出逢いは、偶然だった






( フェイル=アーテイト。えっと・・・リュオ君でいい? )






彼女との始まりも、偶然だった







( 助けられる命まで見殺しにするなんて間違ってるっ!!! )







誰よりも人の痛みに敏感だった







( 大丈夫、大丈夫だよ。リュオ君は1人じゃないから )







優しさで溢れている君が眩しかった

だけど、誰よりも頑張りすぎていて

失いかけてから初めて自分の気持ちに気付いた




愛している

誰よりも、何よりも

愛していたんだ







( リュオ君の手は、あっかいね・・・ )







太陽よりも眩しくて、月よりも気高く光る君が







(本当はすごく怖い。逃げ出したいくらい、怖い)







強さも弱さも、全てが愛しいと思った










( リュオ君、最後まで傍に・・・いてくれる? )









愛している
愛している
君を、君だけを
フェイル=アーテイトの全てを







「ぁ・・・ぁぁあ、・・・ぁ」







空が眩しい

仰げば真っ青で、何一つ曇りはない







「・・イ・・。フェ、イル・・・」







それでも美しい青は







この腕から全てを奪い去った






















■天と地の狭間の英雄■
       【物語は永訣を向かえる】




















はらはらと、空色の瞳から涙はとめどなく零れ落ちた。
その瞳は驚愕に染まり、愕然としている。
瞬きさえも忘れているのか、わなわなと震える唇が掠れた声で唯一つ、固有名詞を紡ぐ。
けれど声にならない。酸素を吸い、吐いている音しか聞こえない。

少年は己の身体を強く抱いていた。
否、数秒前にあったはずの誰かの身体を、今もそこに感じているかのように。
けれど返って来る温もりは明らかに自分のものだ。
元が赤い装束なだけに帰り血を浴びても他よりは目立たないはずなのに、
彼には確かにそこに誰かがいたのだ、という生々しい血の跡が染み込んでいた。
震える肩を抑えるかのように、ぐっと己の服を握り締めれば
そこからじんわりと冷たさを感じる。
それは血だ。自分の?いや違う、これは・・・あの少女のものだった。



「・・・なあ、フェイルは?」



静まり返った空気にポツリと零れた言葉はアレストのものだった。
覇気がなく、どこか意識をなくしたような、頼りない声。
唯一こうなることを察していたミカエルが、俯いたままのアレストの傍にゆっくり寄った。
女性としては身長も高めで、はつらつとした雰囲気が特徴的な彼女は、
大天使シギが亡くなった時と同じような絶望の色を背中に背負っている。



「アブソリュート神もフェイル=アーテイトも、輪廻の門を潜らず消滅の門へ向かっているでしょう」



理を犯した者の裁きは特に早い。
もしかすれば、ここで沈黙している間にも彼女の肉体と魂はこの世から消えているかもしれない。
それはゼウス神も、それを追うように散ったヘラ神も同じこと。
たった数時間で三人の神が死に、神でもあり人間でもある不安定な者が一人死んだ。
残った物は、リュオイルにある赤い血だけ。
それ以外は何もかもを持っていかれてしまった。
髪一筋も、彼女が愛用していた杖さえも。何もかもを。

空が奪ったのだろうか、彼女を。
果てしなく続く、青色の世界が彼女を呑み込んでしまったのだろうか。




「フェイルは、どこや」




けれど胸にぽっかり空いた喪失感は、消えない。
これが喪失感なのだろうかと疑いたくなるほど曖昧な感情だが、心が晴れないのは確かだ。
だからなのかアレストは消えてしまった少女を探した。
きょろきょろと忙しく首を動かし、どことなく虚ろな瞳で辺りを見回す。

いない。いない。
どこにも・・・いない。




「アレストさん、もう―――」

「何で、おらんの。何でフェイルがおらんの?さっきまで、リュオイルのとこにおったやないか」

「アレストさん!!」

「何でや!?何でフェイルがおらんようにならなあかんねん!!」




吐き出すように、罵倒するかのようにミカエルを睨みつけた。
それでも彼は驚きはしなかった。予想出来ていたことなのだろう。
ただ一つ変化を見せたと言えば、僅かに眉をひそめたことだろうか。
悲しげに瞼は閉じられ、下唇を噛み、どうしようもない想いを抑えこむ。
崩れ落ちていたアレストは気力だけで立ち上がり、弱々しい力でミカエルの肩を掴んだ。
僅かに揺らされたミカエルは、はっとして重い瞼を持ち上げる。
少し視線を下げれば、一筋の涙を流し、こちらまで辛くなるような表情をしている。




「シギも、フェイルもっ!何で死ななあかんかったんや!!」

「戦争は常に犠牲がついてきます。何かを得るためには必ずその代償が必要。
 今回の戦争だってそうです。フェイルさんはそれほどの未来を欲し、身を滅ぼし、勝ち取ったんです。」

「勝ってへん、勝ってへんのや!!シギもあの子もおらんのに、こんなの・・・」




こんなの、敗北したと同じではないか。
志を共にした仲間はたくさんいても、その先にいた少女はどこにもいない。
彼女の意思を最後まで守り通した青年もいない。
なくてはならない存在がいない。心の中がぽっかり空いて、隙間風が吹いている。
それを埋めようとするけれど、現実を非難するばかりで思考が追いつかない。
逃げて逃げて、これは全て嘘だったんだ、と笑って誤魔化せたらどんなにいいだろうか。
でも、出来ない。
否定しようにも、唯一冷静であろうミカエルが現実を投げかけてくるのだ。
逃げれば掴まれ、走れば追いかける。完全ないたちごっこだ。
だから絶望的な感覚に陥り、這い上がろうとするが力が入らない。

大好きな笑顔がない
優しかった温もりがない

どこにも、どこを探しても

手を伸ばしても、決して届かない
死者達だけが逝く場所にしか、彼らはいない





「・・・それを覚悟して、あの方は望んだんですよ」





深い傷を負った彼らに、ミカエルは泣きそうな顔をして微笑みかける。
無理をしているのだと勘付かれても仕方がないほどの強張りだが、彼はそれを止めようとしない。

禁忌を教えたのは紛れもない自分自身だ。
覚悟はしていた。いずれ起こり得るだろうと腹を括っていた。
けれど何故だろう、今更ながら後悔しているのだ。
今まで主帝とされ、主の意のままに生きてきていたというのに、今はもうそれがない。
束縛感は確かにあった。ゼウス神のやり方が正当だとは考えられなかった。
抵抗出来なかったのは歴然とした力の差。そして捨てられる恐ろしさ。
永遠に続くであろう主従関係を見事ぶち壊したのは、まだ生まれて間もない新しい神。
偶然にしては出来すぎている彼女の生い立ちには大変驚かされたが、
それ以上に、彼女の隔たりのない接し方には度肝を抜かれた気がした。

決して見下したりせず、皆同等に扱う。
天界では様々な評判があった。
勿論驚きはしていたものの、誰も彼女を拒む者はいなかった。

あの時は随分と衰弱していたが、元気になればなるほど、彼女は天使たちに光を射し込んでいった。
急に現れた優しさと温もりに酔いしれていたことに偽りはないだろう。
けれど、けれど。太陽のように温かかった彼女はもういない。
何故、死ぬ方法を教えてしまった。
何も知らなければ、無垢のままでいれば、戦争の結果はどうであれ彼女はここにいただろうに。
彼女が望んだ未来の歴史に、彼女の名が語られることはない。
アブソリュート神という神もおとぎ話のように語られ、
フェイル=アーテイトという少女は時が経つにつれ、忘れていくだろう。

その原因を作ったのは、教えてしまったのは、紛れもない自分自身。
ダンフィーズ大陸がソピアの手によって崩壊させられ、
シリウスの妹ミラを救出しようとしていた時期に教えた禁忌。
彼女は既にあの頃から全てを覚悟していたのだろう。



「で、も・・・」



掠れた声は異様に震えている。
未だ膝をつき、己の手のひらを呆然と見下ろしているリュオイルは、
焦点の合わない虚ろな瞳で遠くを見ていた。その先には壮大な大空しかない。




「フェイルがいたから、僕はここまでこれたんだ」




国家に半ば縛り付けられていた僕を救ったのは紛れもないフェイルだ。
彼女との出逢いは偶然なのかもしれない。それでも必然だったのだと言いたい。
他人であるのに他人の心に大胆にも無遠慮に入ってくるわ、
でもどこか聡い彼女は一つの境界線を超えてくることはなかった。
大胆なのか小胆なのか、全く分からない。
けれど彼女と共に過ごした日々は確かなもので、言葉では言い表すことが出来ないほど美しかった。
光りだった。真っ暗な闇の世界に突然現れた一筋の光りだった。
それに追いつきたくて、追いつこうとして、彼女に振り回されながらも掴んでいた。
離したくなかった。離す時なんて来るはずないのだと、己の甘さに過信していた。




「フェイルの望んだ世界がこれから広がるとしても、彼女がここにいなくちゃ意味がないんだ」




フェイルは信じる強さをくれた。
人を愛する気持ちをくれた。
でもそのせいで、弱さまで手に入れてしまった。







「――――フェイルのいない世界じゃ、意味がないっ」







平穏は確かに訪れるだろう。
それがどこまで持つかは分からない。それはこれから天界を、そして魔族たちを統一する者の手にかかっている。
フェイルが望んだ世界を壊すつもりは毛頭ない。
けれど世界に光りを与えた彼女がいない世界は、なんて味気ないのだろうか。
器だけがしっかりしていても、中身が空っぽでは意味がない。
心のどこかで空いてしまった大きな穴は決して癒えないだろう。
鈍く重い痛みを抑えようにも、ただただ後悔ばかりが募るばかりである。



( リュオ君、最後まで傍に・・・いてくれる? )



最後?どうして、と泣き叫びたかった。
消えかかる彼女に対して泣くことしか出来なかった自分が酷く愚かに見える。
もっと他に言うことはあっただろうに。子供のように駄々をこねるしかなかった。

けれど誰もリュオイルを責めることはないだろう。
背中を押すと宣言していたシリウスも、消え行くものを前にしてついに本音が出てしまった。
本当はリュオイルと同じように叫びたかったはずだ。
それが出来ないのは、ほんの少しだけ残っている理性がまだ切れていないから。
逆に哀れだと思うのは愚かなのだろうか・・・。




「意味が、ないんだ」




こんなにも苦しいのなら
こんなにも辛い思いをするのなら

いっそのこと・・・


































何故ここまで来た









空虚な世界のはずなのに、鈴が鳴るように響き渡る。
ここはどこだろう。既に死んでしまっているのだろうか。
自分は誰なのだろう。ふわふわと漂っている感覚はあるが、自分が何者なのかさっぱりだ。







私より若いくせに、もう思考が老いたか







小馬鹿にしたような微かな笑みが木霊する。
失礼だなぁ、と思いつつも苦笑が漏れる。
目を開ければきっと暗闇だろう、そう思って鉛のように重い瞼を開ける。
そこは予想していた世界とは全く異なっていた。
闇の世界ではない。かといって真っ白な世界でもない。
黒と白を足した、灰色の世界。けれど何故だろう、孤独感はなかった。



「・・・そっか」



足元を見れば不完全な姿がそこにある。
見慣れた靴を履き、愛用していた青い衣装を身に纏っている姿が伺えた。
そこでやっと思い出す。ああ自分は、神であり人間でもあった曖昧なイキモノだったのだと。
そして、楽しかった記憶も、悲しく辛かった仲間との最期の別れも。
全てが走馬灯のように、だが鮮明に思い描かれる。
どこにも擦れた部分はない。一つ一つが酷く丁寧で、優しかった。
涙なんてものは流れない。この世界にはそんなもの存在しない。



「感傷に浸るのは構わないが、私の質問に答えてもらおうか」



既に懐かしいとも思える記憶を探っていると、些か不機嫌さを含ませた声が背中にかかる。
驚いて振り返ると、そこには先ほどまで共にいた仲間の片割れがいた。





「・・・ルシフェル?」





曖昧な世界にある曖昧な存在達。
何故彼がここにいるのだろう。
禁忌を犯した自分はともかく、彼は輪廻の門を辿るのではなかったのだろうか。



「何を今更驚く必要がある?」

「・・・ここにいるってことはやっぱり」

「想像通り、弟に負けてしまったよ」



互いの姿は酷く薄い。
風が吹けば、全てを奪われてしまいそうなほど存在が乏しかった。
同じ金色の髪を持つ双方は互いに苦笑していた。



「私がここにいるのがそんなに可笑しいか?」



どこか嘲笑的な笑みを浮かべたルシフェルは殺気などと言うものはおろか、
敵意さえも向けず少女に歩みだした。
以前ならば後ずさりしていたであろうが、今はそんな必要はどこにもない。
すぐ目の前まで近づいてきた彼を見上げ、少女はふわりと笑った。



「ううん。何となくだけど、貴方ならここに来るかなって思ってた」

「・・・禁忌に触れたのはお前だけではないからな」

「お互い様ってやつだね」



互いに微笑んでいたが、先に表情が強張ったのは少女のほうだった。
少し遅れて、少女に倣うようにルシフェルも真剣な顔つきになる。
微笑んでいれば彼の弟と全く同じだと言うのに、
どうしてこういった表情になると区別出来そうなほど顔つきが変わるのだろうか。




「消滅したよ」




誰が、と言わなくても分かっている。
敢えて「死んだ」と言わず「消滅した」と目の前の小さな少女ははっきりと口にした。
そんな覚悟がたった数日のどこで固まったのだろうと疑いたくなるが、彼女は確かに腹を括っていた。

全ては彼女を攫ったあの日から狂い始めていた。
いや、彼女がこの世に生まれてから運命は少しずつずれ始めていたのだ。
誰がその糸を絡ませ、中途半端に緩めたのかは分からない。
自然の摂理だと言えばそれで終わってしまうが、それでは解せない点が膨らむばかりだ。


「・・・愚か者が」


悪びれた様子もなく、寧ろ微かに微笑みさえ見せる彼女に
ルシフェルは己の招いた種であっても、恨まずにはいられなかった。
誰を?ゼウス神だろうか、目の前の少女であろうか、それともやはり自分自身にだろうか。


「でもやっと逢えた」


にっこりと笑う仕草は幼い。
人間の年齢ならばまだ15か16程度の、まだ年端もいかぬ少女同然だというのに、
何故だろう、酷く安心させられるような暖かな笑顔に惹かれる。

ああ、これだ。

少女の笑顔を見た途端、己の中で築いていた偽りの柱が一気に崩れ落ちる。
誰にも触れさせなかった心の奥底、氷のように冷たく固まってしまった何かが解ける。
深い闇の奥に身を流していた時に聞こえたあの声は、紛れもない彼女のものだった。
大丈夫だと、一人じゃないと。
母親が子をあやすような優しい声色は今でも脳裏に浮かぶ。

そうだ、逢えたのだ。
ずっと一緒にいると、闇の中で彼女は告げていた。
何も躊躇うことはない。
優しさと暖かさに溢れた少女の手を取って、共に滅べばいい。
ここは魂だけが存在できる異質な空間。時期に消滅の門へ辿り着き、忌々しい過去も何もかも、消えるだろう。



その手を取れば、孤独になんてならずにすむ








「・・・いや、ここから先はお前の来るべき場所ではない」







その手を取る資格などない

彼女をここまで追い詰めた原因は自分自身にある







「お前は帰るんだ」







この世界に孤独は感じられない。けれど、とても寂しい。
罪の色を重ねた闇でもなければ、罪を許された白の世界でもない。
とても曖昧で、長くいるだけでも反吐が出そうなほど。
少女が来るにはまだ早すぎる。まだ、来てはいけない。



「ルシフェル?」

「お前の居場所はここではないはずだ」

「無理だよ、私はもう・・・」



この身は滅び、魂だけが不安定な世界を漂っている。
長く滞在すれば次第にこれまでの記憶は全て消え去り、そのうち自分自身の存在さえも疑いだすだろう。
まだその域までいっていないのは、自分を知っているルシフェルがいるから。
けれど、名前がさっぱりなのだ。
目の前の青年と滅ぼした神の名前は分かると言うのに、
何故だろう、記憶の片隅に、だが鮮明に描き出される"仲間"の名前が何一つ思い出すことが出来ない。
これまでのことははっきりと覚えている。
彼らと出逢い、共に旅をしてきた記憶は確かなものだ。
時に助け合い、喧嘩をすることだってあった。
この感情は、一体何と呼べばいいのだろう。幸せだったのか、楽しかったのか。
不快感はない。寧ろ居心地が良すぎて困り果ててしまう。

思い出そうとすれば、まるで泡を潰したかのように、パッと微かな記憶が弾けていく。
そして心の中でどこか諦めにも似た感情が湧くのだ。
「もういいだろう」と、自分自身ではないはずなのに、何かに言い聞かされているように。
何だろう、何か大切なことを忘れているはずなのに。



「ルシフェルを一人になんて、出来ないよ」



彼の傍を離れたくない。いや、離れてはいけないような気がした。
根拠なんてものはどこにもない。それでも、傍にいなくては、と直感だけで感じ取る。
ルシフェルの手を無理矢理掴んで歩き出せば、彼がそれを力付くで振り切ることはまずないだろう。
戸惑う顔が頭の中に浮かぶ。
そんなことやっていないのに、勝手に頭の中に描き出される。

私は死んだ。もう生きてはいない。
全てが消える前にやることが一つあった。
彼を、ルシフェルを一人にさせないこと。
曖昧な記憶の中、現実世界で生きていた時なのか
まだ生まれて間もなかった頃なのかは分からないが、確かにルシフェルと接触していた。
接触と称していいのかは分からない。真っ向から彼と対面したのは、攫われた時だ。
精神世界でなのか、それとも彼が孤独と恐怖と戦っていた頃の時期なのか。

怯える彼に手を差し伸べた。少しでも安心してもらいたくて、必死に笑いかけた。
世界は暗かった。彼の世界は酷く渦巻いていた。
その闇から解き放ってあげたくて、震える彼の肩をそっと抱いた。



(―――――ずっと、傍にいるよ。)



そう言って何度も彼に手を伸ばした。
けれどその手が握られることはなかった。
だから今度こそ。今度こそ、一人にはさせないと。



「一人は寂しいもん」



私も一人は嫌だなぁ、と一向に表情を変えないルシフェルに苦笑する。



「・・・そうだな、一人は、孤独だ」



見下ろす形でルシフェルがぽつりと零す。
どこか遠い目をしている彼は、少女を一瞥すると、ふと彼女の後ろを見据えた。
不審に感じた少女は促されるように後ろを振りかえる。
何もない空間のどこを見ているのだろうと、怪訝そうに眉をひそめながら。






「ここにおられましたか」






少女とルシフェルと同じように色素の薄い存在が淡い光りの中から現れる。
ふわりと笑みを湛える美しい女の姿に少女は思わず息を呑んだ。

知っている。けれど、名前が分からない。思い出せない。



「あなた、は?」

「天界にいた頃は、ヘラと名乗っていましたよ」



すっかり忘れてしまった彼女の名前。
ヘラ、と口の中で何度も復唱すると、乾いた土に水が浸透するかのようにはっきりと記憶された。
知らなかったわけではない。忘れてしまっていただけだ。



「ヘラ、神?」

「ええ」



何度も彼女の名前を口に出す。
何度も同じことを聞いても、ヘラ神は少しも気を害した素振りは見せなかった。
困惑する少女を慈しむような優しい瞳で、ふわりと笑っている。



「・・・どうして、ここに」



ようやくヘラ神の形が頭の中ではっきりしてきたかと思うと、今度は疑問が生まれてくる。
共に滅びたのはゼウス神だ。そして弟に倒されたルシフェル。
役者は己を含めて三人しかいないはず。
この場に何故ゼウス神がいないのかは分からないが、このシナリオにヘラ神は加わっていなかったはずだ。
最後に見たのは、誕生神と謳われる女神と共にいた時。
と言うことは、自分が滅んだ後、あるいは気を失っていた時に何かが起こったこととなる。



「彼を、愛していたからですよ」

「ゼウス神をですか」

「ええ。例え間違ったやり方をしていても、それも全て含めて愛していました」



今も、きっとこれからも。

この場にいない想い人を懐かしげに思い出す姿は恋をする者の瞳だ。
優しさに溢れたヘラ神の姿を見て、少女はふと記憶の中に残る仲間達のことを思い出した。











(―――――っ!!い、くな。いくな    !!!)










絶望的で、前も後ろも分からなくなった子供のように、ただ怯えた瞳があったような気がする。
それは赤い髪の毛で、大空のように美しい色をした瞳がとても綺麗だった。
彼は、仲間の中で最も共にいた時間が長かった人だ。
彼には確か、ルシフェルと同じように双子の弟がいたはずだ。
国家の隊長で、槍を使っていた気がする。
時々性格が変わることがあった。でも優しいところはちっとも変わっていなかった。

何かを、借りていたような気がする。
それほど気にすることではないほど、小さな物だけれど。
優しい彼から何かを借りていたという記憶が微かにある。

でも・・・なにを?



「貴女は覚えているはずですよ」



困惑の色を浮かべた少女に、ヘラ神は落ち着かせるようにそっと少女の肩に手を置いた。
ハッとして面を上げた少女は、もう一度己の姿を見直す。
足元を、胴体を。鏡がないから顔は分からない。
だから髪の毛がぐちゃぐちゃになるのも構わず、己の髪を、頭を手で探る。
何かがあるはずなのだ。何かを忘れているはずだ。






(    はこの世に1人しかいない。唯一無二の、大切な存在だ)






思い出せ、思い出せ。






(彼女は僕が守る。お前なんかに、    は渡さないっ!!)






たった、一言。だけど力強い彼の名前。
忘れたなんて、何て愚かであろうか。
涙が出そうになる。けれどそれが存在しないこの世界では、少女は悲痛に顔を強張らせるだけであった。






(いやだっ!    、いかないでっ!!!!)






悲しませた。泣かせてしまった。
そんなつもりはなかった。笑っていて欲しかった。
たくさん傷ついていたから、皆疲れ果てていたから。
平和を求めていた。皆が笑いあえるような平穏な世界を求めていた。

悲しませたくなかった。泣かせたくなかった。

己の手のひらを見つめ、キラリと不自然に光る右腕のブレスレット。
意味もなく自分自身の体を見直していた少女の動きが、はた、と止まった。






(必ず、帰ってきて。次に会う時に返してもらえればいい。・・・・だから・・・)






一度返したはずだ。けれど、また借りてしまった。
お守りのブレスレット。彼の弟の餞別だった、些細な贈り物。
けれどこれに救われた。そして彼も救われた。
彼の記憶を支えたのだと聞いた。
ルシフェルに操られそうになったが、自分と彼を結んでいたこのブレスレットが阻害したと。

大切なものだった。
返さなければならないと、いつも思っていた。

こんな所に、彼の所有物を連れてきてしまった。
返さなくちゃ。返すって、約束したのに。




「・・・返さなきゃ」




そう、返さなくちゃいけない。




「それは、誰にですか」




ヘラ神の穏やかな声が耳朶を響かせる。
彼だ。彼だ。赤い髪で、青い瞳の、彼だ。
何度も名前を呼んでくれた。名前を大切にしてくれた。
守ると言ってくれた。

大好きで、大好きで、大好きで・・・大好きだった。

泣かせてしまった。辛い思いをさせてしまった。
一人ではないけれど、孤独にさせてしまった。
伸ばされた手を、わざと振ってしまった。
傍にいてもいいと言ってくれた。


赤い髪を持つ少年。
青い瞳を持つ少年。


大好きで大好きで

離れたくなんか、なかったはずなのに























「        フェイル        」






















少年が笑う。
ただ一つの名前を愛しげに想いながら。









「・・・オ、くん」








赤い髪を持つ少年。優しい双眸をした青い瞳。









「リュオ、くん」








掠れた声に乗った言葉はすぐに消える。
けれど頭の中で何度も繰り返す。
そうすれば、彼の存在が次第に大きくなる。
膨らみすぎて破裂しそうなほど、大きな存在だった。

忘れてしまっていた。
忘れていたなんて嘘だと思いたい。
何より自分自身が、忘れられることを酷く怖がっていたのだから。



「フェイル=アーテイト」



その名を呼ばれビクリと肩が震える。
忘れていたのは仲間の名前だけではない。自分の名前さえも、忘れていた。



「そして、アブソリュート神」



ルシフェルとヘラ神が並んで佇んでいる。
すぐ傍にいるというのに、何故か遠く感じた。




「お前は帰るんだ」




もう一度ルシフェルが同じことを言う。

でも・・・



「帰る場所なんて、ないよ」



もうないのだ。
優しかった世界は、自分自身で終止符をつけてしまった。
禁忌を犯した神は消滅の道を辿るしかない。
あと少し。もう少し歩けば、きっと自分が辿るべき道が開かれるだろう。
永久の眠りと言う、最後の仕事が待っている。
それにもう、力はないのだ。アブソリュートとしての力は使い果たしてしまった。
自分の中にいたアブソリュートの魂も、既にここにはいない。
恐らく、先に消滅の門に呑み込まれたのだろう。
ならばこんな所で悠長に談笑しているわけにはいかない。
共に過ごし、共に滅びた魂がきっとそこにいる。




「いいえ、彼らは待っていますよ。ずっとずっと、何年経っても」




例え世界が修復され、この事実を忘れてしまうほどの時が流れても、
フェイルと共に過ごした者たちは死ぬまで覚えているだろう。
そして願っているはずだ、フェイル=アーテイトが戻ってくることを。


「で、も」

「怖いのなら、途中まで私が送り届けよう」


知らず知らずの内に首を振る。
拒絶とは言い難いが、それは無理なのだと訴えている。
完全に自信を失っているフェイルに、ルシフェルはいつしか彼女が自分にしたように、そっと手を包み込む。


「だがその先からはお前一人だ」


そっと背中を押される。
大した力など入っていなかったはずだ、けれど重力が失ったかのように、ふわりと前進する。
困惑の色を浮かべ、少なからず拒絶の色を見せるフェイルにルシフェルは安心させるかのように手を握った。
温かいのかも分からない。ここは曖昧すぎる世界だ。
寒さも孤独感も、分からない。ただ寂しい場所でしかない。
灰色の世界をゆっくり、だが一歩ずつ歩み始める。
何度もフェイルは抵抗した。帰る場所なんてない。自分で絶ってしまった居場所は既に崩れ落ちている。
築き上げたものが元に戻る事なんてない。壊すのは、簡単なのだ。




「やめてルシフェル!無理だよっ、帰れるわけないっ!!」




今にも泣きそうに顔を歪めて抗議するが、すらりとした長身の男はそれを無視してフェイルの手を引っ張り続ける。
歩む速度はとても遅く、小さな子供が散歩をしているほど緩やかだった。
確実に戻ってきている。辿ってきた道を、真っ直ぐ戻り始めている。
後ろを振り返りヘラ神を見るが、彼女は上品に佇み美しい微笑を浮かべながらルシフェルとフェイルを見ているだけだ。
足を前に出すたびに体は揺れ、同時に右腕に飾られている銀のブレスレットも鈍く光る。
それが視界に入るたびに、これまでの記憶が何度も蘇る。
この記憶をなくしたいわけではない。寧ろ、死んでも尚持っていきたい大切なものだ。
けれどこう何度も脳裏に焼きつかれては、折角固まった覚悟が揺らいでしまう。

ルシフェルと共に、滅びの道へ向かう

彼だってそれを拒んではいない。
何より彼は随分昔から孤独で、安らぎというものに、愛情というものに飢えていたのだ。
正義感もプライドも高く、だからこそ神に反感を抱いた。そして実行した。
何より彼は自由を求め、真っ先に大空へ羽ばたこうとしたれっきとした大天使。
例え敵であったとしても、多くの犠牲を払ってきていても、彼は優しかった。



「いやだよルシフェル!貴方を一人にしたくないっ!!」



握力のないことをこれほど恨んだことはない。
なけなしの力を振り絞って、ルシフェルが歩もうとする足を止める。
少しつんのめりそうになっただけで大した効果はないが、切羽詰ったような少女の声に
流石に無視し続けるわけにもいかないと感じたのか、少しだけ困った表情を見せて振り返る。

双方の表情は生きていた頃と比べると酷く人間味を帯びていた。
もし彼らが神でも天使でもない人間同士だったならば、こんな最悪な結果を招くことはなかっただろう。

息を荒げて抗議しようとするフェイルに、ルシフェルは掴んだ手はそのまま、体だけ向き直る。
そして、空いた片方の手をそっと少女の頬に添えた。




「その気持ちだけで、十分だ」




本当ならば一緒に行きたい。本音を言ってしまえばそうだ。
けれどこれ以上彼女を独り占めするわけにはいかないだろう。
そろそろ、潮時だ。この世界もそう長くは持たない。
時期に歪みが生じ、ぐずぐずしていれば三人もろとも消滅の門へ強制送還だ。

そうなる前に、早く、早く。
これが私に出来る最初で最後の償い。
彼女から多少なりとも奪った神の力を、返すのだ。
それはとても微力で、この力が戻ったとしても一つの国を破壊するほど強大なものではない。
しかしこの世界を潜り抜けるくらいの足しにはなるはず。




「もう私に縛られる必要はない」




自由を求めたのは、神に反逆したこの青年か、それともこの少女か。
おとぎ話として語り継がれるのは、恐らく前者であろう。
それでも構わない。それが事実なのだ。
世界が平穏になり、同胞が自由に羽ばたける世界が創られるのならば、どれだけ幸せか。
そのためには指導者がいる。
自由と言う名の旗を掲げ、付いて来る者たちを安心させてやれるような強力な指導者が。
現世では有能な弟がいる。彼女を守り続けた人間たちもいる。
だが少し、弱い。指導者というには、まだ決定的な何かが足りない。




「ここからは、お前一人だ」




行けるな、と小さな子供に言い聞かせるかのようにルシフェルは微笑んだ。
何を言われたのか分からず、彼の指差す方向をぼんやりと見つめた。

灰色の世界に、一筋光りが射し込んでいる。
酷く浮いた存在のそれに、フェイルは驚いてルシフェルに向き直った。
あと少しで辿り着けるほどの距離に、この世界には落ち着かない光りが溢れている。
どうしていいか分からずその場に立ち尽くしていると、するりと今まで彼女の手を掴んでいたルシフェルの手が離れた。




「真っ直ぐ歩け。決して振り返るな。
 余計なことは考えなくていい。お前にとって本当に大切な奴のことだけを考えていろ」

「大切な人・・・?」

「耳を澄ませば聞こえてくる。お前はそれを辿ればいい」




さあ早く、とルシフェルは催促する。
それでも戸惑いの色を隠せないフェイルは立ち往生するばかり。
そう思った矢先、ルシフェルは前方の光りが弱りかけていることに気付いた。
このままでは時間の問題だ。自分だけでなく、彼女まで消滅の門を潜る運命になってしまう。

俯き加減のフェイルを見て、ルシフェルは意を決したかのように彼女の背を思い切り押した。
軽くだが鈍い音が彼女の背中に響き、驚きに満ちたフェイルは咄嗟に足が前に出た。
立ち止まろうとするが、何故か足は前に進むばかり。
まるで何かに操られているかのように、止まることを許されないそれは早足に光りの方向へと進む。






「振り返るなっ!!走れ、フェイルっ!!!」






怒号のような激しい声が背中からかかる。
思わずびくりと震えたフェイルはそのまま駆け出した。
彼が言った通り、もうすぐ消えるであろう一筋の光りの先に。





(―――――っ!!い、くな。いくなフェイル!!!)





「リュオ、・・くんっ」





走って、走って、光を掴もうと、必死に手を伸ばす





(フェイルはこの世に1人しかいない。唯一無二の、大切な存在だ)





届け、届け





(彼女は僕が守る。お前なんかに、フェイルは渡さないっ!!)





もう一度、許されることがあるのなら





(いやだっ!フェイル、いかないでっ!!!!)





もう一度彼らに、彼に










「リュオ君っ!!」









ほんの少しだけ残っていた光へ飛び込む。
まるで彼女が来ることを待っていたかのように、光りは爆発するかのように膨大に膨れ上がった。
あまりの眩しさに思わず目を瞑るが、フェイルは歩む足を止めることはなかった。
どこに繋がるか分かったものではない。けれど走り続ける。
前に進んでいるのか、斜めにずれているのかすら分からない。
ただその光りを見失わないように、置いていかれないように。

逢いたい。逢いたい。

ただ一心にそれだけを思って。






「もう、救われたさ」






光りの中へ消え行く少女の後姿を見て、ルシフェルは泣き笑いにも近い表情で俯いた。
先ほどまで触れていた少女の温もりを思い出し、苦笑する。





「ありがとう」





言い忘れてしまった。たった一言。
どうか、あの光りの中の彼女に聞こえていますように。

最後の光りを見届け、ルシフェルは灰色の世界が歪み始めた事に気付く。
空も何もない世界を仰ぎ、来た道を戻り始めた。


――――――さあ戻ろうか


金色の髪が揺れる。
美しい足取りで進み始めたと同時に、世界は暗転した。























「これ、は・・・」




フェイルが消え、ヘラ神が消えた。
しかし何故だろう。恐らく絶望的な彼らの中最も冷静である誕生神ルキナはこの静寂の中で何か違和感を感じた。

魂の動きがおかしい。

この世の生きとし生けるもの全ての魂の管理を担っているルキナは、ふと顔を上げて空を仰いだ。
その青さと言えば、これまで生きてきた中で最も恐ろしく感じられるほど美しい。
とても言葉では言い表すことの出来ない、まさに一度きりの芸術とも言えるそれに、思わず息を呑む。
戦いは終わった。明らかに、天界の勝利だ。
他の魔族と戦っていた天使達の歓声が風に乗って聞こえる。

風が変わった。

ただの風ではない。魂を運ぶための風。
全ての魂は、まず誕生の祭壇に運ばれる。
祭壇はルキナが管理するものだ。今は崩壊していて何も残っていないが、
祭壇がなくとも魂は元の場所へ帰ってくる。
今もまた、多くの死者の魂が通過していた。
第一の洗礼を受け、輪廻の門へ移動しているだろう。
けれど一つ。微かに覚えのある一つの何かが、風の流れを逆流していた。

ありえない。そんなはずはない。
死者の魂は抵抗を許されることなく、時間をかけて浄化され門を潜る。
そして選定するのだ。次なる生を受けるために。



「誕生神ルキナ!どこに行かれるのですか!?」



呆然と立ち尽くしていたルキナは踵を返し、己の祭壇へ足を向ける。
白い装束が邪魔をして思ったように前に進めない。
いち早く彼女の異変を感じ取ったのは以外にも後ろに控えていたイスカだった。
小柄な少年は思わずルキナの手を取った。
彼の声でようやく我に返ったリュオイル達は、少しだけ怪訝そうに彼らの方を向いた。




「魂が、逆流しています。こんなこと・・・ありえない」




逆流しているのだとすれば、考えられるものは一つしかない。
強い力を持った者が足掻いているのだ。
世界が創られ、使命を負わされ生まれた時からこのかた一度もこのような事態にあったことはない。
だからありえない。いや、分からなかった。
己の知る莫大な知識を超え、許容範囲を超えた何かが起こっている。
それは奇跡なのか、悪夢なのかはまだ分からない。

急がなければならなかった。
押し迫る魂の流れに逆らおうと思えば、弱い力の者はすぐに軌跡を失ってしまうだろう。
魂の管理をするものとしてはこの現状を無視するわけにはいかない。
もし、もしその魂が這い戻ってきたと言うのならば、どうすればいいのか分からない。
天界を総ていた最高神はもういない。
彼と対等の立場を取れたヘラ神も、愛するものを追いかけて身を焦がして共に滅びた。
そして、彼らを超え、また彼らと共に散った神もここにはいない。
決断は自分自身がしなければならない。
誕生神という名に恥じないように、そして誤った選択をしないために、見定めなければならない。



「急がなくては間に合いません。
 その魂が一体誰のものなのかは今の段階では、私には分からない」



急がなければ。
どちらにしても戻ってきた魂をこちらへ移動しなければ、力ないそれはあっという間に消えてしまうだろう。

イスカの手を振り払い、白い衣装を摘まんでルキナは早足に誕生の祭壇の跡地へ走る。
それを止めようとイスカが慌てるが、一瞬の躊躇いでルキナの手を離してしまった。
暫く唖然としていたミカエルがその騒動で我に返り、言葉を失い瞠目した。

(まさか・・・でも、そんなっ)

誕生神ルキナも既に感じ取ったであろう、魂の気配。
神でもない、大天使の自分さえも、少し違和感を感じる。
嫌な感覚はない。寧ろ懐かしく、そして悲しみに震えおこされそうな。







「・・・フェイ、ル・・・?」







ルキナの姿が視界から消えた途端、魂の抜けたような声でリュオイルが立ち上がり呟いた。
覚束ない足取りで、ここがどこなのか定かではないにもかかわらず、リュオイルは歩き始めた。
その先はルキナが向かった先。
彼は、彼女と同じ場所へ向かおうとしているのだ。それも無自覚で。

リュオイルの思わず漏れた呟きにミカエルはハッとした。
そうだ、この感じだ。懐かしくも温かい、失ってしまった魂の気配。
以前ほど活き活きとはしておらず、いつどこで気配が消えてもおかしくないほど脆弱だ。

のろのろとした足取りでリュオイルは歩み続ける。
片方ない、大切な少女に預けた残りのブレスレットを握り締めながら。





呼んでいる、あの子が呼んでいる




「フェイル・・・」




こっちだ。あの子の声が聞こえる




「―――――っフェイル!!」




叫んだ矢先、駆け出す。
どこに向かっているかなんて分からない。
ただ我武者羅に、少女の声のする方向へ走る。
躊躇いなんて微塵もない。疲れきっているはずの体は、驚くほど軽かった。
愛用の槍さえもあの場に残し、ひたすら走った。

リュオイルが去ったと同時にミカエルも彼を追うかのように駆ける。
驚きを隠せないでいる仲間達はこのまま置いてきぼりにされるわけにもいかず、
納得しきれていない表情をそれぞれ浮かべつつも、走り出した。
前にいる背中を追いかける。見失わないように、見失えば、全てが終わりそうな気がしたから。

血の海と化している天界をひたすら走る。
ごろごろと転がっている死体に目もくれない。せめて踏み潰すことのないように、
狭い道だったと思われる通路を駆けた。
特に大怪我を負っているアスティアはイスカが肩を貸しながらゆっくりと歩いている。
しかし見失うことはない。


「あれは?」


ふと顔を上げたアスティアは、天高く光り輝く何かを指差した。
白く、だが気高い光りをまとい、恐らく誕生の祭壇の跡地であろう、その場所に漂っている。
まるでフェイルやヘラ神、そしてゼウス神が散った時のような光りだった。
触れてしまえばすぐに消えてしまいそうな淡い色合いの球体。
一つになりきれていないそれは、どうにか形を保とうとしているが酷く儚い。
アスティアに促され、イスカも空を仰いだ。
あまりの眩しさに思わず目を細めるが、だが一瞬遅れて瞠目する。




「・・・魂が、戻ってきた?」




誰の、とアスティアが尋ねようと傍にいる彼を覗き込むが、あとでアスティアは後悔した。

一筋流れた涙が斜め下にいるアスティアの頬に落ちた。
突然のことに驚いたが、それ以上彼女は追及しなかった。




「ほんと、馬鹿よね」




誰が、なんて言わない。

二人はゆっくり歩きながら、それぞれ違う表情で笑った。












肩で呼吸をしながら、シリウスはリュオイルとミカエルを追いかけた。
恐らく後ろではアレストが必死に自分達を見失わないようにしているのだろう。
本来ならばこれくらいの短い距離で息が上がるわけがない。
だが、フェイルを目の前で失った瞬間、これまで肩に背負った重みが、一気に圧力をかけてきたのだ。
フェイルと言う支えを失ったシリウスは、辺りにある瓦礫と変わらなかった。
長い間積み立ててきたものが一気に崩壊し、今になってドッと疲れを表す。
もしかしたら顔面蒼白なのかもしれない。
ここまで走ってきたのは恐らく気力。
リュオイルが零した言葉に驚愕し、そして彼と同じようにフェイルを求めている。

(フェイル・・・フェイルっ!!)

神々が散った時に見た魂の形にそれは似ていた。
光りは同じように淡く輝き、ふよふよと辺りを徘徊している。
一足先に辿り着いていたルキナは、瓦礫を這い上がり、一番高い所まで登りつめるとそっと手をかざす。




「―――――フェイル!!!」




同じようにルキナの元へ辿り着いたリュオイルは彼女と同じように空を手を伸ばした。
あと少し、あと少しで光りに手が届く。
けれど何度も空を切る。何度も手を伸ばし光りを掴もうとするが手のひらに収まることはない。
それでも諦めなかった。諦めるつもりなんて毛頭なかった。




「フェイル!!」




声が枯れそうなほどの声で叫ぶ。
澄んだ空気に響き、リュオイルの声は空に広がる。





「フェイルっ!ここだよ!僕はここにいるよ!!!」





ぽろぽろと涙が零れるが一向に拭おうとしない。
温かくも冷たい雫が地面にぽつりぽつりとまるで雨のように落ちる。
傍らで同じく手を伸ばしているルキナはそっと目を瞑り、魂の軌跡を辿っていた。

(この、魂は・・・この魂の所有者は)

アブソリュート神なのか。それともフェイル=アーテイトなのか。





「諦めるなっ!フェイル!!」





遅れてシリウスが瓦礫を這い上がってきた。
息を切らせ、リュオイルの隣で彼より長い手を空へ伸ばした。





「戻ってこいっ、お前の居場所は・・・ここだ!!」





有無を言わさぬ激昂にも似た叫び声は震えていた。
掴めそうで掴めない。この距離が酷くもどかしい。

彼らの必死な声をルキナは間近でじっと聞いていた。
たとえ向こうの反応がなくとも、彼らは何度も叫び続けた。
声を枯らし、光りがどこかへ消えてしまわないように。

意を決し、ルキナは伏せていた瞼を持ち上げた。
その瞳は誕生神としての誇り高い強い意思を刻み込んでいた。
神族にしか分からない言葉が歌のように紡がれる。
傍らでルキナが何かを詠唱しているにもかかわらず、シリウスとリュオイルはひたすら叫び続けていた。
ようやく追いついたアスティアとイスカは、瓦礫の下でじっと空を見ているアレストに歩み寄った。
震える彼女の肩をアスティアがイスカの肩を借りながらも軽く押し、
振り向いた彼女に意地の悪そうな笑みを浮かべて、再度空を見上げた。

ルキナの声に合わせて失いつつあった光は一気に弾ける。
目を瞑らなければならないほど強い光りを放ちながらも、
リュオイルは大切な少女を目の前で失った時と同じ言葉を叫んだ。










「―――――っ!!い、くな。いくなフェイル!!!」 










ぶわりと強い風が吹く。その流れで、光りは少しだけ傾いた。
その反動で光りがリュオイルの腕の中に流れ込む。
必死にそれを掻き集め、少女の名を何度も呼ぶ。
光りは爆発したかのように細く鋭い光線が四方を飛び散り、一体が白の世界となった。
その中でリュオイルは懸命に探した。目を潰されてしまいそうなほど眩しい光を掻い潜り、
求める者を必死で手探りで探し出す。

戻っておいで。ここに戻っておいで。

堰を切ったように零れ落ちる涙は止まる術を知らない。
きっと酷い顔だ。醜く歪んでいるに違いない。
ねえフェイル、僕は君がいないとこんなに駄目な人間なんだ。
たった一人の人間がいなくちゃ涙を止めることさえ出来ない。
戻ってきて、帰ってきて。
君のいない世界はこんなにもちっぽけで寂しくて虚しい。
戻ってきて。戻って、おいで。





―――――・・・オ・・・




「フェイル」




――――リュ、オ・・・




「フェイルっ」




――――リュオ君!




「フェイルっ!!」




光りの中から現れた人間の手。
溢れ返っていた光りは一つに集中し、一つの形を成そうとしていた。
細い指に自分の指を絡ませ、引っ張るように力を込める。
少女の名前を呼べば、少女は何度も返した。

光りは徐々に人の体を創り出す。
あれだけ散らばっていた魂の光りが一つに終結し、その中から一つの形を生み出す。
リュオイルの左腕にと、現れた右手にある銀のブレスレットが鈍く光る。
それを見たリュオイルは目を見開いた瞬間一気に人になりつつある光りを腕の中に抱きしめた。

焼きつくような光が徐々に失っていく。
ゆっくりと治まって入るが、それまでが酷いほどの眩しさだったせいで視界は暗闇に近かった。
ぐっと瞼を閉じ、腕の中に「形」を保っているそれを強く強く掻き抱く。
光りが薄くなると風が吹き、人の髪の毛が揺れた。
白黒する視界に少しだけ色が戻り、金色の糸が溢れた。
抱きしめる腕から伝わる温もりに涙が零れる。







「――――――おかえり」







もう二度と、離しはしない
































リカルア暦2690年。
大きく世界を分断していた天界、魔界、地上界は変化を見せた。

天界は最高神のゼウスとその傍らに常に控えていた慈母とも言えるヘラ神を一度に失った。
神に反逆した堕天使ルシフェルは、彼の瓜二つの弟である大天使ミカエルによって生涯を終え、
指導者を失った天界では次なる王が決まるまで英雄である大天使ミカエルがその座に就くこととなった。
王が入れ替わり、それまでゼウス神に従えていた神々がそう簡単に納得はしなかったものの、
亡きゼウス神の行いを全面的に賛同できるものは誰もいないが、
次代王が決まるまで就任した大天使ミカエルを非難するものは誰一人としていなかった。
堕天使ルシフェルの直属の部下であった魔界の者たちは、
たとえ戦争が終わっても神々を恨んでいることに変わりはない、と反感を表している。
しかしながらも、魔族の中には亡きソピアのような純粋で素朴な魔族も多くいた。
そのため形だけではあるが和平と、平和を約する同盟を組むことが出来た。
今まで交流のなかった天界と魔族であったが、この同盟が期に荒れた魔界を再生し直そうと、
天界の、特に天使側の援助があり、少しずつではあるが魔界の美しさも取り戻しつつあった。



「魔界、ですか。ここを魔界と呼ぶには、あまりに失礼だと思いますけど」



いつだったか、魔界に視察に出ていた大天使ミカエルは、太陽の恩恵がある魔界を一目見て驚嘆した。
こんなに美しいというのに、何故これまで太陽の光りが射すことがなかったのだろう。
暗い雰囲気を醸し出していたのは、全て光りを遮っていた厚い暗雲が常に魔界にはびこっていたからだ。
生前のゼウス神は太陽の恩恵を魔界に注ぐことは決してしなかった。
しかし指導者は変わった。ならばこの世界も、少しずつ変わっていくはずだ。

さて、地上界はというと、こちらの方は特にダンフィーズ大陸が酷かった。
堕天使ルシフェルに操られたソピアが大陸をほぼ壊滅させ、大地は荒れ、痩せてしまった。
戦争終結後にシリウスやアレスト、アスティアといった戦争に加わった人間達を筆頭に
この大地に埋もれている数々の遺体を掘り起こし、各地域に分けて慰霊碑を設立した。
まだ多くの死者達が大地に埋もれている。
故郷があった場所を懐かしげに眺め、シリウスは村の墓に花を添えていた。
カイリア村は小さく、残念ながら慰霊碑は建てられていない。

皮肉にもダンフィーズ大陸は「墓地大陸」として今では名が知れ渡っている。







「墓地大陸ねぇ・・・。ちょっと前までは前の大戦で活躍した英雄の大陸やったのに」

「リビルソルトも全壊だったものね。威厳の欠片もありはしないわ」

「うっわアスティア!そんなん言っておったら夢に亡霊が出てくるわ!!」

「大丈夫、あんたも同罪よ」

「勝手に話を変えるなーーーーーーー!!」






アレストとアスティアはこれで何度目であろう大陸視察に来ていた。
視察と言ってもどこかの大臣のようにうろうろするわけではない。
要は人骨探しだ。

この戦で英雄のメンバー入りとなった彼女たちは天界を自由に行き来することを許されている。
もともと鎖国状態に近かった天界も、かなり限定ではあるが人間と接触するようになってきた。
最近は恐らく地上界で最も強いとされるフィンウェル国家、つまりリュオイルの故郷と手を取り合っている。
難しくて分からないがどうやら様々な条約を結んだりしているらしい。
戦争で大切な者を喪ったアレストであったが、時の流れによって
ほんの少しではあるが、以前のように狂ったように泣き叫ぶことはなくなった。
けれど誰も彼女を一人にさせることはなかった。
少しでも目を離せば、彼女はどこか遠い所へ一人で行ってしまいそうだったから。
自殺をするのではないかと言われていたが、アレストはそれをしなかった。
大切な者に守られた命をむざむざ投げ出すことなど出来ないと言う。




「ふふ、相変わらずお二人は仲がよろしいですね」




今回の視察は天使一軍を借りている。
無論その長であるミカエルの了承は得ていた。


「あれ、どーしたん?」


砂埃の舞う大地に一つ不釣合いな白い装束。
他の天使たちはそれぞれ分かれて作業を行っているため、ここはアレストとアスティアしかいない。
しかし二人が他愛もない談笑をしていた今、ミカエルを先頭にぞろぞろと天使の一軍がまた現れた。



「これ以上あんたたちの人員を割くわけにはいかないわよ」



人員増加だろうか、と首を傾げたアスティは同じように首を傾げているアレストを見た。



「ああいえ、ちょっと私用で」

「私用?」



彼がこんなことを言うのは珍しい。
戦争が終わってもごたごたしていることに変わりはなく、本来ならばこんな所に来て油を売っている暇はないはずだ。
それも傍らには彼の腕となり足となるイスカにアラリエル。その他大勢の天使が並んでいた。
はっきり言って威厳がありすぎる。



「久しぶりアスティア」

「ああはいはい」



出逢った当初とは考えられないほど穏やかな笑みを浮かべたイスカは久方の戦友との再会に喜んでいた。
しかしアスティアはいつもの調子で軽く返す。
冷たいなぁ、と苦笑するイスカだが慣れているのかそれ以上下手なことは言わなかった。




「んで?あんたがわざわざ私用で来るなんて、ここになんかあるん?」

「ここに来るのはついでで、実はアレストさんに用があったんです」

「・・・・・・?はっ!まさかうちミカエルに失礼なことして軍法会議とかにかけられるとか!?」




自分に用がある、とアレストは不思議そうに考え込むが
数秒考えた後に俯いていた顔を持ち上げ、至極真剣な顔つきでミカエルに指を指しながら叫んだ。



「え?ああいえ、そういうわけじゃなくて」

「くっくっく・・・」

「ああ誰や誰や!?笑っとるやつは!!」



許さんっ!と憤慨したアレストは、ミカエルの後ろから漏れてくる男の笑い声の方へずかずかと大股で歩いた。
流石に笑うことは失礼だろうとミカエルが誰かを嗜めるが、
相手は上司であろうミカエルに謝罪するわけでもなくまだ笑っている。
よほどツボに入ったのか引き攣り笑いになりかけていた。




「いやだって、ミカエル様指差してる時点で、軍法会議に繋がるってのにっ。
 あははっ!言ってることとやってることが全然、違いすぎだって!!」




ついに大声を出して笑い始めた男が腹を抱えながら横にずれる。
そのせいでミカエルに隠れていた男の姿は完全にさらけ出された。





「・・・え?」





腹を抱えているせいで顔は見えない。
けれどどこか懐かしい、恋焦がれているあの金色の短髪がひょっこりと現れた。
金色と言うよりはレモンのように鮮やかな色だった。
そう、ここにいない"彼"は。
まるで鏡のように、そこで笑い転げている青年は亡くした者と酷似していた。
雰囲気も、声も、髪の色も、体躯も。




「くくっ、やっぱミカエル様の言った通りだな」




"彼"は決してミカエルに敬称などつけていなかった。
言い回しもどこかさっぱりしていて嫌味もなかった。
敬称をつけているんだかつけていないんだか中途半端な彼の態度に、ミカエルもただただ苦笑するだけだ。




「アレストさん、紹介しますね。新しく大天使として生まれた私の部下です」




穏やかではあるがどこか厳かな雰囲気を醸し出す。
長年上に立つ者だったせいか、どうしても格式ばった素振りになってしまっていた。
流石に笑いを引っ込めた青年はようやく顔を上げ、まだ笑い足りない表情を引き締めアレストをじっと見据えた。

"彼"と同じコバルトブルーの瞳が二つ。
少し焼けた肌の色も、骨格も、何もかもが一緒だった。
唯一違うのは、彼が身に纏っている、以前なら似合わないと笑い飛ばせそうなほどの整った装束。
頭には滑らかで光沢の入っている布を数回巻き、銀色の金具で止められている。
どこか人懐っこさを思い立たせる無邪気そうな顔立ちは、少しだけ青年を少年に描いていた。



「つい最近誕生神ルキナ様によってこの世に生まれてきたんだ。
 ・・・あー、俺ってそんなに前の誰かと似てる?ミカエル様もイスカも皆驚いた顔してんだよなー」



大天使としての厳かさなど欠片もない彼の言葉にアレストは瞠目する。
ああ、似ているなんてものじゃない。まさに彼なのだ。
この腕からうしなった彼が、真っ白になって目の前に現れている。




「シ・・・ギ・・・」




震える肩を鎮めようとすれば眦が熱くなってくる。
視界は徐々にぼやけ、もっと見ていたいと思っていても画像がぶれたように曇っていく。
思わず口元を両手で押さえ、ついにアレストは涙を零した。
それにぎょっとしたのは頭を掻きながらぎくりと固まってしまったシギと瓜二つな青年だ。



「え、え?あー・・・ミカエルさまぁ、俺が泣かしたってことになるわけ?」

「そうですね、直接的に貴方に非はありませんが間接的に貴方が悪いです」

「え、それってどっち?」

「全く、どうして彼と同じ魂が彼と同じ姿かたちになるか私が尋ねたいくらいですよ」

「いや俺は前の俺知らないって!」

「ほら、そういう仕草も全部一緒ですよ。"大天使シギ"」

「・・・まさかと思うけどミカエル様が俺にくれたその名前って・・・」




胡乱げに視線を泳がす青年は相変わらず食えない笑みを向ける上司をじっと据わったような視線を送る。
それだけでも十分不敬なのだが、傍らに控えているミカエルの部下たちは微笑ましそうに見ているだけだ。



「シギと、一緒の魂ですって?」



驚きを隠せないアスティアは少し引き攣ったような顔でミカエルと大天使シギと呼ばれた男を交互に凝視した。
それはアレストも同じだ。ただ彼女は混乱しているのか、涙を浮かべたまま唖然としている。

この青年が生まれた時は、生み出した当の本人誕生神ルキナも驚愕した。
膨大な知識を持つ彼女は死しても以前の魂の所有者をしっかり覚えている。
戦後のごたごたがあらかた片付いた近日、終わりの方にさしかかっていた魂の浄化も終わり一息ついた時だった。
大天使シギとしてこの世を去った彼の魂を丁重に新たに練成しようとして事態は起こった。




「ああもう、そんな泣くなって!これじゃ俺が極悪犯みたいじゃねえか」




段々いたたまらなくなったのかがしがしと頭を掻いて不器用な手つきでアレストの肩に手を置いた。
その温もりに思わず肩を揺らせたアレストは苦笑している青年の瞳を伺う。

同じだ。全てを忘れているだけで、全てが一致してる。

また浮かんできた涙に男はぎょっとして再度顔を硬直させた。



「いやー、俺ってば結構罪作りな男だったんだな」



困ったように笑う男の表情は穏やかだった。
その言葉を聞いてアレストはついに堰を切ったように涙を流しはじめた。

ああもう、何故彼は彼と同じ言葉を言うのであろうか。




「シ、ギ・・・」

「うん?」

「シギ・・・」

「ああ」

「・・シギっ!!」




名前を呼ばれるたびに男は嬉しそうに微笑んだ。
大天使ミカエルから与えられた名前。
生まれて間もないと言うのに、何故かその名前がしっくりきて、奥底に染み込んだ。
好きな響きだ。名付けた方はと言うとどこか困惑していたが、それでも彼は自分が生まれてきたことをとても喜んだ。

そして目の前で泣きじゃくっている人間の女の子。
何でだろう、他の奴だったら泣いていようが一喝してやるが、この人間にはどうも出来ない。
ただ困らせたくない。泣かせたくない。
そう思っているのに、心の中で考えていることと口に出す言葉が違ってしまう。
知っているような気がする。でも胸の奥に突っかかるわだかまりは消えない。
彼らが言うように以前の所有者と同じならば、これからどう接していこうか。



「シギ、別に私たちに気を使う必要はありませんよ。
 寧ろ気を使う貴方なんて貴方じゃありませんから即行で止めてください」



何気に酷いことを言われた。
しかしそれを不快と感じるかと思えば、まるでいつものことだという感じで笑うだけ。




「おほん。・・・えー、改めて初めまして?
 まあみーんな知ってるけど、俺は大天使シギ。よろしくな、人間のお嬢ちゃん」

「・・・お嬢ちゃんとちゃうっ!うちはアレストや!!」

「アレスト。アレスト・・・アレストだな!」

「い、いちいち連呼せんでええっちゅうねん!」

「おっ、やーっと勢いついてきたな〜」

「シギっ!」




顔を真っ赤にして叫ぶアレストにシギは笑った。













戦場となった天界はまだ完全に復興しきれていない。
所々建築物は壊れているし、完全に元に戻るにはまだ数年必要だろう。
何せ今は世界視察で多くの天使が各地へ飛ばされている。
全ての指揮を執っているミカエルは休む暇なくあちこちを視察している。
今日も彼の部屋には誰もいない。傍らに控えているいつもの天使たちもいないとなると、暫くは戻ってこないのだろう。



「ちょ、ちょっと待って。これ全部僕がやるの?」



主のいない一室に二つの影が並んでいた。
一人はミカエルの席に代理として座っている代理の指揮官。
赤い髪はまとまりきらないのか、四方へ跳ねている。
少年からようやく青年の域をいきそうな顔ではあるが、先ほどの言葉を吐いた途端幼さを醸し出した。



「当たり前だろう」



椅子に座っている彼と異なり、もう一人の男は机の前で仁王立ちしている。
流れるような銀髪はどこか儚い雰囲気を出すのか随分と静かなイメージを際立たせる。
赤毛の少年を射抜くかのように剣呑に細められたアメジストの瞳は
肩を落としている少年に容赦なく投げかけた。



「ていうか、何でシリウスは手伝わないんだよ」

「俺がこんな面倒くさいことするか」

「この間はやってたじゃないか!」

「それはそれ、これはこれ」



戦後天界の英雄として持ち上げられたこの二人も、天界を行き来することを認められてる。
特にリュオイルはミカエルの代理を努めるなどの功績だが、本人は不満で仕方がないらしい。
その彼を仕方なさげに補佐しているのが、犬猿の仲と謳われていたシリウス。
ミカエル不在の時は基本的に書類整理が多いが、今日は特に酷かった。



「仕方ないだろうが、今は猫の手も借りたいほど人手が足りない」

「あのさ、言ってることとやってること違うって思わないわけ?」

「俺はこれから外回りだ」



シリウスが書類整理を手伝うのは本当に気まぐれだ。
流石に哀れだろうと良心が傾いた時にその気まぐれを発揮してくれる。
何より彼はダンフィーズ大陸の視察に行く事がほとんどなのだが、
定期的に天界に来てはある目的を果たすために外回りをかって出る。

外回り、と言う言葉に敏感に反応したリュオイルは拗ねた表情から一変して不機嫌さを露にした。



「お前一人で外回りはだめだ」

「はっ、ミカエルならともかくお前の言う事など誰が聞くか」

「だめったらだめなんだってば!」

「悔しかったら目の前の紙の山どうにかするんだな」



にやり、と意地の悪い笑みを微かに浮かべてシリウスは部屋を早々と出て行く。
それを見てああっ!と叫んだリュオイルは高価な椅子をまるで倒さんばかりの勢いで後ろに退かせると
目の前にある書類の山々と閉められた扉を交互に見て葛藤していた。
書類の中には今日中に終わらせなければならないものも多々ある。
徹夜をすれば何とか間に合うかもしれないが、明日は明日で予定が入っているので是が非でも睡眠時間は確保したい。



「ってそうじゃなくて!」



はっきり言ってシリウスがどこに行こうが関係ない。
寧ろ手伝う気がないのなら部屋にいられても鬱陶しいことこの上ないのだ。
しかし、それは時と場合による。今まさにその場合が悪いのだ。
彼が外へ出たことは別段構わないが、彼の行った場所に問題がある。
国レベルほどの重大なことなのかと言われると困るが、私的に困る。
・・・いや、困るのはリュオイルだけで他の誰も困るものは実際いない。

書類を恨めしそうに睨みながらも、リュオイルはミカエルに申し訳ないと思いつつドアノブに手をかけた。
数時間ぶりに出た外はまだ太陽が燦々と照っており、目の前に広がる美しい庭園が宝石のように煌いていた。
ここまで天界が緑豊かに回復したのも、あの幼い豊穣と花と春の神フローラのおかげだ。
何より彼女は魔界に光りを照らすことを一番最初に賛同してくれた唯一の神なのである。
円形の噴水からは太陽の光りに反射して輝く水が静かに流れている。
庭園でくつろいでいた天使たちと顔があいその度に会釈をするがはっきり言って時間が惜しい。
それでも律儀に頭を下げるのは癖なのか、どうにももどかしい。

白基調とした天界の建物はどれも似たような造りをしていた。
最初の頃はよく迷っていたが今はもう脱出経路を覚えられるほど完璧だ。
無論、そんな道を使うことがないよう願いたい。



「あらリュオイルさん」



一つ、また一つの塔を過ぎた時、桃色の少女が現れた。
おっとりとしていて幼いがリュオイルの何百倍も生きている神だ。



「フローラ!」

「ふふふ、シリウスさんならいつもの所に行っちゃいました」

「ありがとう、じゃあまたっ!」



ほのぼのと微笑む少女の姿をした神に軽く一礼すると一目散にリュオイルは駆け出した。
建て直された、誕生の祭壇。ようは誕生神ルキナの管理する部屋へ。

バン、と慌しい音をたててリュオイルは少し薄暗い祭壇に殴り込みをしそうな勢いで突入した。
眉をひそめずかずかと前進すれば、先ほど意地の悪い笑みを浮かべてたシリウスの後姿が垣間見える。
誰かと話しているのかいつもより声のトーンが明るい。




「全く、ここは雑談をする場所ではないんですよ?」




いざ駆け寄ろうとした途端、呆れたような女性の声が後ろからかかる。
驚いて振り返るが、すぐに申し分けなさそうな顔をして素直に謝った。



「すみません誕生神ルキナ」

「本当です。毎日毎日、よく飽きないで来られますね」

「飽きませんから」

「・・・はあ、彼と同じこと言うんですね」

「げっ、シリウスと?」



思わず本音が出たリュオイルは一気に顔を歪めた。
そこまであからさまに嫌そうな顔をするのもどうだろう、と一人考えるルキナだったが、
段々どうでもいいと感じたのか、自分の持ち場にそそくさと戻る。
どうやら彼女も忙しいらしい。
いつも押しかけているのは事実なのでやはり何だか申し訳ない。




「彼女、大分良くなりました。もう祭壇から出ても構いませんよ」

「・・・本当に?」

「ええ勿論」




嘘は吐きませんよ、と薄い笑みを浮かべたルキナは奥の祭壇へ上がってしまった。
奥に行く事が出来るのは管理者のルキナと、仕える主のみだ。

ルキナの言葉に一瞬きょとんとしたリュオイルだったが、たちまちくしゃりと顔を歪めた。
泣きそうでもあり、笑いそうでもある。何とも言えない複雑な表情だ。
少し乱れた呼吸を整えるために数回深呼吸をする。
外や他の場所と比べると肌寒いこの誕生の祭壇の空気はひんやりとしていた。
それでも心臓の音は速まるばかり。
いてもたってもいられなくなったのか、少し朱色を帯びた頬をそのままに
シリウスともう一人いる場所へリュオイルは歩みだした。






「フェイル!」

「ったく、来るのが早いんだよ」






いつもと同じシリウスの嫌味が返ってくる。
そして必ず二人の会話を聞いてくすくすと笑う少女が一人。

亡きゼウス神は自分の右腕となるために神を創り出した。
しかしながらも魂が練成しきれていない状態で地上界に落ち、神は人間として十数年生きていた。
人間の形をした神はいつからかゼウス神に反感を抱くようになる。
だが彼を最終的に憎んでいた堕天使ルシフェルも加わり、戦禍は混乱した。
神なのか、それとも魔族なのか。

全ての発端は何だったのだろうか。
ゼウス神だろうか、堕天使ルシフェルだろうか。
勿論それもあるだろう。
しかしそれ以上に大きく関わったのが人間も神族も魔族も愛していた一人の神。
その崇高な神の名を人々は「アブソリュート神」として崇めた。
しかしその神が実現していたと言う記録はどこにも記述されていない。
もしかしたら神自体は架空で、違う人物が活躍したのかもしれないと世間では噂されている。
ただ、戦場を見ていた者たちは知っている。
アブソリュート神は実現していた。その神が勝利をもたらしたと。
だがその神は自らを消滅することで平和を掴んだ。
神であり人間であると主張した少女を天と地の狭間の英雄と呼ぶようになった。

ここまでが、世間一般で語られている物語である。
真実は真実を見たものにしか分からない。



神は、還ってきたのだ






「リュオ君目の下が黒いよ」

「うっ・・・いやでも、大丈夫だから」

「私のことはいいから休んだほうがいいんじゃない?」

「ああそうしろ、フェイルは俺に任せておけ」

「それだけは絶対に譲れないっ!!」






だが神としての力は格段になくなっていた。
物語で語られるように、「アブソリュート」はこの世から消滅した。
変わりに目の前にいる少女は、以前までは酷く色素が薄く、原型を留めているのがやっとの状態だった。




「さて、どうする?」

「うーん、まだちょっと不安が・・・」




時を経て色素は元の色を取り戻し、誕生の祭壇で庇護されてたおかげで以前の肉体を取り戻すことが出来た。
長き間この薄暗い部屋でルキナと二人でいた・・・はずなのだが部外者からの訪問の数の方が圧倒的に多かった。
それに頭を悩ませていたルキナであったのだが、その心配ももうないだろう。
完全に容を取り戻した少女は、還って来て初めて外の世界へ触れるのである。



「大丈夫、僕がいるから」

「・・・うん!」

「俺が手を繋いでやろう」

「ありがとー、シリウス君」

「シリウスっ!!」



顔を真っ赤にして怒鳴るリュオイルにフェイルもシリウスも笑い出した。
勿論シリウスが繋いでいない手をリュオイルが奪うかのように指に絡める。
手袋はしていないので、直に彼女の体温を知ることが出来た。

かつかつと、やけに響く回路を歩む。
少し緊張しているのかフェイルの表情は強張っている。
しかし繋がれた手を再度見て、破顔一笑した。
外の世界はもう少し。あと、一歩。

ぶわりと風が吹く。小春日和に吹く暖かな風だ。
思わず目を瞑ったフェイルは、恐る恐る瞼を持ち上げた。






「おかえり、フェイル」









「・・・ただいまっ!」









もう二度と離さない。
この大切な人の、優しく温かな手を。