■天と地の狭間の英雄■        【一時帰国】〜壊滅した故郷〜 凄まじい爆発音が響く。 荒れ狂ったように風が空を駆け巡る。 見下ろせばそれは真っ赤な世界で、 それが少し前まで大陸だったと言う事を、忘れさせるほどの悲惨さだった。 大陸が、海が、燃えている。 真っ赤に、血のように、炎が1つの大陸を呑んだ。 凄まじい爆発音と風が天界を木霊し、皆一斉に地に伏せる。 ゴゥゴゥと、中々止まない風。 決死の覚悟で地を見下ろせば、それは既に「地上界」と呼べるものではなかった。 「ミラ・・・・ミラッ!!!!」 その一部始終を見ていたシリウスは狂乱したように、一人の名を叫び続けていた。 いつもの冷静さは消え失せ、狼狽したように混乱している。 顔色を青くしても、彼は泣いていなかった。否、泣けない。 そんな痛々しい表情をしている彼を見たシギは、知らず知らずの内に下唇を噛んでいた。 「すぐさま地上に雨を降らさせよ。」 「は、はい。」 その光景を唖然と見ていたミカエルは、まるでバネがあるかのようにビクッとして踵を返した。 彼が急いで雨の神に報告を入れるため出ていったのを見たシギは、 床に膝をつき目を見開いていたシリウスの様子を気配だけで伺った。 片方の手で顔を覆い、片方の手で魔境を押さえている。 まだ魔境は地上を映している。 真っ赤に染まった、ダンフィーズ大陸を。 「あの力が落ちた地点は、恐らくリビルソルトだな。」 素っ気無く語りだしたゼウスに、アレストはフツフツと怒りが込み上げてきたのを感じた。 確かに天界と地上界は何の関係もないが、あまりにも無責任な言葉だ。 殴りたい衝動をギリギリで抑え、アレストはギッとゼウスを睨み上げた。 だがそれに気付いているのかいないのか、ゼウスは全く知らない顔をして魔境を見ている。 冷たい顔をしているが、少しだけ焦ったような、微妙な色を出していた事にアレストは気付かない。 少しは慣れた所でヘラは真っ青になって顔を手で覆っていた。 泣いているのか、それは分からないが悲しんでいる事には間違いない。 「・・・シリウス。」 ぽつり、とリュオイルの声が彼の名を呼んだ。 その声色は悲しげで、そして幾分か小さい。 沈んだ声に反応するように彼は恐る恐る顔を上げる。 だがその表情は冷え切っていて、今シリウスが何を思っているのかが全く分からなかった。 アメジストの瞳は光を失い、弱った目で未だ魔境を見ている。 感情が見えるなら、まだ良い。 だが今のシリウスには何の表情も無くて、怒っているのか、泣いているのか、憎んでいるのか。 それすらも分からない。 自我を失った人形のようで、冷酷に微笑されるよりもずっと恐ろしかった。 顔を上げても相変わらず目線は魔境で、赤に染まった自分の故郷を呆然と見下ろしている。 途中、アスティアがここに入ってきた事にリュオイルは気付いた。 あれだけの騒ぎがあったのだから彼女がここに来るのも分かる。 それに確かアスティアは外の、地上が見下ろせる堤防にいたはずだった。 「・・・・ミラ。」 狂乱した後、初めて口にした言葉。 それは彼の大事な妹の名。 本当に大切で大切で、リュオイルが「シスコン」と言うほど大事にしていた「ミラ」という名の少女。 以前魔族の襲撃に遭い、両目の光を失ってしまった少女。 覚えている。 あの子は倒れたフェイルを治す為に薬草を一生懸命に煎じてくれた。 あの子は大切な兄を、帰ってくると信じて笑って見送っていた。 あの子は、いつか目が治ると信じてフェイルとたくさん景色を見ようと約束した。 小さな可能性を信じて、強く生きていた。 「もう無駄だ。リビルソルトに落下されたあの力の範囲は、お前の村までも覆い尽くしている。」 「ゼウス神、それではあまりにも・・・・。」 非難の声を出したのは意外にもヘラだった。 初めて顔を上げたヘラの顔は涙で濡れており、少し目も赤くなっていた。 哀れむような目でシリウスを見たヘラは、彼の後姿しか見れなかったが何となく彼の心境を掴んでいた。 ヘラは特に人間を愛する神なので、この一件で多くの人間が死んだ事に胸を痛めていた。 もうじき誕生神ルキナの元に多くの魂が集まるだろう。 それが、今回魔族に殺された人々の魂なのだ。 全てを浄化し、そしてまた新たな人間を生み出すのには時間が掛かる。 しかも今は祭壇が破壊されたままなので、更に時間は多く必要とされるのだ。 ――――――サァァァァアアアアアア・・・。 「・・・・雨。」 リュオイルが呟いた。 シトシトと、でも冷たい雨が地上に降っていく。 まるで誰かが泣いているようで、あまりにも冷たすぎる雨は地上の赤を鎮めるために悲しく落ちていく。 「ゼウス神。」 意を決したような、でも抑揚の欠けたシギの声がゼウスの名を呼ぶ。 彼の声にはゼウスはゆっくり振り向いた。 蒼の瞳は一体何を映しているのか分からない。 戸惑い、恐れ、怒り? いや、きっとどれでもない。 きっと、彼自身も分かっていないのだろう。 複雑な顔をしたゼウスは、あまりに真剣な彼の声に少し驚いていた。 「彼等地上人を、一時地上界へ帰国させて頂きたい。」 「・・・・何ゆえに、そのような事を言う。シギ。」 訳の分からない要望にゼウスは不思議そうに彼を見返した。 けれどシギの態度は全く変わらず、それどころか鋭い目で彼を視抜いていた。 確かに彼の疑念も分かる。 これは魔族の宣戦布告の意味であろうに今更ここで彼等人間を一時帰国させた所で何も変わらない。 たとえ弱小の身なれど、今は戦う数が欲しい。 少しでも多くの兵を集め、これから起きる大戦争に備えなければならない。 今回は何故か知らぬが地上だったが、次に向かう矛先は天界。 あの禍々しい力を落とされれば、流石の天界でもひとたまりもないのが現状だ。 「さきほどの破壊力を貴方も直で見ていたはず。」 ならば分かるはずだ。 ダンフィーズ大陸はほぼ壊滅し、半分以上は原型を留めていない。 リビルソルトは消え失せ、その他の町村も既に廃墟と化した。 それでも、まだどこかに生き残っている者もいるはず。 それが誰なのか、何人なのかは全く分からないが、確かめなければならない。 それに・・・ 「今回の事件で地盤が緩んでいる恐れがあります。  ・・・彼等は、我々と違い「家族」がいます。帰る場所があり、そして待っている者もいる。」 地盤が緩んだせいで津波の被害が出ていないとは言い切れない。 この大爆発で世界が混乱に包まれたのは目に見えている。 空から何の予告もなく攻撃され、何万もの命が一瞬で奪われた。 「次は自分達が殺されるかもしれない」 そう言った恐怖の念が強く人間達に取り巻く可能性はかなり高い。 人々は協定を結び、殺された者達のためにまた立ち上がるだろう。 かの英雄達がそうであったように。 「これからの戦で、地上界が巻き込まれない確立は0に等しいです。  もしかすれば彼等の血族が・・・いや、地上人全て滅びる可能性があります。」 こんな事に巻き込んだのは他でもない神族。 ならばせめて、縁起でもないが最後の別れくらいさせてやってほしい。 これ以上シリウスのようになって欲しくない。 それに、もしかしたら彼の妹はまだ生きているかもしれない。 「だが魔族がここに攻めて来ないとは言い切れないぞ。」 「その辺りは大丈夫だと思われます。  あの力は、恐らく試行魔法。何度も使えるものではありません。」 あれは確かソピアだったような気がする。 いつもラクトの傍にいて、魔族にしては朗らかで大人しい子供だった。 桃色の長い髪を持ち、無邪気に笑う姿は本当に幼くて、 その背にある黒い羽根さえ無ければ、と思っていた事もあった。 ラクトの支えとなっている事は、少し前から感ずいていて少なからず感謝していた。 出来る事ならこれからも、あの少年を支えて欲しいと。 不謹慎だが、彼の事を良く知っているのでどんな戦況でもラクトが出てくれば躊躇ってしまう。 同族を殺すこと。 友人だと思っていたのだから、尚更抵抗がある。 けれど、彼を支えていたはずのあの少女が、この事件を起こした犯人。 十中八九ルシフェルの命なのだろうが、あの小さな少女にあれだけの力を宿していたのは考えられなかった。 これ以上彼女を野放しにはしておけない。 ゼウス神は躊躇いも無くあの無邪気な子供を殺すだろう。 そしてその役目は、俺達となる。 「・・・・。」 「貴方にも、守りたい者が、大切な者がいるのなら分かっていただきたい。」 傍らにいたヘラもシギと同じ意見なのか、心配そうな顔をしながら交互を見ていた。 ゼウスの右手を握り、小さく頷く。 それはヘラの必死のお願い、という事にはゼウス以外誰も気付かない。 「・・・・よかろう。ただし、3日間だ。それ以上は許さん。」 滅多にないヘラの願いとなれば拒否するわけにもいかない。 仕方がない。といった感じで溜息を吐くゼウス。 彼の返答に満足そうに微笑んだヘラに、悪い気はしなかった。 「あ、ありがとうございます。」 まさかすぐに返事が返ってくると思わなかったシギは、一瞬間が空いたものの少しだけ頬を緩めて微笑んだ。 軽く礼をして、一旦皆を集めるためにシギは仲間達を誘導し始めた。 取りあえずここを離れないと何も始まらないし、ゼウス神もこれから何らかの動きを見せるはずだ。 と言うことはここに長居は無用。。 与えられた期日の中で皆を地上に一旦連れて行かなければ。 「シリウス君・・・。」 偶然にもアスティアもいたのですぐに地上に送る事が出来る。 荷物を持ってこさせるために部屋に一度戻るように、とアレストとアスティアに言ったシギは、 未だ部屋の中にいる少女の声を聞いた。 幾分沈んでいて、そして消え入りそうなほど小さな声。 その声にアレストが不安そうにしていたが、 シギに「先に行ってろ。」と言われ渋々とだがアスティアとその場を立ち去った。 「シリウス君、行こう?」 「・・・・・。」 「ここにいても、何にもならないよ。」 「・・・・・。」 「・・・・早く戻って、ミラちゃんやカイリアの皆を助けに、行こう?」 「もう、手遅れだ。」 「え・・・?」 何度呼びかけても反応の無かったシリウスだったが、ついに言葉を発した。 だがその口から出てきた言葉はあまりに素っ気無くて、そして絶望に満ちている。 輝きを失った瞳が床を見下ろし、フェイルの顔を見ようとしない。 強く握っていたせいか彼の拳は血で染まっている。 それに気付いたフェイルは、慌ててその拳を彼女の手で優しく包む。 血で汚れたって構わない。 今は、彼の方が心配だから。 「・・・そんなの、分からないよ?」 「カイリアはリビルソルトに近い。  あの一撃を、たとえ直撃でなくても、考えられないほどの被害は出ている。」 生きているはずはない。 もう、妹は死んだんだ。 ミラを救うことも、 ましてやカイリアの村人を救うことも出来ない。 ダンフィーズ大陸は、壊滅した。 手遅れだ。 魔境にあの時映ったミラの笑顔が鮮明に思い出される。 あぁ、いつの間にこんなに笑うようになってたんだ。 知らない間に成長して、あんなに大きくなっていた。 もっと笑っていて欲しかった。 もっと傍にいたかった。 出来る事なら最後に、会いたかった。 ――――ーダンッ!!! 扉を殴るような音に、その場にいた全員がその音の方向に目をやった。 そこにいたのは入り口の扉に拳を叩き付けているリュオイルの姿で、髪の色と対照的な青の瞳は怒りに震えていた。 歯を食いしばり、殺気のように鋭い視線をシリウスに投げつける。 「・・・に、・・ってんだよ・・・・。」 「リュ、リュオ君?」 思いのほか低い声のリュオイルに、フェイルは驚いた顔をして彼を凝視していた。 すぐ近くにいたシギが落ち着け、と言わんばかりに彼の肩に手を置く。 だがリュオイルはその手を振り払い、ズカズカとシリウスの傍にやってきた。 いつも落ち着いた動作で歩いているのに、今は人が変わったかのように荒々しい。 ザッ、とシリウスの前まで来ると、鋭い瞳をまるで刺すかのように彼を見下ろした。 「リュオ、君?」 こんな彼はあの時以来見た事がない。 ロマリ村でのあの事件以来、見た事がない。 でもあの時は完全に「リュオイル」という人格が失われていていた。 今は彼らしくない言動があるものの、リュオイル、だと分かる。 けれど怒りに染まったその瞳が怖くて、フェイルはただ呆然と見る事しか出来なかった。 「・・・どうした。お前らしくもない。」 「それはお前もだろ。」 互いの瞳がぶつかり合う。 いつもならここでリュオイルが何か言い返すところだが、驚くほど彼は冷静だ。 さっき扉を殴った人物とは到底思えない。 怒りに身を染めながらもどこか冷静な姿はこちらを困惑させる。 掴み所のない雰囲気に、ただ首を傾げるしかなかった。 「何してるんだよ・・・。こんな所で、お前は見てるだけでいいのか!?」 静かだった彼が急に苛立っている。 今にも掴みかかりそうな勢いで彼は怒号を上げた。 だがそんな事で動揺するシリウスではなく、怒鳴った彼の目をしっかりと見返した。 けれどやっぱりその瞳は虚ろで、生きる希望も何もかもを捨てているように見える。 それが余計にリュオイルを苛立たせることなど、彼は知らない。 一方、取り残されたような形となったシギと神達はその光景をただ見守る事しか出来なかった。 いや、ただ1人ゼウスは何の興味も示していない。 ただぼんやりと、つまらなさそうに見下ろしている。 その傍らにいるヘラは心配そうに彼等を見ているので、傍から見れば何とも噛み合わない組み合わせだ。 そんなどうでもいい感想を胸に秘めていたシギは、すぐに彼等に目線をやる。 2人の間にフェイルがオロオロしながらいるが、まだフェイルがいるだけで被害が少ないのだろう。 あそこから彼女を避難させたいのはやまやまなのだが、最後に彼等を止められるのはフェイルだけだ。 「神」だからじゃなくて、「フェイル」だからあの2人を止める事が出来る。 その事に、本人は気付いていないのだけれど・・・・・。 「地上界には、まだ生きている人がいるんだぞ!!  それにミラちゃんが死んだなんて誰がいつ言った!?」 「見なくても、分かるだろう。」 「違う!お前は目の前の光景にまだ混乱してて、上手く状況を呑み込めてないだけだ!!」 「俺は、冷静だ。」 「何言ってんだよ。静かなのが冷静だなんて言えないだろ?  お前の大切な家族だろ?大事な妹なんだろ?何でそれを、こんな所で諦めるんだよ!!!」 今にも泣きだしそうな表情のリュオイルは、無理矢理シリウスを立たせて彼の胸倉を掴んだ。 それに少し息苦しそうにした彼だったが、今のリュオイルにはそれにも気付く事が出来ない。 その間にいたフェイルは、リュオイルの動作に驚いて言葉を失っていた。 彼は、こんなに強かっただろうか。 彼は今シリウスに必要な言葉を素直にぶつけている。 自分では、何と言っていいか分からなかった。 フェイル自身もまだ冷静さを保っていない。 この事件があまりにも悲しくて、辛くて、自分の中にいるもう一人のフェイルが泣き叫んでいた。 胸が苦しい。涙が出そうになる。 だから他の人にまで目を配る事が出来なくて、どうすればいいか分からず、シリウスの手を握っていた。 「お、前に・・・何が分かるっ!!」 低く呻くようなシリウスの怒号が不気味にこの部屋に響いた。 胸倉を掴まれて少し苦しいのか声がくぐもっている。 そしてその声すらも、どこか怒りが感じられた。 「あぁ、お前の気持ちなんか分からないよ!分かるはずないんだっ!!  今お前がどうしたくて、今お前が何考えているか僕には何も分からない!!!」 分かるはずないだろ? だってお前の心はお前が良く知っている 他でもない、シリウス=バンクレイタ=デュオンが知っている。 僕はお前じゃない 僕は人の心を読む事なんて出来ない だからこんな事しか言えない 無責任だと言われたって構わない だって、だって僕には 僕にはこれくらいしか出来ないんだ 「だったら、口を挿むんじゃねえよ。」 「お前を放って置けるほど、僕はそこまで冷徹じゃない。  シリウスとは喧嘩ばっかりで、嫌なくらい揉めたけど・・・・でも、仲間だろ?」   これまで何度喧嘩したか。 数え切れないほどたくさん喧嘩した。 でも喧嘩って言うよりも、ただ僕がシリウスに突っかかっていただけなのかもしれない。 お前はいつもつまらなさそうににして僕の相手をしていた。 でもそれはくだらない痴話喧嘩の時だけで、本当に揉めた時はいつもお前は真剣でいてくれた。 多くの助言を、シリウスがしてくれた。 助けなんかいれたらお前の方が不利なのに、それでもお前はいつも最後に言葉をくれた。 それは仲間だと認められている気がして、嬉しい反面、何だか照れくさかった。 「僕は、お前を仲間だと思ってる。  お世辞にも相性が良いとは言えないけど、皆と同じ最高の仲間だと思ってる。」 そう言い終えるとリュオイルは彼の胸倉を離した。 少し伏せていた顔をゆっくり持ち上げる。 その表情はとても言葉では言い表せなくて、 泣きそうなのか、笑っているのか、怒っているのか。 でも不思議な事に不快感は感じられない。 「・・・まだ、ミラちゃんが死んだと決め付けるのは早いよ。」 す、と右手を差し出した。 それに一瞬目をやったシリウスだが、何の意味なのかまだいまいち分からない。 「行こう。皆が、ミラちゃんが待ってるんだろ?」 あんな事件があった後なのだから皆怯えているに違いない。 だったら早く地上に帰るべきだ。 一人ぼっちで泣いているかもしれない。 だったらすぐ駆けつけて、お前の声を聞かせてやれば良い。 もしかしたら怪我をしているのかもしれない。 そのためにお前は励ましながら治療に専念すれば良い。 「・・・・・・。」 「死んでいるとか、そんな暗い方向考えるなんてお前らしくないな。  「死んでいるかもしれない。」じゃなくて「絶対に生きている。」って考えろよ。」 確かにこの光景を見てしまった者は絶望を感じるだろう。 生きている。という微かな希望さえも掻き消されてしまう。 この地に住んでいた者なら誰でも崩れ落ちる。 けれど皮肉な事に僕の故郷にはさほど被害は出ていない。 言い方は悪いがそのおかげで僕は正気を保っていられた。 だからこそ、正気だからこそこうやってシリウスに言葉をぶつける事が出来る。 前に皆が僕にしてくれたように。 「・・・お前に、そんな言葉を言われるなんて夢にも思わなかったな。」 苦笑混じりの、いつもと変わらないシリウスの声が響いた。 その表情にはほんの少しだが笑顔が出ている。 アメジストの瞳にも光が戻った。 差し出された手を掴み、彼は勢い良く立ち上がった。 その光景を一部始終見ていたフェイルは、胸元を押さえて気付かれないようにホッと溜息を吐いた。 一時はどうなる事になるかと思っていたが、リュオイルのおかげでこの状況を抜ける事が出来た。 安堵しているのも束の間、苦笑したシギが自分達の傍までやって来た。 シリウスの肩をポンポン、と叩きリュオイルの頭に手を置きクシャクシャと頭を撫でる。 2人とも意外そうに、でも途中から嫌そうな顔をして「止めんか。」と言って彼の腕を振り払う。 それに更に笑いが出てきたシギは、「じゃ、行こうぜ。」と言って先に出ていったアレスト達の後を追った。 「何なんだあいつ・・・。」 「さぁ?ま、いつもの事だから気にしなくていいと思うけど。」 先ほどのシギの行動が理解できず、特にシリウスは怪訝そうな顔をして彼が出て行った方向を眺めていた。 それに苦笑していたのはリュオイルで、毎度ながらのシギの行動には慣れているのか大した変化はない。 ――――ガバァッ!!! 「わっ!!」 「!?」 急に後ろから誰かに抱きつかれた。 いや、『誰か』なんて言わなくても分かる。 今後ろにいるにはフェイルだけ。 「フェ、フェイル?」 驚いて後ろを振り返ったリュオイルは、フェイルの行動に驚いていた。 真後ろにいるため顔色を伺う事は出来ないが少し肩が震えている。 泣いているのだろうか。 でも、そんな理由は一つもない。 笑っているのだろうか、一体彼女はどうしてしまったのだろうか・・・。 「おい、大丈夫か?」 いささか心配そうなシリウスの声が出てきた。 反射的に彼女の頭を撫で、どうしたものかと少し首を傾げている。 その途端、フェイルは勢い良く顔をあげた。 笑っているけれど、どこか泣きだしそうな辛い顔。 それは見ているだけで痛々しかった。 でもフェイルは必死に笑おうとしていて、何かを伝えたくない気持ちがヒシヒシと伝わってくる。 きっとその原因は今誰も聞く事が出来ない。 問いただしても、決して彼女が口を開く事はないだろう。 こういった表情をする時いつも、彼女は何かを悩んでいる。 そして絶対に誰かに打ち明ける事はない。 打ち明ける時は・・・本当に答えが分からなくて、そして極限状態まで追い詰められた時だ。 「・・・平気、だよ。うん。帰ろう、皆の所に。ミラちゃんの所に。」 彼女は笑っているつもりだったのだろう。 けれど、痛そうで、そして辛そうな笑顔は彼等の心に1つの傷をつけた。 フェイルに対しての痛みじゃない。 自分の非力さに対する痛みだ。 確かに皆彼女にとって大切な仲間である。 でも、心の中を打ち明けれるほど彼女は彼等に対して心を開いていない。 開いているつもりでも無意識のうちにそれを拒んでいる。 皆に心配をかけさせたくない。 皆に辛い目にあってほしくない。 信頼しあえばしあうほどその心の強さは増していく。 それはリュオイルもシリウスも同じ。 けれど、人一倍自己を犠牲にしてまで仲間を助けようとするフェイルはいつも1人で悩んでいる。 手を差し出しても、それを彼女は躊躇って拒む。 悪意があるわけじゃない。 寧ろ善意があっての反応だ。 彼女は優しすぎるから、だからいつも・・・・。 「・・・・あぁ、帰ろう。」 ただ僕達は彼女が全て打ち明けるのを待つしかない。 無理強いをして、彼女が傷つく姿なんて見たくない。 もしそうしても、きっと彼女は泣き笑いに近い表情で必死に誤魔化そうとするだろうけれど。 「そうだね。帰ろう。皆が待ってる。」 反射的にリュオイルは右手を差し出した。 最初それを握ろうか迷っていたフェイルだったが、はにかんだように笑うとしっかり彼の右腕を握る。 躊躇された時少しだけ不安になったリュオイルだったが、いつもと同じフェイルの笑顔にホッとした。 どこか初々しい2人の様にシリウスは気付かれぬように苦笑した。 彼等がどこかよそよそしかったのも、どこか不安げだったのも全て知っている。 知っていないのは・・・自分の事となると鈍感になるこの2人のみだろう。 リュオイルの方はシリウスが一番良く知っているが、フェイルの方はまだ推定でしか予測する事が出来ない。 思い当たる節は幾つかあるものの、その数が多すぎて今度は話しにならないのだ。 フェイル個人の問題だろうし、首を突っ込むわけにはいかないが心配な事に変わりはない。 2人がこの部屋を出て行った後、シリウスはゆっくり後ろを振り返った。 そこにいたのは今まで静かにこれまでの場景を見ていた2人の神。 その両者とも顔色が伺えず、一体何を考えているかさっぱりだ。 ヘラは最高の女神、と呼ばれるだけあって表情は穏やかだがゼウスは違う。 その威厳ある態度。言わずとも知れている彼の力には圧倒される。 そして、今最も何を考えているか分からない食えない神。 「・・・シリウス。」 不意にヘラの声が部屋に響き渡った。 彼女から名前を呼ばれるとは思っていなかったシリウスは、少し驚いた様子で彼女を見返した。 「貴方が一番辛いのは百も承知です。・・・ですが、どうか彼女を助けてあげてください。」 「フェイルを?」 その言葉にシリウスは敏感に反応した。 訝しげに、そして不審気にヘラを一瞥する。 それが気に入らないのか、ゼウスはすっ、とヘラの前に出てきた。 「アブソリュートを・・・いいえ、フェイルと言う1人の人間を支えて欲しいのです。」 「そんな事分かっている。だが・・・。」 だが、 あの子が本当に心を開く人物は、シリウスと言う人間ではないだろう。 これからどう転がるか分からないが、何となくそれは理解しているつもりだ。 でも時々その勘の良さに寂しさを感じる。 今の状況だからこそ、そんな風に思うのだろうが。 「それでも、今の彼女は不安定です。  私達神は、神であっても万能ではありません。一人一人役割を与えられた者が天界に住む。  神であろうと、人であろうと、誰しも長所短所はあります。  私も・・・全て良い事ばかり出来るわけではありませんから。」 「・・・・・・。」 シリウスは何も答える事が出来なかった。 そのまま、振り返りもせずここを後にする。 シリウスの心境を察知したヘラはそれ以上追求もしないし、責めるような目で決して見なかった。 ―――ー分かっている。 《 私達神は、神であっても万能ではありません。》 ―――――分かっている、そんな事。 でも、俺達は神よりも何よりも非力だ。 人間は最も弱い存在。 傷つけば、あっという間に崩れる脆い存在。 でも同時に誰かを頼り、そして信頼する事が出来る強い存在。 だけど・・・。 「仲間であっても、たとえ家族であっても・・・。」 その人物の心を癒すことは出来ないんだと、痛切に理解した。