《 赤き鮮血に宿りし鬼面の魂よ 願わくば身罷れし彼の者達へ最後の灯火を 空の皇帝の義憤に楯突くべく、鋼の意志を我の前に示せ 》 「来たれ、我が血筋に絶えし古の従属よ。」 ■天と地の狭間の英雄■ 【現れたるは未来予想者】〜響いた心〜 雨が降る。 強い風が、土や埃でギシギシになった髪をなびかせる。 冷たい雨水で、怒りに震える戦者達の心を落ち着かせるように徐々に浸透していく。 その雨は、魔族の死体を中心に降り注ぐ。 それどころか、死体は雨が強くなると共にどんどん腐敗していった。 近くにいた天使達が奇声を発して飛びのく。 空気は重かった。 風は動いているのに、不気味なくらい穏やかな微風が吹く時もあった。 ただそれは場違いなだけで、それ以上それ以下でもない。 「これは・・・。」 ただ、状況が変わった。 こちらが優勢になっていたはずなのに、かなりの魔族を倒してきたはずなのに。 誰もが恐怖を覚える。 一度掴みかけた希望の光りが、またここから離れていく。 「まさか、アスタロト・・・!?」 こればかりは冷静でいられなくなったイスカは、いつになく大声で天に漂う大きな存在に瞠目した。 彼の声にハッとする他の天使達。 イスカが叫んだその名前に反応する者も多く、中には驚きと恐怖で声が出ない者もいた。 だが1人だけ現状に付いていけない者がいる。 「い、一体何だって言うの?」 弓を構えたままのアスティアが、珍しく動揺している。 天使達が口々に「アスタロト」と連呼しているのだが、実際の所彼女にはそれが何なのか全く分からない。 目の前に新手が出てきたことは分かっている。多分あれがアスタロトなんだろう。 けれど、天使達のこの動揺の仕方は尋常ではない。 いつも冷静に対処しているミカエルでさえも、驚きを隠せず呆然としているのだから。 「何をそんなに驚いているの? 先の戦争で戦っていた魔族がいて、そんなにびっくりしたのかしら。」 「先の戦争ですって・・?」 「かつての英雄が活躍した時代。・・・彼等の名前くらいわかるでしょ? 彼等にアスタロトは敗れた。勿論彼もその身を盾にして神族に大きな被害を与えたけれど。」 「そんなものがどうして・・・。倒されたんでしょう?どうしてそいつがあんたに召喚されるのよ。」 訳が分からない。 何故? 最初の疑問はこれだけだ。 けれど段々冷静になるにつれて、重大な事に気付いたんだ。 そんな遥か昔に滅んだ「アスタロト」が、生きかえるなんてありえない。 その姿は赤く、青く、黒く、そして白く。 分からない。あれが、アスタロトが一体何の色なのか。 まばらに輝くそれらは決して一つになろうとしない。 「違う、あれはアスタロトなんかじゃない。姿形はそうだけど、あの目は既に死んでいる・・。」 あの頃のアスタロトにしては生気がない。 ぼんやり突っ立っているような、ただ「存在」だけがそこにある。 「死んでないよ。ちゃんと生きてる。 ただ魂がないだけで、アスタロト自身はちゃんと生きているよ。」 ほら、と首を向けるとアスタロトはゆっくりソピアの方に振り向いた。 人間の形をしてはいるが、生きているとは到底思えない。 操り人形状態である彼は、何の表情も示さぬまま、ただぼんやりとしている。 彼の周りには幾つもの青い龍が漂っていて、まるで彼を守るかのような形で辺りを警戒している。 全身を黒で覆い、突き放すような刺々しさであるが、奇妙に感じることが1つある。 それは羽だ。彼の背にあるはずの漆黒の翼がどこにもない。 あるのは、白とも黒とも言い切れない、どちらかと言えば灰色に近い翼がそこにあった。 「ソピアの言う通りですよミカエル様。」 「お前は・・・っ!!」 痛む傷を押さえてイスカが主を庇うように立ちはだかる。 そこにいるのは、ルシフェルに絶対の忠誠を置くベルゼビュートだ。 いかにも悪役っぷりを披露してくれる顔つきだ。 「おや?そんなに驚く必要はないだろう。私は魔族なのだから。」 「ゴキブリ並にしぶといわねあんたも。」 「それは光栄。褒め言葉として受け取っておこうか。」 アスティアの華麗な毒舌に怯む様子もなく、貼り付けたような笑みは口の先端だけ上がる。 「・・・部下の貴方達だけ出てきていながら、ルシフェルは不在ですか。」 「畏れ多いことを。 あの方は着実に、的確に事を進めておられる。貴様等のような無様で無知な争いなどしない。」 主をけなされた事が癪に障ったのか、端整な顔を歪めた。 けれど相変わらず口元だけは微笑を浮かべており、はっきり言って不気味だ。 クシャ、と髪を掻き揚げ、何が楽しいのかクツクツと笑いだす。 ラクトはあまり彼と免疫がないのか、どう反応していいか分からず困惑している。 だがそれとは対照的にソピアは冷静だ。いや、無関心なのかもしれない。 話よりも、彼女が呼び起こしたアスタロトに集中している。 あれだけふんぞり返って言っていた割には、今は表情が優れない。 拳を強く握り締めて、真一文字に唇を噛んで、小さな肩を震わせていた。 (・・・どうして・・・。) アスタロト自身は完璧に呼び出した。 地の果てから、地獄の底から。 もう一度戦えと。再度、忌まわしきあの神を滅ぼそうと。 なのに・・・ 「貴様等を相手にするなんぞ、我等だけで十分。あの方の手を煩わせる必要なんて皆無だ。」 「大きな口叩いていると、貴方自身に跳ね返りますよ。己の力に過信するものは必ず自分に返ってきます。」 こちらの言い合いはまだ終わってはいなかった。 黙っていれば数時間、下手をすれば一日中「主崇拝」の論をだらだらと語られるかもしれない。 そんな事は死んでもお断りだが、ベルゼビュートは馬鹿ではない。寧ろ賢いと言うべきであろうか。 魔界の策士者であるジャスティを、場合によっては遥かに上回るのかもしれない。 それを考えれば、ベルゼビュートはとても危険な人物だ。 「・・・まぁいい。どうせ貴様等はここで死ぬ運命なのだから。」 フッと、今まで浮かべていた冷笑を無表情に変えたベルゼビュートは己の武器を構えた。 ロマイラと同じ、けれど全く違う鎌を扱う様はまさに死神。 冷徹な心と容赦の無い攻撃。 冷め切った彼の一撃には、1つ1つ重みが感じられる。 一度剣を交えた事があるミカエルにはそれが十分分かっていた。 「・・・ソピア、何をしている。それにラクトも構えろ。」 「え、あっ・・・。」 急に話を振られたラクトは曖昧な返事しかしない。 だがそれを気にしなかったのか、ラクトを一瞥して何の返事もないソピアに目を向けた。 全く話を聞いていなかったようで、全く別の方向、アスタロトの方を向いている。 「ソピア、今更何を妬んでいる。お前に彼奴を超えることは、不可能だ。」 握り締めていた掌から、赤い鮮血が零れ落ちる。 ベルゼビュートの言葉が気に入らない。 魂を練成できない自分が気に入らない。 それなのにあの神が練成する事が出来るのがとてつもなく、気に入らない。 何故だ何故だと、心の中で連呼する。 理由は分かっていた。所詮魔族と神。 魔王ほどでなければ、完全にあれを継承する事は不可能だ。 分かっていた。 分かりたくなかった。 許せなかった。 許すことが出来ない。 悔しかった。 妬ましかった。 今も昔もこれからも、ずっとずっとずっと。 (どうして。) 涙が溢れそう。 どうして、と誰に言うわけでもなく、ただ唇を噛み締めて項垂れる。 涙が出ればどんなに楽か。 悲しみを打ち明ければどんなに心救われるか。 (どうして・・・。) ああ、どうして。 どうして、アブソリュートだけがあんなに幸福なのだろうか。 どうして彼女だけが選ばれたのだろうか。 どうして彼女が、アブソリュートなのだろうか。 「・・・貴方達が何を考えているかは知りませんが、ソピア、貴女ではフェイルさんを超える事は出来ません。」 「何を―――――!!」 「彼女は、完璧ではありません。 貴方達が言うように、フェイルさんの考えはまだ未熟で、そして赤子のようです。 けれど、でもだからこそ彼女にしか出来ない思いがある。」 彼女の優しさは決して偽りではない。 誰かを慈しむ事を当たり前に化している。 土や血で汚れた私達の手を、彼女は躊躇いなく笑って掴んでくれる。 自身の事ではないのに、泣いてくれた。 皆が好きだと、そう言ってくれた。 「完璧ではない。彼女もそれを望まない。そして私達も、フェイルさんにそれを求めてはいません。」 「・・・ふざけないでよ。完璧じゃないと、世界は狂う。 誰かが柱を支えて、そして誰かを従わせないと成り立たない。」 どの世界でも、どの種族でも、かならず上に立つ者がいる。 そうしないと協調性がなくなる。だから長は必要とされるのだ。 勿論それは人によるが、力のない長は時経たずしてすぐに下ろされる。 優秀な部下がいても上が成り立っていなければ国が滅びるのは目に見えている。 「ソピア。人も神族も魔族も、そして神でさえも、完璧になんてなれないんです。」 「そんなことないっ。力さえあれば、全ては思いのままになる!!!」 「力だけでは民を動かすことは出来ません。 彼等が必要としているのは、力よりも金よりも名誉よりも権力よりも、心なんです。」 今私達が欲しいのは、まさにそれだ。 ずっと願っていた。ずっと欲しかった。 自身を認める何かが欲しかったのかもしれない。 それなのに、あの方はこうも簡単に私達の心を奪っていく。 それが心地良い。そう感じるのに時間はかからなかった。 ただあの方の傍にいたいと、これからもずっと、仕えていきたいと。 でも、夢に近いそんな願いは叶うはずないんですけどね。 「・・・本当、馬鹿みたいに愚かだ。 上が上なら下も下だ!!これなら、まだゼウス神の方がよっぽど・・・。」 「ソピア。」 ぴしゃりと、容赦のないベルゼビュートの声が響く。 それに背筋を伸ばしたソピアは、バツが悪そうに顔を歪めた。 これから倒そうとする敵を上げてどうする。 自分達が認めているのは、ルシフェルだけだ。 「分かっている。でも、これを動かせれなかったら・・・。」 意味がない。 肉体だけあっても、魂がなければ。 動け。私の声を聞いて。 誰の力にも頼らない。自分だけの力で、呼び起こしたい。 「っミカエル!!!」 今しかない、とアスティアの目が訴えた。 それに強く頷いたミカエルは片腕を上げて合図を送る。 すかさず反応した天使達は、今まで溜めていた魔法を解き放った。 白と青の光線が勢い良くアスタロトに向かう。 先にあれをどうにかしなければ。 ソピアもベルゼビュートもラクトも十分危険人物だが、かつての戦争で大きな被害をもたらした あのアスタロトだけは絶対に落とさなければならない。 そうしなければ、ゼウス神、あるいは他の強神がいなければ勝ち目はない。 「―――――――――アスタロトっ!!!」 ――――ドォォォオオオンッ!! ソピアの声と爆発がしたのは同時だった。 けれどこれでアスタロトは倒したはずだ。 肉体はあっても、魂がない身体はただの抜け殻も同然。 「――――な、んだとっ!?」 後ろから誰かの声がした。 それは驚愕と恐怖で表されていて、思わず振り返ると案の定、その表情は真っ青だ。 未だ舞う砂埃をを掻き分けてアスティアは必死に目を凝らした。 何かの影が見える。 2つ。その1つは影からして間違いなくソピアだ。 その前に佇む影。 おかしいと感じたのは、そこからもう少し視界が良くなってからのこと。 人間の形をしているが、腕の辺りや背中の後ろで何か長いものが動いている。 彼が持つ金色の瞳が開かれた。 ゆっくりと、そして厳格な様で。 まだ完全に開かぬ状態で、彼は静かに左腕を持ち上げた。 それに青い龍が反応する。 唸るような、まるで怒りを感じているかのような声色は天を裂く。 「しまった、ここは・・・。」 自らの失態を理解したミカエルは一気にその表情を一変させる。 「な、何なの。どういうこと・・・?」 砂埃が段々治まってきた。 それよりも前から、あの時発した驚愕の声をした者の後から天使達の士気が下がっている。 理解できない。アスタロトは?何故あの攻撃から逃れる事が出来た。 いや違う。どうして力を吸収された、と問う方がいいかもしれない。 「ここは、姿形なくとも誕生神ルキナの聖域です。『カーマロカ』の能力が、まさか影響されるなんて。」 「カーマロカは死者の魂を浄化させるだけじゃなくて、再生も可能ってこと?」 「そうです。だからこそ、誕生神ルキナがいるんですから。」 今ルキナは城の中にいるが、だが儀式はここでしなければならない。 ここは魂を浄化する。ルキナは魂を生み出す。 その名残が、まだ残っている。 迂闊だった。 戦闘場所が、あまりにも悪過ぎる。 「・・・アスタロト?」 「ほぉ。召喚した場所にも影響があったようだが、どうやらお前の声にも反応したようだ。」 「私に・・・?」 驚きを隠せず、ソピアは瞠目した。 その後ろでラクトが複雑そうな顔をしているのを彼女は知らない。 「・・・・・我が名はアスタロト。永き眠りから解き放ってくれたお前に、礼を言う。」 やっと姿が見えた。 シアン色のざんばらになった髪が風に揺れる。 赤い法衣は禍々しい力を感じさせるほど、酷く鮮明だった。 雪のように白い肌。そして前髪の間から見える、まるで呑みこまれそうなほどギラギラとしている金色の瞳。 神秘的ないでだちとは裏腹に、その表情は穏やかだ。 ただ一言喋っただけなのに、透き通る声に魅了される。 翼も違う。種族も違う。肌の色も身にまとう衣装も、全て違う。 「主よ、私に命を下せ。」 それがさも当たり前かのようにアスタロトは淡々と述べる。 だがそれに驚いたのはソピアでもベルゼビュートでもないミカエルだ。 「どういうことですか!!あの戦争の時、貴方はルシフェルの命だけを聞いていたというのに。」 確かにそうだ、とイスカは頷いた。 あの大戦後を知る天使は、天界には限られているが書物に書き記されている。 「・・・私は一度死んだ。」 戸惑いもなく、さらりと語る。 相変わらず表情が乏しいが一度殺された事に恨みを持っている、というわけではないらしい。 寧ろそんな事には興味がない、という表情をしている。 ただ命令を聞き入れ、ただ黙々と任をこなす。 「私が死ぬ事は、既に私の中で予期していたことだ。 6英雄の大戦の時に戦死したことに驚くことも憎むことも、私には何の意味はない。」 「自分の死を予期するだと!?そんな馬鹿げた話が・・・。」 「私には過去と未来を読む力がある。 これからの行く末も、お前らがどうなることも全て視えている。」 声を荒げるイスカに涼しい顔で言ってのけるアスタロト。 その瞬間に龍がまた唸った。長い胴体を漂わせる。 「今回もまた召喚されるとは思わなかったが、それでもこれで私は動ける。」 「要するに、召喚した者は誰であれ主人となると?」 「簡単に言えばそうなる。」 だったら早くそう言え。 と、アスティアが心の中で愚痴った事は多分誰も知らない。 「・・・茶番は終わりだ。どうやら今度は新たな戦いを始めているようだからな。」 「そうよアスタロト。そいつ等を殺してゼウス神を殺さないと、私達は終わってしまうの。」 主の言葉にアスタロトは頷いた。 どうやら状況を一瞬で読み取ったらしい。 フッ、と不敵に笑い、あの時と変わらない動きで構えに入る。 「・・・笑えない冗談ですね。」 本当に笑えない。誰かこの現実が嘘だと言ってくれ。 今ここにいる天使のほとんどがそう感じていた。 馬鹿を言うな。見てくれはボンヤリとしているアスタロトだが、彼の戦闘能力は 下手をすれば動きの速いベルゼビュートや脅威的なロマイラより遥かに恐ろしい。 かつての戦争で、アスタロトと対戦して数え切れないほどの同胞が死んだ。 だが今ここにいる同胞は、どんなに頑張っても200満たないだろう。 ちらりと辺りを見回しても、せいぜい150程度だ。 応援がかけつけるまで大よそ30分。だがこれはあくまで敵に出くわさない場合だ。 だからどう考えても1時間以上掛かる。 この危機に神が気付いていれば恐らくもうすぐ出てくるだろうが、その期待はあまりしないほうが良い。 ゼウス神は、本当に最後の最後まで城を離れない。 言うなれば彼は切り札だから。 同胞を殺されすぎても困るが、彼には神だけではなく天界の主帝としても義務もある。 それ故に城を守る事は当たり前の事である。 だからそう簡単に外へは出られない。来る事が出来ない。 それに、暫くは来る必要もない。何故ならば彼以外にもまだまだ神はいるからだ。 「それでも何とかしないと。援護が来るまで絶対に通させないわ。」 出来るなら強い者。 フェイル、リュオイル、アレスト、シリウス、シギ。 誰でも良い。欲を言えばフェイルだが、今彼女がどこにいるのかさっぱり分からないのだ。 「まあいい。これで形勢逆転だな。」 にや、と口の先端を吊り上げたベルゼビュートは、血塗られた鎌を舐め取った。 後ろでラクトが構える。 ソピアが翼を羽ばたかせ、陣を描く。 ―――――――ヒュンッ!!!! 風を裂く音が、走る。 「――――――ぐ、ぁあっ!?」 ガタン、と武器を落とす音が響いた。 ブシュッと何か弾けるような嫌な音と共に、今度は武器ではない鈍い音が地面に落ちる。 ごとり、と。決して小さくないそれは裂かれた部分からおびただしいほどの血が溢れだした。 「何!?」 膝を付いたのはベルゼビュートだ。 本来ならあるはずの左腕は不自然な形で消えている。 付け根の部分からボタボタと流れ落ちる鮮血は止まる事を知らない。 地面にある左腕は鎌を固く握り締めたまま動いていなかった。 「どうやら、間に合ったようだな。」 壊れた高台から現れたのはシリウスだ。 戻ってきた大剣を、聖剣を握り直す。 剣先に付着した血を払い取ると、高台を崩さないように飛び降りた。 「シリウスっ!!!」「シリウスさん!!」 イスカとミカエルの声が同時に重なった。 弓を構えたままだったアスティアも、少しだけそれを下ろして後ろを振り返った。 「・・・よくも、私の腕を斬りおとしてくれたな。」 「べらべらと喋って、周りを見ていなかったお前が悪い。」 忌々しげにベルゼビュートは眉をひそめた。 突然の登場に驚いたラクトは相変わらず唖然としている。 逆にアスタロトはこうなることも既に予測していたのか、全く表情に変化がない。 「東は俺達が片付けた。」 シリウスはソピアを見据えたまま離さない。 あまりに静か過ぎる瞳にイスカやアスティアは困惑した。 けれど何か言う前に、シリウスの背から現れてきた天使達を見て口を閉ざす。 かなりの数だ。これなら、何とか勝算が見える。 「フェイル達は?」 シリウスが近づいて来た途端すかさずアスティアは彼に尋ねた。 だがその目は決して前から離さない。彼もそうだ。 「あいつとリュオイルとは離れ離れだ。 アレストとシギと一緒だったがシギはロマイラを追って、アレストは収拾がついた途端あいつを追って行った。」 「・・・とりあえず2人以外は無事ね。」 「そうなるな。」 アスティアもミカエルも、シギとアレストがロマイラを追った事には何も触れなかった。 と言うよりも今は他の人物を心配する余裕がない。 フェイルとリュオイルの事はやはりまだ頭の片隅に残っているが、 シギとアレストは生存していたと報告されるだけで十分だ。 服の裾が随分ボロボロになっている。 シリウスは上着を脱ぎ、それを捨てた。 これでかなり身動きが取りやすくなっただろう。 軽くなった身体に一層力が入る。 「ふ、ふふ・・・。この俺を、ここまでコケにするとは、いい度胸をしているな。」 「・・・・・。」 「そうだ、貴様だけは楽には死なせない。地獄の底まで引きずりまわしてやる・・・・っ!!!」 ベルゼビュートが動いた。 左腕を失っても尚、その動きに乱れはない。 疾風の如く移動したベルゼビュートは、いつの間にか鎌を拾っていたらしく、 右手に持ち変えたその一撃をシリウスにぶつけた。 金属の火花が飛び散る。 すぐ傍にいたアスティアはその甲高い音に思わず耳を塞ぎたくなったが、 シリウスを援護する為に構えていた弓矢を敵に放った。 「ちぃっ!!小賢しいっ。」 予想通り彼はそれをすぐに跳ねのけた。 カンッ、と乾いた音がすると弓は折れ地面に落ちる。 それを踏みつけたベルゼビュートは、掠めた頬の血を拭い取る。 腕を跳ね飛ばされた屈辱と怒りが頂点に達しているのか、彼らしくない。冷静さが欠けている。 それに比べてかなり落ち着いているシリウスは、殺気を向けられているにも関わらず 辺りの状況にも神経を研ぎ澄ませていた。 ベルゼビュートの攻撃で戦闘開始になったらしく、全ての天使が彼等と交戦していた。 ミカエルとイスカはアスタロトとソピア。他の天使はラクトをマークしている。 だが、一番心配なのはミカエルとイスカだ。 いつの間にか新しい魔族がいるが、そいつから嫌な雰囲気が溢れだしているのがすぐ分かった。 表情がないから尚更それを感じ取るのが難しいが、一番危険なのかもしれない。 そんな危険人物を、しかも2人を2人で相手するには分が悪過ぎる。 「あいつの動きを、3秒。いあ、1秒でいい。・・・止められるか?」 この会話の最中に、既にあいつは天使を5人倒している。 「やってみるわ。」 返された言葉に小さく頷く。 次に攻撃するのは、今前にいる天使が倒され、鬼のような形相で襲ってきた時だ。 「雑魚どもがっ!!どけっ。」 1つの鎌で2人の天使を狩る。 死体の落ちる音と断末魔の叫び声の中、ベルゼビュートはたった1つだけを追っていた。 不意打ちとはいえ、己の左腕を斬りおとされたのは当然プライドが傷つく。 慣れない右手で振り回すのは彼にとって至難の業のようだが、次々殺されていく天使達には関係ない。 天使にとって彼はただの走る凶器だ。 暴走を止めない限り、自分達は紙くずのように彼に殺される。 ぎらり、とベルゼビュートの目が変わった。 まるで魔獣のように、狙っていた獲物を見つけて喜んでいる姿だ。 無駄に並んでいた天使の列をものの数分で切り倒し、見つけたのは憎き男の姿。 剣を構えたままこちらをずっと睨んでいる。 にぃ、と知らず知らずの内に口元が緩んだ。 「楽には死なせない。」 そう呟いた途端にシリウスの表情が少し変わった。 それは確信したような、勝ち誇ったような笑み。 微かな変化だったがベルゼビュートはそれを見逃さなかった。 だがそれより先に現れた現象に体勢を崩される事となる。 「何っ!?」 四方から何かに囲まれた。 魔法?いやこれは、水龍をかたどった矢だ。 しかも速い。さっきまで放っていたのは一体何だったのだ、と問い詰めたくなる。 舌打ちをしながら彼は一瞬だけ下を見下ろした。 そこにいたのはいつの間にか移動していたアスティアの姿だ。 彼女の後ろで、自発的に応戦している天使もいる。 思わずそれに舌打ちしたくなる衝動に駆られたベルゼビュートだったが、 方向転換をして邪魔者を消そうとする。 その行動にまたしても、今度はアスティアが笑った。 流石にそれに目を瞠ったベルゼビュートは、羽ばたかせていた翼を一旦止める。 地上まではもう2mもない。 「――――――さよなら。」 それは言葉にはならなかった。 形の良い口を動かすだけだったが、アスティアは確かにそう動かした。 それまで構えていた弓を、今度はアスティアも天使も同時に放つ。 それを避けようと再び翼を動かそうとしたベルゼビュートだったが、 不意に現れた影に驚愕する事となる。 「なっ・・・・。」 どこから飛んできたのだろうか。 目の前には、聖剣エクスカリバーを構えているシリウスがこちらを見据えていた。 宙に浮いたまま、ゆっくりそれが振り下ろされるように見えたのは彼の幻覚だ。 聖剣が肩から胸に、胸から腹部に下ろされる。 先ほどアスティア達が放った矢が背中に当たっていく。 矢は胸や腹部、足を貫通しその凄まじい威力を物語っていた。 翼はもぎ取られるように削がれ、漆黒の翼さえもが血に染まっていく。 「ぁぁぁぁぁあああああっ!!!」 シリウスが叫んだと同時にベルゼビュートの体は真っ二つに斬り裂かれた。 その途端に聖剣が淡く光る。 浄化の光だ。 そう確信した途端に2つに割かれたベルゼビュートの体は灰の如く粉々になっていった。 白とも黒とも言いがたいそれは風に揺られて消えてゆく。 「ベルゼビュートーーーーーーーーっ!!!」 ラクトの叫び声が木霊した。 その声に思わずソピアは振り返る。 彼女が見たものは灰になったベルゼビュートでも、叫んだラクトでもない。 銀の髪が揺れている。前髪の辺りに、誰と言わなくても分かる返り血が付いていた。 剣を下ろし、ゆっくりその瞼が開かれる。 うっすら除かせたアメジストの瞳は、こんなにも血塗られているのか随分と静かだ。 暫くしてその瞳がソピアに向けられる。 静かなる怒りが伝わってきた。 (・・・・・私を、殺す?) 自嘲するように、けれど儚く見えるのは気のせいだろうか。 向けられた視線に気付きながらも、ソピアは身を翻しアスタロトとの方へ向き直った。 あの男は、シリウスは必ず私を追う。 どこへ行っても、何があっても必ず追いかけて来る。 必ず来る。 だってあの瞳は、全て憎しみで覆われているものだから。