂く。 損害は少ないが、確実に朱色が舞った。そのせいでゼウス神の詠唱が崩れる。 忌々しげに舌打ちをするが、思いの外人間の素早さに手をこまねいている。 特に問題なのはリュオイルだ。 彼は身軽な分もあるが、槍自体が大剣ほど重くないので四方左方自在に操ることが出来る。 すぐに剣に持ち変えるが、注意力が欠けてきたゼウス神はリュオイルの攻撃を受け止めるので精一杯だ。 そこへ追い討ちをかける。 明らかに圧倒的力を持つシリウスが、ゼウス神に目掛けて衝撃波を食らわす。 その衝撃で地面が抉れ、破片が飛び散り加速を付けて敵を襲う。 ギリギリのところでリュオイルが横にずれれば、彼はそれをまともに食らうしかなかった。 「――――ぐぁぁああっ!!」 初めてゼウス神から苦痛の悲鳴が上がる。 神とて万能ではない。人間とは多少異なるかもしれないが、痛みを感じないわけではない。 白を基調とした塔の壁に背中から激突すれば、ずるずるとその場に崩れる。 何度か咳き込めば、今度こそ彼の臓物に異常が発生したと確認する。 苦しそうに咳をした後、手のひらに残るぬるりとした感触。 それを血だと認識するのに、少しだけ時間を要した。 何せ己の血を、こう間近でみるのは久しいからだ。 それも神々でもなければ天使でもない、魔族でもない。 この多く隔てられた世界の一つの、最も弱小な、人間に。 愚かしい、愚かしい。馬鹿げている。 人間に・・・?何故私が、こんな人間ごときに。 言葉にしようとすれば身体は悲鳴を上げる。 余程シリウスの攻撃がきいたのか、彼はすぐ間近に迫ってくる魔力の塊に気付くことが出来なかった。 「――――――――」 微かに息を呑む。瞠目する。次に来る痛みに、目を瞑る。 僅かに見えた視界の中には、先ほど繰り出す予定だった炎に対抗する技。 ・・・これは、氷だろう。水とは形容しがたい冷たさと、鋭さを持っている。 声にならない悲鳴が漏れた。 悲鳴は大きかったのか小さかったのかさえ分からない。 全ての熱を奪い取る氷柱が襲いかかれば、皮膚から肉を貫通し、そこから体温を奪う。 容赦のない攻撃だった。優しさも甘さも何も感じられない、完璧な攻撃だった。 痛いのか煩いのか分からないほどの氷柱が突き刺さる。 風を切る音、肉を裂く音、塔の壁に激突し弾き返される音。 全てが一緒になって、己の声さえも拾うことが出来ない。 そこから、垣間見える三人の影。 一際目立つ神の姿。 魔法を放ち終えた後も、彼女の回りには氷を宿す気が集まっている。 少々気が立っているためか、それとも重傷を負っているためか、いつもより瞳の色は濃かった。 しかし顔色は最悪だ。短い期間ではあったが、これまでの中で一番血の気が失せている。 それでも、彼女は歩く。 右手に携えた剣を、本当は重くないのに酷く重そうに持って。 致命傷ではないにしろ、あれだけ無理をすればその分は自分に返ってくる。 足取りは、重い。瞳はどこか虚ろで、もしかすればもう視界がぼやけて見えるのではと思うくらい。 腕に力を入れ、立とうとする。しかしそれは出来ない。 のろのろと頭を動かせば、己の足、そして右肩には先ほどの氷柱が突き刺さったままであった。 ああ、先ほどから更に寒さを感じたのは、このせいだったのか。 柄にもなくぼんやりと頭の中だけで囁く。 まるで朧月のように、本当に、見えるか見えないか、分からないくらい。 死へと誘われる。 それは、最高神としてあってはならない。 あまりにも愚かしい。この私が、死ぬ・・・? 「・・・ゼウス、神」 少女の息遣いが聞こえる。 息も絶え絶えに、患部を押さえながら、よろめきながら。 近づく、そっと、だが確実に。死へ誘う者が。 「この、わたしを・・・殺すか」 ふふ、と笑えば喉の奥から鉄の臭いが広がる。 満身創痍。いや、それ以上だろう。 これほどの痛手を受ければ、たとえ神でも暫く休まなければならない。 だが彼には一刻の猶予も許されていなかった。 目の前の彼女が下す結末は、唯一つ。 共に、散る 「・・・これまでの罪は、消えない。私が生み出した罪も、消えない」 償いは一生をかけたい。 だが、神では程遠い償いだ。 神自体が罪と言うのならば、神を滅ぼしてしまわなければ全ては白に戻らない。 これから先どうなるかは分からない。 これまでの爪跡が消えるわけではない。 だが・・・それでもその先に何かを見出せる可能性があるのなら。 「―――――フェイル」 名前を呼ばれ、彼女は振り返った。 リュオイルとシリウス、離れにいるヘラ神に誕生神ルキナ。 そして、ルシフェルとの対戦を終えたであろう、駆けて来る仲間たち。 様々な顔がそこにはある。 その半数以上が苦虫を噛み潰したような顔だが、今まで共に歩んできた者たちの顔だ。 どうすればいいか分からず、リュオイルは何度も口を開閉する。 視線はフェイルを見たまま動くことはない。 叫ぶべきか、止めるべきか。未だ、迷うのだ。 ゼウス神の戯言に惑わされるつもりはない。それは、最初から彼女が望んでいなかったことだからだ。 けれど胸が締め付けられるこの想いは何だろうか。 抑えても抑えても溢れだすこの痛みは何だろうか。 涙を流すにはまだ遠い。苦しいのだ、この痛みから、解き放たれたい。 その方法はある。けれどそれもまた無理なのだ。 「フェイ・・――――」 頼りなく手を伸ばす。少女の、たった一つの名前を紡ぎだそうとする。 けれどそれは隣にいる男に遮られた。 視界に現れたのは、銀色の髪だった。 ハッとして顔を上げれば、彼は無言で頭を振った。 「あいつが、決めたことだ」 そうは言っているが、シリウスの表情は誰が見ても納得しきれた様子はない。 下手をすれば、誰よりも痛々しい。 彼はどこまで詰め込むつもりなのだろう、自分の心を。どこまで抑えつける気だろう。 その自制心を尊敬する反面、あまりにも哀れに思える。 そうすることしか出来ないと、現実を見る目が強すぎてそこから動けなくなっている。 彼もまた、自分と同じなのだ。 助けられるものならば、助けたい。けれど許してはくれないのだ。 「ありがとう」 すぐそこにいる彼女がふわりと笑った。 彼女は成長していた。 旅を始めてまだ日も浅い頃のあどけない笑顔ではないが、 無垢から抜け出し、悟るようになり、それ相応の笑みを浮かべるようになった。 同時に彼女が離れてしまうことを改めて理解させられる。 「フェイル!!!」 頭では分かっていても勝手に動くこの口を恨めしいと思う。 彼女を止めようとする身体を、シリウスが止めた。 抱き止めるように、悲しそうな顔をして真っ直ぐフェイルを見つめている。 その中でただただ暴れる。たった一人の少女の名前を叫んで。 もう一度振りかえることを信じて もう一度あの頃の笑顔を見せてくれると信じて 「フェイルっ!!フェイル!!!」 リュオイルから槍が落ちた。 それを握っていた手は、フェイルに伸ばすが空を切る。 それでも伸ばした。届け届けと、少しでもいいから近づけと。 悲痛な叫び声に辿り着いたアレスト達も呆然としていた。 リュオイルの半狂乱した叫び声に、あまりにも悲痛な声に。 「いやだっ!フェイル、いかないでっ!!!!」 僕を置いてどこへ行くの 一人にしないで いかないで、いかないで たった一人で、どこへ行くの たった一人で抱え込んで、どうしていっちゃうの いかないで、いかないで 「・・・さあ、還ろうゼウス神」 最後にありがとうと言ったまま、一度も振り返らなかった。 リュオイルの声は痛いほど響いている。 涙が出そうなくらい胸が苦しいけれど、その苦しさを全て右手に注ぐ。 カチャリと音を立て、剣先をゼウス神に突きつけた。 虚ろな彼の瞳は、とても先ほどまでの威圧感は感じられない。 それでもひしひしと伝わってくるのは、死にたくないという彼の想いだろうか。 アブソリュートの声が響く。同じ声で、けれど少し低めの。 (我もこれで、永久の眠りにつこう) 微かに彼女は笑っていたような気がする。 もしかしたら、気のせいかもしれない。 「ぁぁぁぁぁぁああああああああっ!!!!!」 大きく剣を振り下ろす力には微塵も躊躇はない 真っ直ぐ、鋭い凶器を、最高神と称えられる神の心臓へ まず皮膚を貫き、肉片へ、心臓へ 達すると同時に、ゼウス神の見開いた目が段々色を失った 強張った手先は力を失い、投げ捨てたような形をとる (礼を言おうフェイル。・・・我の、もう一人の意思よ) 語尾はもう霞んで聞こえない。 けれどフェイルにだけは理解できた。 頭の中で一つの影が離れる。 フワリと、白とは形容しがたい色を放ち、天へ昇る。 そしてフェイルはゆっくり、目を閉じた。 最後に覚えているのは、冷たい地面に倒れこんだこと。 既に彼女には、立つ力さえ残されていなかった。 眩い光りが天界を照らす。 剣を突き刺したまま、心臓を貫かれたゼウス神は役目を負え光りへと変わる。 本来ならばここで新たに転生する準備に取り掛かるが、同族に殺された者は、 二度と形を保つことなくこの世から消え去る。 たとえ史伝で語り継がれたとしても、存在は確かに失うのだ。 ふわふわと浮き始めたゼウス神の光りは、風に乗って空へ還ろうとする。 彼が消えるまで光りは放たれ続ける。 朝日よりも強く、気高い光りが。 「―――――ゼウス神っ!!」 それまでずっとルキナの傍にいたヘラ神がおぼつかない足取りで駆け寄り、 息の途絶えた愛するものを涙を流して抱きしめた。 その傍らには、アブソリュートと言う名のフェイルが瞳を閉じて倒れている。 場に合わないような彼女の声に我に返ったのはリュオイル達だった。 それまで必死にリュオイルを止めていたシリウスの力が緩くなり、 力任せにそれを押し退き光りを放つ中心部へ走る。 膝をつき、形のあるフェイルを抱き起こした。 「ゼウス神・・・私を、一人にするおつもりですか?」 美しい彼女の涙は、ぽつぽつと何とか形の残るゼウス神の頬へ落ちた。 「貴方のしたことは決して正しかったとは言えないでしょう。 けれどその中にも、貴方が志そうとした道は確かに、あったのです」 貴方が私を愛していたと同じように、私も貴方を愛していました。 「私はたとえどんな結果になろうとも、ゼウス神、貴方に付いていくと決めていました」 だから、一人でいかないでください 一緒に参りましょう たとえその道が険しくとも、地獄の業火にあぶられようとも 「貴方と一緒ならば、私は一つも怖くありません」 覚悟の声は誰よりも厳かで重く、そして有無を言わさぬ力強さだった。 彼女のすることにルキナはハッとして瞠目する。 魂の管理者として担う彼女は、ヘラ神が何をしようとしているか悟っていた。 「いけませんヘラ神っ!!それでは、それでは貴女の魂が――――っ!!」 「私も還りましょう。・・・誕生神ルキナ、後はお願いします」 「ヘラ神!」 ルキナの制止を振りきってヘラ神は微笑んだ。 そっと亡き者の傍らに寄り添い、愛しげに目を細める。 するとゼウス神の光りと同調するように、彼女の身体も徐々に透けてきた。 金を象徴とするゼウス神の光りよりも淡いが、 一人でどこかへ行こうとする彼の光りを、彼女はしっかりと掴まえていた。 淡く光り、世界から消えようとする彼女とゼウス神をリュオイルは目の前で呆然と見ていた。 腕の中で目を閉じている少女は一向に目を覚まさない。 それでも離さないと言わんばかりに抱きしめ、絶望の瞳で消え行くものたちを眺めていた。 「貴方はアブソリュート神を・・・いいえ、"フェイル"をちゃんと守ったわ」 眩い光りの中でヘラ神は残りの時間を惜しむかのようにリュオイルに語りかけた。 ぴくりと肩を震わせたリュオイルは、後ろからゆっくりと近づいてくる仲間たちに少しも気付かない。 「まもった・・・?僕が、フェイルを?」 「ええ、貴方は守りました。フェイルと言う名の、たった一人の少女を」 「ちが、う・・・ちがう」 「彼の選択を聞いても尚、揺らぐことなく"フェイル"を選びましたよ」 「それは、フェイルがそれを望んでいなかったから・・・」 そんなこと、守ったうちに入るのだろうか。 他者から見れば助かる命を投げ捨てたのと一緒ではないか。 「いいえ。貴方は守ったじゃないですか。フェイルの意思を」 「・・・フェイルの、意思」 そう言ってリュオイルは腕の中にいる少女を見た。 口元には血が固まっている。 恐らく詠唱をしている間にも何度かむせ返ったのだろう。 おそるおそるそれを拭う。決して乱暴にせず、壊れ物を扱うように。 抱き起こしているせいで彼女の患部が自分の腹部に当たっていた。 そこから染み込む生温かくも冷たいものにぞくりとする。 怖い 「それでも、彼女自身を救えなかったことに変わりは、ないじゃないですかっ」 意思を守れたって、存在を守ることが出来なかったら意味がないじゃないか。 言葉にしてしまうと簡単で、そして恐ろしい。 興奮しているのか、恐れなのか分からないが、がたがたと震えだす。 みっともなく、まるで子供のように。 それを慰めるかのように、後ろから誰かに肩を掴まれる。 決して強い力ではない。寧ろ、こちらが心配しそうなほど弱々しい。 やっと気配を悟ったリュオイルは、少しだけ振りかえる。 そこには、傷ついた仲間たちが立ちつくしていた。 吐き捨てるように出た言葉の次には、抑えを知らない涙が一粒、また一粒零れだす。 それがフェイルの頬に落ちる。 「・・・リュオ・・・く、ん」 虫の息に近いほどの掠れた声が耳を過ぎった。 その微かな声をリュオイルは聞き逃さない。 ハッとした彼は、空いている左手で少女の右手を取った。 「フェイルっ!!!」 いつの間にか円を描くように仲間たちが集う。 アレストは既に涙を流しており、同じくイスカも泣いているが何度も服の袖で拭っている。 ぼろぼろになったアスティアは複雑そうではあるが悲しみの割合の方が多かった。 少し距離を置き控えているミカエルは、下唇を噛みぐっと目を瞑っていた。 「・・・フェイル」 少女の名を愛しげに呟いたシリウスは、そっと大きくごつごつした手を彼女の頬に寄せた。 ゆっくりと撫で、それを繰り返す。 微かに目を開けたフェイルは気持ちよさそうに微笑み、今度はリュオイルを見上げた。 涙で濡れている彼を見るのは初めてではない。 けれど良い気分になれないのは確かだ。 血に濡れた手をリュオイルに伸ばす。だが、途中でフェイルは躊躇った。 この手を伸ばしていいかも分からない。彼を汚してしまいそうで、怖かった。 僅かな躊躇いさえも呑み込むように、リュオイルが少女の右手を離し、左手を掴んだ。 リュオイルの手のひらにじわりとフェイルの血がつく。 それさえも愛しいと思えるほど、狂ってしまっているのだろうか。 力強く握れば、フェイルは弱々しいが、あの頃と変わらないあどけない笑顔を見せた。 「あ、りがとう・・・みんな」 そしてごめんなさい。 全てを背負っていくつもりが、全てを背負いきることが出来なかった。 たくさんの不安を残して去ってしまう私を憎んでくれて構わない。 許して欲しいとは言わない。ただ、どうかこの先同じ過ちが繰り返さぬよう。 シギのような、多くの天使たちのような、魔族のような者が出ないように。 ただ、彼らを愛して欲しい。 慈しみを、教えてあげて欲しい。 何度も息を吸って、何度も吐いて言葉にする。 それを繰り返し、どれだけ時間が経っただろうか。 実際大して時間が経過していないことは分かっていた。 最後の最後まで微笑んでいたヘラ神はいつの間にかゼウス神の光りと共に消え去り、 代わりに残されたのはヘラ神が愛していた天界の草花たち。 荒れた大地は魔法でもかかったかのように、崩れ落ちた塔や城を囲むように咲き誇っていた。 リュオイルの足元にも緑は広がっていた。 花の香りに誘われるように、蝶も飛んでいる。 この戦いに勝った 清々しいほどの青空、そして真っ白な雲 それに溶け込むように、そしてようやく、今度はフェイルの身体も光りを放つ 確かにこの戦いに勝った 代償は多くの天使や魔族、そして神々の命 「―――――っ!!い、くな。いくなフェイル!!!」 「いやや、何であんたまでおらんようにならなあかんねんっ!!」 リュオイルとアレストの声が木霊する。 泣き喚く二人にフェイルはそっと涙を零した。 そして小さく呟くのだ、「ごめん」と。 「・・・ばかよ。出逢った時から馬鹿だとは思ってたけど、本当に馬鹿よあんた」 言い回しが刺々しいが、いつものように覇気がなく、視線は下を向いたままだ。 そんなアスティアに「そうだね」と笑うように答える。 「貴女がいなくちゃ、始まらないじゃないですかっ・・・」 泣かないよう懸命に耐えているイスカだが、一度零れてしまっているものは止めどなく落ちる。 それを拭おうと手を伸ばすが、途中で力尽きる。 そして申し分けなさそうに笑うのだ。「だいじょうぶ」と。 「・・・申し訳ありませんでした、フェイルさん」 皆より少し離れているミカエルは、直立したまま頭を下げた。 「貴女を・・・救えなかったっ」 シギが死んでも、ここまで悲痛な声は出した事はなかった。 恐らく全てが終わったことで肩の荷が下り、溜めていたものが溢れ出たのだろう。 以前の自分ならば抑制出来ていたが、彼女たちを関わりを持ち始めてから何かが変わっていった。 「・・・すくって、もらったよ」 きょとんとしていたフェイルは、ミカエルの言葉にふわりと笑った。 その言葉に思わずミカエルは頭を上げる。それは驚愕の色だった。 「ミカエルさんも、イスカ、くんも・・・私を"フェイル"って、呼んでくれていたよ」 半ば強制的であったかもしれないが、それでも断固として呼ばないものもあった。 勿論それは畏れ多い、とのことであろうが、特にこの二人はその後も名前で呼んでくれたのだ。 それは確かな支えになった。 彼らにとっては小さなことではあったかもしれないが、彼女は救われていたのだ。 「・・・・」 そして、無言で痛々しげにフェイルを見る男。 大切なものを一度に失い、それでも前に進み続けた、シリウス。 フェイルの頬を撫でる手が止まり、悲しそうに目を細め、呟いた。 「・・・くな」 語尾はあまりにも弱々しい。 フェイルが数回瞬けば、ぽた、とひとつ雨が降る。 「いくな、フェイル」 違う、雨じゃない。・・・これは・・・ 「すまないフェイル。お前の背中を押すと言ったのに、俺は・・・」 しゃくりあげることもなく涙を流す。 シリウスの涙に、フェイルは思わず息を呑んだ。 そして困ったように笑った。 どうしようか、とまるで母親が子をあやすような、優しい瞳だ。 消え行くものを前にしても、約束を守ろうと思った。 ミラを悼み泣いてくれた健気な少女を愛しいと思い、生涯守っていきたいと思った。 何に変えても守りぬくと、誓ったはずなのに。 ほら彼女はもう、手の届かない場所に行こうとしている。 「押して、くれたよ。シリウス君・・・本当に、ありがとう」 彼の頑張りは誰よりも分かっているつもりだ。 実体が薄れてきた彼女を目の前にして、ついに抑えていたものが溢れたのだろう。 自覚なしに零れた言葉は、リュオイルと同じだった。 その涙も全て、彼が今まで耐えてきたものだと感じたら、腕を伸ばしたくなる。 けれどそれさえも許してくれないのか、僅かに上がるだけで、シリウスの頬にまでも達しない。 「―――――!」 どうしようか、ともう一度苦笑したフェイルに突然衝撃が襲いかかる。 痛みはない。ただ、ビックリして少しだけ瞠目した。 小さな悲鳴を上げる力も出ず、その状態をぼんやりと見ている。 ようやく自分の状況が分かれば、今度ははにかむように笑った。 「フェイル、フェイル・・・」 先ほどの衝撃は、シリウスのものだった。 彼女が手を伸ばした姿があまりにも儚く、これを逃せばすぐにでも消えてしまいそうな気がして、掻き抱いた。 まだ形はある。それでも、彼女の向こうに何があるか分かるくらい透けているのだ。 光りはたちまち輝きを増し、時期に消滅することを物語らせている。 それでも彼女の消える時間が遅いのは、彼女が人間に近くなっていたせいだった。 だからすぐに消えることは許されず、痛みも苦しみも持ったまま、長く現世に留まっている。 だがそれも、ここまでのようだ 「・・・ありがとう」 精一杯笑う。 ここまできたのだ、最後は、笑って終わりたい。 シリウスの肩にうずくまり、少しだけ涙を流した。 そして、「だいじょうぶ」とシリウスに微笑みかける。 未だやりきれない表情のシリウスだったが、彼女の微笑みに彼も微笑み返す。 そっと手を離し、リュオイルの腕に抱かせる。 呆然とそれを見ていたリュオイルは、手に戻った温もりにまた泣き出した。 「フェイル・・・ぼく、は・・・」 「リュオ君、最後まで傍に・・・いてくれる?」 少しだけ遠慮がちに、戸惑ったような笑みを浮かべてフェイルはリュオイルの服を少し摘んだ。 照れたように少し頬を赤らめる仕草は実に人間らしく、女の子らしい。 その微笑に見とれていたリュオイルは、少し遅れて、だが力強く頷いた。 「いるよ」 先ほどシリウスがしたように、だが包み込むように抱きしめる。 そして、光りが充満した。 輝きは最高潮になり、光の球体は空へ昇る。 吸い込まれそうな青色の空に、まさしく吸い込まれようとしている。 さあ、戻ろう 白へ、戻ろう 「――――――だいすき」 白に、還ろう