■天と地の狭間の英雄■ 【揺れ動く神の心】〜アブソリュート〜 ―――――サァァァァァァ・・・・。 「・・・・・。」 そよ風が空を舞う。 見事な衣装を身にまとった、決して若くない青年は寄り添うように傍にいる女の頭を見下ろした。 金色の髪が揺れ、白い装束さえも風でユラユラと遊ばれる。 そんな緩やかな時間はあっという間に過ぎるものだ。 「ヘラ。」 美しき最高峰の女神にゼウスは言葉をかけた。 その瞬間、彼女の細い肩が小さく揺れた。 ゆっくり顔を起こすと、今度は真剣な顔つきになってゼウスを見つめる。 「彼等をシギの元へ集めなさい。」 「分かりました、ゼウス神。」 ヒラリ、と身を翻すと彼女は彼の命を忠実に受けこの空間から消えていった。 何か言うかと思っていたが予想外に彼女は素直に彼の言葉を聞き入れた。 彼等は人間で言う「夫婦」に値するものだが、それはどちらも理解していない。 この天界で「夫婦」というものなど殆ど存在しないのだ。 天界内での恋愛などはあるだろうが、夫婦円満という事はこの世界には通用しないだろう。 神が新たな魂と肉体を作り出し、そしてこの世に生まれさせる。 それはあまりに冷たく、暖かみの感じない世界だがそれが定着しているせいで彼等天使達は何も言わない。 誰かを愛する時間など無い。と言った方この場合良いのかもしれない。 多忙な毎日を送るばかりで、誰かに気を取られる事などこの天界ではあり得ない。 稀に、結婚し子を産む天使達もいるが実を言うとあまりゼウスはその事に関して興味が無いのだ。 だから細かい事までは知らない。 恐らく知っているのは愛情に満ち溢れた、ヘラやフローラ達だろう。 ――――――サァァァァァァァァ・・・。 また、戦争を忘れそうなほどの心地良い風が吹いた。 不穏な影など一つも無い。 青空に恵まれたこの天界は今束の間の平和。 だがそれは上辺だけで、上層部とも言える神達の間では緊迫な雰囲気が漂っている。 最高位に立つゼウスはこれからの戦の事も、何もかも作戦を練らなければならない。 多大な仕事を限られた少ない時間の中で消化しなければ。 「最高位の神も、楽では無いな・・・・。」 手に汗を握るように、自嘲した雰囲気で彼は小さな溜息を吐いた。 重苦しい溜息を吐きたくなるほど予想以上に彼は参っていた。 これまで幾度も戦争を体験し、戦ってきたがこの凄まじさはあの時以来だ。 そう。かの英雄達が活躍した忌まわしく、そして奇跡の時代。 数百年の月日が流れ、人々は戦争と言う恐ろしい名を少しずつ忘れかけていた。 勿論、紛争、内戦など小規模の戦争は絶えないがあまりに広すぎる広範囲の戦争は皆を驚愕させた。 人だろうが精霊だろうが神だろうが天使だろうが・・・。 皆力を合わせあの戦争を終わらせた。 その元凶ともなったのが、今敵である「ルシフェル」 あの時と比べれば幾分落ち着いている様に見えるが、実際そうでは無い。 冷たい目で我々を見下ろし、そして地獄に追い詰めるかのように黒く微笑する。 (まさに一寸先は闇。) どちらが勝つかなんて、それはゼウスすら分からない。 最悪の結果はルシフェルの完全勝利だが、そう易々と彼等の野望を叶えさせるわけにはいかない。 いや、何としても阻止しなければならない。 どんな犠牲を払ってでも、たとえ何を失っても・・・。 既に歯車は動き始めた。 それが絶望への道を辿るか、それとも幸福の道へ進み始めるかは分からない。 全てはこれから起きる事次第なのだ。 吉と出るか凶と出るか。 それは奇跡のように帰って来た"あれ"に全てを委ねるしか無い。 「アブソリュート、か・・・。」 重苦しい溜息を再度吐くと、彼はどこか暗い表情でその場を後にした。 最近妙に晴れている日が多い気がする。 雲一つ無い晴天、とは言いがたいがそれでもあの事件以来ずっと太陽がこちらに向いている。 それは大変良い事なのだが、これだけ連続的に戦があると逆に不気味に思えてきて仕様が無い。 束の間の安らぎが、いつまたどこで奪われるのか分かったもんじゃない。 こんな天候だからこそその不安を取り除かれる。 警戒しなければならないこの時期なのに、何故か開放感を覚えてしまう。 それは悪い事なの? 決して悪い事では無いはずだ。 長い間極限状態に置かれても、逆にこっちの身が持たない。 でもだからと行ってずっと開放感に浸るわけにもいかない。 理不尽ではあるが、この平和の長さが一番怖いと感じる。 また何の前触れも無く悲劇が起これば皆パニックを起こす。 先導する者がいても、他の者が動揺すれば勝ち目は無い。 これは敵の作戦か? 「分からない。ただ単に自然現象なのかもしれないし、奴等の狙いなのかもしれない。」 軽く頭を振ったリュオイルは、心痛な面持ちでフェイルの顔を見た。 これまでの経緯を詳しく聞いていたフェイルは複雑そうだ。 自分が捕らわれている間にそんなことがあったなんて。 ましてやシギまで、そんな酷い事に・・・。 「フェイル・・・。」 自分を責めているように肩を落として暗く沈んでいる彼女に、リュオイルは心配そうな声で声をかけた。 その肩に優しく手を置くと、一瞬震えて驚いて彼女はこちらを振り向く。 君のせいじゃない。 リュオイルの瞳はそう語っていた。 「でも・・・。」 それでも自分が関係していたことには変わり無い。 己の未熟さのせいで、仲間がこんなにも傷ついている。 助けたくても助ける事が出来ない。 「もっと力があれば。」と痛切に願う。 けれどもただ力を望んでも、結局は何も守る事が出来ないのをフェイルは知っている。 力だけではどうにも出来ないと言うことを、知っている。 それでも願い求めるのは人間の性だ。 「フェイル。僕も皆も君を責めたりしない。 だって君は本当に何も悪く無いんだよ? どこか間違いがあったり、何か悪い事をしたら誰でも非難する。でも誰も君を責めない。」 「・・・・。」 「分かるだろう?誰も君のせいだなんて思って無い。 フェイルはフェイルらしく堂々としていればいいんだよ?」 「でも・・・・。」 「言っておくけど、別にフェイルに同情して慰めてるわけじゃないよ? 僕はあくまで本当の事を言ってるんだ。 もしも君の事を悪く言う奴がいたら僕に言って。そいつをこてんぱんにのめしてやるから。」 元気付けるように強く言う言葉には何故か迫力がある。 それは本気で言っているのか分からないが、その気遣いがとても嬉しい。 気がつけば見知らぬ場所にいて、気がつけばこんなにも被害が拡大していた。 正直言って心細かった。 皆疲れ切っていて、全く生気が無い。 元気そうに見えるリュオイルもシリウスもアスティアも・・・皆どこか不安そうなのだ。 これから始まる戦。 どんな終わり方をするのか、どちらが勝利するかも分からない状況なのだから仕方が無いと言えば仕方が無い。 死は、怖く無いと思う。 でもこんな事を彼に言えば、彼はそれはもう怒るだろう。 血相を抱えて、挙句の果てにはこちらが頷くまで説教をするだろう。 経験しているので出来ればそれは取り下げてもらいたいものだ。 死は怖く無い。 そう思い始めたのは少し前だ。 まだ子供子供としていた頃、あの悲劇の後から自分は何処と無く変わったんじゃないかと思う。 大切な人が死んだ時に誓った。 《 誰かを助けるためならば、命を捨てても構わない。 》 それはあの頃も今も変わらない決心。 大好きな人が死んでどうしようもなくなった時、もうこんな思いはしたくないって思った。 今改めて考えて見ると、とても幼稚で単純な考え方だったのかも知らない。 でもそれを直す事は出来ない。 私の意志は、これ以上揺れ動く事は無い。 絶対に・・・・。 「フェイル様、リュオイル様。」 美しくやわらかな声が2人の耳に届いた。 女性らしい透き通る高い声は、こんなに離れていてもすぐ耳に届く。 瞬時にそれが誰かと悟ったリュオイルは、不思議そうな顔をして後ろを振り向いた。 それとは対照的にフェイルは違う意味で不思議そうな顔をしている。 まぁそれも当然だろう。 まだフェイルはその女性と話をした事がないのだから。 「ヘラ神?」 不審そうに声を出したのはリュオイルだった。 ずっと大窓の前で話をしていたので、ヘラ神は陰になってよく見えない。 それでも彼女だと分かったのはその特徴ある美しき声だ。 まるで全てを魅了するように、聖母のような暖かな声は何度聞いても聞き飽きる事は無い。 「どうかなされたのですか?」 「はい。貴方達を集めて大天使シギの元へ連れてくるよう、ゼウス神からの命がありました。」 少し重そうな衣装をズルズルと引きずって、彼女は2人の前に立った。 その瞬間フェイルと目が合い、ヘラは何を思ったのかにっこりと笑った。 驚いて一瞬遅れたものの、反射的にフェイルもにっこり笑う。 ある意味似たもの同士のこの2人は、案外仲良く出来そうなきがする。と思うリュオイルだった。 「シギの元に、またどうして・・・。」 こんな忙しい時期に仲間を集めてどうしてそんなところに。 皆で見舞うつもりなのだろうか、と首を傾げるリュオイルに、ヘラは薄く微笑した。 「・・・・お目覚めの時期のようです。」 「っ!!!」 自分でも驚くほど動揺したんじゃ無いかと思う。 彼が目覚める、と言う事は・・・・。 「シギ君、目を覚ますの?」 フェイルに全てを話すつもりなのか、ゼウス神は。 それがどれだけこの子に負担をかけるのか分かっているのか? 今まだ、不安定な状態なのに。 それだけ時間が無い。そう言っているのか、彼は。 「・・・まだ、早いんじゃないんですか?」 シギが目を覚ますことは嬉しい。 それはこの天界では彼が生き返る、と意味する。 2度と目を覚ます事が無い。と断定されてもおかしくなかった。 「申し訳ありません。時間があまりない様なので。」 本当に申し訳なさそうに頭を下げるヘラに、リュオイルは慌てた。 こんな姿をゼウス神に見られでもしたら十中八九殺される。 彼は誰に対しても大体冷たい態度を取るが、ヘラ神には暖かな微笑を浮べる。 イスカ辺りから前に聞いた事があるが、2人は恋仲らしい。 自分にとってはそんなに気にする事も無いし関係無いが、今は顔を上げてくれないと非常に困る。 「あ、あの・・・顔を上げてくださいヘラ神。僕がゼウス神に殺されます。」 「・・・・?ゼウス神はお優しいお方ですけど?」 「それは、・・・・・貴女だけですからこっちを巻き込まないでください。」 頼みますから巻き込まないで下さい。 「それはそうと、他の方々が既に大天使シギの元へ行っております。 ここからは近いので時間は掛かりません。もう少ししてから行かれますか?」 ここからシギのいる部屋まではそう時間は掛からない。 歩いて行っても2〜3分の所だ。 そこまで急いでいるわけでは無いので、心の準備とやらがあるのなら今落ち着いた方がいいだろう。 もしも時間が掛かれば、自分の持っている移転魔法でその場所まで飛べばいいだけ。 2人に無理をしてそこまで急かす理由はヘラにはない。 それにまだ彼女とも挨拶をしていない。 時々見かける事はあっても、忙しくてそれどころではなかったのだ。 「初めましてと言うべきなのでしょうか。フェイル様、私はヘラと申します。」 「は、はじめまして・・・フェイルです。」 綺麗に笑うヘラに対し、フェイルはどこかぎこちない。 まぁ無理はないと思うがフェイルにしては珍しい。 いつもニコニコしていて、誰とでも仲良く接するのが彼女の性分だったのだから。 そういえば、天界に来てからフェイルの様子が少し変だと感じた。 どこかよそよそしくて、じっとしていない。 ボンヤリしているかと思えば急にオロオロとしている。 最近は僕かシリウスが常に傍にいて話し相手になっていたから感じられなかったが、最初の時はそうだった。 「どうしようか・・・。もう少ししてから行く?」 答えが分かっていながらも一応確認を取る。 サァァァ、と太陽が雲に隠れる。 少し大きめの雲は、すっぽりと太陽を隠す。 そのせいで、この大窓に差し込んでいた光が完全に遮られた。 まだ昼間なので明るいが、久々に太陽の日差しを感じなくなったと思う。 そっちの方に目が行ってしまったので、答えを出した時のフェイルの顔を見る事は出来なかった。 「行こう。」 ―――――ガチャリ。 大きな扉の開く、無機質な音が薄暗い部屋に恐ろしく響いた。 その中央には死んだ様に寝かされる青年の姿。 その傍らには、見事な衣装で着飾っているゼウスと、ミカエルやシリウス達の姿があった。 「お待たせして申し訳ございません。」 軽く頭を下げたヘラは、ゆったりとした足取りでゼウスの元に歩み寄った。 彼もそれが当然のように小さく頷く。 その後にリュオイルとフェイルが続いた。 いつもは常に閉めてあったカーテンが開かれている。 誰かが見舞いに来ないと決して開かなかったそれが、何故か今は開かれていた。 そのおかげでシギの様子も分かりやすい。 浅く息をしているだけで、ピクリとも動かない。 これまで何度か見舞いに来ていたフェイルだったが、彼がこんな姿になった事は今でも信じられなかった。 覚えているのは、元気な姿で笑っていたところ。 記憶にあるのは、いつも皆の心配をしてそれでもパーティーをまとめ上げていた彼の姿。 懐かしいのは、他でも無いシギの明るい声。 そして不安が募る。 また失うのではないかと。 また後悔するんじゃないかと。 「皆をここへ集めたのは他でもない。」 威厳のある、低い声がゼウスの口から発せられた。 右手で持っている大きな杖は、それはもう見事に飾られていた。 だがただの装飾品では無い事ぐらいすぐに分かる。 その杖から嫌ってほど放たれている神気は、隠そうにも隠しきれない。 金と白で統一されたそれは、シャン、と音を立てて床についた。 「この天界全域に渡り、非常に危険な状態になっている。それは言わずともお前達も分かるな。」 抑揚のきいた声で彼は歌うようにそう言った。 目線を向けたのは人間であるリュオイル達に、だ。 目戦だけ向けられた彼等は最初その勇ましさに息を呑んだが、慌ててリュオイルが首を縦に振る。 「愚かな種族、魔族が我々の領土を脅かそうと、そしてこの天界を破壊しようと企んでいる。 それは遥か昔にあった戦争と同じ経路だとも考えられる。」 忌々しげに、何かを思いだすようにゼウスは話を続けた。 その瞬間、ミカエルはほんの少しだけだが顔色を曇らせる。 「頭は堕天使ルシフェル。仮にも元天使のくせに、今はもう見る影が無い。 今回の戦争も、遥か昔の戦争も皆あやつの仕業。 天界の主とする私は、この不祥事を見過ごす事など出来ない。ましてや今は天界が危機に陥っているのだ。」 偉そうにふんぞり返った様子は見えないが、どうも語尾が気に食わない。 言っている事は正当であり、正すところなど何もないがそれでも何か気に入らない。 全てを見透かしたその瞳が嫌なのか、はたまた彼自身の存在が嫌なのか。 詳しい事は自分でも分からないが、リュオイルは顔をしかめて彼の話を聞くしかなかった。 ここで反発しても何も変わらないと、痛いくらい理解しているからだ。 「我々はこれまでに多くの同胞達を亡くした。 それはあまりに痛ましき事であり、同時に彼等魔族を許すことなど出来やしない。」 まるで小論文を片手に演説する人物のように見えるのは気のせいだろうか。 皆を共感させるように、わざとあんな言い方をしているように見えて仕方がない。 確かに彼には実力もあり言葉にも説得力がある。 けれども、それは聞いている側だとかなり辛い。 失敗は許されない。望み叶える事は『成功』という2文字だけ。 それ以外は、彼は何も望まない。受け付けない。 「今は少しでも戦力が欲しい。 小さき力でも、時と場合によればそれは予想していなかった出来事を起こすかもしれない。」 「・・・・それで、シギを復活させるつもりなのですか?」 感情を押し殺してリュオイルは彼を凝視しながら呟いた。 決して大きな声では無いが、この部屋には十分に響き渡る。 皆同じ気持ちなのか、ばらばらではあるが深く頷いた。 それまでの経緯をそこまで詳しく知らされていないフェイルも、シギの顔色を伺ってから小さく頷く。 シギが目を覚ますことは大変喜ばしい事なのだが、それでは彼には再度辛い目にあわなければならない。 このまま永遠の眠りにつき、戦争と言う惨劇を知らないままにすべきか。 それとも、生を選び共に苦難を歩むか。 シギなら後者を選ぶだろう。 優しい彼のことだから、仲間を見捨てて眠りにつく事なんか望んでいないはずだ。 でも・・・・・・。 でも、心の奥底に どこかで「目覚めさせない方がいいんじゃないのか?」と思ってしまっている自分がいるのも確か。 確かに会いたい。 確かにまた言葉を交わしたい。 だがそれで彼は幸せになるのだろうか。 このまま永遠の眠りにつく事も、ある意味幸せだと言える。 かけがえのない、大切な仲間だからこそ、そう思う。 「無論だ。 これの力をこれからも発揮させていかねばならない。これは確かな力を持っている。」 使える力を今使わないでいつ使う? ここで躊躇すれば、我々に残るものは『死』だけだ。 「今ここで我々が死ぬわけにはいかない。 ・・・いや、誰も死など望んでいないだろう。それはお前達とて同じ事だ。」 「確かに一理あるわ。私だって無駄死にはしたくないもの。」 帰る場所がある。 死なせたくない者がいる。 守るものがあるからこそ、だからこそそう簡単に死ぬわけにはいかない。 「ならば異存は無いな。」 「で、でも、どうやったらシギ君助かるんですか?」 今まで控えめにいたフェイルが初めて口を開いた。 それにはゼウスも少し驚いた様で目を瞠っている。 彼女の声が響く途端、皆の顔がそちらに集まった。 そのせいでフェイルは居心地が悪そうに少し顔をしかめた。 まぁこんな緊張感が高まった部屋で皆の注目を集めれば誰でも戸惑うだろう。 フェイルの声に驚いたものの、ゼウスは薄く微笑するとそのまま彼女の所にまで歩いてきた。 シャン、と杖の飾りが音を鳴らす。 心地良い音は、この緊張した空気を一瞬だけ和らげた。 「そう。確かにこれを助ける方法は無い。 だがそれは今までの事であって、その問題は今まさに解決した。」 「解決、ですか?」 それなりに長身の彼を見上げる形でフェイルは上を仰いだ。 彼の髪は自分の髪の色と全く同じと言っていい。 ただ目が違う。 流石天空を主帝とする神。 その深き青は、何処までも続く空の色だった。 深すぎて、そして全てを見透かしたようなその青にフェイルは恐怖を抱く。 綺麗で真っ直ぐな瞳なのに、でも怖い。 どこかでそれを拒んでいる。 ・・・・何故? 「他の奴等に聞いていないかフェイル。」 「ご、ごめんなさい。まだそこまで詳しくは聞けてないんです。」 その事を話す前にヘラが来てしまって今に至る。 それまでの間の数日は話す期間は十分にあったが、誰1人話そうとしていなかった。 フェイルの方も、必要以上に聞きはしなかったもののやはり気になる。 意識を失っていた時間は本当に何も知らない。 今は少しでも情報が欲しいのだ。 けれど、その後にフェイルは後悔する。 「単刀直入に言う。こいつを目覚めさせる事が出来るのはフェイル、お前だけだ。」 厳かなゼウスの声が不気味なほどこの広い部屋に響き渡った。 天候も気候も申し分無い。 実に快適なこの空間で、底知れぬ冷たさをフェイルは感じた。 心臓が冷える。 彼の言葉に、何故なのか脈打つ。 バクバクと鳴り響く心臓の音が煩い。 瞠目したまま瞬きする事が出来ない。 暖かい気候なはずなのに、自分の場所だけが酷く寒い。 今すぐ、ここから逃げ出したいくらい怖いんだ・・・・。 「・・・・・え?」 自分でも驚くほど素っ気無い、そして間抜けな声が出たと思う。 「何を言っているんだ?」と言わんばかりにゼウスを凝視している。 周りにいる仲間達も、皆真剣な顔をして両者を見つめていた。 けれどフェイルだけは話しが見えていない。 まるで自分だけ時が止まったかのように、石のように静止している。 顔色は決して良くない。いや、どんどん悪くなっている。 蒼白になっていく彼女の顔色に気付きながらも、ゼウスはそれについては何も言わなかった。 「もう一度言うフェイル。・・・・いや、真の名を『アブソリュート』」 「――――――っ!!!!!」 『アブソリュート』 聞きなれない単語にリュオイル達は顔を見合わせて首を傾げた。 だがそれと同時に、今まで微動だにしていなかったフェイルが大きな反応を見せる。 だがそれは良いものではなく、恐怖で顔が歪んでいると言って良いだろう。 驚愕の瞳で彼を凝視し、まるで誰かに殺されそうになっているような酷い顔だ。 自分の肩を両手でしっかりと抱きしめ、逃げるような形で後ろに引く。 そのただならぬ彼女の行動に、リュオイルは顔色を変えてフェイルの元に歩み寄る。 「フェイル・・・?」 「・・・・がう・・・・・。」 リュオイルが近づいて来た事さえも気付いていないのか、彼女はゼウスを凝視したまままた一歩下がった。 その後、ゆっくりとした動作で頭を項垂れた。 肩は震え、か細く何かを言葉にしている。 「・・・が、う。・・・ちが・・・・う。」 チガウチガウチガウチガウ。 そんな名前知らない。 そんな記憶は知らない。 違う、違う違う!!! 私はフェイルだ。 私は・・・・・・。 「・・・・わたしは、私は、フェイルだ。」 そうだ。 私はそんな名前じゃない。 アブソリュートなんて知らない。 そんな名前聞きたくない。 知りたくない。 「違わない。でなければお前をルシフェルが利用するわけがないのだ。」 「違う。」 「認めろアブソリュート。お前は数百年前に地上に降りた1つの神なのだ。」 「ワタシをその名前で呼ぶなっ!!!!!」 『アブソリュート』 その名にフェイルは異常なほど敏感に反応する。 怒気を含んだ声で怒鳴ったフェイルに驚いたのはゼウスではなく他の仲間達だ。 彼女があんなに荒れて大声を上げる事なんて滅多に無かった。 あんなに感情的になり、敵意を向けるような視線で睨む事なんて無い。 いつも穏やかで、敵に対してもどこか甘いのが彼女の特徴だった。 けれども、これまで大した会話もせず初対面と言って良い相手にこんなに感情が乱れている。 そんなフェイルの変化に、仲間達は戸惑いを隠し切れなかった。 「アブソリュート・・・。」 「やめろ、その名前で呼ぶなっ!!!!」 子供が駄々をこねるように、フェイルは何度も何度も頭を振って彼を拒絶した。 だがそんな事でゼウスが動じるわけでもなく、一歩一歩下がるフェイルに彼もまた一歩一歩近づいた。 いやだ。 思いだしたくない。 《何を思いだすの?》 知らない。 でも嫌だ。 彼の傍にいると怖い。 恐怖で足がすくんでしまう。 《何が怖いの?》 分からない。 でも知りたくない。 知らないままでいたい。 《違う。ただ逃げてるだけじゃない。》 違う。 私は、最初から何も知らない。 私はアブソリュートなんかじゃない。 私は『フェイル=アーテイト』だ。