―――Tears Fell Fast (涙がとめどもなく流れ落ちた)―――




























■天と地の狭間の英雄■
       【愛しき少女よ、どうか安らかに】〜絶望という名の幸福〜






















一撃が小さな体を襲う。
だがまるで生き物ではないかのように少女はそれを素手で受け止めた。


「な、に・・っ!!」


大剣とざんばらになった桃色の髪の間から、にたりと笑う。
瞳は何を映しているのか全く分からない。
白く細い手からは脈打つように鮮血が流れ出していた。
けれどソピアはそれを痛みと感じていないのか、鋭く尖った大剣を手放そうとしない。

ゆらりと、彼女が先に動いた。
カタカタと大剣が揺れ、しまいにはピシ、とひびが入る音がシリウスの耳に過ぎる。
それに不味いと感じたシリウスは剣を引こうとするが、恐ろしいほどのソピアの力に動きを封じ込められる。
剣が折れるのは時間の問題だと確信したシリウスは、柄を離そうとする。
スローモーションのようにゆっくりそれが離れていくように、思えた。


「――――!?」


空いていたもう一つの腕が彼の腕を捕らえた。
その力は、骨が折れそうなほど強い。
思わず顔をしかめたシリウスだったが、目を開けた次の瞬間息を呑む。



フワリ




「・・・・・ソピ、ア・・・。」




美しく笑みを浮かべる


だが、次に目の前に見えたものは




血




「・・ぁ、・・・・が・・・っ・・・・!」



腹部から聞こえた、何かを貫通する鈍い音。
何がなんだか分からないうちに、自然と口から吐血する。
そしてようやく理解した、彼女の細い腕が、自分の腹部を貫いたのだと。
これ以上開けられないほど瞠目し、酸素を求めて荒く呼吸する。

ソピアの髪が目の前をひらひらと揺れた。
憎らしいほどの淡く綺麗な桃色の髪が、シリウスの視界を奪う。
どれくらい時間がたったのだろうか、ほんの一瞬だったのかもしれない。
全ての動きがゆっくり感じられたと思ったら、今度はズッと音の悪い音を立てて腕が抜かれた。
支えを失った体はそのままゆっくり崩れ落ちる。
その中で確かにソピアがうっすら笑っているのが見えた。
嘲笑するかのように、勝ち誇ったかのように。

地面に打ち付けられた体は思うように力が入らず、痛みと患部の熱で頭がおかしくなりそうだった。


「・・・ぐ、ぅ・・・・ゴホッ!!」


一度酸素を取り入れれば、まるで受け付けないかのように奥の方から血がむせ返ってくる。
腹部を押さえてシリウスは掻き消えそうになる意識をどうにか保ち、落とされた剣を握ろうと手を伸ばした。
だがその手をソピアが強く踏みつける。
そして彼の体を持ち上げると、ゴミを棄てるかのように投げつけた。

崩れた建物に強く背をぶつけ、小さく悲鳴を上げたシリウスはそのまま再度倒れ込む。
今度こそ意識が消えそうになる。


「・・・・・」


微かに動くシリウスを確認したソピアは、無言のまま足元にあったシリウスの剣を手に取る。
彼の腹部を貫いた手で掴んだせいで、柄から剣先にかけてシリウスの血が流れ落ちる。
ずるずると、まるで這うように歩くソピアから完全に生気は抜けていた。
口元には、未だ嘲笑の色が残っていた。
歩くたびに首が左右に揺れ、筋肉がまるでなくなったかのように、おかしい動作で彼女は倒れたシリウスに近づいた。

既に息が絶え絶えになっている彼の頭上にまで来ると、ソピアは柄を握り直す。
すると禍々しい黒い光が剣を包み、銀色に輝いていた剣はシリウスの血を吸ったかのように赤黒いものに染まっていった。



「・・・・シネ。」



ソピアの声はシリウスに届いた。だが霞む視界の中、シリウスは起き上がることが出来ない。
頭上より高く上げた剣を、勢いよく振り下ろす。
そこは心臓の部分だった。だから、これが突き刺さればソピアが死ぬ事はない。
死から逃れられる事で、ソピアの表情に冷たい笑顔が浮かんだ。



――――――キンッ!!

「――――!?」



突如風が、いや、弓が剣を弾いた。
ガラン、と遠くに飛ばされた剣を呆然と見ていたソピアは急に現れた邪魔に顔をしかめる。
弓が襲ってきた方向を振り向こうとする。
だがその時、彼女の髪よりずっと濃い、炎のように強い色が目の前に現れた。



「ソピアアァァァァアアアっ!!!!」



頭上から落ちるように、いや、舞い降りるように現れた少年は怒りを露にして彼女に向けて槍を振る。
しかしソピアはそれを間一髪で避けた。
そして距離を置くかのように、一歩一歩、また一歩下がる。

聞き慣れた声がシリウスの鼓膜を刺激した。
重い瞼を持ち上げ、シリウスは重たく首を動かす。




「リュ・・・オ・・・・」

「しっかりしろシリウス!!こんな所で、こんな所でくたばるなっ!!!」




叱咤する声にシリウスは少し目を覚ます。
随分大声を出しているようだが、彼には微かにしか聞こえなかった。




「シヌ・・・。コロ、サレル。」




状況を判断していたソピアは、震えた声でゆっくり紡ぎだした。
だがどれも絶望的な単語ばかりで、彼女を不安にさせる要素は十分すぎるほどあった。




「もう大丈夫だ。僕たちが、お前を助ける。」




力強い言葉がまたシリウスの耳を過ぎる。
青ざめた顔をしながらも、彼はフッと微笑を浮かべた。



「そ・・・う、か・・・。」

「ああ!だから、死ぬなよっ!!」

「そうよ、あんたまで消える事はないわ。」

「ええ。さあシリウスさん、今から回復魔法をかけますよ。」

「・・・シリウス君、大丈夫だよ、すぐに良くなるよ。」




リュオイルに遅れるように、次々に仲間がシリウスのもとに駆けつけた。
狙いを定めたままの状態でアスティアが何か企んでいるような笑みを微かに浮かべた
この大怪我にも冷静でいられるミカエルは、シリウスの答えを待つことなく既に詠唱を始めている。
そして、今にも泣きそうな顔をしてフェイルは彼の前に膝を折った。
シリウスの頬を一回二回撫で、安心させるかのように、少し無理をして微笑んだ。
手の暖かさに自然とシリウスの瞼は閉じる。

ああ、人の体温は、こんなにも温かい。

皮肉なものだ。こんな大怪我を負ってから、一つの手がこんなにも温かいと分かるのは。
そして、傷ついてやっと、生きる事の大切さを知る。




「フェイル・・・。」

「うん?」

「・・・フェイル。」

「うん。」

「フェイル。」




鉛のように重く感じる腕を持ち上げて、シリウスは未だに自分の頬を撫でるその手を触った。
その上に、重ねるように空いた手でフェイルが手を置く。
冷えた手が温められた。
ゆっくりと、だが徐々に回復されていることで、元の体温を取り戻す。
生きる希望を感じた。




「・・・ここは、私が何とかします。」




束の間の安息にミカエルは現実を突きつけた。
しかしその言葉は非常に穏やかで、顔を上げれば微笑も浮かべている。
彼の言葉に頷いたフェイルは、名残惜しげにシリウスの手をゆっくり解いた。
抵抗の意思はない。
だがシリウスは不思議そうにフェイルを見つめる。
何も知らされていない瞳が、こんなにも辛いとは思わなかった。




「ソピアは、私が解放する。」

「・・・フェイル?」

「ラクトと私とで、あの子を助けるの。」

「助けるって、どういうこと、だ・・・?」




当然彼の瞳は何度も瞬かされる。
訝しげにひそめられた眉に思わず苦笑を漏らす。
けれども、彼女から自分の欲しい言葉は返ってこない。
困ったように笑った途端立ち上がった少女は、振り返ることなく戦火の中に身を投じる。

その姿が儚くて、無意識に手を伸ばした。
虚無を掠めるだけで何も手の中に触れる事はなかった。

少女は、振り返らない。
何を決意したのか、何をしようとしているのか、分からなかった。



「ソピアを解放します。あれは、既に自我を失っている悪魔にすぎません。」



癒しの魔法をかけながら、ミカエルは淡々とフェイルの代わりに答えた。
それでもまだ現状が分からないシリウスは、身をよじりながら彼と、そして既に遠くに行ってしまった少女の姿を見た。




「貴方ではソピアに致命傷を負わす事は出来ません。
 今の彼女は、フェイルさんの魂を心臓に刻み込まれた状態です。
 未熟ながらも神の力を手に入れた悪魔に、人間が太刀打ち出来るはずがありません。」




だからフェイルの力が必要とされる。
アブソリュート神としての力が必要不可欠な今、躊躇している暇はない。
元は彼女の魂の欠片なのだから、ソピアの内にある力はフェイルの元へ戻ろうと足掻いているはずだ。
相対的でない限り、神の力は反発しあうことはない。
寧ろ、己から元の場所へ帰ろうとする。

少しだけ微笑を見せた後、ミカエルは再度治療に集中した。




「・・・あいつは・・・。」

「アブソリュート神の力と、ラクトの声によって、ソピアを葬ります。」




薄々感ずいていた。
フェイルが苦笑した時から、ミカエルが自分では敵を倒すことが出来ないと言った時から。
隠すべきか隠さないべきか、悩んでいたのだろうか。
特にフェイルは多くを語ろうとはしなかった。

そして先のミカエルの言葉で、答えは導き出された。
ソピアは死ぬ。殺される。憎んでいた俺ではなく、ましてやゼウスでもなく。
奪われた力を取り戻すため、そして、守り解放するために・・・フェイルが引導を渡す。
少女の真っ白な手が赤く染まる。

戦争をしていれば、戦う者なら誰でも経験するはずなのに、突きつけられる現実を認めたくなかった。



















「アスティアっ!!」



ソピアの体を吹き飛ばしたリュオイルは、後ろで控えていたアスティアに声を荒げる。
それに反応し、素早く弓を構えた。
一瞬風を切る音がしたかと思えば、鈍く輝いた矢の先端がソピアを貫こうと襲い掛かる。
しかしそれを瞬時にかわした後に、そのまま転がり込んだ。
軽く舌打ちをしたアスティアは追い討ちをかけるかのように、大きくジャンプした途端、無数の矢を放った。
頭上から降り注ぐ矢の雨に流石に防ぎきれなかったソピアは、小さく悲鳴を上げてその場に崩れた。


「・・・ウ・・・。」


左腕を貫通した矢を恨めしそうに睨んだソピアは、迷うことなくそれに手を置く。
ズズ、と嫌な音を出しながら、ゆっくり矢を抜き始めた。
その速さと同じように血が腕を伝って服に染み込む。
生温かさと冷たさが同時に感じられて、気持ち悪い。
カラン、と音を立てて矢が落ちると、ソピアは少しだけ苦しそうな顔をして、そして少し無理をしたように笑った。
その笑みはどこからくるものなのか。
痛み、苦しみ、怒り、恐怖。
どれにも当てはまるようで、どれにも当てはまらない。

そんな姿を見ても少しも臆しなかったのか、アスティアはもう一本構える。
彼女の邪魔をさせないかのように、前に出てきたリュオイルとイスカはそれぞれ構えた。



「ソピア・・・。」



しかしその緊張は後ろから聞こえた声で少しだけ緩和する。
少し上ずった声は微かに震えていた。
絶望なのか、恐怖なのか。兎にも角にも感じられる感情は全てマイナスのものばかり。
聞き覚えのある声にイスカは確信した目で振り向く。


「フェイル。」


その中には彼女も含まれていた。
ラクトを安心させるかかのように、細い手は少年の肩に置かれていた。
微かに笑みを見せて、ゆっくりこちらに歩いて来る。
そして、気付く。

ああ、フェイル、君は・・・



「行こう、ラクト。」



君は、もう戻ってはこないんだね。





「ソピア、もう・・・やめよう。」

「・・・・」

「もう駄目だよ。僕は・・・君の傷ついた姿なんて、見たく、ないんだっ!!」

「・・・・」

「ソピアが僕を嫌いならそれでいい。だけど僕は・・・」





今にも泣きそうな顔でラクトは心の内を訴える。
少年は、傷だらけだった。見た目ではない、心が。


「僕は君じゃなくて、"ソピア"に生きてほしいんだっ!!
 魔族の力で操られてるような君じゃなくて、僕を兄と慕ってくれたソピアが・・・。」


どちらが本物のソピアなのか、僕には分からない。
だけど君は知らない。ソピアだって、君を知っていた様子は見えなかった。
シリウスに襲われた時、確かに彼女は僕のことを「お兄ちゃん」と呼んでいた。
助けて、と。
それは、死にたくない願望があるからこそ叫べる言葉だ。

ソピアは虚ろな瞳を少年に向けた。
ピクリと動いた指先は、まるで何かを探すかのようにゆっくり動く。
本人はそれに気付いていない。多分その行動は、内に封印されてしまったソピアの意思なのだろう。
だがそれはしっかりとした"足掻き"だった。
小さく弱々しいが、確かな抵抗だった。


「・・・オニ・・・イ・・・・」


震える唇が、開けては閉じてを繰り返す。
時々それは音になり、ほとんどは形に残ることはなかった。
ようやく搾り出した音は、ラクトに対して「おにいちゃん」と呼んでいるように聞こえる。



「ア、ァァァアアアアァアアっ!!!」



しかし全てを言い終える前に、魔族としてのソピアの声が空に響いた。
"ソピア"の言葉を拒絶しているのだろう、忌々しげにラクトを睨み付けている。
一瞬それに怯えたラクトだったが、ふわりと微笑むと彼女の元へ歩き出した。


「君はいつも誰かを傷つけることを嫌がっていた。」


初めてフェイル達を襲ったあの海上の時だって、ソピアはずっと悲しそうだった。
魔族のくせに変に臆病で、そして殺生を嫌う。
だからロマイラには疎まれ、「魔族の恥」とさえ罵られたことだったあった。


「でも僕は、そんな君が大好きなんだ。」


臆病で寂しがり屋。
引っ込み思案なのに、ソピアはいつも僕を助けてくれた。
唯一の居場所が君の隣なんだと、やっと安心できた。
笑顔でいてくれる君が好きだった。
誰よりも先に僕に相談してくれる君が好きだった。
怖がりなのに、魔族から僕を必死に守ってくれる君が好きだった。
友達だと、お兄ちゃんだと言ってくれた君が大切で大切で仕方がなかった。

今もそれは変わらない。
たとえどんな姿になっても、僕は、君が好きだよ。ソピア。


「帰ろう、ソピア。」


差し出した手に迷いはない。


「・・・・・ア・・・アア・・・・。」


風が吹き、少女の髪が静かに揺れた。
意味不明な言葉を何度も呟き、ラクトを凝視して離さない。
つ、と頬を伝う水が流れていることを、彼女は理解しているだろうか。

涙。

見る見るうちに、零れる涙の量は増していく。
まるで終わりを知らないかのように、一粒、また一粒地面に吸収される。
しかし足は根を生やしたかのように動くことはなかった。
細い肩は震え、指はラクトに向けようと必死に動く。
やっとのことで伸びた腕は、何かを掴みたくて仕方がなかった。
けれど空を掻いては、その無意味さを痛感する。

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ驚きを見せたラクトは、彼女の行動を見て深く深く、泣きそうになりながらも笑った。
何かに掴もうとするソピアの指に、自分の指を絡ませる。
やっと欲しいものを手に入れてホッとしたのか、涙はそれ以上零れ落ちることはない。
身長差のある2人なものだから、至極当然ソピアが見上げる形になる。
微かに感情の見える薄紫の瞳に、ラクトは己の無力さを感じ、そのまま壊れ物を扱うかのようにソピアを抱きしめた。



「帰ろう、ソピア。もう、これ以上君が傷つく必要はないんだ。」

「・・・お、に・・・ちゃ・・・・」

「帰ろう・・・ソピア。」



ああ、温かい。

少女の身体はまだ熱を持っていた。
それが当たり前なのに、まるで今まで死んでいたかのように思われていた彼女が、今腕の中にいる。
ラクトの腕に包まれたソピアは、まだ意味不明な言葉を漏らし、泣いていた。
しかし彼女は自身が泣いていることに気付いていないのか、瞠目したままラクトの胸に顔を埋めている。
ソピアの腕がラクトの背に回されることはない。
だが、暫く時を待っても、少女からの拒絶は感じられなかった。

それだけで十分だ、と言わんばかりにラクトの表情が緩む。
泣くまい、と懸命に堪えてきた熱いものが、頬を伝って落ちていく。
子供のように、いや見た目はまだ子供同然なのだが、
人間より数倍以上長生きしていても、零れ始めてしまった涙を止めることが出来ない。



「・・・ルキナ。」

「はい、アブソリュート神。」



その光景を苦そうな顔で見ていたフェイルは、後ろに控えていた誕生神ルキナに笑みを送った。
準備をしろとの、合図だ。
ソピアから魂の欠片を回収するには、彼女を殺さなければならない。
相反する神の魔力と魔族の魔力では、ソピアの身はもたないだろう。
しかしこの選択こそが彼女を救い出せる方法なのだ。
たとえそれが"死"を意味したとしても、本来のソピアに戻る可能性は十分にある。
何より、今この状態で彼女は苦しんでいることに違いはない。

(アブソリュート、力を貸して。)

ギュッと目を瞑ったフェイルは、心の奥に存在するもう一人の自分に声をかけた。
その途端、フェイルの身体が淡く光った。
小さな口から何か言葉を発しているが、普段使い慣れている呪文でないと確信する。


「フェイル・・・。」


あれは、神族の言葉だ。
人間は決して覚えることも唱えることも出来ない、解読不可能な神族の言語。
穏やかで品のある声はまるで歌を紡いでいるようだった。
だがその反面、フェイルがフェイルではないように見えて仕方がない。
きっとあれは、アブソリュートと同化しているのだろう。
以前見えたアブソリュートよりは随分と穏やかな表情ではあるが、あれは決してフェイルの表情ではなかった。
2つは1つになってようやく本当の力を発揮する。
互いにないものを補い、真の神として君臨する。

歌を紡ぎながら、今度は右手を大きく空に掲げた。
眩い光りが闇を跳ね返し、朝日よりも眩しい光がそこに現れる。


「フェイルっ。」


治療が終わったシリウスは、ミカエルの肩を借りながら、おぼつかない足取りでリュオイル達のもとへ辿り着いた。
小さな叫びは、決して神化しているフェイルに届くことはない。
目を瞑ったまま、彼女の歌声は止まることを知らないかのようにゆっくり時が流れる。



「あれは・・・!」



驚愕したミカエルの視線は一点に注がれた。
高く掲げた右手には、うっすらと固形のものが具現化されている。
細く長いが、先端部分は鋭利な刃物が見える。
重苦しい装飾がされたそれが大きく長い槍だと分かると、思わず息を呑んだ。



「まさか、ロンギヌスの槍!?」



リュオイルの槍とは全く種類が違うものだった。
宝剣エクスカリバーと同じく、天界において大変貴重な武器である。
しかしあれは、実在するかどうか今まで分からないものだった。
触れることが許されるのは神々のみ。
人間はもちろん、天使や魔族でさえも触ることが出来ないと言われていた宝槍ロンギヌス。
これまでの歴史の中でお目にかかったことは皆無に等しい。



「ロンギヌスの槍?」

「我が天界で重宝されている武具の1つです。
 宝剣エクスカリバー、宝槍ロンギヌス。・・・槍を見るのは、私も初めてです。」



初対面となるそれに胸が高鳴る。
まさか生きている内に見れると思っていなかったのだ。興奮するのも無理ない。
だが・・・



「誕生神ルキナが詩を紡いでいます。あれは・・・魂を送還するための詩。」



その言葉でピンときた。
フェイルは、いやアブソリュート神はあの槍でソピアの生涯を閉じようとしている。
そう確信すると、胸の奥が焼けるように熱いと感じた。
涙が零れ落ちそうなのか、それとも無力な自分自身に嫌気が差したのか。
両者とも大きく当てはまるだろう。しかし、そう思ったところで現状が変わるわけがない。

フェイルは自ら選んだ。その道は決して間違ってはいなかった。
しかしそれは、選択肢がそれ以上存在していなかったから。
たとえあったとしても、この状況を切り抜けられるような案は、結局は誰かが傷つく。
自然の摂理と同じだ。何かを得るためには何かを失う。
その掟を捻じ曲げようものならば、その人物は必ずしっぺ返しがくるだろう。

本当はすごく怖い。逃げ出したいくらい、怖い。

涙を流しながら少女は叫んでいた。
どうしようもないと分かってはいても、どうしても助けようと足掻いてしまう自分がいる。
助けることなんて、出来ないのに。



「・・・アブソリュート・・・。」



既に涙が切れたのか、ラクトの頬にそれ以上雫が伝うことはなかった。
眩しそうに目を細め、さっきまでは子供らしい表情を見せていたのに、今では神々しすぎる少女を見上げた。
するとソピアを抱く力が自然と強くなる。渡さないと言わんばかりに力だけが強くなる。
しかしその一方、彼の中では既に1つの答えが出ていた。

解放するんだ、忌々しいこの力から、愛する者を

今まで伏せられていたフェイルの瞼がゆっくり開いた。
その色を確認したラクトはびくりと肩を震わせる。
そして、穴が開かんばかりに、こちらに歩み寄ってきた神を凝視した。
深く鮮やかなエメラルドの瞳はまさに純粋。
だが何者も寄せ付けない目力を備え持った姿は、既にフェイルではなかった。
表情は消えうせている。しかし恐怖という感情は微塵も感じない。
作りものめいた端正な顔は、触れれば消えてしまいそうになるくらい真っ白だった。


「・・・ソピア。」


暫く呆然としていたラクトは、ふと優しく目を細めて、桃色の髪を愛おしそうに撫でた。


「ごめんね、ソピア。」


腕の中にいる少女はぴくりとも動かない。
呆然としているが、既に敵意は失せていた。



「ご・・・めん、僕が・・・守るって、言ったのに・・・」



忘れていた頃に涙は零れる。
瞼を閉じると、自然と眦に溜まっていた涙は地表に吸い込まれた。

ああ、これで、彼女が救われるのなら・・・


『ソピアよ、我が魂の欠片、返してもらう。』


これはフェイルではない、アブソリュートの声だ。
彼女の声を聞いて、ラクトはびくりと肩を震わせた。
どうして、表情を見ていないのに畏れるのだろうか。声だけしか聞いていないというのに、何故?

アブソリュートが握っている槍が、大きく掲げられる。
小さく古の言葉を詠いながら、ソピアの姿を捉えたまま、最後の言葉を紡ぐ。




『さらばだ』『ごめんなさい』




声が耳に過ぎったのは前者のほうだ。
だが、それと同時に、頭の方でフェイルの声が響いた。
その僅かな間、固まってしまったラクトは、刃物が肉を貫く音を間近で聞く事となる。
一直線に飛んできた槍は、ソピアの心臓よりやや下の部分を貫いた。
その反動で、後ろに仰け反りそうになるが、ハッと我に返ったラクトはソピアの体をギュッと持ち直す。
意を決してソピアの顔色を伺うと、案の定少女は瞠目したまま硬直していた。
痛みに耐えかねて零れる呻き声が耳に痛い。
凶器がソピアの体に突き刺さったのなんて、一瞬だ。その一瞬の間で、彼女は命を落とすことになる。


「ソピア・・・ソピア・・・。」


掻き抱くように、細い体は少しでも力を入れれば折れそうなほどなのに、ラクトは力を弱めなかった。
役割を終えた槍はそのまま光と一緒に塵になり、跡形もなく消え去る。
赤くぬるりとした血がラクトの服に染み込むが、そんなことどうだって良かった。

今確かに自分の腕の中に、小さな少女が存在している。
だがその体は既に力を失っており、一人で立ち上がる事も出来ないほど衰弱していた。
心なしか体温は下がり、覇気のない目はぼんやりとどこか遠くを見ている。
閉じそうになる瞼を、何とか持ち上げようと必死だ。

死に向かっている。そう思うと、身震いした。



「・・・おにぃ・・・・・ちゃ・・。」



虚ろになってくすんだ瞳は、言葉の通り「お兄ちゃん」を捜した。
ハッとしたラクトは、抱きしめていた腕の力を緩め、片手で少女の体を支えると、もう1つの手を少女の頬に添えた。
体温が奪われ、少しずつ温もりは消えかかっている。
それでもラクトは、ソピアの視界に自分が入るように、覆いかぶさるようにして少し微笑んだ。


「ソピア?」


声は震えていた。涙が零れ落ちそうだが、そんな事をすればソピアが不安になってしまう。
出来るだけ笑って、出来るだけ気丈を振舞って、出来るだけ、出来るだけ・・・・。

ソピアはぼんやりと真っ直ぐ見つめていた。
彼女の瞳には、ラクトが映っている。
眦に溜まっている涙を落とさないように必死になっているが、角度的に不可能だ。
一粒零れた涙がソピアの頬に落ちた。
ぴくりと反応したソピアは、少しだけ眉をひそめると、口内から零れる血にむせ返りながらも言葉を発しようとした。



「なか、ない・・・で。おに・・・ちゃん。」

「ソ・・・」

「ないちゃ、や・・・だよ。なか・・・いで、なかな、ぃ・・・で。」



鉛のように重い腕を持ち上げたソピアは、ラクトが自分にしているように、彼の頬に手を添えた。



「・・・なかないで。」



ふんわりと、小さく微笑んだ。一生懸命のようにも、自然にも見える。
彼女がどういう意味で笑ったか。こんなに無垢で優しい子供が、作り笑顔をするはずがない。
ラクトのために、ラクトだけに微笑んだ。
それは、つい最近まで見てきた同じ笑顔。
忘れられない、自分を闇から救ってくれた、欲しかった笑顔。


「ソピア、ソピアっ!!」


ぷつりと、ラクトの中で1つの糸が切れた。
ゆっくり落ちるだけだった涙が、ワッと溢れる。
枯れてもおかしくないくらい泣いたはずなのに、一向に涙は止まる気配を見せない。

情けない。年上なのに、男なのに、これほどの醜態を大切な人の前で見せるなんて。
左頬に添えられたソピアの手には、すっかりラクトの涙で濡れてしまっている。
それでもソピアは、彼の頬から手を離さなかった。
重くて苦しいはずなのに、もうそんな余力も僅かしかないはずなのに、頑なに、だが優しく添え続けている。
痛々しいほど優しく美しい笑みを浮かべている。
顔色は蒼白で、更に土色に変化しようとしている。
だが少女は簡単に瞼を閉じなかった。まだ閉じまいと、懸命に、覆いかぶさってくる瞼と格闘している。
それもこれも、ラクトのため。たった一人のため。
楽になるのはまだ早い。まだ、まだ・・・。
望み叶うことが出来るのならば、今しばしの猶予を。罪深き黒く白い悪魔に、どうか。

少し力を入れて、ソピアはラクトの胸に顔を寄せる。
まるで猫のように、赤子のように。
自分の存在場所を捜すかのように。






「・・・あった・・かぃ。」






その一言が重たかった。
たくさんの意味が込められている。
でも、多くの言葉を話すことは不可能だと、幼きながらもソピアは理解していた。

彼女の体は確かに冷たかった。
だから、ラクトの頬に手を当てて、体温を肌で感じ取ったのだろう。
けれどその時に見せた少女の笑みには、それ以上の言葉が重ね、また重ねているものだと確信する。











「おに・・・ちゃん・・・。」










「あり、が・・・と、う。」











その言葉を最後に、するりと少女の腕は落ちた。
瞠目したラクトは一瞬呼吸することを忘れる。
半分以上覆われていた瞼は、ゆっくり、ゆっくり、少女の色を奪っていく。
胸から溢れていた血は勢いを失い、それ以上広がる事はない。
ソピアの時が止まったのだ、と理解するのにそう時間はかからなかった。
だらりと投げ出されたようにぶらさがる腕でさえ重いと感じた。
がくん、と膝の力が抜けたラクトはそのまま地面に倒れこむ形になる。
呆然としながらも、亡骸だけはしっかり腕の中にある。


亡骸・・・?


信じたくなかった。認めたくなかった。
亡骸だなんて、死んでいるなんて。
だって、さっきまで確かに話してたんだ。
たどたどしくて、聞きづらいけど、確かに彼女は喋っていた。

救われた?救われたのか?どこが、誰に?

分からなかった。救われたのかさえ、分からなかった。
救われたのかなんて、ソピア本人にしか分からない。僕には理解出来ない。
ソピアは殺戮を嫌がっていた。だから、解放したんだ。
切り離せない呪縛から、血筋から、力から。

だけど


「・・・・・・ソ、ピ・・・ア・・。」


救われた?救われたかどうかなんて、分からない。
方法がこれしかなくて、仕方なく、だがすがる様な思いで下した決断。
迷いはなかった。あの子が苦しむのは、もう見たくない。
だが、胸に残るこの感じは、何?
言葉でなんて表しきれない。重く熱く、痛くて苦しい。
締め付けられるような何かが、胸の奥で渦巻いている。

瞠目したまま、ラクトは空を仰いだ。
腕の中に、眠るように息を引き取った少女を抱いて、空を仰いだ。
頬から顎に伝った涙は、ソピアの髪に、頬にぽたぽたと零れる。
彼を嘲笑うように、天から日が差す。


「ソピア。」


腕に残る温もりは徐々に消えうせている。
死体は確実に温かみを失い、腕に残るのは独特の冷たさだけ。


「ソピア。」


空を仰いだまま、視線を空に向けたまま、涙を流したまま、ラクトは何度も少女の名を紡いだ。
返事は返ってこない。
腕にくる重みだけが、彼女が死んだのだと、ラクトに現実を突きつける。


「ソピ、ア。」


声は段々掠れ、少年にしては少し細い肩が小刻みに震える。
根気よく、何度も少女の名を呼ぶが勿論応答はない。
しかし、ついに時が来た。
淡く光り始めたソピアの体。驚いたラクトは、ゆっくり下を向いた。

神の一撃は、魔族に致死以上の致命傷を与える。
それがアブソリュートの力なら尚更。
ただでさえ、悪魔の肉体は天界という名の聖域には毒だというのに、追い討ちをかけるような傷を負った。
どんなに力が強くとも、少女1人の肉体はこの世に存在する事は出来ない。
神の聖気に浄化され、魂さえもこの世から消える。
ソピアは分かっていたのだろう、これから自分が消えると言う事を。亡骸もなく、砂同然になるのだと。
だからそう簡単に瞼を閉じなかった。簡単に楽になろうとしなかった。
だが、限界だ。
神の力が胸に刻み込まれた今、ルシフェルが植えつけたアブソリュートの魂の欠片は、何の効力もない。
魂はアブソリュートのもとに戻り、彼女は本来の力を取り戻す。
そしてソピアの肉体は、欠片も残さず、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、消える。

ラクトの腕の中にいた確かな存在が、消える。
ずっしりと重かったそれは、まるで空気のように軽く感じた。
否、もう、空気と一緒だ。視界に映るのは幻影だけで、存在自体がそこにない。



「い、やだ・・・いやだっ!!」



掴む事なんて出来ないのに、それでも




「持っていくなっ!ソピアを、連れて行かないでっ!!」




その存在が確かにあったのだと主張するように




「僕を・・・1人にしないでっ!!!」




透ける体を、両手いっぱい抱きしめる








	消える



	消える



	この世から



	なくなる



	消える



	存在が



	名前が



	笑顔が



	記憶が



	居場所が


	







	消え・・・る









「ぅ、ぁあ・・・・あ・・・・。」






がたん、と地に手をついたラクトは、そのまま自らを掻き抱き、地面を濡らした。
震える両手を凝視して、ぐっと力を入れる。

ここにいたはずなのに、確かに重みがあったのに。
風に攫われるように、ソピアは消えてしまった。
布切れ一枚も残さず、全てを奪われてしまった。

決断したはずだ。助けるんだと。これしか方法がないのだと、言い聞かせたはずだ。
それなのに、胸に溢れる後悔は一体何?


「ラクト。」


影が差した。そして、柔らかな声が降ってきた。
ゆっくり顔を上げれば、見知った顔が1つ。
目線を合わせるために、わざわざ膝をついているようだった。


「よく、頑張りましたね。」


白く細い手が、ラクトの髪を撫でた。
髪から頬に。母親が子に対する慈悲深い笑みを持って。
だけど、彼の笑顔にはどこか曇りがあった。・・・痛みだ。



「ミ、カ・・・エル、さま。」



かつての上司を見上げえ、ラクトはついに折れた。
せき止めていたものが、一気に音をたてて崩れる。
誰にも頼れない。頼っちゃいけない。
自ら閉じた心。だから、皆不要に寄ってくることはなかった。
しかし、目の前にいる青年は違う。



「ミカエルさまぁぁああっ!!!」



耐え切れなくなった孤独に、ラクトはミカエルの胸に飛び込んだ。
軽く後ろに仰け反ったが、それでも少年1りくらいなら簡単に受け止められる。
拒絶するどころか受け入れる形でミカエルはもう一度彼の頭を撫でた。

強くなんかない

人も天使も全て、強くなんか、ないんだ