生気がなく土色に変色してしまっている亡骸を抱きしめていた 頑なに閉ざされた瞼は決して開くことはない だが、彼女は離さなかった 数分前まで微かに残っていた体温は失われ、代わりにに抱きしめている自分の体温が亡骸に移っている ただの錯覚だった この温もりは、彼のものではないのに、どうして彼のものだと感じてしまうのだろうか 「アレスト。」 ふとかけられた声に、決して眩しくはないのに目を細めて顔を上げる 今、自分がどんな顔をしているのか全く分からない だけど 笑っていないことは、確かだった ■天と地の狭間の英雄■        【愚かしいほど小さく重い痛み】 酷く消耗した姿でアレストは座り込んでいた。 一体何分、何時間、その場にいたのだろう。 ソピアを倒し、ルシフェルと対峙しているであろうゼウス神に加勢するためにフェイル達は移動をしていた。 名ばかりの敵であるラクトとアルフィスは既に戦意を失っている。 ソピアを失い、懐かしさと孤独感でミカエルに泣き付いてしまったラクトはともかく、 まさかアルフィスまでもが降参するとは思わなかった。 確かに、初対面の時から彼はどこか抜け切った状態だった。 一線置いた所から物事を判断し、決して深く入り込まない。 寡黙で表情が乏しい彼が、何を考えているか分からなかった。 しかし、ルシフェルに本拠地にいろと命じられた彼が、 一応主とも言える彼の言葉を逆らい、ラクトにソピアを助けろと飛んできたのもまた事実。 会い見えた数は少なくても、その時のアルフィスがいかに人間らしかったか。 彼も彼の相棒、今は亡きギルスも、もとは人間で魂を魔族に売ったらしい。 だから人間離れした力を使い、狂人的な技で戦ってきた。 何故魂を売ったのかなんて聞かない。 誰にだってそれなりの理由がある。それを責めることは出来ない。 「・・・傷を癒しましょう。」 最初に声をかけたのはフェイルだった。 白く細い手にはいくつもの傷がある。 それでも致命傷と言える怪我がないことは、戦争中は大変喜ばしいことだ。 庇い庇われながら、何とかここまでたどり着いた。 ソピアの一撃が最も酷かったシリウスは、ミカエルの懸命な治療によりほぼ完治していた。 それでも失われた血はもとには戻らない。 傷が塞がったからといって、本来は動き回ることは避けなければならない。 だが彼に、彼らには一刻の猶予もなかった。 こうしている間にもルシフェルは天界を蝕み、ゼウス神を倒そうとしている。 いけ好かない神に加勢するのは癪だが、敵であるルシフェルを倒す術はこれが一番の近道だ。 「アレスト。」 急かすように指示をするが、一向にアレストは動かない。 シギの亡骸を抱いたまま、意識ははっきりしていてもその腕を解くことはなかった。 はっきり言って時間が惜しい。 しかし、彼女の悼みはそう簡単に消えるものではないと分かってはいた。 それは彼女よりもずっと長く時を過ごしたミカエルもイスカも、そしてラクトも同じこと。 だから強く叱咤させることは出来なかった。 彼女の傷ついた心の深さを知っているからこそ、無理強いをさせることが出来ない。 「立つんだアレスト。」 重い沈黙が流れたのはほんの数秒だった。 けれどその数秒が、1分、10分、1時間とも感じられた。 誰も沈黙を破ろうとしない中、以外にもリュオイルの声が皆の耳に過ぎる。 ずかずかとアレストの前に歩み寄り、少し傷だらけの腕を掴んだ。 力を入れすぎたのか、僅かに顔を歪め小さく悲鳴を上げた。 無理に立ったせいで今まで抱きしめていたシギを落とし、腕の中が空っぽになる。 温かくなかった、寧ろ冷たい感触を失ったアレストは、怒りよりも孤独感を覚えた。 ごとりと崩れた亡骸は力なく倒れこむ。 少し薄いレモン色の髪に、土が混ざった。 「あ・・・。」 腕を捉えられた状態のアレストは、短く声を発した。 また涙が零れる。 「・・・アレストは、ここにいる?」 見ているだけで胸が辛くなる。焼けるように、何かが詰まるように。 見ていられなかった。そうとしか言いようがない。 彼女は万全に戦えるほど回復していない。 傷は大したことないが、心の方は酷く抉れている。 一日や二日、はたまた一年では治らない、永遠に残された爪痕。 それは時を経るにつれて蝕むようにアレストの心を乱すだろう。 彼女がこの現実を受け止め、もう一度太陽の下に出てこない限り、彼女は苦しみ続ける。 それを助けることが出来る人物はいない。これは、アレストの問題だ。 誰かの手を取っても、誰かがいなくなった途端立ち止まってしまう。 また誰かが手を引いても、自分で歩きだすことは出来ない。 それでは駄目なのだ。自分の足で歩くからこそ意味がある。 けれど 「ルシフェルは私や皆とで倒しに行く。アレストは、ここにいていいよ?」 「・・・・。」 「辛いなら無理しなくていい。アレストは、ここでシギをお願いね。」 「・・・・。」 「私は私の役目を果たす。アレストも、シギ君を守ってあげて。」 彼の肉体が消える前に。 大天使であった彼も、他の天使たちと同じように肉体が消える。 誕生神ルキナの管轄下である"輪廻の門"を魂がくぐれば、シギの魂は新たな魂として生まれ変わる。 それは、人も天使も悪魔も神も一緒だ。 ただその速さが違うだけ。弱い者ほど門に向かう速度は速く、新しく生まれ変わる。 シギもまた、輪廻の門に向かっている者の一人に過ぎない。 ただ、今ルキナは自分達と一緒に行動している。 彼女が仕事に戻ればもっと早く魂は流されるが、今はそう言っている時間はない。 「で・・・も・・・・。」 掠れた声は、水を欲しがっていた。 泣きつかれたせいか目も真っ赤になり、腫れている。 アレストは、自分が何をしなくてはいけないのか分かっていた。 泣いていても彼は返ってこない。 彼は自分を庇い、死んだんだ。 全てはルシフェルを倒し平和を勝ち取るため。 シリウスのような、故郷を、大陸をこれ以上焼かれないようにするため。 世界の脅威を取り除くため。 「うちは・・・。」 「アレスト、お願いしてもいい?」 「・・・フェイル?」 「きっと、最初で最後のお願い。もう迷惑かけない、約束する。」 アレストと目線が合うように、フェイルは跪いて彼女の手を取った。 皮膚が裂け、じわりと血が滲んでいる。 肌はカサカサで潤いはなかった。 その手を取り、自分の頬に寄せる。 淡い光が2人を包み、柔らかな風が吹いた。 「守ることが出来なかった彼を、せめて魂だけでも、あなたが守って。」 どうか、静かに、安らかに 最後はせめて、愛する者の前で きっとまだ、この想いは、彼に届く 「・・・・シギ・・・・。」 ぽた・・・ 「・・・・うちが・・・・。」 ぽた・・・ 「あんたのほんまの最後、見届ける。」 既に息のない彼に、呟くように、そして確かに微笑んだ。 亡骸をもう一度抱きしめ、離さない、と言わんばかりに抱き込む。 「・・・ありがとう、アレスト。」 「・・・本当に、良かったの?」 安全な場所にアレストとシギを誘導し、残りのメンバーはゼウス神とルシフェルが戦っているだろうと思われる 誕生神ルキナの管理する祭壇の近くまで足を運んでいた。 しかし、足取りは重い。 更に重苦しい空気の中、ようやっと声を出したリュオイル。 前線を歩いていたフェイルは、不思議そうに振り返った。 「どうして?」 思いのほか、表情は柔らかかった。 だが、さきの問に対して「どうして」と聞き返されると正直困る。 今は一人でも多くの人材が必要だ。戦力を削るわけにはいかない。 それがたとえ被害者だとしても、戦える力を持っているのならば。 「・・・勝てるかどうかなんて正直分からないけど、でもアレストを出させるわけにはいかないと思ったの。」 何も返事をしないまま黙り込んでいると、おもむろにフェイルは口を開いた。 遠くを見ているのか、誰とも視線が合わさることはない。 「本当は、リュオ君達が思うように、無理をさせてでも連れてくるべきなのかもしれない。」 淡々と言葉を紡ぎながらも、歩く速度は衰えない。 振り返ることを止め、真っ直ぐ前を見据える。 彼女の傍には2人の天使がいた。 強くて美しくて勇気があり、何よりフェイルを慕っている天使が。 「・・・最初は、どうあっても連れて行こうと思ったんだけど、ね。」 段々語尾が小さくなっている。 真っ直ぐ前に向けられていた視線も、足元を見る形となっている。 傍らに控えるイスカが心配そうな顔をするが、それとは逆にミカエルは一度も振り返らなかった。 「連れて行っても、きっとアレストはあのままだと思ったの。  いつものように俊敏な動きだったらいいけど、もし敵に隙をつかれたら・・・。」 「それは・・・。」 「だから残ってもらうことにしてもらったの。  ・・・ううん。本当にシギ君を守って欲しいっていう私的な理由。」 「フェイル。」 「だけど、私がアレストの分もシギ君の分も頑張るよっ!」 ぴたりと止まった少女は、精一杯の笑顔を浮かべて振り返った。 あまりに不自然すぎる笑顔に、全員が凍りつくように動かなくなる。 「・・・似非くさい笑顔は、止めろ。」 見かねたシリウスが、ずかずかとフェイルの前まで歩み寄ってくる。 少しだけ力を入れたつもりだったが、彼女の肩を掴む力はそれ以上のようで、あまりの痛みにフェイルは顔を歪めた。 我に返ったようにはっとするが、少しだけ力を弱めるだけで手を離そうとしない。 銀色の細い髪が風になびかれ、ゆらゆらと動いた。 彼の真っ直ぐな瞳はフェイルを捉え、決して外そうとしない。 苛立っているのか、腹の底で何かがうごめいている感覚がした。 そのせいで肩を掴む力は強くなる。 痛いと、離せと言ってもらえれば、きっと離しただろう。 けれどフェイルは、痛みを感じているはずなのに、自分の視線に合わせてくる。 一瞬その色に呑まれて、我を失った。 真っ白になった頭の中で、自分が何を言わなければならないのか、 伝えたいことはたくさんあるのに、順番も構成もぐちゃぐちゃで、はっきりしない。 ただ1つはっきりしてることは、彼女の笑顔が気に入らない。 「笑いたくないのに笑うバカがどこにいる。  2人の分も頑張る?・・・偽善者ぶるのも大概にしろ。  フェイル、それはお前だけが背負い込むことじゃない。本当はお前だって分かってるんだろう?」 君は変わってしまった。 神という重荷を知ってしまってから、意識が2つあると知った時から。 自我が崩れたと言うべきなのだろうか、自分自身に対しての自信が薄れてきている。 変わってしまった、変わりざるを得なかった。 人間の精神を持った時の、あの平穏さは二度と戻らないだろう。 それでも、自分が恋焦がれてきたのは今のフェイルじゃない。 楽しくもないのに楽しそうに笑って、自分で殻を作り心を閉ざしている。 フェイルとしての自我が仲間を気遣っているんだと分かっていながらも、 それを受け入れることの出来ない自分が愚かで虚しくて、気分が悪い。 だけど認めてしまえば、誰が"フェイル"を見る。 アブソリュートじゃない、人間であるフェイルを。 「そんな、こと・・・」 「自分自身を否定して、お前はそれで満足だろう。  だが、神々のやり方が気に入らないからお前はここにいるんじゃなかったのか?」 「・・・それは・・・」 不意を突かれたのか、あからさまに動揺の色を見せる。 今まで合わせていた視線は泳ぎ、少し俯き加減に辛そうな顔を見せた。 それさえも許さないのか、フェイルの肩から手を離し、今度はやつれている頬をそっと囲む。 ごつごつした手で少女の頬を触るのに、不思議と抵抗はなかった。 ビクリと肩を震わせたフェイルは、顔を持ち上げられてるので下手に視線を逸らすことが出来ない。 全身を流れる血液が逆流しているような気分だった。 妙な緊張感に心臓は速く鳴る。 真っ直ぐ見つめられるのが、こんなに恐ろしいものだと思わなかった。 「シリウスく、ん・・・。」 「頼むから、自分を捨てないでくれ。」 真剣な顔つきが、いきなり不安そうな色に染まる。 彼がこんな表情をしたのは、初めてかもしれない。いや、初めて見たのだ。 不安と孤独で泣きそうな顔をしている。 それでも泣かないのは、彼の意思がそれほど強いからだ。 シリウスを見て、初めてフェイルは胸の奥で痛みを感じた。 ズキリ。 いたい、すごくいたい。 熱くて、重くて、深くえぐれるように、いたい。 言葉に出来ないほど、彼の表情が、言葉が、胸に突き刺さった。 「・・・捨てて、ないよ。」 微かに笑みが浮かんだ。 この笑顔は、自分のものだと信じたい。 フェイルの言葉を疑うように眉をひそめたシリウスは相変わらず剣呑な顔つきをしている。 彼を見て、今度は苦笑を浮かべた。 頬に当てられている彼の手首を、そっと握る。 じんわりと伝わる温もりに、何故か涙が浮かびそうになる。 「私が帰る場所は、ここだよ。」 ゆっくりフェイルの頬からシリウスの手が離れていく。 彼女が顔を上げると 妹の死でさえ泣くことの出来なかった彼が 一粒だけ、地面を濡らした