午前に任された雑用を終え、一人静かにお気に入りの中庭で休憩を取っていたアヤは、日差しがたっぷり注ぎこまれるベンチに腰掛け、まったりとお茶を飲んでいた。昼食には少し早い時間のせいか、誰もいない中庭を一人占領している優越感に浸る中、静かに目を閉じる。人工ではない、本物の鳥のさえずりが鼓膜を僅かに振動させる。
なんて平和な時間だろう、と耽る中、呑気に今日の昼食は何にしようと考えだしたアヤは、しばらく浸っていた世界から覚醒しその場で大きく伸びをした。凝り固まった背中の筋肉がぎしぎしと嫌な音を立てる辺り、相当の時間をかけないと解しきれないことは明らかであった。
すっくと立ち上がったアヤが食堂へ足を運ぼうとした瞬間だった。ガン、と小さな、けれどどこか重苦しい音がどこからか聞こえ、出そうとした一歩が思わず引っ込む。
(何の音かしら…?)
きょろきょろと周囲を見渡すも、誰も見当たらず結局首を傾げて終わってしまう。はて、といよいよ分からなくなったアヤは、音のした方向へと足を運んだ。何か物が落ちた音にしては、随分とくぐもっていたのだ。
原因不明な音に近づくことは少し抵抗を感じたが、どうしてなのかそこに向かわなければならない気がした。そんな曖昧な確信を胸に、アヤはそろそろと東西南北にある入口の内の、西側へと歩き出す。草を踏みしめる音を押し殺し、息を潜めそっと辺りを窺う。後になって、まるでこそ泥のような動作をする必要などなかったと感じるが。
恐々とした様子で顔だけを覗かせたアヤは、その陰にいる人物に目を瞠った。薄暗さの中でも十分目立つ、春先に輝く新緑の髪があまりに身近にいる者だからだ。
「バルト…?」
話しかけて良いものかと一瞬躊躇ったアヤは、ふと彼の拳がまるで壁を叩きつけたように強く握られているのを見て、不審に眉をひそめる。それから、口から勝手に彼の名を出してしまい、ビクリと大袈裟に震えた男の肩に、逆にビクリと飛び跳ねてしまう。けれど、勢いよく振り返った男の驚愕の表情を見て息を呑んだ。
「あ……」
「ご、ごめんなさいっ、何か驚かせちゃった!?」
化け物を見たような顔が、瞬時にしまった、と言いたげなものへと変わる。だが、この類の顔をほとんど見たことがなかった表情に焦ったアヤは、ゆっくりと抜け落ちていく男の変化に気付いていない。その間にも、どこか悩ましげに寄せられた男の眉は、俯いた途端前髪に隠され、表情さえも見えなくなる。
それをどう捉えたのか。言葉を詰まらせたアヤは、咄嗟におろおろと辺りを見回し、誰かに助けを求めるような仕草を繰り返す。だが休憩前の大詰めであるこの時間帯に都合よく誰かが通るはずもない。
「忙しいのに声かけちゃってごめんね!それじゃっ」
明らかに声をかけて良い場面でないことに気付いたアヤは、何も見なかったことにしようとして踵を返そうと踏み出す。
「っ!ま、待ってアヤ!!」
逃げようとする気配が伝わったのか、狼狽したような声といつの間にか掴まれた腕によってたたらを踏む。瞬きを繰り返し振り返れば、普段ひょうきんな笑顔を浮かべている男とは到底思えない切羽詰まった声と表情を目にすれば、元来お節介な所があるアヤが見過ごせるはずがなかった。
ゆっくりと体の向きを合わせると、自分よりも頭二つ分ほど背の高い男を宥めるように、力強く掴まれた、けれど痛みを感じないほどの拘束にそっと手を這わせる。
「大丈夫、どこにも行かないわ」
そう言ってゆっくり微笑むと、ホッと胸を撫で下ろしたバルトの姿が映った。けれど先ほど一瞬だけ見せた驚愕の瞳が脳裏にちらついて離れない。何かまずい現場に出くわしてしまったかと逡巡するが、思い当たるのは壁を殴ったと思われる行為だけで、それ以外は途中参加であるアヤには見当もつくはずがなかった。
(ん?壁を殴った…?)
あの音といい、バルトの様子といい、推測は完璧に一本の糸につながったが、如何せん動機がはっきりしない。基本的に穏やかな彼が、苛立って壁を殴るなど想像できないのだ。 しかしふと、思い出す。バルトがアヤやリョウ、それからケイやフィオラ、教授たちに見せる顔と、上層部の元老たちに見せる顔つきや空気が違うことを。
誰が原因なのかは分からないが、何かあったことに間違いはない。彼を見つけた時に纏っていた雰囲気は、まさにそのものだった。
「ね、そんな暗いところにいないでこっちに来てよ」
母親に叱られた子どものように身を固くしている男を前に、にこりと笑う。それから、男の腕を両手で掴み半ば無理やり日の光が燦々と注ぐ中庭へと連れ込む。
ああやっぱり、と目を細めたアヤは、暗闇よりもずっと映える新緑にクスクスと笑みをこぼし始めた。
「アヤ?」
男は困惑していたが、引っ張られることに抵抗するどころか、少女の手の温もりにこっそりと安堵感を得ていた。日の光に輝く亜麻色の髪が美しいと、そっと心の中で囁きなが
ら。
「ほら見て、ここからだと花が一番良く見えるのよ。絶景スポットなんだから」
「……ああ、本当だ。ずっとここにいるのに何で気付かなかったんだろ」
先ほど座っていたベンチに座らせると、その隣に腰かけたアヤはお気に入りの花を指さし、自慢げに胸を張る。感嘆の声に満足したアヤは、静かに花を眺めているバルトを盗み見る。彼は所謂、機械人形なのだから気のせいだと言われてしまえばそこまでなのだが、心なしかやつれているようにも見えた。
思えば、毎日のように会いに来ていた彼が、ここ最近ぱったりと顔を見せにこなくなっていた。アヤ自身も忙しかったので気にする暇もなかったのだが、バルトが上層部直々から任務を言い渡され、走り回っていたという風の噂を思い出す。人好きの良いように見えて、実は好き嫌いが激しいところがあるバルトにとってその時間は、感情がある分苦痛でしかなかったのだろう。
手を伸ばす。それに気付いた男が振り返るが、それよりも先に辿り着いた新緑を撫ぜれば、また珍しくかちりと時が止まったかのように固まってしまった。
「お疲れ様。そろそろ甘えておいで」
両手を広げて微笑めば、きょとんとしていた男の様子が、くしゃりと音をたてたように崩れる、そのみっともなさを自負している男は、手のひらで顔を覆い隠した。けれど精一杯の自制などぷつりと切れ、ついに耐えきれなくなり、少女の片方の手のひらに指を絡ませる。そのまま腰に手を回し勢いよく引き寄せた。
肩に埋まった新緑の髪が少しくすぐったい。だが、くぐもった声で「ただいま」と呟かれた懇願にも似た切ない声に隠れて息を吐いたアヤは、空いている手をバルトの背に回し、幼子を宥めるようにリズム良くその背を叩いて撫でた。
「頑張ったね」
つらい時には笑わせるよ
だから早く帰っておいで
いつだってここは貴方のために空けているのだから
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