命の灯火よ あと少しだけでいい あと少しだけ、どうか耐えて 星久が眠るまで 永久の彼方に届くまで、どうか ■天と地の狭間の英雄■        【冷然と葛藤】 「嘘だろ・・・ベルゼビュートが、あんな簡単に。」 剣をだらりと下ろし、驚愕した様子でラクトは呆然としていた。 周りではこんなにも騒々しいと言うのに、自分の周りだけがシャットアウトされている感覚。 さっき大声で叫んだせいで喉が酷く痛い。 そう言えば先ほどからずっと自分だけが叫びっぱなしのような気がする。 味方、とは言い難いがベルゼビュートは自分より遥かに強い。 確かに、己の力に過信する癖はあったが、それでも魔界の中では10本の指に入るほどの強者だ。 それを、援護があったがたった1人で倒すとは。 ラクトは肺から全ての酸素を吐き出すように、大きく、けれど誰にも気付かれないように溜息を吐いた。 思わず自分の体を抱きしめてしまいそうになる。 ベルゼビュートを斬った直後のあの青年を見て、シリウスを見て身震いした。 雰囲気からして静かで、厳かであるが、あの冷徹な瞳が頭から離れない。 何も映していなかった。何も感じていなかった。・・・殺したのに。 吹き返る血飛沫を見て、あいつは微かに笑った。 青い顔をしたベルゼビュートを見て、恐怖に震える僕を見て。 言葉で言い表すことが出来ない何かが、僕の心臓を、心をえぐる。 冷たい何かが刺さった感じだ。でも冷たいと同時に熱いとさえ感じる。 それを落ち着かせるためには、シリウスから目線を外し深呼吸をするしか方法が見つからない。 「どこを見ているっ!!!」 「っちぃ!!!」 考え事に浸っていると脇腹を細い剣が掠めた。 幸いにも掠り傷程度で何の問題はない。 襲ってきたのは自分の同族。いや、今は敵だ。向こうから見れば僕らはただの裏切り者でしかない。 「どいつもこいつも、邪魔なんだっ!!!!!」 大剣に大量の魔力を集め、その勢いで辺りにいた天使を蹴散らす。 そうすると必ず死者や怪我人が出るわけで、僕の服だってもうたくさんの血でいっぱいだ。 そうだ、これが戦争なんだ、殺しなんだ。 生温い稽古でもない。ただの殺し合い。 「ぁぁぁああああっ!!!!」 斬りつける時、叫んでしまうのは僕の悪い癖だ。 随分前に稽古を付けてくれたアルフィスがそう言っていた。斬りかかった時に出来る隙が大きいと。 動揺すると闇雲に剣を振り回している、力任せにしてはいけないと。 けど怖いんだ。あの微笑が、あの声が。 何よりも、何も映さない氷のように冷たいアメジストの瞳が。 魔界から映し鏡で見たあの時の、フェイルさんに見せる微笑なんてどこにもない。 心の底から叫びたい。寄るなと。 けれど彼が何故冷酷無慈悲なのか、その理由を知っているだけにそんな事口が避けても言えない。 彼の狙いは全てソピアだ。ソピアを殺すことで、彼は一時の安堵を得る事が出来る。 そんな事させない。させるもんか。 ソピアが殺されるなんて、この世からいなくなってしまうなんて考えられない。 絶対に嫌だ。 「そこを、どけっ!!」 シリウスが動いた。 暫く灰になったベルゼビュートを無関心な表情で見ていたが、ソピア達の方に向き直って歩き出す。 その足取りは予想以上に軽い。 あんな残虐な殺した方をしたのだ。本当は少しでも気分を悪くする方が自然だが、今のシリウスにそんなものはない。 ここまで天使達と協力して魔族を片付けてきた、と言っていたがそれでも肉体的に辛いはず。 今彼を支えているものは、憎しみと怒りによる精神的なものだろう。 事が終わればそれは己に反動してくる。 そんな事を分からないほどの男ではない。 けれどそれでも立ち上がるのは、それほど憎いから。怒れる者がいるから。 でもでもでもでもっ!!! これだけはどうしても。 どうしても、嫌なんだ。見たくないんだ。離れてほしくないんだ。 「ソピアっ!!」 彼の声は、無情にも爆発の音で掻き消されてしまう。 「ミカエル様っ!!」 アスタロトに巻きつく龍が炎を吹き出す。 前に出ていたミカエルを庇うように、イスカは瞬時に防壁を作ってみせた。 瞬く間に炎は四方に飛び散り、誰も怪我をすることなく終わった。 だが手を下ろした後のイスカの様子がおかしい。 防壁を作ることなんて造作もないのだが、彼にしては珍しく肩で息をしている。 「イスカ、無理をするものではありせんよ。」 「い、いいえ。これでミカエル様を、守れるな、ら、本望です。」 普通の威力ではない。 たかが龍の炎でこれほどまで衰弱するとは。 ミカエル様を御守りすることが役目なのに、恥さらしにも程がある。 「いいえ、あれを侮ってはいけない。  どうやら力までもが以前と同じ、と言うわけではなさそうですが相手が強力だという事は分かりきっています。」 「ですが、俺達だけでは・・・。」 アスタロトの周りにいる龍は1匹だけではない。 見える範囲でだ、恐らく3匹。 自分達が対峙している龍は1匹。残りは後ろにいる天使達だ。 見回して見ると、そこには悪戦苦闘する天使の姿が。 中には灼熱の炎に耐え切れずそこで命を落とす者もあった。 その姿は見るに耐えない。 「分散するしか、ありませんね。」 「そ、それは・・・。」 「2人で龍を倒すにしても、それではアスタロトの思うつぼです。  それにソピアもいます。下手に動けば彼女に倒されるのがオチでしょうね。」 「・・・・笑えませんね。」 俺はいい。だけどミカエル様が倒されるなんてあってはいけない。 ミカエル様はまだこれからも多くの天使に必要とされるお方。 だからこそ、彼を御守りするためなら俺は命を懸けても構わない。本望だ。 「俺が・・・。」 「イスカ、貴方は龍をお願いします。」 俺が2人を相手します。 そう言いたかったのに、ミカエル様はそれを察してかやんわりと言葉を遮った。 当然それには驚くわけで、納得がいかない俺は失礼ながらも抗議する。 「いけませんっ!!」 「私が2人を食い止めている間に、イスカはあれを倒してください。  流石に私1人で2人を対峙するのは分が悪いですから、・・・待っていますよ。」 その言葉の裏は「信じている」 お前は必ずすぐに駆けつけてくれる。そう信じている。 お前が必ず私を守ると、悲しいけれど信じている。 「私の背は、貴方に任せましたよイスカ。」 「ミ、ミカエル様っ!!!」 イスカの言い分も聞かないうちにミカエルはアスタロトに向かって走り出した。 後ろで、彼にしては珍しく焦った声でミカエルを止める声が木霊する。 彼の声を聞き、また天使達までもが振り返る。 普段は現す事のない翼が羽ばたく。 純白の翼がミカエルを包む。 けれど後ろで聞こえる声は、あまりにも悲痛なものだ。 「ミカエル様ーーーーーーーーーーーーっ!!」 部下に背を見せた事は信頼の証。 けれど、その背がいつもより小さく見える。 決してがたいがいいわけではなく、どちらかと言えば華奢な方なのに今は更に頼りなく映る。 あんなに勇ましいと言うのに、襲ってくる不安の色はどうやっても掻き消える事はない。 剣を抜き、アスタロトの攻撃を避ける。 美しい金の髪が数本切られたがそれに動じもせず彼は剣を振るう。 だがそう簡単に相手側に行かせてはくれない。 龍は主を守ろうと、憤怒の形相で火を吹く。 それを剣で払いながら、慎重に前に進むミカエルの姿は既に善人でなく武人だ。 「くっ、そぉ!!!」 何をしているんだ俺は。 ミカエル様は俺を信じて背を任せた。 動け、俺の手足。 貫け、俺の意思。 「くそぉぉおおっ!!!」 眦に浮ぶ水を乱暴に拭い、イスカはミカエルに襲おうとしてる龍に駆ける。 いささか乱暴な登場だったため、彼の羽は数枚ヒラヒラと宙に浮いている。 イスカの顔を微かに見たミカエルは、ふっと笑うとそのままアスタロトの元に走った。 「頼みましたよ。」 確かに彼は自分にそう告げた。 剣を握る力が増す。深呼吸をして、体勢を整えて、敵の目を捉える。絶対に外さない。 大天使ミカエルの側近を務める力天使候補イスカ。 天使の中では生まれて日は浅いが、天賦の才ゆえか剣術に置いては引け目を取らない。 「――――――来い。」 彼の特徴は、彼の間合いに入った者を滅多斬りにする居合抜。 片膝を立て独特の剣、刀を素早く抜き放ち敵を斬り倒す。 この業を使う者は天界ではごく少数で、並大抵の集中力では会得できないまさに神業。 わざわざ難しい業を選び、それを自分のものにするその根性は非常に高く評価出来るものだ。 先に動いたのは、龍だ。 さて、どう動くべきか。 ここで倒したと仮定して、そのままミカエル様を助けに行くべきか否か。 ・・・・・やはり一番効率が言いのは全ての龍を片付けてから。 後ろからの気配から判断すると、まだ一匹も倒せていない状態だろうな。 下手に俺だけ援護に向かっても危ないかもしれない。 もう一度言うがこの業は集中力を必要とする。 雑念や無駄な事を考えていると、逆に痛い目をみる、のだが。 「斬撃」 ―――――カンッ 今まで閉じていた瞳をうっすら開けて、イスカそのままの体勢で素早く刀を抜いた。 龍は今にも炎を吹き出そうと、大きく口を開けていた状態だったが、 驚いたように瞳を瞠目させ、そのまま静止て動かない。 何が起こったのか分からず、ボンヤリとしているようにしか見えないが、 それは数秒経ってから気付く事となる。 「終わりだ。」 ―――――カシャン 抜いた刀を、今度はゆっくり鞘にしまう。 カチン、と完全にしまった音がすると同時に地面に落ちる鈍い音が耳に過ぎった。 後ろで歓声が上がる。 足元に落ちている胴体を一瞥したイスカは、胸に十字を斬り苦戦している天使達の元に駆け出した。 「そいつの弱点は首だ!!長い胴体ばかり狙っていても意味はないっ!!!」 それほど距離がなかったため、彼等の元に辿り着くのに苦労はしなかった。 イスカが叫んだと同時に天使達の定まりが変わる。 誰かの合図で一気に魔法が放たれた。 力天使が前に進み、弓部隊が狙いを定めやすいように道を開ける。 1つの強力な矢が龍の首に命中しそうになったが、全てを灰に化してしまいそうな炎によって消し炭となる。 「1つに固まるな!!集中的に攻撃されるぞ!!!」 イスカが叫べば叫ぶほどその声は掻き消されていく。 だが彼が龍に近づくたびにその声は天使に聞き取りやすい大きさに変化してきた。 彼の一言一言に細心の注意を払い、怒り狂う龍の攻撃を何とか避ける。 あれだけゴタゴタとしていたと言うのに、段々まとまってきたではないか。 中には微笑を浮べるほど余裕が出てきた者もいる。 勝算が見えてきた途端にイスカの表情も少し明るくなる。 今度抜いたのは刀ではなく、誰もが使っている剣だ。 あと少し、あと少しで届く。 イスカは一度大きく翼を羽ばたかせた。 勢い良く加速を上げ、建物を足蹴りして更にスピードを上げた。 普通に飛ぶにしては加速がありすぎるので、木の葉が頬を掠める。 少量の細かい血飛沫が飛ぶ。 あと少し、もう5mもない。 外すな。一度だけのチャンス。 獅子を象った残像が龍を襲う。 今にも噛み付きそうに大きな口を開けて飛び込んでくる、が、それに気を取られていた龍は 後ろに回ったイスカに気付くのが遅れる。 最初に飛び出てきた獅子の影が目くらましだったと気付くまで時間は全くかからなかったが、 今から攻撃しても行き場のない胴体が宙を舞うだけだ。 ならば、殺られる前に殺れ。 「――――――ガアァァアアアッ!!!」 「ぐ、ぅああぁぁぁあ!!」 イスカの剣が喉を切り裂く直前に、龍が先に炎を吐いた。 基本的に天使は魔法系全般に耐性を持ってはいるが、この炎を少しでも浴びれば丸焦げになるかもしれない。 それほど危険性の高い龍の炎を、全身でではないが利き腕の左肩から浴びたイスカは堪らず悲鳴を上げる。 だが決して剣を離す事はなかった。 熱と痛みで苦しみ喘ぐ中、イスカは懸命に目を開ける。 冷たいような、けれど炎の熱で熱くなった汗が頬を伝い落ちる。 炎の熱気と熱風で少し離れた体を元に戻す。 これだけで数秒、いや、2秒もかかっていない。 けれどイスカには全てがゆっくりと動いているように見えていた。 あと数センチ。もう少しでこの刃が喉に届く。 その瞬間、龍の蒼い瞳とぶつかった。 ――――ザシュッ 斬りつけたと同時に龍の悲鳴が木霊した。 鼓膜を破ってしまいそうなほどの咆哮をすぐ傍で聞いてしまったイスカは思わず顔をしかめる。 じたばたと暴れる龍は、見境なく尾を振り回した。 そのせいで近くにたむろっていた天使達が踏み潰されそうになる。 それを何とか避けながらも、天使達は今一番危険な状態にあるイスカに目を向けた。 「イスカっ!!!」 誰の声だったのかは分からない。 けれどその声が聞こえたのと同時に来る痛みは、明らかに龍の振り回している尾だろう。 あまりにも突然の事だったため、息が詰まり悲鳴さえも上げる事も出来なかった。 翼を羽ばたかそうにも、その余力が残っていない。龍にやられた火傷がかなり堪えているようだ。 いきなりの急降下は体にも毒だったらしく、所々が痛い。 落下しても命だけは助かるように、頭から落ちないように体をずらす。 あと少しで地上にぶつかりそうになった時に、また誰かの悲鳴が所々から聞こえた。 おかしい。いつまで経っても痛みが来ない。 あの高さから落ちれば打撲は免れないはずなのだが、硬い地面にぶつかるはずだが 驚く事に全身にくるのは痛みではない。クッションか何か柔らかい物が下にある感じだ。 ・・・クッション? 「え・・・?」 恐る恐る瞼を開けると、下にいたのは地面どころか1人の人間だ。 どうやら抱え込もうとしたらしいがスピードが付いていたため、かなりの重さがあったらしい。 「シリウス?」 驚いたのは周りの天使ではなくイスカだ。 おかしい、彼はソピア達の元に行ったんじゃないのか? 近くで未だ天使達と対峙しているラクトは必死の形相で大剣を振っていた。 「こいつの手当てを頼む。」 半ば潰されたのにも関わらずシリウスはケロッとした顔で火傷をしていない腕を引っ張って、 癒しの天使にイスカを押し出した。 当のイスカと言えば助け出された事にも驚いているが、助けた人物に激しく驚いている。 既にミカエルの元に行き、共に魔族を倒しているのだと、そう思い込んでいたのだがそれは間違いだったようだ。 「シ、シリウスっ!!」 唖然としたイスカを放っておいて、そのままスタスタと歩き出したシリウスに思わず止めた。 待て、と言わんばかりに出した腕は空虚に彷徨っている。 あー・・・、と気まずそうに声を漏らしたイスカにシリウスは表情を変える事なく静かに喋りだした。 「治ったらこの場所を去って他の応戦に行ってこい。」 「なっ!・・・必ず追いかけるってミカエル様と約束したんだ!!そんな事出来ないっ。」 「・・・だったら足を引っ張らないようにするんだな。」 「言われなくても・・・って、え?」 一々彼の言葉に反応する必要はないのだが、どうも調子が悪い。 と、それはどうでもいいのだが、シリウスらしくない言葉にイスカは目を点にする。 その間に癒しの天使は必死にイスカの火傷を治していたけれど。 「こっちはさっさと行ってこの鬱憤を晴らしたいんだ。ぼやぼやしてると置いて行くぞ。」 どうやら待っててくれるらしい。 さっきまであんなに殺気だっていたと言うのに、驚くほど彼は冷静だ。 表情こそいつもより硬めだが、決して強張ってはいない。 治してもらっている間も、彼はずっと前を見据えたままだ。 本当は飛び出してでもあの場所に行きたいだろうに、どうして待っていてくれるんだろう。 もしかしなくても俺がこのまま他の応戦に行くと言ったら 「頼む」と一言だけ残してさっさと行ってしまうに違いない。 でもやはり謎だ。今から行ってミカエル様を応戦すればいいのに、どうしてだ? 「・・・俺1人で突っ込んでも恐らくソピアの攻撃で跳ね返される。  だったらお前を利用して敵を拡散させれば、問題ないだろう。」 「利用って言葉はあえて無視するけど、こんな時にでも冷静なんだな。少し羨ましいよ、お前が。」 「それ以上言うな。奴を思い出す。」 「奴?」 「いや、別に。」 珍しく口篭ったのでそこから追求はしなかった。 一体誰だろう、と首を捻る。 そんな疑問を抱えつつイスカは治療している癒しの天使の負担にならないよう、 こちらも集中力を高めて治癒能力を向上させる。これで倍くらいの速さで完治するだろう。 「・・・終わりました。ですが無理をするにはまだ・・・」 「ミカエル様の命と、国の存亡がかかってるんだ。  これくらいの怪我ごときで休むわけにも、ましてや他の援軍に回されるなんてごめんだからな。」 「いや、しかし。」 「放っておけ。回した所でこいつはミカエルを援護する為に腕が一本跳ね飛ばされたって来る。  ・・・ったく、どっかの誰かさんみたく熱血な奴がまた増えたな。」 「俺は本当にミカエル様と国が大切なだけで・・・っ!!」 「分かった。分かったから吼えるな。」 「吼えてない!!!」 幾らイスカが怒鳴った(吼えた)所でシリウスは全く表情を変えない。 おかしい。見た目は別として俺の方が遥かに年上のはずなのにどうして口で勝てないんだ。 納得がいかないのか、どんどん膨れっ面になってきたイスカを見て他の天使達は こんな状況ながらも微笑ましそうに頬を緩めた。 昔はもっと頭の固い人物だったのに、彼等の登場で喜怒哀楽が激しくなってきている。 実に喜ばしいことだ。 「話しは終わりだ。さっさと行くぞ。」 「・・・分かった。」 一瞬だけ空気が柔らかくなったが、すぐに元の緊張状態に戻る。 地に刺していたエクスカリバーを引き抜きそれを肩に担ぐ。 だがそれ以前に、国の重宝であるあの剣が酷い扱いをされているのはどうだろうか。 戦争なのだからこの際壊れても誰も文句は言わないだろうが、神族がいる前であんな扱いをするなんて さすがシリウスと言うべきか何と言うか。 急ぎ足ではあるが、歩いている時の彼の背中は何故か小さく感じた。 自分より一回りほど大きい背中であるのに、どこか覇気がない気がする。 感情を読み取ることは出来ない。殺意さえも感じられない。 ただ無心。それが逆に恐ろしかった。 少し前までは怒りに身を委ねていたというのに、今はそれが感じられない。 (でも彼は・・・。) 分かっている。止める権利も、ましてや止める必要もない。 それが未来のためであり神族から見れば当然と言える行為だ。 誰も彼を軽蔑しないだろう。 でも。でも、あの人は泣いてしまうだろうか。 誰に?どうして? シリウスにもソピアにも、どちらにも涙を流すだろう。優しい方だから。 「ボサッとしているな。構えておけ、イスカ。」 異様に冷たい声で背筋がピンと伸びた。 シリウスの後ろを追いかけているはずなのに、どうして考え事をしていると分かったんだろう。 「ごめん。でももう大丈夫。」 「・・・そうか。」 進む足が速くなる。 暫くすると、急に彼が止まった。自然とイスカの足も止まる。 音がする。 風を切る音、揺れる音。 その中には確かにミカエルの声も混ざっていて、彼が無事なんだと確信出来た。 「ミカエル様っ!!」 パンッ、と何かに弾かれるようにイスカが前に飛び出す。 火傷をしたせいで右腕下からの衣服はもうボロボロで、ほとんど地肌を晒している。 けれどそこにあったはずの怪我は跡形もなく綺麗に消えており、健康的な白さの肌が露出していた。 もう柄も赤くなって、剣先は刃こぼれしかけていた。 人を斬ったり、獣を斬ったりして脂が付きすぎ切れ味が悪過ぎる。 仕方なく自分の武器を投げ捨てて、既に亡骸となっている同胞の剣を拝借した。 ―――――ザンッ!! 「・・・イスカ。」 アスタロトから数歩下がり、ミカエルは前を見据えたまま呟いた。 珍しい事に彼にしては少し息が上がっている。 衣服は所々裂かれており、そこから血が滲んでいた。 「随分速いですね。私としては嬉しいことなんですが。」 「シリウスが手助けしてくださいました。彼のおかげです。」 「では、早速ですが。」 折り曲げていた足を一度軽く叩き起き上がる。 その様子からして体力的にまだ余裕そだ。 天使が2人揃い、その後ろから遅れるようにシリウスが歩み寄る。 それを見てもアスタロトは表情を一変させない。 既に彼の傍に龍はいなかった。変わりに彼が持っているのは、剣。 やはり他の者よりも上質なものなせいなのか、ちょっとやそっとでは刃こぼれしない。 「・・・ソピア。」 誰に言うわけでもなく、静かにシリウスは呟いた。 その声は風に消されて誰にも聞かれる事はなかったが、怒りと憎しみに溢れている。 柄を握る手にも力が入った。 すると胡乱気にソピアが首を動かした。 魔法発動中なのか、彼女の周りには邪気に満ち溢れている。 危険性が高いのか、ミカエルはそれを何とか止めようと必死になっているが 彼女を守るかのようにアスタロトが鉄壁になってそれを食い止めている。 何が危険なのかは分からない。 シリウスは天使でも神でもないから、今どういった状況に陥っているのか理解できない。 ただ熱い感情が溢れるばかりだ。 喉元にまで達したこの怒りと憎悪は待ってはくれない。 (憎めばいい。) 近寄ってはいけないような、そんな空気が流れる場所に足を踏み込もうとした矢先 シリウスの頭に静かに誰かの声が響いた。 (恨めばいい。怒り狂えばいい。) 「止めろ・・・。」 生理的に受け付かない。 いくら頭を揺すっても消えない声。それが頭痛の原因だと理解してはいるが、これでは対処しようがない。 いい加減苛々が爆発しそうだ。 今にでもあの細い首に手をつけ、握り潰したい。 「俺に、囁くな。」 不快だ。邪魔としか言い表せれない。 もうどうしようもなくなる。 どうしようもないほど、自分の力ではどうする事も出来ないほどの怒りが露になる。 自制がきかない。知らず知らずの内に目が据わっている事にさえシリウスは気付いていなかった。 「シリウス?」 彼の異変に真っ先に気付いたのはイスカだ。 ミカエルとお互い緊張状態になりながらも、シリウスはどこにいるのだろうと目で追っていたのだから。 パッと見では判断しにくいが、様子がおかしいと感じていたのは今更である。 頭を振ったり、何度も拳を握りなおしたり、ときりがない。 相変わらずソピアを睨み付けたままだが、どこか虚ろのような気もする。 それどころかさっきから何やらブツブツと呟いている。 一体誰に、どうして? いたたまれなくなったイスカは彼の肩を少し強く引っ張った。 「やめろっ!!」 ―――――パンッ 返されたのは拒絶の言葉。 振り払われ痛む手を戻し、イスカは驚いた様子で唖然としていた。 けれど暫くして、その拒絶の言葉と態度は自分に降りかかったものではないと気付く。 振り返った際に見せたあの嫌悪の瞳が、映している人物がイスカだと理解した時、 シリウスの表情は一変して、珍しい事に酷く驚いた様子だった。 「大丈夫か、シリウス?」 青白くなった顔を除きこみながらイスカは出来るだけ彼の逆鱗に触れないように話しかける。 混乱しているようで何度もアメジストの瞳が瞬きを繰り返す。 言葉を発す事はなかったけれど、深く、そして強く頷いた。 その様子からして問題がないとは言い切れないがあえてそれに首を突っ込まない。 「・・・問題ない。」 目線はソピアに向けたまま。 大剣を引き抜き、ゆっくり構えに入る。 静かな動きには動揺の様子が微塵も感じられない。 「分かった。でも無理はするなよ。」 その後返事はなかったが、そのだんまりを肯定だと認めるとイスカはそのままミカエルの元に歩みだす。 緊張状態はピークを達しており、下手に双方が動けばどちらかが確実に死ぬような、 そんな厳かな状況が続いていた。 だがこのまま相手の様子をジッと見ているわけにもいかない。 動くか、待つか。それによって勝負が大きく変わる可能性だってある。 (あれだけ交戦したにも関わらずアスタロトの方は無傷。このまま長時間戦闘が続けば私達に勝ち目はない。) アスタロトは確かに危険だ。 けれど、私達はソピアを止めなければならない。 誰かが、自分自身が犠牲になったとしても彼女を止めなければいけない。 ゼウス神がお見えになるまでまだ時間が掛かる。 それまで私が、私がこの状況をどうにかしなければ・・・。 「無駄な足掻きは止めろ。お前達には既に勝算は残されていない。」 アスタロトの声が静かに響く。 それに耳を貸せるほど、ましてやその言葉を鵜呑みすることも出来ない。 「そう言っていられるのも、今の内だけかもしれませんよ?」 苦し紛れの言葉なのだが、こう言う時にもはったりをかまさなければ。 勝ち目のない敵でも弱みを見せる事まかりならず。 「面白い。久々に骨のある奴と剣を交える事が出来る。」 「イスカ、行きますよ。シリウスさん、隙が出来れば速攻にソピアの元へっ!!」 「了解ですっ。」 「・・・ああ。」 その瞬間、ミカエルとイスカの姿が消えた。 いや、瞬時にアスタロトの元へ動いたのだ。 それを確認したシリウスは、相手の隙を伺いながら、援護する為に少しだけ近づく。 ふと目にすると、少女は目を閉じたまま何かを、まるで唄うように口ずさんでいた。 あまりに小さな声なので何を言っているかは分からないが、危険だと本能が告げる。 今にでも掴みかかりたい衝動を抑えたシリウスは、今しなければならない事に集中する為に 胸の辺りを強く掴み、深く長く深呼吸をした。 (・・・必ず、俺が。) キッと目を見開いたシリウスはそのまま真っ直ぐアスタロトを捉えた。 その後ろで、ソピアがうっすら目を明けた事を、彼は知らない。