「・・・まだだ、まだ足りない。」 暗雲の空に浮ぶ麗人はひっそりと溜息を吐いた。 その面影は既に疲労とも言えぬ複雑な色が混ざっていた。 風に揺れる細く長い金の髪は、この戦の中でも滑らかそうだ。 彼は、複雑な表情を浮かべたままある一点を見つめていた。 それをジッと見据えたまま、飽きる事なくひたすら眺めている。 (足りない。こんなものでは満足できない。) 風上が変わる。 血生臭い、と感じる前に辺りの視界が悪くなった。 土埃だ。サッと翼を翻し、それが去るまで暫く待つ。 その間ずっと下から響く数々の声に耳を寄せる。 「・・・無駄な足掻きを。」 次に男が発した言葉は、随分刺々しいものだった。 瞬時に顔色を一変させ、麗人の顔は美しく、恐ろしく歪んだ。 瞳には厳格ではあるが、決して溶ける事のない氷のように冷たい。 天界の奥にある白い居城を一瞥すると、彼は意味ありげに最初から見ていたある一点を再度見つめ直した。 白い麗人がいた。 同じ顔がそこにいた。 同じではあるが決して同じでない自分がそこにいた。 必ず剣を交えるであろう大天使がそこに、いる。 その姿を捉えた途端、彼は微笑んだ。 それがどんな意味合いなのかが分からないが、決して穏やかではない。 だが彼が見たものは、同じ人物ではなくその付近にいる魔族。 漆黒の翼はここからでも映えており良く見える。 神経を集中させなくても分かるほどの魔力が今あの場所に集まっている。 (だがそう焦る事はない、か。) 1人の少女を捉えた瞳がまた大きく変わったのは、彼しか知らない。 ■天と地の狭間の英雄■ 【変化】 「雷空破!!!」 突き出した剣先から稲妻が落ちる。 それを難なくかわしたアスタロトは、目にも止まらぬ速さで相手の背後に滑りこんだ。 技を出したシリウスも勿論黙っちゃいない。 そのままの体勢を維持しながらも、確実に敵の攻撃をくらわないように 咄嗟に右手に持っていた大剣を左手に持ち変えた。 ―――ガンッ 剣と大剣では威力は違い過ぎる。 剣は主に刺したりするために。大剣はその重さと大きさを活かして薙ぎ倒すために。 お互いの力量はまだ掴めていないが、2人ともかなり緊張した面持ちだ。 『 花落つりし水面の如く波紋に広がりし永久の記憶と 静寂なる宿に苛烈の勅裁をくだせ 』 ―――――サイレントジャッジ!!! 青白い閃光がうねるよう、勢い良くアスタロトに向かった。 閃光は進むに連れて形を変形し、目的の場所に達するまでには蛇のような形に変わっていた。 「シリウスさんっ!!」 剣を交えるシリウスの背からミカエルの声が届く。 それに相づちする暇もなく、彼はアスタロトの目の前から消えた。 一瞬瞠目したがすぐ直前にまで襲いかかって来た蛇を見るとつまらなさげに目を伏せた。 「こんなもので私を倒せると思っているのか。」 その言葉を言い終わらないうちに彼は指を鳴らした。 乾いた音が短く響き、その指から現れた黒龍がミカエルの蛇を噛み砕く。 ぎょろりとした真紅の瞳がこちらを向く。 一瞬息を呑んだアスティアはジッとそれを見据えていた。 蛇に睨まれた蛙の如く、動くことが出来ない。見えない糸に縛られているような感覚だ。 (・・・戦場を、変えなければ。) 彼の意思表示は最初より遥かに分かりやすくなってきた。 それは『敗北』が近くなっている事なのかもしれない。 勝てない。これでは勝てない。この人数とこれだけの力では、勝つ事は出来ない。 だけど今ここにいるのは、少ない天使と2名の人間だけ。 応援を、と送らせる天使もいない。神か、あるいは他の天使がこの状況に気付いてくれるのを待つしかない。 だがそれで間に合うのだろうか。 何分?何時間? 数日かかるかもしれないって言うのに、ただ応援を待つことなんて出来ない。 柄を握る手に力が入る。 「つまらない。あの大戦の時、お前はこの程度ではなかったはずだ。 それとも、私には力を出す必要さえないと思ったか。」 「・・・違いますよ。 確かに本気は出していませんが、それは貴方の強さに恐怖していると言ってもいいでしょうね。 実際私はあの時貴方と戦った事があるから、尚更恐怖が募るんです。」 「ほぉ?私に勝ったと言うのに恐怖を抱くなんて、随分と珍しい天使。ルシフェルと正反対なんだな。」 「よく言われます。」 良い意味でなのか悪い意味なのかがその時々だ。 だが今の言葉は、良い方で受け取っていいのだと思う。 「だが、詰めが甘いところがあるようだな。 優しさゆえか、冷酷さはルシフェルに劣っている。いや、端からないと言っても過言ではないか。」 「・・・よく喋りますね。よほど『ここ』がお好きなようで。」 最初と比べると驚くほど喋る喋る。 「全力ではないものの、少しずつ力は戻ってきている。 ・・・それを避けたいから私を他の場所に移したいと思っているんだろうが、それはそれで困る。」 「思ってはいたんですけど、やはり無理なようですね。」 強張った表情を一変させてミカエルは苦笑した。 落胆しているようにも見えるが実際はそうじゃない。 長く仕えているイスカは、ミカエルの変化を即座に感じ取った。 苦笑してはいるが、これは焦燥の意味だという事を彼は知っている。 「ミカエル様・・・。」 ふいに零れた言葉は不安げな様子だった。 その声にハッとしたミカエルは驚いた目でイスカに向き直る。 そして彼は気付いた。己の失態に。 (駄目だ、知らず知らずの内に弱さが表に出ている。) 誰にも分からない様に俯き、下唇を噛みしめる。 違う、今やらなければいけないことは弱さを認め臆することじゃない。 大事なのはこの最悪な状況をどうやって乗り越えるか。 考えろ、考えるんだ。必ずどこかに道はある。 「策がまとまりそうなら下がっていろ。俺があいつの相手をする。」 「シリウスさん、ですが・・・。」 「勝つんだろう、俺達は。 だからどんな事をしても何があっても、ここで死んでも勝たなきゃならない。 お前がそれを考えるんだ。お前にはそれを考える義務も、そして知恵がある。」 「そうね、私達みたいな凡人じゃ考えるだけ無駄なんだからあんたが勝算を練ってよ。 それまでは・・・私とシリウス達で何とかするから。」 「アスティアさん!?」 「神を捕まえてくるのもよし。増援を頼みに行くもよし。・・・この際だからフェイルを連れてくるのもよしとしてやる。」 最後に棘のある言い方がかなり気になるがこの際気にしない。 2人の姿を見て感動したのか、イスカも彼等の中に入るつもりのようだ。 感謝で溢れるその心遣いは大変嬉しいのだが、それでは皆が危険になる可能性が高い。 彼が言うように神を捜すにしても居場所を掴めない限りは下手に動くのは不味い。 「今の段階では、シリウスさんの言う通り増援か、神の援護が必要です。 我々だけの力では限界があります。 でもだからこそ、増援するのなら尚更、私は抜ける事は出来ません。」 「ミカエル様っ!?」 「今は戦力を重視すべきだと判断します。 自分で言うのも気が引けますが、これでも私は大天使です。皆をまとめる役目があります。」 だからこそミカエルが行くべきだ。 そう言おうとしたシリウスは目を瞠る。 「でもそれ以上に、命をかけてでも障害を倒さなければいけません。」 「それは神の意志であり、私の意思でもあります。」 辿り着いた答えはおぼつかないけれど、確かにそう思った。 上に立つ者だからこそ、誰よりも速く前に出ていくんだと。 確かに、逆だ。ルシフェルとは逆だ。 どうして素直に彼等の好意を聞き入れられないのかが不思議で、たまに己の我侭さに嫌悪することだってあった。 けれどどうやっても直らない。 敵に背を向けることも。逃げるわけではなくても、仲間を少しの間置き去りにする事も。 「それに、そう簡単にアスタロトが行かせてくれるとは思えませんしね。」 ここにいる全員が一気に動いたとしても彼を止められるかどうかは分からない。 強いて言うならば、止められる確立はかなり低い。 自分の変わりに、神かフェイルといった、並大抵ではない力の持ち主でなければ。 「彼とまともに太刀打ち出来るのは、この中では恐らく私でしょう。 ・・・皆さんのご好意は嬉しいですが、私はここに残るべきだと判断します。」 「ですがミカエル様っ。」 「イスカ、貴方なら飛べるはずです。 長い年月を共にした貴方なら、僅かな隙を狙って大空に羽ばたけるはずです。」 応援を呼ぶのはミカエルではなくイスカに。 使命された本人は半ば呆然としていたが、すぐに複雑そうな表情に戻ってしまう。 「ミカエル様、俺は・・・っ!」 「私が何としてもアスタロトを食い止めます。 流石に命を懸けると、あの世に逝っても貴方やシギ達にこっ酷く叱られそうですから、 全身全霊を懸けて、応援が来るまで必ず彼を足止めさせます。」 "お願いします" そう言われたら「嫌だ」なんて言えないじゃないか。 悲しそうに、ほんの少しだけ顔を歪められたら何も言い返すことが出来ないじゃないか。 俺が絶対に逆らえないことを貴方は知っている。 違う。俺が絶対に逆らわないって、知っている。 「・・・・・。」 開いた口を閉じ、また開く。それが何度か続いた。 ミカエル様は、命を懸けたりしないって言っただろう。何を躊躇う必要があるんだ俺。 もう頭では分かっているはずだ。 彼は、どうしようもないくらい危なっかしい上司は無茶はするけれど嘘は絶対に吐かない。 意図的に誰かを悲しませるようなことは絶対にしない方だ。 「分かりました。全速力で応援を呼んできます。」 「ありがとうございます、イスカ。」 ホッと安堵した様子のミカエルは胸を撫で下ろし微かに微笑む。 頭の固いイスカが簡単に折れてくれるとは思ってはいなかった。 だが話し合えば(渋々ながらも)必ず頭を縦に振ってくれる。 よほどの事がない限り、彼は断固反対はしない。 「私達は別にどっちが行っても関係ないわ。」 「あぁ。だが急げ、限界がある。」 流石にこの人数だと心もたない。 ソピアはこちらに攻撃するのではなく、後ろにいる天使達から排除している。 次に狙われるのは間違いなく自分達だ。 その間にアスタロトを倒さなければ、2つの脅威が一気に一つに集中する事になりかねない。 そうなればお終いだと言っても過言ではないだろう。 だからこそ誰か速く。力のある者ならばこの際誰でもいい。 彼等の想いを説に感じ取ったのか、イスカは厳かな表情で深く頷いた。 一呼吸置いて、風を読み翼を羽ばたかせる。 イスカがいた所を中心に風が渦を巻き、木の葉を吹き飛ばす。 「・・・さて、誰を連れてくるんだろうな。」 イスカを追いかけようともせず、アスタロトは無表情で空を見上げた。 襲撃した時よりも大分暗くなっている。 もうすぐ一夜明けるだろう。 どうやら魔族は長期戦に持ち込む気はないらしい。 上級クラスの魔族を先頭に幾つか部隊を編成し、脆そうな配置を次々崩していく。 計画的ではあるが、頭であるルシフェルの人物が未だ見つからないのは不可解だ。 それを言うとゼウス神もまだ戦場に赴いていないのだから変に突っ込み出来ないが、 裏を返せば彼が出てくるまで警戒を怠るな、と言うわけだ。 「まぁ誰でもいい、厄介な人物が消えることには変わりないのだからな。」 「そうはさせませんよ。必ず貴方達は倒してみせます。」 増援はイスカに任せた。 たとえ敵に気付かれたとしても、彼ならばよほどの事がない限り負けない。 そう信じている。いや、確信している。私は。 論理的な根拠なんてこれ1つないけれど、絶対に大丈夫だ。 彼なら必ず、必ず伝えてくれる。 「・・・ならばせいぜい足掻くがいい。地獄の底にまで引きずりまわしてやろう。」 彼が目を伏せた瞬間、地面に黒く赤い文字が刻まれる。 魔法陣では、ない。 毒々しいほどの力を感じるそれは、まるで生きる気力を吸い取るような蛇に似ている。 ソピアと対峙していた天使達が膝を付き肩を震わせていた。 青ざめた顔をして、額からは冷たい汗が流れる。 神の加護なんてない。全てが魔族にのりうつられたように、黒く禍々しい力が全身を駆け巡る。 言葉で言うならば「怖い」 叫ぶとすれば「助けて」 頭が痛い。吐き気がする。目の前が真っ白で、焦点が定まらない。 純粋に恐怖を感じる。ここまで死にたいと思ったのが初めてなくらい、ただどうしようもなく恐ろしい。 「・・・?何、どうしたっていうの?」 倒れこむ天使達を見て、たった2人アスティアとシリウスは呆然としていた。 ミカエルは膝をつく事はなかったが、剣を地面に突き刺し必死で体を支えている。 言わずもがな、顔面蒼白だ。 「・・くっ、これは・・・。」 「流石に人間には通用しなかったか。恵まれた種族と言うべきか。」 吐き捨てた言葉に感情はこもっていなかった。 誰か他の魔族がそう言えば少しは皮肉っぽく聞こえたかもしれない。 だが彼は、アスタロトは口でそう言いつつ、人間に目を向けるどころか苦しみ倒れゆく天使を見て 珍しくほくそんでいた。 が、しかし。人形めいた表情の彼が微笑しているなんて誰が気付いているだろうか。 しかも今はミカエル達は肘を付き、額から冷たい汗を流しながら苦しんでいるというのに。 「お前、あいつ等に何したんだ?」 舌打ちしたと同時にシリウスはキョロキョロと何かを探した。 不機嫌そうな顔で、酷く苛ついた雰囲気で。 あいつはどこだ。その辺の魔族なんかじゃねえ。 ラクト、ソピア。・・・ソピア、そうだあいつ。 どこだ、どこにいる。 「何をした、と言われても。・・・先ほど言っただろう?地獄の底まで引きずりまわすと。 そのためには私はどんな手段でも使う。たとえそれが卑劣な手口であろうと、勝つためならば何だってする。」 「随分じゃないの。ここまで卑怯な手を使わないとあんた達は真っ向から戦えないわけ?」 「・・・なんとでも。」 恐ろしいほどの負の感情で満たされている。 神の力を利用したソピアとは全く違うが、これはこれでたちが悪い。 息苦しさで胸が締め付けられる感覚を覚えた。 数回咳き込んで、何とか肺に空気を入れる。 この赤黒い刻印が原因なのは分かっている。 ただ苦しいだけじゃない。天使に必要な聖気が抜かれていっている。 このままでは、あの時のシギと同じ様な形になってしまう。 あの時はフェイルさんが何とか助けてくれたけれど、今はそうはいかない。 ここにあの人はいない。たとえあの人でも、全員を助けるほどの力はないはずだ。 ・・・いや、彼女なら命を懸けてでも私達を助けるかもしれない。 駄目です そんな結果にだけはなってはいけません 絶対に アブソリュート神だけは絶対に 「・・・立ち上がりなさい。」 もう一度立ち上がってください。 「ここで倒れるわけには、いかないのです。」 命に代えても 「貴方達が信ずる者を、愛する者を、全力を尽くして守りぬきなさい。」 魂が焦がれても 「―――――立てっ!!!!」 重い足取りで、けれど勢いよくミカエルは立った。 罵声とも言える声で、初めて聞く怒号は決して同胞に向けられたものではない。 ミカエル自身に対する叱咤。そして渇入れだ。 彼が叫んだと同時に次々と天使達は立ち上がった。 無理を承知で、本来ならば立っているのがやっとなのに、彼等はもう一度剣を握った。 どこからともなく掛け声が集まり、剣の交える音が再度響く。 それに動揺した魔族達は不意を突かれて斬られる者も多くいた。 「ミカエル。」 戸惑ったような、遠慮したような声がミカエルの耳に届いた。 誰、といわずとも既に分かりきっている。 今この付近にいる敵の女は1人しかいないのだから。 (・・・まさか、こいつ死ぬ気で・・・。) 声には出さなかったものの、端整な顔が少し歪んでいる。 「ほぉ・・・。なるほど、いや、流石と言うべきだ。素晴らしい。」 パンパンッ、とアスタロトは数回拍手をした。 結果が良かれ悪かれ、どうやらこの動きは彼に好感を持たせたらしい。 また彼もソピアと同じ思考に辿り着いたようで、うっすら冷笑している。 「だが一つだけ残念だ。お前は死に急ぐような戦法は取らないと思ってたんだが・・・。」 どうやら私の買い被りだったようだ。 クツクツと微かに笑いながらアスタロトは額にかかる髪を鬱陶しそうに掻きあげた。 「やはり違うんだな。」 誰と、だなんて言わなくても既に分かっている。 責めるわけでもなく、ただ淡々と述べられてばかりでは気が重い。 何らかの感情を宿していればこちらもかなり楽なのだが、やはり相手の瞳に色はなかった。 「・・・ええ違いますよ。片割れだからといって一緒にしないでください。」 これが精一杯の反撃だ。 「そうか、ならば仕方がない。」 ようやく彼は剣を引き抜いた。 月光に反射した銀色の刃は妖艶にぎらりと輝いた。 冷え切った瞳に、初めて感情が現れたのだと気付く前に全身の血がサッと音をたてる。 玩具に興味がなくなったような、つまらなさそうな顔をしてアスタロトは一歩足をずらす。 タイミングよく風が吹き、一瞬だが彼等の間は砂埃の壁に覆われた。 微かに聞こえる足音をたよりに彼等は動き始める。 ――――――ザッ! 砂の上を歩く独特の音が1つ聞こえたと同時に何かが揺れた。 砂埃の間の微かに見える影が瞬時に姿を消し、見えない殺意が背筋を凍らせる。 何かの気配に、最初に気付いたのはアスティアだった。 転ぶように前に進み、矢を構えながら何かに勢いよく放つ。 だがそれが何かを貫通することはなく、カンと音をたてて返ってきた。 「遅い。」 妙に冷め切った声がするほんの少し前にアスティアが異変に気付きその場から数歩退いた。 ブンッ、と風を裂く音がするのにそう時間はかからない。 そのまま突っ立っていれば、確実にアスティアは胴体を切り裂かれていたに違いない。 だがその恐怖に臆することなく、アスティアは待ち構えていたかのように矢を向ける。 それが放たれ、アスタロトが回避するタイミングは同じ。 「どうした、その程度では私は倒せないぞ。」 「っ煩いわね、そう言うんだったらちょこまか動かないでくれる?」 一気に間合いを詰めたアスタロトに鳥肌が立つ感覚に陥ったアスティアは、 けれどいつものような棘のある台詞で、怯む様子をこれっぽっちも見せない。 内心では冷や汗だらだらなのだろうが、驚くことに彼女はほくそ笑むほどの余裕を表で見せている。 敵との距離は1mもない。 目に見えない威圧感が肺を、心臓を圧迫しているようでとても息苦しい。 「アスティアっ!!」 間合いを詰められた時間は5秒もない。 だがそれが1分、5分ほどの時間に感じられたのはアスティアの気のせいではないだろう。 声に反応し、咄嗟に下に潜り込んだ。 すると頭上で金属の共鳴が鳴り響き、まるで火花が散っているような光景が広がっていた。 「・・・腕は確かだが1つ1つの動作が乱れている。 勿体無いな、これほどの力を持っているというのにそれを使いこなす事が出来ないとは。」 「黙れっ。」 「迷いか?お前の腕を鈍らせているものは。」 「ほざけ。俺に迷いなど、ないっ!!」 敵の剣を弾いた。 そのチャンスを見逃す愚かな行為はシリウスはしない。 一気に前進し、ありったけの力を剣に込める。 ――――――クリムゾンスピア!! 「何っ!?」 血の色に似た槍がシリウスの足元に次々刺さる。 大剣を背負い、回避に切り換えるが予想外に速いそれに無傷で逃げられることはなかった。 脇腹と左腿を掠ったせいでバランスを失ったシリウスは、その場にひざまずく形となる。 (くそっ・・・) あの声は知っている。 思い出すだけで鼓動が速くなる。 声を聞くだけで全身が熱くなる。 (許さねえ、絶対に許すことなんて出来るか。) 妹が死んで、その姿を目の当たりにして泣けなかった。 フェイルが泣いて、どうすればいいか分からなくて、ただ彼女を抱きしめて。 重なった影を追い求めていた。 自分にとって唯一無二の家族が奪われた。故郷を奪われた。 悔しかった、悲しかった、泣きたかった。 「・・・ピ、ア・・・。」 全てをもう一度取り戻したい 心が、全てを返せと叫んでいる もうどうしようもないという事は分かっているのに でも足掻く心はどうやっても消えない 出来ない事が分かっているから 彼女を殺してこの怒りを静めたい 殺さなければ俺は・・・ 気が狂って、もどかしくて、どうしようもなくて 誰かを、味方を、何もかもを敵と見なし、殺してしまいそうだ 「ソピアーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」 憤怒の形相で、先ほどの怪我を忘れたかのようにシリウスは突進した。 その殺意に思わず身を竦めたソピアは一瞬息を呑む。 真っ直ぐ、ソピアだけに向けられた殺意。 既に彼の瞳は怒りへと化している。それ以外には何も感じられない。 (・・・怖い。) (違う、何を恐れているの。) (もう、嫌だ。) (止めて、私は私だ。ソピアなのよ。) (もう、誰も殺したくない。) (殺さなきゃ、私が殺される。) (・・・助けて、助けて。お兄ちゃん、助けて。) 「シリウス!」「シリウスさんっ!!!」 シリウスの変動に少し驚きを見せたアスタロトはすかさずソピアの前に出る。 だが、先ほどより一段と強くなったシリウスにまたもや剣を弾き、今度は剣もろごと吹き飛ばされた。 「――――ぐ、ぅっ!!」 建物にぶつかる前に何とか踏ん張ったが、それなりの距離まで飛ばされた。 急いでもソピアの元に辿り着くことは出来ない。 「うおぉぉぉぉおおお!!!」 あっという間に彼女の元に辿り着いた。 下から上に大剣を上げ、勇ましくそれを振り下ろす。 半ば暴走しながらも、ソピアが今どんな表情なのかは分かっていた。 微かに見える恐怖。だが意地か何かでそれを全面的に出せない。 詠唱をしていたようだが、この距離からだと完全に妨害される。 それだけで済めばいいが、間違いなくソピアは斬られるだろう。確実に。 「い、・・・・。」 「いやあぁぁぁぁぁああ!!!!!」 心の底で何かが弾けた。 《本当》の私が、泣き叫んだ。 生きたいと。だけど死ななければならないんだと。 生きたい・・・ そう思うと胸が苦しくて 知る事がないだろうと思っていた、知る必要がない涙が溢れた。 「―――――――――っ!!」 彼女の叫び声にシリウスの動きが止まりかける。 だが、勢いに乗った大剣はその重さと加速して止まる気配はない。 切羽詰った泣き声に酷く反応したが、既に手遅れだ。 ――――――ギイィィンッ!!! 突然響いた金属の音の次に聞こえたのは、荒々しい息だった。 何が起こったのかまだ理解しきれていないシリウスは、自分より下にある何かを恐る恐る見下ろした。 自分より頭1つほど小さい少年。 同じ大剣を使いこなし、誰よりもソピアを大切にしている魔族。 あの距離からどうやってここまで来たのか、まるで奇跡としか言いようがない。 「はぁ、はぁ・・・。」 「・・・ラクト・・・。」 額から流れる汗を拭こうともせず、ラクトは剣を構えたまま硬直していた。 シリウスをジッと見据えたまま、呼吸を整えるまでずっと、動かない。 「・・・くな・・・。」 肩で大きく呼吸をしながらも、絶対にシリウスから目を離さなかった。 後ろでソピアが呆然としてしゃがみこんでいる。 つい先ほどの様子とはまるで別人で、意識が朦朧しているのかぼんやりとしている。 「ソピアに、近づくなっ!!」 こいつの目が、俺と同じ目の色だと知ったのはその後すぐだった。